カテゴリ:那須町( 24 )

2017.02/06(MON)

諭農の碑 那須町芦野




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ゆのうのひ
諭農の碑
 板屋の坂を芦野側から登ると中建立途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に諭す言句が彫ってある
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から餓饉のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としても貴重なものである
     那須町教育委員会
--現地の案内板から--

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写真;諭農の碑(加工/2014年)
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2016.11/03(THU)

泉田の一里塚 那須町芦野泉田(旧陸羽街道)
江戸日本橋から45里目だそうである




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泉田の一里塚
 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である
 一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長九年(一六〇四年)徳川二代将軍秀忠の時で三六町を一里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした
     那須町教育委員会
--現地の案内板から--
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2015.12/18(FRI)

柘植善太夫墓 那須町芦野・西光寺




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 忍藩
 柘植善太夫墓


忍藩(武蔵・十万石・松平氏・譜代)
・柘植善太夫 真影流の剣と大島流の槍で高名/明治元年五月一日磐城白河で戦死/二十八歳/下野那須郡芦野・西光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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芦野宿(2014.10/24)
第九章 五月朔日の大激戦(2013.01/21)



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2015.12/17(THU)

塙祐七墓 那須町芦野2870・最勝院




平成27年(2015)
・12月17日
 福島以北は既に冬で行き難い。で、まだ積雪の無い那須地方(芦野、最勝院→西光寺→越堀、浄泉寺)を廻ってきた
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写真;2015.12/17
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墓碑表
 官軍阿州
 上田甚五右エ門内
 塙祐七藤原好孝墓
 慶應四辰歳八月三日

徳島藩(阿波・二十五万七千九百石・蜂須賀氏・外様)
・塙 祐七  明治元年東北征戦中病死/二十九歳/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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最勝院
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芦野宿(2014.10/24)



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2015.09/23(WED)

山田資料館 那須町寺子丙4-2
JR黒田原駅から徒歩3分




那須野ヶ原の開拓(2012.11/27)

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山田顕義が行った黒田原開拓の資料館である
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以下、現地の案内板から

山田資料館
 明治24年初代司法大臣山田顕義が明治政府より黒田原一帯(現在の幸町の大半・音羽町・上ノ原と本町・法師畑・富岡・菖蒲沢の各一部)の払い下げを受けて開拓の為この地に農場事務所として建設。当時は母屋・事務所・宿泊部屋・穀倉などが有ったが現在は事務所の一部分のみが残っている
 資料館内には顕義とその子孫の写真やゆかりの品の一部を展示している

     開館日 … 土・日・祝日 10;00~14;00

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やまだあきよし
山田顕義
天保15年(1844)10月 9日- 明治25年(1892)11月11日
長州藩士、明治時代の政治家、陸軍軍人
日本の「小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に力を尽くした。また、山田自らが所長を務めた皇典講究所においては、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大學)を創設しており、とりわけ日本大学は彼を学祖としている

松下村塾

天保15年(1844)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分(現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる
安政3年(1856)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び、文久2年(1862)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857)6月、松下村塾に入門した

安政5年(1858)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ」である

幕末期

文久2年(1862)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた。文久3年(1863)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ

元治元年(1864)、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する

慶応2年(1866)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。なお、7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった

慶応3年(1867)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った。慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命される。陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した

明治維新

以下、省略

--引用・要約;「山田顕義」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/23(水)07:17--



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2015.04/07(TUE)

芦野氏の新墳墓 那須町芦野




芦野陣屋(2014.10/25)

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写真;2015.04/06
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以下、現地の案内板から

芦野氏の新墳墓
     那須町指定文化財
     昭和37年10月15日指定

 本墓は、室町時代の初期に那須氏から芦野氏に入った資方(資宗ともいう)から数えて19代民部資俊から、江戸時代末期の27代資原まで9代の墓域となっています
 資俊が元禄5年(1692)6月、56歳で芦野で没して、建中寺に葬られてより、資原死去の安政4年(1857)4月までの165年間にわたり、当主9基の墓碑と夫人・子女等の墓碑22基の碑塔が建てられています。資俊は、領地芦野で没し建中寺に埋葬されました。20代資親以後の領主は全て江戸駒込の惣禅寺に葬られています
     那須町教育委員会
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建中寺
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2014.10/25(SAT)

平久江家門及び構え 那須町芦野




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写真;2014.10/24
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以下、現地の案内板から

那須町指定建造物
平久江家門及び構え

この門の建築は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武家の門構えである
平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一番高い地に家屋敷を構えていた。当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している
構えは枡形の形式をとっており、武家屋敷特有のものといえる。この門及び構えは、当時をしのばせるものとしては貴重なものである
     那須町教育委員会
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2014.10/25(SAT)

