カテゴリ:矢板市( 6 )

2015.01/12(MON)

川崎城跡 栃木県矢板市川崎反町




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写真;二の丸Ⅰ・2015.01/10
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以下、現地の案内板から

川崎城跡 矢板市指定・史跡
    平成1年4月19日 矢板市教育委員会指定
    所在地  矢板市川崎反町・館ノ川
    所有者  矢板市
    指定面積 6.08ha

 川崎城跡は、市民の人々に「城山」と呼ばれ親しまれていますが、古くは「塩谷城」などと呼ばれていました
この城跡は、平安時代末から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した「塩谷氏」の本拠地です。「城山」と呼ばれるように、城は丘陵全体を使って造られた「山城」です。城跡の範囲は、北は城の湯温泉センターの西まで、南は北窪不動尊の「堀江山」と呼ばれている所までの、南北約1500mにおよび、東西は宮川と弁天川の間約340mです。城の主郭部は、城跡の中央やや南に位置し、東西44m、南北160m程の三日月形を示しています。主郭部と東の宮川との標高差は約47mで急斜面となっています
 この城跡の築城者は、塩谷朝業(しおのやともなり)と考えられています。朝業は、宇都宮業綱(なりつな)の二男で鎌倉幕府の御家人として力を発揮し、将軍実朝(さねとも)と和歌を通して親しくなりました。中世文学史に残る歌集「信生法師集」を残しています。また、朝業の二男時朝が笠間城主となっていることから笠間市と姉妹都市になりました。城跡には多くの梅が植えられていますが、朝業と将軍実朝が和歌を詠んだ句に梅を詠んでいることにちなんでいます
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以下、現地の案内板( 2)から

 川崎城は、鎌倉時代から戦国時代にかけての400年間、塩谷地方の北西部をおさめていた塩谷氏の本拠地です。箒川をはさんで那須氏と対峙するには絶好な場所であったと思われます。川崎城跡に立って遠くを見渡すと、北に高原・那須の山々が連なり、ゆるやかな丘陵が南東のさくら市へと続いていることが分ります。東に木幡神社や御前原城跡、矢板の市街地を見渡すことができます。高原山から流れ出た宮川、中川、内川の水は広々とした平地をうるおし、この土地より生産された作物は、塩谷氏を支える重要な生産物でした



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2014.04/08(TUE)

聚塵亭 矢板市本町・矢板武記念館




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※ ↑本物とは相当の相違だが、それを模したもの ^^;)
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以下、現地の案内板から
しゅうじんてい
聚塵亭
 正面玄関を入ると「聚塵亭」と書かれた額が掲げられています。
 明治十四年の晩秋(秋の終りころ)勝海舟は日光に来た折に矢板武家を訪ね、この額を書かれたものと思われます。字の通り読むと「塵の聚まる亭(やしき)」ということになりますが、その意味は次のようにも考えられます。
 勝海舟は「吹塵録」という書物を遺したり、「政塵の外に超越し」など、「塵」の字をよく使っています。
 明治十四年のころの矢板武は、那須野が原開発のために忙しく働いていて、那須野が原開拓の関係者や、国の中心になっている政治家たちがこの屋敷に出入りしていました。この様子を考えて「塵まみれになって働いている人たちの集る屋敷」と名づけたものと思われます。
     矢板市教育委員会
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写真;勝海舟



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2014.04/08(TUE)

矢板武旧宅のシダレザクラ 矢板市本町15-3




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写真;2014.04/07
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以下、現地の案内板から

矢板武旧宅のシダレザクラ  1本
(矢板市指定・天然記念物)

平成10年 2月17日矢板市教育委員会指定

  樹  高    17.0m
  幹  周     2.3m
  枝  張 東西 12.8m
       南北 17.1m
  推定樹齢     170年

 この「シダレザクラ」は、江戸時代後期に植えられたものと考えられます。市内のシダレザクラの中では樹形・樹勢・花付き共に第一の名木です。例年4月初旬にソメイヨシノより一足早く開花します。
     平成10年 3月 矢板市教育委員会
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写真;旧宅内のソメイヨシノ(2014.04/07)



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2014.04/08(TUE)

矢板武記念館 矢板市本町15-3




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写真;記念館入口の長屋門(2014.04/07)

