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2016.03/21(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
【コマ 268】
(ニ)棚倉の戦
 白河関門の戦闘地と為りて、奥羽軍連りに是が回復を計りつつある六月、その二十四日を以て、西軍には棚倉攻撃の命は降れり。茲に於て、薩州、長州、土州、大垣の諸軍は、白河関門棚倉本道口に戦守を張りけるが、大命一下忽ち方向を輾還して、本道に進撃戦を取る也。蓋し事茲に至れるは、西軍棚倉藩の虚を看破しての事也。何となれば、白河口の防備に於て、奥羽軍は是が回復を計りて、容易に白河の地を去らざるのみか、却つて戦守を固むる今日、その棚倉藩とて、同盟藩たる責任上、白河口総指揮の命は至重至厳にして、等しく持場を守るべきは勿論なるを以て、此戦況に臨む間は、素より居城の武備を顧るの遑も無し。棚倉の実情それ右の如し。果たして然らば、今や棚倉街道に在りし西軍、俄然その姿を歿して、南進するに至りし□報の起るに於ては、棚倉藩たるもの、何ぞ閑々として居らるべきものぞ。然りと雖も、白河関門の部署を虚にする訳にも参らず、茲に於て、白河在陣の棚倉は、西郷総督将の許可を得て、居城の守備に當るにあり。さりとて大兵を割く訳には非ず、実に寡勢の孤兵に止まる也。武士の去就は、斯る場合に処して、少しは馬鹿げたる感もありけれど、同盟の義約を主位として、自己一藩を客と為すは、飽く迄も奥羽の士道を脱せず、棚倉藩たるもの、能く列藩の武道を体現したるなれ。
 居城守備の許可に依りて、参謀阿部内膳、同平田弾右衛門等は、自藩の孤兵を以て、郷渡村の要衝を保ち、而して大敵此所に防ぐにあれど、西軍の進撃は、破竹の勢を以て、巨門を開いて郷渡の陣を撃殺する也。されば棚軍は必死の勇を揮つて、大に防戦に努めしかど、元来が寡兵なるを以て、力拒遂に敵する能はず、退きて金山村に走れり。棚軍郷渡の敗戦に、白河在陣奥
【コマ 269】
羽軍の本営に於ては、相馬、石城、会津、仙台の諸軍の中より、更に部署を割きて援を送るあり。茲に於て、棚軍は先觸を得て大に踴躍し、而して金山に一戦を交ゆるも、西軍大呼の勢には當る可らず、退きて松原に砲陣を敷くに到る。此時に至りて、白河の援軍は三森、上台に依りて戦守するも、西軍一呼の勢は威風堂々棚軍の陣を抜き、更に急転して三森に逼り、上台を撃つに至る。石城相馬の諸軍、三森の陣を固守して是を防ぎけるが、砲戦一敗地に塗れて部署を壊乱し、而して逆川に遁れ、激闘の戦陣これを遥かに望み見て、その抜く可らざるを知りて、浅川に退却して防備を固む。さる程に、上台の戦闘は猛烈を極めて、仙台、会津の孤兵は烈戦遂に守りを失し、長駆して須賀川に兵を引く。かくて棚軍の孤兵のみ本道の大敵に當るに至りて、是が防禦の策も全く尽き果てヽ、本城の禍危は眼前に横はりたり。
 西軍、上台を略取して、愈攻城の策を決す。薩州、大垣、黒羽の諸軍は、山手の間道して小菅生より進み、長州、土州、館林、彦根、因州の諸軍は、尚も本道に添ふて進撃す。然るに此時に當りて、海軍に依て常州平潟に上陸したる浜道の西軍は、奥州関田村より進み来つて、等しく棚倉に迫るにあり。西軍両道の攻撃陣、巨弾を遥かの彼所より送りて、こヽに攻城の砲声は伝へられたり。されば棚倉藩の孤城や、今や興廃与奪の分岐に掛る火急に臨み、一藩挙げて是が防戦に當るも、其多くは白河に在陣して、漸く警備の許可を得たるものヽみ、是が実戦に當らむとは、勝敗云はずして定まる所、更に列藩の援軍すら、石城、相馬の諸軍は、浅川にて援道絶たれ、仙台、会津の諸軍は須賀川に走るに及びて、本陣の援兵派遣も、今や全く時遅く、向後たヾ城を枕に討死を決する外、更に手の出すべき策は無き也。
