カテゴリ:水戸天狗党( 9 )

2017.01/29(SUN)

和田峠の戦闘 天狗党西上
和田峠の戦闘




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和田峠の戦闘 (天狗党西上)
元治元年(1864)
・・・
・11月15日
 七日市藩通過。下仁田宿に宿泊
・  16日
 早朝、西に進んで来た高崎藩兵二隊と呼応して出陣した小幡藩、七日市藩兵を後詰めとし、下仁田北方の下小坂村に展開した
 天狗党は虎勇、龍勇両隊を正面攻撃隊とし高崎藩本陣北の伊勢山に義勇隊(朝倉源太郎)を先行させ、斜面から猛烈な銃撃を浴びせた。高崎藩兵は総崩れとなって安中藩領方面に敗走した。天狗党の理想的且つ圧倒的な大勝であった
・  17日
 上信国境の内山峠を越え信州路に入る
・  18日
 望月宿(佐久市)に分宿(軍用金九百両調達)
・  19日
 中山道の和田峠に差しかかると、野戦陣地を構築した高島藩兵約二百名、松本藩兵約四百名が待ち構えていた。午後三時、高島、松本両藩兵が一斉射撃を開始した。天狗党も応戦し肉薄した白兵戦が展開されたが、後方に迂回した天狗党別動隊の挟撃により高島、松本両藩兵は錯乱して逃走した。伊那路に陣を敷いていた高藤藩兵百五十名も撤退した
 だが、天狗党将兵は行軍と戦いに疲れ果て、沿道領民の怯えた眼差しと粗食に精神力も極度に衰え、戦力は戦闘による損耗で九百十五名まで落ちた。藩政派の鮎沢伊太夫ら将校の脱走も相次いだのである

鮎沢伊太夫墓(2017.05/20)
・  25日
 飯田藩の関所を威嚇して木曽路から美濃へ進入(加納藩から軍用金三千両を調達)。吹雪と難路に将兵が脱落する
・12月 5日
 越前(福井)に入る。凍傷、疲労、粗食による衰弱者が激増
・  17日
 天狗党八百二十三名は力尽き、越前敦賀の新保村で追討軍の加賀藩兵に全面降伏した
・・・
--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--

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4 天狗党西上(2012.11/10)
1 天狗党挙兵(2012.11/06)



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2016.11/02(WED)

蠅帽子峠 岐阜、福井の県境




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天狗党の西上路(蠅帽子峠越え)
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--略図模倣;朝日新聞(2016.10/29)--
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1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2016.06/01(WED)

天狗争乱 吉村昭著 1994




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天狗争乱
 著 者 吉村昭
     一九九四年五月一日 第一刷発行
 発行所 朝日新聞社

帯に
 決然と戦い、粛々と京都をめざした天狗勢・千余の壮士たちへの挽歌
 --「桜田門外ノ変」後、幕末日本を震憾させた一大事件--
 井伊大老暗殺から4年、開国か攘夷か 騒然としていた幕末、徳川御三家・水戸藩の尊攘派有志が筑波山で挙兵した。世に天狗勢といわれ、幕府軍と鋭く対峙しつつ、関東一円から信濃・美濃・越前の人々に鮮烈な印象を残して駆け抜けていった武士たち・・・
 その凛然とした軌跡を克明に誌し、非業の最期を劇的に甦らせる歴史小説の白眉!
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1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2014.03/17(MON)

魔群の通過 天狗党叙事詩
山田風太郎幕末小説集




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平成26年(2014)
・03月16日
 注文してあった本が届いた
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文庫本カバー(写真)には
武田耕雲斎 の肖像を用い
文中p.98には
「父はまさに君子でありました。あとになって私は、武田耕雲斎は、押し出しも弁舌も堂々としているが、異常に名分にこだわり、変てこなくらい威儀をつくろおうとするところがあった、という評があることを知りました。・・・六十を越えて、背は高いが鶴のように痩せ、顔のあばたがかすかに浮き出して・・・」
と書かれていた

山田風太郎
魔群の通過
天狗党叙事詩
ちくま文庫、2011.05/10初版
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1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2013.01/22(TUE)

「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑
あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ




平成25年(2013)
・ 1月22日
 天狗党、田中隊の参謀土田衡平をネットで探していたところ、秋田県の広報誌にたどり着いた
「あきた・通巻88号・1969年(昭和44年) 9月 1日発行・全64ページ」である
 以下、これを引用してupする

「碑(いしぶみ)の周辺」(第7回)土田衡平の碑
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藩主と脱藩浪士と