矢板武記念館

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以下、現地の案内板から

矢板家のあらまし

 矢板家は江戸時代までの姓は坂巻でした。
明治三年ごろ坂巻武兵衛は矢板の地名をとって矢板武と名のりました。そのころ、明治政府は新しく戸籍を作る仕事を始めておりましたので、坂巻武兵衛は矢板武と新しい名前に変えることが出来たのです。
 坂巻家の系図によると、坂巻家は戦国時代のころ甲斐(山梨県)の武田氏の家来でしたが、武田氏が滅んだのち矢板に来て定住したということです。坂巻家は代々百姓をしておりましたが、日光北街道が開かれると問屋業も営んで財産を増やしました。
 那須野が原の開拓に尽力した矢板武の祖父(武兵衛)は、高原山などの豊かな材木を東照宮のある日光方面に送り出す材木問屋をしておりました。そのころの日光北街道は悪路で特に倉掛村付近の山道は坂が急で旅人は難儀しました。そこで材木問屋の仲間や村人たちと相談して、新しく倉掛新道を作りました。新道工事には沢山のお金と大勢の労力が必要でしたが完成させ、通行人に大へん喜ばれるような仕事もしました。
 矢板武の父(五衛門)は、この地方の米を(当時は米の取れない)今市や日光方面に送り出す米問屋をしていました。今市や日光は、日光にお参りする人が多かったので、多くの米が必要だったのです。商売も順調に進んでおりましたが若くしてこの世を去りました。
 幼くして両親を亡くした矢板武は祖母の言いつけをよく守って勉学に励み、しっかりした人になりました。
 若い時から村役人などに任命され村人にしたわれ、時代が変わって明治になると、この地方の副戸長・区長をつとめ地域の指導者になりました。
 その後、那須野が原の開発事業に情熱を傾けたほか、日本鉄道株式会社(JRの前身)の役員となって矢板に鉄道を通す事に努力し、下野銀行や矢板銀行などを設けて頭取(代表者)になり、明治初年のころ荒れ果てていた日光を復興する(元のように立派にする)ため、保晃会という組織を作って多くの人々から募金を集めて日光のため努力もしました。
このように、この家をよりどころとして、いろいろな分野で活躍しました。
 矢板家は古い家でしたから、明治四十五年に大修理をして、現在のような邸宅になりました。
 矢板武は主に経済の発展に努力を注ぎましたから、明治から大正時代にかけて活躍した明治の元勲(国のために大きな功績のあった人)たちとも交際(つき合い)が多かったのです。三条実美、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄一、勝海舟、大鳥圭介などのほか名士の書や大事な品物などが数多く残されています。
     矢板市教育委員会

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写真;突き当り辺、記念館(2014.04/07)



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2012.11/21(WED)

皇居と向き合う一対の狛犬
山縣有朋記念館




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山縣有朋記念館(2012.11/20)

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 記念館に向かう緩やかな傾斜を上り切ると、一体の狛犬(こまいぬ)が置かれているのが目に入った。水色がかった石像で、高さ1メートルほど。風雪のため摩耗してはいるものの、口を大きく開いたその姿は、はるか遠方を見据えているかのようだ。
 山縣睦子さんによると、有朋が第一軍司令官を務めた日清戦争の後、清国から日本に贈られた一対の狛犬のひとつ。もうひとつは皇居内に置かれ、「記念館の狛犬は皇居へ、皇居の狛犬は記念館へと、向き合って置かれているそうです」という。(小倉貞俊)

2008.02.13 東京新聞
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2012.11/20(TUE)

山縣有朋記念館 栃木県矢板市上伊佐野1022




平成24年(2012)
・11月20日
 山縣有朋記念館を見て来た
 山縣有朋
 戊辰戦争では新政府軍参謀として北越方面で戦い、明治になっては陸軍の確充に尽力し陸軍卿など要職を歴任し、陸軍大将・元帥となった。2度総理大臣を務め政界、軍部に絶大な権力を誇った

 記念館から新聞のコピーを頂戴したので以下に引用してupする

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名建築を訪ねる・首都圏
山縣有朋記念館
質素な館、明治の重鎮集う

「元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」--。
 位人臣を極め、近代日本の政界に君臨し続けた山縣有朋(1838-1922)。その燦然たる経歴に比べると、栃木県北部の森林にたたずむ「山縣有朋記念館」の質朴さには意外な感を受ける。
 隣接する木造二階建て二棟からなり、正面に向って左側の青い建物が「明治の洋館」。右側の赤い屋根が、昭和になって建てられた新館だ。
 明治の洋館はもともと、有朋が古希の年に建てた神奈川県小田原市の別荘「古希庵」敷地内に
一九〇九(明治四十二)年になって建築されたものだ。
 有朋の死後の二三(大正十二)年、古希庵の大部分ともども、関東大震災で損傷。翌年、嫡男伊三郎氏が保存のため栃木県矢板市の山縣農場内に移築。二七(昭和二)年には山縣家の別荘として、隣に新館が増設された。
 長らく賓客の応接用となっていた明治の洋館は九〇年、県の有形文化財に指定されたのを機に、ひ孫の故・有信氏夫人睦子さんが遺品や資料を展示し、新館と併せて「山縣有朋記念館」として一般公開を始めた。
 明治の洋館の建築面積はわずか八十平方メートルほど。一階にはロビーと一部屋、二階も応接室と寝室の二部屋しかない。そんな質素なたたずまいとはいえ、設計者が明治神宮などを手掛けた名建築家・伊東忠太(1867-1954)とあって、随所に当時最先端の装飾が施されている。
 玄関や各部屋に通じるケヤキの扉には、有朋の頭文字「Y・A」が、曲線を用いたアールヌーボー調の文字でデザインされている。二階の欄間はガラス製の回転式。いすやテーブル、赤いじゅうたん、インド更紗のカーテンと、応接室の調度品はすべて当時のものだ。
「広さも派手さもないが、一つ一つの意匠が調和しており、いかにも実用本位の有朋らしい」。七八年の調査、九一年の改修を手掛けた千葉工業大学の河東義之教授(近代建築史)は言う。
 二度の首相と枢密院議長を歴任後も、絶大な権力を維持し続けた有朋。晩年を過ごした古希庵には元老や首相、閣僚らが頻繁に足を運んだ。この応接室から近代日本の政治が動かされたのか--。有朋が愛用した調度品に触れながら、ふとそんな感慨を覚えた。(小倉貞俊)

2008.02.13 東京新聞
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