 西軍、益々砲弾を送るに至りて、棚軍は孤塁に拠りて、数門の大砲を以て応戦はしたるものヽ、東西の総攻陣には當る可らざる勿論也。かくて巨弾は益々城街に落下して、爆発四方に飛び上り、砲煙朦々、大風襲来して砲火を導き、見る間に黒煙は天に漲りて、棚倉落城の火災は起れり。西軍、是を望み見て、凱歌を挙げて猛撃すれば、飛弾は城郭に爆発し、石垣を破り、土堤を崩して猛弾の往行満目悽惨。此間隊士は鬨高く、焼熱の戦場に向つて、剣
【コマ 270】
を抜いて発す。龍争虎闘、屍山血河となりて、尚戦に堪ゆる者は、血戦陣中に一死を決する也。勇往混乱、城兵みな去るに及びて、棚倉城、こヽに陥落す。
 此時に當りて、平潟口西軍は新田山の険を抜き、総軍大呼して湯長谷藩に攻め入るの形勢にあり。されば棚倉追撃の西軍は此所に屯営して、南門外の民舎を宿営地に當て、而して平城の攻撃を環視するものとす。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
阿部内膳正煕之墓(常宣寺)(2014.06/21)

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 戊辰役棚倉藩戦死者弔魂碑
・蓮家寺境内
  藩士阿部内膳以下四十七名
  郷夫/殉難者十名
  明治庚辰五月 阿部正功
・内儀茂助之墓
  表郷村下羽原
  鹿島神社隣り緑川氏敷地内



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2016.03/19(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/維新の最大疑獄
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 以下は、明治元年(1868)、孝明天皇の良き相談相手であったと云う中川宮(久邇宮朝彦親王)が、慶喜と通じ陰謀を企てたとの嫌疑をかけられ広島藩お預けとされた件である
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奥羽の巻(第二巻)
【コマ 404】
維新の最大疑獄
 奥羽の戦場に、白河陥ち、棚倉陥ち、岩城敗れて、二本松も崩れしと雖も会津若松未だ抜けず、仙台尚遠く、庄内は秋田に迫り、南部頑強にして、奥羽戦争の勝敗さい予知する能はず、天皇愈東行御親征に就き給ふ頃しも、時は八月、京都には流説紛々として、中川親王の険謀画策は喧伝せられたり。曰く、中川宮の御使は、窃かに関東に忍び、徳川浪人に通じて、不軌を謀ると。路頭愈喧騒を極めて、その紀州藩は既に不軌を謀る、事皆中川宮に通ずと。耳語相伝へて飛報は江戸に到り、而して曰く、紀州、水野等中川親王を奉じ、薩長二藩を討伐の画策ありと。東西瀕々、中川宮を中心として、不穏
【コマ 405】
の巷噂となりたり。されば一大捜査は中川宮の身辺に當りて、暗々裏に監視を注ぐと共に、一方には真否糺問と云ふ名目を以て、薩長の巨魁たる岩倉具視の麾下なる、大原重徳卿を勅使と云ふ肩書にて、中川宮邸に、膝詰談判を開始したり。大原即ち中川宮に突進するに當りて、一通の書附をば、是を隠謀の証拠物件として持参するなり。
 惟ふに、中川宮は二條齋敬と共に、徳川の大政返上以来は、専ら謹慎を旨とし、薩長の新政体も千里の遠きに傍観しつヽ、やがて廻り来る時運を待ちて、幽かなる閑日月を暮し越せしもの、されば世事に遠き身の、卒然この噴問を受くるは、全く寝耳に水の観あるなり。