 維新前夜、日本の国情はむしろ騒然たるものがあった。勤王か佐幕か、はた擁夷か開国か、現状にあきたらず何らかの変革を望む雄藩のあいだでも、互いの思惑が麻の如く乱れて、去就が容易に定まらなかった
 この間、急激に結論を求めて行動に走った人たちの中には、志を得ずして消えていった人が少なからずあった。その多くは脱藩して浪士の身に甘んじながら、悠久の大義の前に殉じていったのである
 そうした一人に、わが矢島藩の土田衡平(つちだこうへい)がいる
     *
 戦前、矢島町の小学校では、講堂の正面に平田篤胤、佐藤信淵と並べて、もう二つの肖像を飾って全校生の師表とあおいだものであった。その一つは、矢島の最後の藩主(十三代)生駒親敬(ちかゆき)であり、もう一人は、土田衡平である
 ともに勤王の志厚く、生駒親敬は明治元年戊辰の役のさい、弱冠十九歳の年少ながら、東北諸藩が幕府側に組したにもかかわらず、いち早く勤王の決意を表明した。のち秋田藩が勤王に藩論を統一したので、やがて庄内軍と一戦をまじえることになり、一時は庄内の軍火に全町が焼かれるという厄にあったが、この戦功により八千石から一万五千二百石に加増され、生駒藩の有終を飾った人である
 片や殿様に配するに、土田衡平は一浪人にすぎない。天誅組の乱、筑波天狗党の乱と尊攘運動に参加して、二十九歳の花の命をあえなく散らした青年であるが、勤王の先駆者として歴史上に大いなる炬火(たいまつ)を点じた人として、今は郷里矢島の町に碑とまつられているのである

祖先を忘る勿れ

 矢島小学校は、町の中心地、生駒氏の陣屋のあった小高い地にある。校庭の端に、さらに一段の高処(たかみ)があり、そこは矢島神社の境内であるが、その校舎寄りの杉木立ちの中に、土田衡平を顕彰する碑がある
 題額の「勿忘汝祖」というのは、天狗党の乱の時に彼が組した田中隊の「義」「皇恩勿忘」などとならぶ、旗じるしの一つであった。いうまでもなく、田中隊の参謀たる衡平の選んだ言葉である
 碑文は「矢島藩士 土田衡平伝」とあって、宮内省蔵版「殉難録稿」よりの要約
末尾には
 白露の霜と変れる今ははや君が衣手うすくなるらん
という辞世が刻まれている
 四十一年十月、土田衡平の百年忌にあたって、矢島町郷土史研究会(伊豆甚兵衛会長)の提案から、かねて土田崇敬の念のあつかった大井直太郎町長を会長とする顕彰会が誕生、ほとんど全町民の寄付によって建立されたものである
     *
 土田衡平は天保七年(一八三六)七月二十二日、矢島藩士土田又右衛門の子として生を受けている。出生には、佐藤ふよの私生児という異説もあるが、ともかく幼にして父母に死別、親戚の金子七左衛門のもとで育てられている
 幼名を覚七、又は久七、久米蔵といった。久米蔵少年はいわゆる神童の誉れが高く、たとえば彼の算盤は"二度計算はさせない"という評判であった。ある時代官と競技し、三度まで二人の算盤の答えが違ったが、彼はガンとして正解を主張してゆずらず、怒った代官が改めて難問題を出してその答えを教授格のものに調べさせたところ、やはり彼の一回の計算に誤まりがなかったというエピソードが伝えられている
 算盤ばかりではなく、書道、和歌、俳句、漢学をはじめ、柔術は因州の島源蔵に関口流を学んで奥儀をきわめたといわれている。剣は、父又右衛門がその道の達人と称されたから、当然その血をひいていた

安政大獄の年に脱藩

 安政元年(一八五四)十九歳のとき、衡平は藩の選抜で江戸藩邸詰めを命ぜられ、留守居役書記を勤めることになる
 安政元年といえば、この年一月にペリーが再び軍艦七隻をひきいて神奈川沖に来泊、幕府はついに下田、函館の二港を開くにいたった年である。いっぽうでは吉田松陰、佐久間象山が捕えられ、諸藩の志士もようやく勤王にめざめて東奔西走の動きをみせはじめ、国家はまさに内憂外患こもごもいたるという激動の秋であった
 多感な衡平の目に、こうした社会状勢がただ漫然としたものに映ろうはずはなかった。次第に勤王に目を開きつつあった彼は、そのうつぼつたる志気を押えがたく、安政大獄の起った安政五年、ついに脱藩して皇事に身を捧げることに踏切った
 彼は身に二刀のほか、筆と硯をたずさえるのみだった。その脱藩の動機について、ある日江戸家老の加川氏と国事について論争、その熱意あふるる弁舌で相手を屈服させたことから、加川家老は、藩にこのような過激思想の持ち主がいては家の不為(ふため)として暗殺をはかったことを知ったためといわれるが、真偽のほどは明らかではない
 しかし、脱藩後の衡平が京都に行き、生駒家の菩提寺妙心寺に身をよせて法務を代理しているところをみると、加川家老は衡平の俊才とその生きるべき道とを知って、庇護をくわえていたのではないだろうか

天誅組の乱で散る

 京にあって衡平は、藤本鉄石に学んだ。鉄石その人は文武ともにすぐれ、とくに天心流独名流の剣と長沼流の兵学において知られていた。文久三年(一八六三)八月十四日、わずか三十余名で京都から大和へ討幕の兵を進めた、いわゆる天誅組の乱は、十九歳尊攘派の公卿中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎、三河の松本奎堂、そして藤本鉄石が中心人物である。土田衡平も、三十余名のなかの一人であった
 八月十七日、彼らは大和五条の代官所を襲って代官を斬った。その翌日である、いわゆる公武合体派による尊攘派排撃のクーデターが起ったのは。天誅組の蜂起はタイミングを失した。彼らは十津川に南下し、そこで"朝命"と称し十津川郷士千人の味方を得たものの、まもなく鎮撫の諸藩兵に挟撃されて、ようやく大阪の長州藩邸に逃げのびた中山忠光ら七人を除いては、藤本鉄石らすべて戦死か捕えられ、天誅組はあえなく潰滅したのである
 もっとも衡平は、藤本鉄石の門にあったまま天誅組に参加したわけではない。そのころ岩倉具視や三条実美ら尊攘派の公卿とも交わりを深くしていた彼は江戸の情勢をさぐるとともに、さらに学問の道を深めようと、いったん江戸に帰っている。そして昌平黌(しょうへいこう・幕府直轄の学校、当時の最高学府)の儒官古賀茶渓の久敬舎に入った
 そこで机を並べた一人に、越後長岡藩の偉材河井継之助がいる。河井は戊辰戦のとき長岡藩家老の職にあり、嘆願書を出して局外申立をはかったが容れられず、ついに賊将の汚名の下に死んだが、その器量は抜群の人といわれた。その人となりについては、最近司馬遼太郎が小説「峠」に描いている