芦野陣屋 那須町芦野1039(館後)




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写真;芦野陣屋二の丸↑ 2014.10/24
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町指定文化財/史跡
あしのしじんやあと
芦野氏陣屋跡 昭和35年10月15日指定
所在地;那須町大字芦野1039(館後)
 通称「御殿山」または「桜ケ城」「芦野城」と呼ばれている。芦野氏の近世の居城(陣屋)跡である。奈良川の東岸にあり、芦野の町なみを見おろす丘陵上に位置している。面積は約3haで、現在は山林と公園になっている。構築の年代には二説があり、一つは天文年間(1532~55)芦野資興(すけおき)の代であり、一つは天正18年(1590)芦野盛泰(もりやす)の代であるが、城の形式から前者の説が妥当と考えられている。明治4年の廃藩置県まで約300数十年間ここに芦野氏の居城があった
 居城は自然の丘陵を大規模に加工して造った平山城的なものである。本丸と二の丸、三の丸に相当する郭があり、二の丸には表門と裏門そして御殿や蔵があった。御殿は、木羽葺で間口約29m奥行約11mで、玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台等に区切られていた。また建物の奥には陰殿もあった
 芦野氏は古い歴史を持つが、ここに居城を築く頃から最盛期を迎える。特に15代資泰(すけやす)や16代盛泰らは、戦国時代、那須七騎の一として多くの合戦で活躍した。天正18年(1590)盛泰は秀吉に本領を安堵されている。江戸時代、交代寄合(旗本)となり、3016石の領主となった

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写真;芦野陣屋本丸↑
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以下、--「戊辰戦争と那須町」那須町教育委員会・2014.03/31発行--から引用、要約した

芦野氏 戊辰戦争
 三〇一六石/交代寄合旗本/領地は芦野附近の村々(下芦野、唐木田、夫婦石、小山、中ノ川、上田、下田、芋渕、丸作、湯舟、大ヶ谷、大久保、石住、塩阿久津、中梓、下梓、東吉野目、西吉野目、大畑、沓石、飛地として漆畑、大島、北沢、ほか芳賀郡内に赤羽、上根、多田羅、小宅、別府、見上、福岡、塩野目の八ヶ村・通称下の庄)である
 戊辰戦争当時の当主は、旗本神保家から養子に迎えられた芦野資愛(雄之助)である。芦野氏は戦闘に携わることなく軍夫方に任命され、主に白河、棚倉、二本松方面への軍夫の徴発・派遣、芦野宿継立人足の徴発など後方支援を務めていたようで、「軍夫取調書上帳」によると、通称下の庄を含む知行地芦野宿及び一九ヶ村からは三九〇名を超える軍夫が徴発された(慶応四年四月~一〇月)
 軍夫とは農兵とは違って非戦闘員であり、新政府軍・旧幕府軍どちらからも徴発された。戦地へ食糧や武器弾薬を運搬する人夫である。白河口の戦いから会津総攻撃まで、農民たちは農兵や軍夫として重い負担が課せられたのである
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交代寄合陣屋
那須地方に在った交代寄合陣屋
 福原家  佐久山陣屋
 芦野家  芦野陣屋
 那須家  福原陣屋
 大田原家 森田陣屋

※ 交代寄合
 江戸幕府の職名で、1万石以下3000石以上の非職の旗本で幕府と特別の関係にあった家で、老中の支配に属し、身分、格式は譜代に準じ、領地に常住したが、隔年に参勤交代した
※ 陣屋
 江戸時代、郡代・代官・旗本などが任地或るいは知行地に所有した役所。ほかに無城の大名、交代寄合などの居館をもいう



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2014.10/24(FRI)

高札で見る奥州道中芦野宿 那須町・那須歴史探訪館
那須町芦野2893




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↑高札イメージ
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以下、平成26年度企画展「高札で見る奥州道中芦野宿」展示説明資料から