 大原が強制威壓の論議は峻烈を極む。されど隠謀の根跡なき中川宮は、良心に従ひ、正理の命ずる所、大に抗弁する所ありけるが。大原が持参の書附には、既に中川宮の姓名あるのみならず、更に押捺の印影もあるなり。論議は印影の真否如何に帰着したるを以て、宮も黙し難く、慨然として是を論駁して曰く、然らばその確証を示して、予が責任を明かにせむと。その所謂大原が、持参の謀叛書附の印影と、宮が日々に使用する実印をば、是を対照せしめて、相違あるを示されき。有繫(さすが)の大原も事茲に至りて、呆然たり。大原一時は眩惑したれども、左右の言説朦朧に托し、無理を通して遂に巻き込み痛はしくも、不軌の罪名に服さしめたりとかや。而して其後の経過を見れば中川宮は謀叛を理由として、流罪に処せられたるは疑ふ可
らず。

兼テ御不審ノ筋アリ、参朝ヲ止メ、謹慎被仰付置候処、近頃不軌ヲ謀リ、徳川慶喜等ニ密使差遣、内応スヘキ陰謀露見ニ及ヒ、勅使ヲ以テ、御糺問相成、無相違旨言上、容易ナラサル所為甚以テ不届至極ニ付、厳重ノ御沙汰ニ可被及筈ニ候ヘ共、格別ノ叡慮ヲ以テ、安芸藩ヘ御預被仰付候事。

 御沙汰書是なり。思ひは幕末の政局に當りて、精意国事に奔走したる中川宮は、謹慎蟄居、暗雲より隠退したる今日此頃や、突然にも不軌の罪名を以
【コマ 406】
て、安芸藩に檻送せらるヽに至る。當時京都に在りて、よく中川宮の性格を拝承する者(新撰組流浪記)、この流罪処分を批評して曰く、これ冤罪なり。中川親王をして、流罪に処すべき事情は、多々理由の在りて存するなり。(一)幕末に於ける公武一和論者として、薩長の激論手段を妨害したる果報なり。(ニ)新政府は藩閥を以て独占したる結果、目前に忌断すべき危険人物は、多々ある所より、是を除去する精神に於て、親王を貶する必要あり。(三)薩長が愈天下に令するに至るや、共に伏見宮の御生れにして、而かも御兄弟なる、山科宮を奉載するを以て、政見相反する久邇宮(中川宮)の行く末は頗る不安なり。かヽる所より中川宮を片付けざるべからず。
 右は中川宮流罪の根本理由なりとかや。是れ果して事実とせむか。宮の御境遇こそ、気の毒の至りと云ふべし。蓋し幕末に於ける、公武一和と云ひ、佐幕と云ふはみな當時の政治組織に見て、一個の政見にして、時の天下と其見を同ふしたるもの、さればこれに奔走するは、敢て咎む可きなし。果して然らは、其時代に於ては、激論政策なるものも、同一なる政見論たるに今や激論黨か、一朝にして自家に権を握りしとて、過去の経歴を現在に律するは断じて不可なり。惨虐の誹りを免る可らず。その会津追討と云ひ、庄内追討と云ひ、當時に於ける薩長の當路政官は、幾分宿怨を有し、公道を踏むに私心を混入したる嫌なき非ず。
 人は云ひり。中川宮の流罪事件は、維新史上の最大疑獄にして、果たして不軌の陰謀ありや、否や、頗る疑問事なるを以て、當時要路の薩長人には、此疑獄事件に付、一応の弁解を浴すと。噫々。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/18(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/会津包囲総攻撃
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↑写真;戸ノ口原、2015.04/28

慶応 4年(1868)八月
 要衝白河を攻略した新政府軍は会津侵攻へと向かう。石莚から、母成峠を守備した大鳥圭介等会幕軍は破れ、十六橋は奪われて戸ノ口原の迎撃も効なく、遂に新政府軍の城下進入を許す