河井継之助墓(2014.08/06)

変名し足利に雌伏

 久敬舎で二人は衆に抜きんでていた。河井に兄事した人に足利の鈴木三郎があり、河井が四国松山に儒者山田方谷を訪ねて西遊するときまったとき、鈴木はこののち誰を師とたのむべきかと問うと、河井は「それは他ない、土田衡平ばかりだ」と答えている。この時、河井三十六歳、衡平は二十四、五歳であろうか
 そして、天誅組の敗北から運よく死をまぬがれた衡平が、どうにか辿りついて身を寄せた先は、久敬舎時代にもかくまわれていた鈴木のもとであった。三郎の父千里は足利藩の医師だが、水戸の藤田東湖と通じ国事に奔走した人だった。三郎の十歳ぐらい下に園女(のち峰岸姓)という妹がいた。この人は昭和三十年ごろに亡くなったが、生前"上田衡平伝"に関して、貴重な数々の証言をしている。本文に掲げた衡平の肖像も、園女の証言からモンタージュ的に、矢島出身の絵師小野彦松が描いたものである。小野の父元佳は藩医で、ことに藩主親敬に勤王を説いた人として有名である
 園女はまた、衡平が鈴木邸にかくまわれていた時は「秋田」と変名していたこと、その志士的情熱を敬慕して彼に恋心を寄せた女性のあったこと、などを語っている。藤本鉄石も足利を訪ねており、おそらくこれが天誅組への勧誘であったろう。明治二十年に刊行の菊亭静著「錦の御旗」という小説には、同盟血判して天誅組に加わった土田兵庫のことが、くわしく描かれている

田中隊の名参謀

 天誅組の乱の翌元治元年(一八六四)三月二十七日、こんどは水戸藩の藤田小四郎(東湖の四男)を中心に、水戸町奉行田丸稲之衛門を総裁とする二百余人が、先君徳川斉昭の遺志を奉じて尊王攘を実現しようと挙兵した。筑波山に集結したので筑波隊とも、また異名を天狗党とも称されている
 この騎兵隊長に田中愿蔵がいる。昌平黌で安井息軒に漢学を学び十九歳で帰藩すると、那珂郡野口村にある藩校時擁館の館長となった俊才である。挙兵のときわずか二十一歳、しかも彼の徳を慕い、たちまちにして五百余人、しかもほとんど若者たちがその傘下に馳せ参じたほどの傑物であった
 衡平は他藩浪士ゆえ隊長にはなれなかったが田中隊参謀として終始愿蔵と行動を共にしている。二人の出会いのいきさつは不詳だが、矢島出身の土田誠一(元成渓高校校長)の「調査資料」によれば、藤田小四郎が軍資調達のため足利の鈴木千里を訪れて初めて衡平と知るが、この時彼は回天の機尚早として勧誘を固辞した。しかし田中愿蔵に強要されて、乱の途中からこれに加わったことになっている
 これに対し前掲「錦の御旗」は、先に衡平が天誅組に参加せんとして一面識にすぎぬ愿蔵に五十両の借金を申し入れ、逆に百両を貸し与えられた厚誼にむくいたものとしている

相馬の地に斬らる

 秋口にいたり、天狗党は分裂した。もともと攘夷が目的で倒幕の意志は弱かったので、急進過激な勤王派の田中愿蔵は、作戦上の食い違いもあって本隊を除名され、孤立して別行動をとることになった。しかし衡平の知謀よく、彼らは善戦した。その転戦の模様を今くわしく述べる紙幅を持たないが、各地で幾度か二本松勢を敗走させた戦は痛快で、九月十八日は助川(今の日立市)の城を占領した
 だが、その時期には衡平と愿蔵とのあいだにも、思想上か作戦上の齟齬(そご)があったようで、助川占領の前に衡平ら少数の者は那珂湊から東北へ脱出し再起をはかろうと試みている。しかし船は難破し、七人が漂流して相馬藩中村の仏浜へたどりつき、そこで捕えられた
 相馬藩の助命嘆願むなしく、衡平は同年十一月五日、斬首の刑に処された。享年二十九歳、辞世の歌には、稗に刻まれたもののほか
 徳川の濁りに身をや沈むとも清きその名や千代に流れん
 古もかかるためしを菊水の流れくむ身となるぞうれしき
 の二首がある
 衡平の遺骸は、相馬市内の向上に葬られたが、その忠死をあわれんだ雲洞寺住職がのち寺内に移し、裏に辞世を刻んだ碑を建てたという
 助川の城は、九月二十七日に千六百の追討勢に囲まれた。愿蔵ら三百五十余名は城に火を放って八溝山に逃れたが、戦はこれまでであった。各自に残りの軍用金を分配し、隊を解散してこもごもに下山した。これがかえってわざわいした。金を目当てに麓の農民たちに捕えられて密殺されたものが多く、逮捕の記録には百七十二人しかなかったといわれる。愿蔵は十月八日に斬罪さらし首の刑を受けた。時に二十一歳の若さである