27 慶応四年五月 個人蔵

  上総、下総、上野、下野の国たるや、古
 皇朝御盛の時ハ
  宮様方より御鎮守被成候程の重き国柄に
  候処、久敷武家の私恩小恵に固着し、大義を
  令失却、妄に  官軍に抗し、或ハ
  王土を掠め一揆徒党等相結ひ、小民を蠱惑
  するに至る、今般奸を除き候上ハ、忠良を
  挙、老人を尊ひ、孤獨を恤む等の事も漸々
  可被相行  都には
 明王賢相精を励まし玉ひて、日々淋々と美政
  善事目を拭て奉拝見程の  御時なり
  何れの国何の僻郷にても
 王化を感戴勢さらむや、唯此下総野辺より以北に
  限り
 天恩を不知者不少、豈恥遍きにあらすや、近々
  奥羽辺も早く御平定被成筈ニ付、能
 英意を躰し奉り、人心安堵各其職を勤め
  数百年来
 皇家御中興の
 御聖業速に御成就太平を歌ひ候様相成度、
  下々まて可奉祈望者也
      下総野御鎮撫
 慶応四年    執事
   辰五月
     *
解説
 本資料も伊王野の名主宅に伝わる高札である。慶応四年(一八六八)五月、下総野御鎮撫執事名で発布された
 慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、三月には下野国内での攻防が繰り広げられた。五月においても、下野国内では戦闘が続いていた
 下総野鎮撫府は、同年五月に新政府軍により下総・下野両国を監督する目的として設置した。鎮撫方には佐賀藩の鍋島直大が任命された
 五月十七日には、真岡代官所の代官山内源七郎が佐賀藩士らによって処刑され、陣屋は焼き払われた。その後、真岡代官所の支配地八万五千石余は新政府軍に接収され、真岡県が設置される。幕府直轄領であった伊王野も真岡県の支配下となる
 本資料からは、旧幕府時代とは異なる高札の立て替えにより、新政府の存在を民衆に印象付けようとした意図が窺われる
 しもそうやごちんぶしつじ
※下総野御鎮撫執事
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2014.10/24(FRI)

奥州街道芦野宿 那須町芦野




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写真;現在の芦野宿(仲町通り)・2014.10/24
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以下、「那須歴史探訪館」展示資料説明から引用

奥州道中と芦野宿

 奥州道中は、江戸幕府により整備された五街道の一つであり、道中奉行によって管轄されていた。街道の成立は、天正18年(1590)、小田原城攻略が間近に迫った7月3日、豊臣秀吉が小田原から宇都宮を経由して会津へ向う軍用道路の開削を命じたことによる(「従小田原面至于会津道作御法度事」伊達家文書)。その後、慶長6年(1601)には徳川家康によって東海道をはじめとする主要街道が整備され、同9年には、奥州街道でも並木や一里塚の整備が始まったとされる

 江戸から宇都宮までは日光道中と同一であり、宇都宮市伝馬町を分岐点に白沢、氏家、喜連川、佐久山、大田原、鍋掛、越堀、芦野、白坂を経て、奥州の白河に至る道筋を奥州道中と呼び、道程は、21里18町14間半という。宿駅間距離の最長は、芦野・白坂間、最短は佐久山・大田原間である。鍋掛宿は大田原からの下り、越堀宿は芦野からの上りの継ぎ立てを行う片継(片馬ともいう)の宿であった

 奥州道中の宿駅は、17世紀半ばに形成されたと考えられている。芦野宿の成立時期は定かでないが、17世紀初頭には成立していたと推定される。関東の要衝であった宇都宮宿と奥州の拠点であった白河宿を結ぶ街道は、宿場として町割りが形成され、喜連川、佐久山、大田原、芦野には、大名や1万石以下でも大名並みの格式を持つ領主が屋敷を構えており、城下町でもあった
 宿の形成時期を示す記録は現在見当たらないが、慶長3年(1598)の直江兼続・石田光成連署状に、米沢藩主蒲生四郎兵衛並びに家来の荷物を米沢から「那須之内芦野マテ」送り届けることを「在々肝煎中」に命じている(上杉家御年譜)。このことから、この時期には芦野を経由する道中が成立したとする説もある

 芦野宿の範囲は、新町、仲町、川原町の三町といわれ、新町の高橋から川原町の芦野橋までである。両橋際に建つ地蔵尊は、宿内への流行病の侵入を防ぐためのものといわれている。新町の地蔵尊は享保2年(1717)、川原町の地蔵尊は享保12年(1727)の建立である。この間約1kmを宿内という

 芦野宿の本陣は代々臼居氏が務めていた。建物等は現存せず、現在の那須屋商店と石の美術館が敷地となっている。脇本陣は吉川屋という旅籠であり、現在のめがね魚店とほていややの二軒分の敷地であった
 問屋職は代々戸村氏の世襲で、戸村氏は元禄年間に須佐木(現大田原市)から移り住んだ家である。現在は、町営の駐車場となっている。問屋場の前には高札場があった。米問屋は川原町にあり、池沢氏の世襲であった。町年寄は、安達氏(現丁子屋)、高久氏(塩屋)、鏑木氏(和泉屋)、青木氏(大坂屋)らが務め、宿内の直接の支配を行った。また、江戸時代の遺構を残す山本屋(旧大塚家住宅・仲町)は、間口6間半の中2階の建物で、当時の旅籠の面影を残している
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那須歴史探訪館 那須町大字芦野2893番地

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