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奥羽の巻(第二巻)/会津包囲総攻撃
【コマ 387】
(四)会津の戦
 前述するが如く、会津の防備は、その主力を日光口及び越後口に注ぎたるものにして、東方二本松口は要路の嶮を恃むて、大に油断したる也。石莚の嶮、戸ノ口十六橋、此等は東方の嶮難中の嶮難なりけるが、元来戦術の巧拙は、一に敵の虚を衝くと否とにあるとかや。二本松西軍が会津東方の虚を衝くに至りしは、確かにその軌を踏みたるものとす。果たして油断せる東方の防備、俄然瓦解の敗報の若松に達したる時は如何、一藩鼎沸、殆んど為す所を知らずと云ふも過言に非ず。急報は早馬を以て、その日光口及び越後口とに通報したるなり。
 石莚の嶮を踏破したる東山道西軍は、猪苗代駅に宿営する間に、その薩軍の一隊は河村純義に率ゐられ、早くも十六橋を保全するに至りて、こヽに進撃の途は開け、本軍は翌二十二日を以て、一呼して若松城下にと押し寄せたり。然れば、敗報に愕然たる会津藩、よしや東北唯一の強藩とは雖も、国境防備に精鋭を挙げたることヽて、城内に居残る者としては、留止居役の老人共の玄武隊及び白虎隊の二番隊のみ、実に空虚の有様となりて、天下の大軍に抗せんは、余りに大膽過ぎるなり。さは云ふものヽ、國歩艱難恩域危態となりて、主君の安危の分るヽ所、最早之を防ぐの大兵在らざる限りは、居残る者のみを以て、城内尚兵に堪ゆる者は、皆挙げて防禦の任に就かさヾるを得ず。藩主松平容保、自から戦陣に起つて、白虎隊二番隊を率ゐて、戸ノ口原に
【コマ 388】
野戦す。されど十六橋は奪はれ、大軍の押し寄する所、最早衆寡敵せず、鏖戦(おうせん)苦闘尚死守して防げども、此時西軍の別軍は、既に/\滝沢峠を乗り越し先鋒は早くも城に逼るに至りて、百戦みな利あらず、敗れに破れて夜も明かし。天、二十三日の暁を報じて大雨襲来、会軍唯一の武器たる火縄銃は、最早役に立たず。城外雨路の戦陣、嵐は起り、風は来りて、大雨風篠を突く如く、白虎隊、饗導役荘田保鉄等に率ゐられて、勇往邁進能く奮戦せしも、山頂に陣する西軍の猛撃に殪れて、全軍殆んど亡びむとす。戸ノ口原の野戦以来、或は生捕となり、惨殺となり、討死となりて、残るは僅かに十九人、遁れ/\て絶谷を越え、嶮難を排して、漸く一箕村飯盛山に至れば、時既に身心疲れ、刀折れ、飢餓に迫るの苦境にあり。遥かに城を望めば、黒煙曚々天に漲りて、主君の安危も知る由なし。顧れば滝沢峠は西軍の陣する所となりて、白虎隊の命路や茲に絶え、嗚呼、我事終ると。進退谷まりて悲嘆の声々涙多く、こヽに十有七士は、みな屠腹して憤死す。
 藩主松平容保、弟桑名侯松平定敬と共に陣中に駆驅し、滝沢村に勝敗を決せむと。孤兵を以て固守しけるが、折しも滝沢峠の山頂には、東山道軍参謀板垣退助石に腰して、・・・
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
戸ノ口原古戦場跡(2015.05/04)



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2016.03/14(MON)

幕府軍艦「回天」始末




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幕府軍艦「回天」始末
 諸藩;1993年12月10日
 著者;吉村昭
 発行;文春文庫
目次
 幕府軍艦「回天」始末   7
 牛           167
 あとがき        195
 解説 大河内昭爾    199