町では叙勲運動中

 天狗党の一件は、数多くの小説に描かれている。戦後でも中山義秀の「黒頭巾異聞」や大仏次郎の「夕顔小路」があるが、昨年劇団民芸の上演した三好十郎作の「斬られの仙太」は天狗党の乱を農民の側から描いて武士階級--権力の側の非情と残離を告発したものであった
 最近作にユニークな時代作家として売出した八切止夫の「元治元年の全学連」がある。水戸の私学塾に学ぶ若い学生を主力の挙兵を現代の全学連になぞらえた発想だが、虚実とりまぜのもとより小説にすぎない。しかし土田衡平の智謀ぶりは、全篇にわたって描かれている
 ただ、峰岸園が「先生はなかなかの美男子で、目が丸くかわいらしく、くちびるの色のよい人で、子どもながらに美しい人だと思いました」と語るその容貌が、八切止夫によれば「土田はみつ口で眼がけわしく」というのは、いかなる資料によるものだろうか
 天狗党は、運用金調達のため豪商から金をまきあげた。一味には野州あたりの博徒くずれも加わっていたし、何かのいきさつで栃木の町を全焼させたのも天狗党の悪名となっている。しかし、天狗党のこうした犠牲があったからこそ、やがて維新の大業は果たされたのである
 いま矢島町では、土田衡平の叙勲について運動中である。明治二十四年十一月五日、法名、大極院義鑑忠衡居士は靖国紳社に合祀されてようやく名誉を回復したが、現在、他の田中隊の志士のなかには正五位、従五位を贈位されている人も少なくなく、町民たちは、せめてその程度の贈位をもって国家が衡平の勤王の赤心を認めてくれる日を待ちこがれている

1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2012.11/10(SAT)

4 天狗党西上




鍋掛宿(2012.09/29)
「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)

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天狗党西上

元治元年(1864)
・10月23日
 未明、天狗党は各陣地を放棄し久慈川沿いに大子方面へ北上した。また藩政派の三木左太夫、鮎沢伊太夫の一派、徒目付井田平三郎、同朝倉源太郎率いる天狗党親派の「潮来勢」も合流した
・  25日
 天狗党は大子村近郊で迎撃態勢をとる諸生党黒崎藤右衛門の野陣を次々に突破、黒崎は戦死し、兵は遁走した
 ここで天狗党は混成軍を六隊に再編し、指揮、幕僚陣を決めた

   総督   武田耕雲斎
   大軍監  山国兵部
   本隊守将 田丸稲之衛門
   参謀   藤田小四郎、竹内百太郎
   総兵力
   兵    千七十六名
   馬    百六十九頭
   駄馬   五十頭
   大砲   八門

 さらに行動の第一目標を、京へのぼり水戸家連枝の禁裏御守衛総督・一橋慶喜へ尊皇攘夷を嘆願することとしたのである。厳しい軍律を定め独立軍としての組織、秩序を制定し、将兵の鋭気を養い、兵糧、軍夫を徴発した
※ 禁裏(きんり)=皇居、御所あるいは宮中
・11月 1日
 野州へ向け出発
・   2日
 下野の名刹臨済宗雲巌寺を過ぎたあたりで、幕府の討伐指令を受けた黒羽藩兵の砲撃を受け天狗党も応戦する。この小競合いで柴崎八百吉が斃れ、兵二人が負傷
 天狗党は諸藩兵と交戦することなく上洛したいと考え、黒羽藩も幕命で抗戦しただけであった。黒羽藩は、平和裡に通過したいとの天狗党が「間道を通る」ことで黙認した
・さらに北上し陸奥との国境に位置する旗本交代寄合三千石、芦野采女の領地に向った。芦野家は酒手三百両を贈り他領の通過を求めた
・芦野領手前で南下し大田原藩領を通過
・   6日
 箒川を渡河して山田村(矢板市)の問屋伊東次郎右衛門宅で休憩、川崎宿の富商万屋利平衛に千両の軍資金を強要した
・川崎宿では長興寺に潜む諸生党の間者を捕え処刑した
・日光山(奉行小倉但馬守二百両献金)
 宇都宮藩領徳次郎宿
・   9日
 葛生村(軍用金二百両調達)に分宿
・  11日
 梁田村を出立、渡良瀬川を越え上州路に兵団を進めた
・上州東南部太田宿、金龍寺に連泊(軍用金八百七十五両調達)

・  14日
 未明、武州岡部藩領を通過の際、行軍に遅れた三名が藩兵の攻撃に遭い二名が射殺、一名が捕虜となり斬首された
 この日、黙認を受け入れた吉井藩松平家城下に宿泊
・  15日
 七日市藩通過。下仁田宿に宿泊
・  16日
 早朝、西に進んで来た高崎藩兵二隊と呼応して出陣した小幡藩、七日市藩兵を後詰めとし、下仁田北方の下小坂村に展開した
 天狗党は虎勇、龍勇両隊を正面攻撃隊とし高崎藩本陣北の伊勢山に義勇隊(朝倉源太郎)を先行させ、斜面から猛烈な銃撃を浴びせた。高崎藩兵は総崩れとなって安中藩領方面に敗走した。天狗党の理想的且つ圧倒的な大勝であった
・  17日
 上信国境の内山峠を越え信州路に入る
・  18日
 望月宿(佐久市)に分宿(軍用金九百両調達)
・  19日
 中山道の和田峠に差しかかると、野戦陣地を構築した高島藩兵約二百名、松本藩兵約四百名が待ち構えていた。午後三時、高島、松本両藩兵が一斉射撃を開始した。天狗党も応戦し肉薄した白兵戦が展開されたが、後方に迂回した天狗党別動隊の挟撃により高島、松本両藩兵は錯乱して逃走した。伊那路に陣を敷いていた高藤藩兵百五十名も撤退した
・だが、天狗党将兵は行軍と戦いに疲れ果て、沿道領民の怯えた眼差しと粗食に精神力も極度に衰え、戦力は戦闘による損耗で九百十五名まで落ちた。藩政派の鮎沢伊太夫ら将校の脱走も相次いだのである
鮎沢伊太夫墓(2017.05/20)
・  25日
 飯田藩の関所を威嚇して木曽路から美濃へ進入(加納藩から軍用金三千両を調達)。吹雪と難路に将兵が脱落する
・12月 5日
 越前(福井)に入る。凍傷、疲労、粗食による衰弱者が激増
・  17日
 天狗党八百二十三名は力尽き、越前敦賀の新保村で追討軍の加賀藩兵に全面降伏した

※ 天狗党の西上路(蠅帽子峠越え)
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--略図模倣;朝日新聞(2016.10/29)--

元治 2年(1865)
・ 1月28日
・一橋慶喜に攘夷嘆願を頼っての西上であったが慶喜には見離され、この日、田沼総督の到着により天狗党の運命は決まったのである

・ 2月 4日
 武田、山国、田丸、小四郎ら二十四名が斬首に処され、以降
 二月十五日  百三十四名
 二月十六日  百三名
 二月十九日  七十五名
 二月二十三日 十六名、計三百五十二名が次々と斬首に処された
 このほか病死二十四名、永追放百八十八名、流罪百三十七名、水戸藩送致二十五名
・ 3月24日
 水戸では武田の家族六名、藤田の家族四名が処刑された

 かくして天狗党は消滅した
 攘夷、倒幕の中心は薩長主導の西国雄藩の手に移ったのである
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回天館(鰊倉)(2017.05/22)

(再掲)
 棚倉町大梅にある天狗党の墓。田中愿蔵隊に所属した隊士のものである
以下、現地の案内板から

 天狗党の墓
 元治元年(1864) 筑波山を捨て、八溝山に逃れた水戸天狗党が、棚倉藩兵に囚われ、斬刑にされた党員二十余名の御魂がこの墓に眠っている。当時の棚倉藩主松平周防守康英が処刑地に「三界万霊塔」の供養碑を建立し、この地を天狗平と呼び、今だに浪士の末路の悲惨を物語っている。
 昭和59年12月
 棚倉町教育委員会

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--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--
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1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2012.11/08(THU)

3 大発勢潰滅




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大発勢潰滅

元治元年(1864)
・ 9月 5日
 幕府追討軍総督田沼意尊は幕府洋式歩兵・諸生党・二本松・棚倉・宇都宮・壬生・佐倉藩兵の計五千余名の大軍で那珂湊を包囲した
・頼徳ら鎮撫軍は幕府軍と交戦する訳には行かず、藤田小四郎の天狗党主力一千名が単独で攻撃を仕掛け、水戸・太田間の要衝額田村に陣を敷く諸生党を破り、太田城から駆けつけた二本松藩兵九百名も敗走させた
・   9日
 田彦村に集結していた宇都宮藩兵五百名を襲い潰走させた
・  22日
 那珂湊防衛の要磯浜海防陣屋が幕府軍に攻略された
 頼徳のもとへ投降を促す使者が来る。武田耕雲斎、山国兵部ら藩政派は「計略あり」と頼徳を説得したがこれを退けた
・  26日
 朝、頼徳は三十五名の宍戸藩士、鎮派の将兵とともに夏海村の幕府本陣へ下った
・  27日
 頼徳は江戸へ発ったが、これを聞いた田沼総督、諸生党の市川、佐藤らは不利な証言を恐れ頼徳らを水戸へ引き返させ、獄に投じた
・10月 1日
 幕府は宍戸松平藩を改易に処し、頼徳の父主税頭頼位を官位剥奪のうえ新庄藩に、江戸詰家臣約五十名を高松藩預けとした
・   5日
 幕府は水戸へ大目付らを遣わし、頼徳に切腹を命じた。頼徳に同行した宍戸藩士たちも自害するか処刑され、鎮派の鳥居瀬兵衛、大久保甚五左衛門、奥右筆丹波恵介(十石五人扶持)ら水戸藩士十五名も死罪。諸生党と対立する藩政派の岡田信濃守、白井伊豆守、杉浦羔二郎ら約六十名も次々に投獄され、大半が死亡した
 しかし、これらのことは大発勢には一切伝えられず、頼徳の留守を任された鎮派の榊原新左衛門は猛攻する幕府軍に抗するため止むを得ず天狗党と共同戦線を張った
・  10日
 赤城隊を殲滅し、常陸北方を制圧した幕府軍は洋上に幕府艦隊を配して那珂湊を包囲し、総攻撃を開始した
・幕府軍、那珂湊北2キロの部田野(へたの)村一帯での戦闘で大敗
首塚(忠勇戦死之墓)(2015.10/22)
・  17日
 幕府軍は再度部田野村から攻撃を仕掛けて来たが、天狗党主力の大発勢は突撃を繰り返して幕府軍を分断し、戦死者八名に対して幕府軍の遺棄死体九十四名という大戦果をあげた
・ここで幕府軍は作戦を切り替えた。幕府歩兵頭並平岡四郎兵衛は岩船山の大発勢陣所を訪ね「罪は問わぬから自首するよう」幹部に説いた
 榊原らは熟慮してこれを受け入れ、幕府軍とともに天狗党の追討をも承諾したのである
・  23日
 榊原らの手引きで平岡率いる洋式歩兵が那珂湊に入ったが、事前に事態を察知した天狗党とその与党一千百名は北方山中に去っていた
・降伏した大発勢千百五十四名は榊原ら四百六十六名が佐倉藩へ、四百三十六名が高崎藩へ、二百五十二名が関宿藩へと夫々預けられた
 そして、入牢後幕府は態度を変えた
 榊原ら四十一名の首謀者、幹部が切腹、斬首。獄中病死、衰弱死した者百四十九名と裁きは過酷を極めたのであった