     *
--以下、カバー裏面から--
明治二年三月二十五日の夜明け、宮古湾に停泊している新政府軍の艦隊を旧幕府軍の軍艦「回天」が襲った--。箱館に立てこもった榎本武揚たちは、次第に追い詰められてゆく状況を打開しようと、大胆な奇襲に賭けたのであった。歴史に秘められた事実を掘り起こし充実した筆致で描いた会心の長編歴史小説
解説・大河内昭爾
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南部宮古湾の凶変 1/2(2016.03/06)
南部宮古湾の凶変 2/2(2016.03/07)



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2016.03/07(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)
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蝦夷の巻(第三巻)
【コマ 438】
南部宮古湾の凶変 2/2
 夫れ回天は単身一個、西軍根拠地に深入するは何事ぞ、飛んで火に入る夏の虫、それ何事をか為さむとする、既に大膽とは云はむか、或は拙劣と駄評を進呈せむか。然れども事茲に至る。然らば如何にして、軍艦其ものを奪取するの目算なりしか、願くば手段方法に付きて、詳細なる説明を承り度き感なきに非ず。其の大膽なりし気勢も、今は息も絶え/\、遁れ/\て海洋の茫中に難を救ひ、斯く北国指して遁走する、その後姿こそ見たきものなりき さは云ふものヽ、蝦夷海軍が艦体を動かすに、進止の運用手足の如く、巧妙なる見るべきなり。回天も遁れ来りて南部八戸鮫浦沖に到るや、折しも先日の暴風に押し流されし蟠龍艦は、此所に漂泊して回天を案じ居るもの。今や回天の戦報を聞くに及んで、唯だ残念と大□して、北行に決す。二十七日に至りて、漸く函館港に入津するを得たり。依て敗報を五稜郭に送る。
 然るにその二番回天の事たる、漂流後漸く損傷を修理して、北航の途にありけるが。折しも回天を尾撃して、帰途に就く西軍艦隊と、沖合に遭遇したりけり。砲戦激闘、衆寡敵せず、二番回天も進退谷まり、汽力を強めて勇往邁進、弾丸費ひ尽して、南部領野田郡尾元村海岸に遁れ来れば。後背は既に西軍艦隊の肉迫する所、波を蹴って益々砲撃す。茲に於て、最早為す可らざるを知りて、隊士を悉く上陸せしめ、火を発して破船したり。依て上陸の蝦夷軍は往いて盛岡藩に降を乞ふ。憐なるかな蝦夷艦隊、甲鉄奪取に大勝を目
【コマ 439】
算して、昇天の気を吐きし過去は、却て二番回天を亡失するに至る。回天艦長甲賀源吉、軍艦役矢作平三郎等討死し、新撰組長相馬主計、神木隊長酒井良佐、教師ニコール等負傷したり。西軍死傷は戊辰艦を以て、東京に送りしと云ふ。
end
( 1/2へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/06(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)
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蝦夷の巻(第三巻)
【コマ 436】
南部宮古湾の凶変 1/2
 往来繁き函館の十字街頭には、蝦夷征伐の通告書點付せられしかば、市民の恐怖こそ、如何ばかりなりけむ。或は難を山奥に避くる者あり。店頭を閉鎖して青森に走るあり。海岸人事の来往愈騒然となるや。航海の漁船は飛報を齎(もた)らして、西軍大勢宮古湾停泊を報ず。蓋し南部藩士情報すと云ふ。