--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--


1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2012.11/07(WED)

2 追討軍、大発勢、田中愿蔵




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追討軍

 駒込藩邸での鎮派のクーデターを知らぬ市川三左衛門の軍勢は、江戸郊外の千住宿で追撃して来た幕府軍と合流した。幕府軍は内乱のために投入した実戦部隊で、歩兵奉行並藤沢志摩守を指揮官とする歩騎砲編成三千八百の洋式戦闘団であった
 天狗党側は脱退した田中愿蔵率いる赤城隊が土浦城下を砲撃、乱入し多数の市民を殺傷し、金品を強奪するなど無法を続けていた

元治元年(1864)
・ 7月 7日
 筑波に近い下妻藩領高道祖(たかさい)村に進出した幕府軍・諸生党は藤田小四郎指揮の天狗党本隊の一部(百六十名)と遭遇、敗走させた
・   8日
 高崎藩兵一千余名、壬生藩兵三百名、下妻藩兵二百五十名、結城藩兵二百名余が追討軍に合流し、総兵力は六千名を越えた
 対する天狗党側は脱退や脱走等で実戦に投入出来る兵力は八百名余であった
 しかし、追討軍は大軍であるとの慢心と装備、編成に開きがあり、その夜の天狗党本隊の見事な夜討ちに遭って戦死者十四名、負傷者多数の損害を被り城下から潰走した。諸藩編成の幕府軍は江戸へ引き返し、諸生党は北上して七月二十三日、水戸城に入った

 天狗党が国許常陸領内で行った悪逆非道は、領内の郷士、富農クラスを中核とした多数の親派を擁していたのだが、いまや御三家の臣でありながら幕府の仇敵とまで睨まれるに至り、領民たちの心は天狗党から急速に離れていった
 さらに、下妻での大勝に乗じて、水戸城の諸生党を一掃しようとの私情を絡む幹部の言動を聞くと、他藩領から賛同して挙兵に加わった攘夷の志士は失望し天狗党を去った

・  25日
 天狗党約三百名が水戸城を攻撃するが、兵は少なく地形も不利なうえ火力も旧式と、銃撃を受けて交戦するも窮地にたった天狗党は城下清水町に放火しようやく退却した
 自らが仕える主君の城を攻め、守るべき領民の家々を焼き払ったのである

(蛤御門の変)
・  19日
 長州藩は攘夷建白の武力参内を図るが蛤御門付近で会津・薩摩連合軍に撃破された

 幕府は東西の武装テロ集団を根絶すべく、西へは長州征伐軍を送り、天狗党へは本格的な追討軍の編成、派兵を決定した
 幕府追討軍総督には若年寄田沼玄蕃頭意尊、壬生藩主鳥居丹波守を先鋒に一万三千名
・  26日
 幕府追討軍は江戸を出陣したが、北関東、東北諸藩の反応鈍く八月下旬まで下総古河城に滞在

大発勢

 一方、水戸藩主慶篤は藩内抗争の対処を迫られていたが長州征伐の準備で忙殺され、将軍家茂の政務補佐から離れられない。そこで、支藩の宍戸藩主松平大炊頭頼徳を目代として水戸下向させることとし幕府の裁可を得た
 江戸の実権を握る鎮派(鳥居瀬兵衛、榊原新左衛門、大久保甚五左衛門ら)は反諸生党派の尊攘思想家松平頼徳の下向を歓迎し、市川ら門閥派を掃討すべく、七百名の水戸藩士を率い馬前に参じた
・ 8月 4日
 頼徳は家老山中新左衛門以下宍戸藩士五十名余、水戸宗藩派遣五十名余、鳥居、榊原らの鎮派勢を従え江戸を発った
 途上諸生党に目付職を罷免されていた山国兵部が手兵とともに頼徳勢に追いつく
・   8日
 やはり執政職を解かれた武田耕雲斎が一族郎党、与党の同志五百名弱と頼徳勢に合流した
 これを境に常陸南部の尊攘派の浪士、神官、村役人たちが戦列に加わり、頼徳勢は水戸藩領内鎮撫という任務を逸脱し、大きくその性格を変えていく。士民は三千名を越えた頼徳勢を「鎮撫軍」とは呼ばず「大発勢」と呼んだ。攘夷先駆けの祈りを込めたのである
・  10日
 快晴の午後、頼徳は水戸城下の薬王院に入り、即刻開城を求めたが諸生党の市川、佐藤は頼徳単独での入城を求めて譲らない
・  12日
 大発勢(頼徳勢)は那珂湊に向け城下を発つ
・  14日
 天狗党の主力約五百名が小四郎、参謀の飯田軍蔵に率いられて那珂湊に入った。諸生党はこの要塞地区に多数の将兵を配していたが、岩船山願入寺、反射炉附近、夤賓閣で小規模な抵抗をみせただけで水戸方面に退却した。大発勢の戦死者は五名
 那珂湊攻略戦は天狗党が交戦した。幕府にとって賊徒である天狗党の従軍を認めれば、大発勢もまた賊徒となる
 天狗党主力は那珂湊攻略後、約束通り小川村の本営に帰陣した
・  20日
 頼徳主従は水戸入城を目指し、城下の藩練兵場「神勢館」に入ったが、同日天狗党追討軍が大軍で結城城に駒を進めたとの報に、諸生党は高圧的になり交渉は不調に終った
 砲撃、白兵戦が諸生党と神勢館の大発勢の間で展開され、双方にかなりの死傷者が出た
 大発勢側、立原朴次郎(目付、翠軒の孫)討死
・  28日
 大発勢、武田耕雲斎の長男彦衛門の部隊を殿軍にして無血撤退

※ 夤賓閣(いひんかく)

田中愿蔵と赤城隊

 諸生党は城下の屋敷で息をひそめていた武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、斎藤左次衛門、田中愿蔵の家族を捕え牢につないだ
・ 9月 1日
 これを聞いた田中愿蔵と赤城隊三百余名は那珂湊に転進し大発勢への合流を申し出るが、あまりの非道ぶりに拒否され、赤城隊は北方に去った
・  18日
 赤城隊、幕府に占拠されていた助川城(家老山野辺主水正の居城)を奪取する
・  26日早朝
 助川城を占拠していた赤城隊は、二本松・平両藩千六百余名の奇襲を受け八溝山系に逃れる
・田中愿蔵は憔悴激しく、山中の小屋で塙代官所の兵に生け虜られた
・10月16日
 愿蔵、久慈川河畔で斬首。二十一年の生涯を閉じた
 赤城隊三百二十八名の隊士もほとんど全員が戦死するか捕縛、処刑された
田中愿蔵の墓(安楽寺)(2015.03/18)

 筑波山で分裂し、別動隊となった川俣茂七郎ら諸国の志士約五百名も鹿行(茨城県鹿島、行方郡)方面で追討軍の分遣隊千四百名に捕捉各個撃破され、大半が戦死、自害した
 まさに、掃滅戦であった

--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--


1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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2012.11/06(TUE)

1 天狗党挙兵
天狗党の墓、棚倉町大梅



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平成24年(2012)
・11月 6日
 4日に棚倉城跡ほかを見て来たが、行く途中に「天狗党の墓」があった。攘夷挙兵を果した天狗党であったが行く先は辛苦と悲惨であった
 注文してあった本が4日に届いた。その第二章、水府錯乱では「天狗党」に関連して多くページを割いている。著者は本の冒頭「はじめに」で"雑文に類する"と書いているが適度に詳細で何より事の経緯が解りやすい。これを参考にし、要約をupする
 島遼伍「北関東会津戊辰戦争」・2004/随想社刊
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以下、現地の案内板から

天狗党の墓
 元治元年(1864) 筑波山を捨て、八溝山に逃れた水戸天狗党が、棚倉藩兵に囚われ、斬刑にされた党員二十余名の御魂がこの墓に眠っている。当時の棚倉藩主松平周防守康英が処刑地に<三界万霊塔>の供養碑を建立し、この地を天狗平と呼び、今だに浪士の末路の悲惨を物語っている。
 昭和59年12月
 棚倉町教育委員会
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万延元年(1860)
・ 3月 3日
 「桜田門外の変」
桜田烈士関鉄之介の歌碑(2015.03/17)

 攘夷の先駆けたらんとした水戸藩内では..
・竹内百太郎(小十人組百二十五石)ら三十八人は攘夷挙兵の先鋒となろうと、三田の薩摩屋敷に駆け込むが、家中に連れ戻され幽閉された
・大津彦五郎を首領とする一団、霞ヶ浦周辺に群拠し「玉造党」を結成した
文久元年(1861)
・ 1月
 大津ら玉造党は水戸藩郷校文武館を占拠して密勅の返還を拒否する。一橋、尾張、越前三侯の宥免等を藩庁に迫り、近隣の富商から軍資金を集め、異人襲撃の計画を練った。見かねた幕府は水戸藩を始めとする二十余藩に討伐を命じた
 武田耕雲斎(藩政派執政)の説得に応じた大津は玉造党を解散、大津は自首し、藩首脳は大津を領内細谷村に監禁した
 大津は四十九日間絶食して自殺し、他の幹部大半も毒殺、衰弱死した
・ 5月28日
↓写真;東禅寺 (東京都港区)、2016.05/13早朝 t.hさん提供
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 夜半、大津らの遺志を継いだ有賀半弥(七十五石)ら十五名の水戸浪士が、イギリス公使オールコックに天誅をくださんと仮公使館のあった高輪東禅寺に突入する。公使館員二名を負傷させたが、有賀と古川主馬之助は警備の郡山、西尾両藩兵に討ち取られた。オールコックは無事であった

文久二年(1862)
・ 1月15日
 早朝、オールコック襲撃で生き残った黒沢五郎、高畑房次郎両名は、公武合体推進派の老中安藤対馬守信正を、江戸城坂下門外で襲ったが、同志の水戸藩士小田彦三郎、平山兵介、野州の医家河野顕三、越後の医家河本杜太郎と共に全員がその場で斬り死にした
・ 5月
 薩摩の島津久光は一千名の軍兵を率いて江戸に入り、幕府に攘夷挙兵、幕政改革を進言
・11月
 土佐藩兵に護衛された三条実美、姉小路公知が入府し、攘夷決行を将軍家茂に要求する

文久三年(1863)
・ 3月 7日
 上洛した家茂は孝明天皇に拝謁し五月戸十日という期限付きの攘夷挙兵を迫られる
・ 5月10日
 長州藩は下関海峡沖を航行する英、蘭、仏の艦船を砲撃、攘夷戦の口火を切った
(薩英戦争)
・ 7月 2日
 鹿児島湾で薩摩藩とイギリス東洋艦隊が交戦
・ 8月13日
 孝明天皇は大和に行幸し、攘夷戦必勝を願う(長州藩主導のもと)
・  17日
 土佐藩浪人吉村寅太郎率いる「天誅組」三十八名は大和五条代官所を襲撃し、代官鈴木源内以下十人の首級をあげた。攘夷に留まらず倒幕を企むものであった
 こうした長州藩とその与党の甚だしい暴走を懸念した薩摩藩は政敵の会津藩と結託し、長州親派の攘夷公卿七人を追放し、倒幕すら含む過激攘夷親政から公武合体を骨子とした親幕へと朝議を誘導した
 この会薩連合によるクーデターの結果、天誅組は幕府軍により壊滅し京坂から長州藩、過激攘夷勢力は一掃された

 藤田東湖の四男小四郎は江戸でこの報に接し嚇怒した。「攘夷を貫くためには会津、薩摩と戦ってでも上洛する」という長州の桂小五郎の意に共鳴し、西の長州挙兵時には東の水戸も挙兵するという東西呼応攘夷戦を快諾したのである
 小四郎は水戸に戻ると武田耕雲斎に賛同を求めたが断られた

天狗党挙兵

元治元年(1864)
・ 3月27日
 小四郎は山国兵部(二百石)及び田丸稲之衛門(水戸町奉行、二百石、山国兵部の弟)を総師に仰ぎ、挙兵派の同志百七十名と共に城下西南四十キロの筑波山で攘夷決行の旗を掲げた
・ 4月 6日
 まず、徳川家康を祀る日光東照宮の確保を図ろうと、三河譜代の宇都宮藩戸田家に参与工作をするも失敗し、日光山でも奉行の小倉但馬守に阻まれて果たせず。周辺には北関東十余藩の軍兵二千余が展開した
( 4月中頃)
 日光では廟所参拝だけをすませ、野州南部の名山太平山山頂付近の蓮祥院に本陣を構え、ここで田丸や小四郎、田中愿蔵らは猛烈な募兵と軍資金調達を行う。隊士は二千人以上になったが、献金を拒絶した栃木宿に火を放って焦土と化す(愿蔵火事)など各地で悪名を残した
( 6月初め)
 田丸や小四郎等幹部は全軍に筑波への帰還を命じたが、田中愿蔵率いる赤城隊三百名はこれに従わず、以降独自の行動をとることとなる

 この頃江戸駒込の水戸中屋敷でも派閥抗争が繰り広げられていた
 国許の実権を握った保守門閥派(家老鈴木石見守、太田丹波守、城代朝比奈弥太郎、大寄合頭佐藤図書、市川三左衛門ら)は若手中心の藩校弘道館の諸生を完全掌握して諸生党を結成した
・ 5月29日
 門閥派は諸生党精鋭五百五十三名を従えて駒込の藩邸に乗り込み、藩政を諸生党に移譲するよう、また藩政派(山野辺主水正、岡田信濃守、武田耕雲斎ら)官僚の罷免を藩主慶篤に訴えると、慶篤は即座に受諾した
・ 6月17日
 藩の全権を得た諸生党は、市川三左衛門を総大将に三百名の天狗党討伐軍を編成して、筑波へ出陣させた
 ところが天狗、諸生両党の抗争の間を突いて鎮派(御留守居役鳥居瀬兵衛、執政榊原新左衛門ら)が慶篤に取り入り、なんと政権を樹立したのである

--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--

1 天狗党挙兵(2012.11/06)
2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
3 大発勢潰滅(2012.11/08)
4 天狗党西上(2012.11/10)
「碑の周辺」(第7回)土田衡平の碑(2013.01/22)
魔群の通過(2014.03/17)



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