 布設道路に伝え、耳語相接して、情報は五稜郭に達したり。依て作戦の軍議あり。榎本総督、席上揚言して曰く。『賊所領の軍艦中、その甲鉄艦なるものは、米国最近の製造に係り、外面全部鋼鉄を以て覆はれ、如何なる弾丸と雖も、是を貫くこと能はず、如斯もの敵の手にありて、自由に出動せられては我軍危険此上も無し。されどその甲鉄以外の軍艦に於ては、幾十あるも恐るヽに足らず、然らば彼が出動以前に於て是を略取し、函館の海に備へ置かむや』と。海王たる榎本、有繫(さすが)は鋼鉄製の軍艦には恐れたりけり。茲に於て
【コマ 437】
鋼鉄艦掠奪の武装は一決して、海軍奉行荒井郁之助、宮古湾襲撃の総指揮官となり、陸軍奉行土方歳三及び甲賀源吉(船将)は、即ち相馬主計、野村利三郎の陸軍添役及び教師ニコールを随ひて、回天艦上に乗り移れり。小笠原賢三(船将)及び教師コルラーシは二番回天に乗り、松岡磐吉(船将)及び教師カラトーは蟠龍艦に乗り、彰義、士官、神木、新撰、陸軍の諸隊を督して、威風堂々宮古湾に向はむとす。
 東海の空も灰色を呈して、天、暁を報ずれば三月二十日、蝦夷艦隊は回天より発する号砲を合図に、愈函館湾を抜錨したり。諸艦、黒煙朦々天を焦しつヽ、函館山を左にして、海波を蹴って南進する程に、やがて沖合遠く航するや、風は起り、雨来りて、颱風雨の襲来となれり。天地暗々進むに暴風あり、退くに山為す怒涛あり、逆波奔流の海原に在りて、進退愈窮りて船は傾き、大浪甲板を洗ふ。諸艦は徐々として浪の走るに乗ずるも、何ぞ夫れ臆面むなき軍艦奪取の妄計に付き、海霊の咎むる所には非ざるなきか。諸艦見る/\艦列破れ、流れのまヽに行衛は失せて、意気消沈今や詮なきなり。逆浪に迷ふ海洋の孤艦、たヾ一雙の回天のみ、所期の動作を貫かむと、尚も南進しつヽ漂ふ程に、かくて二十五日に至りて、昨日の大風止む。依て回天は単躯の航行途中の襲来を恐れ、その避難策として米国軍艦旗を檣高く飜しつヽ意気揚々宮古湾に至れば。港内には疑ふべくもなく、八雙の軍艦幷に英米の船は停泊しあり。何分欧米と申せば、一段の尊敬を払う當時の趨勢とて、奇計大に効ありて、その蝦夷回天の雄姿を見るや、早くも軍艦旗に迷はされて米艦と信せしも當然なり。俄然停泊の諸艦は、艦烈を整ひて四面静粛の間に、一隻の汽船は出でヽ水先を案内するに至る。
 回天の得意満々推して知るべし。されば鳴りを殺して唯一直線、目的とする甲鉄艦の側面に突進す。回天、やがて甲鉄艦の舷側に至れば、時こそ良けれと云はぬばかりに、直ちに米国旗を日章旗に換へて、霹靂一声奪取の準備を成せば、四方その意外に膽も潰ひ去らんとす。西軍、隊士の多くは上陸して、酒色に意を充たし、俄かの砲声に狼狽し、盃を捨てヽ急ぎ帰艦すると云ふ始末。此間に於て、西軍八隻の軍艦は、俄然として出動し、而して猛烈な
【コマ 438】
る砲撃を行ふ。狭隘なる港内の活劇、進止侭ならぬ所、爆弾の送投手足を以て足るとは是なり。回天、獅々猛虎の勢を以て、接戦する程に、加藤作太郎、笠間金八郎、野村理三郎、大塚良次郎等の抜刀隊は、早くも甲鉄艦内に乱入し。勇往決戦、隊士数十人を殪して、船長室にと闖入すれば。艦長土方堅吉同品川四方一等短銃を取って、力拒大角闘。大塚、遂に殪れて、抜刀隊辟易す。西軍、是を銃撃して、皆殺す。かくて甲鉄艦上の車台付六サンチ砲を始め、軍艦より打出す巨弾は、凄声を発して爆発四方に轟き、甲鉄には機関室破れ、回天は巨弾十数弾の破裂ありて、今や船具飛び、綱切断せられ、隊士の死傷山積して、起ち往生となりたり。西軍艦隊今や八隻の陣列を以て、益々砲撃を加え来りて、さしもの回天も、将に悲鳴を挙ぐるの時は来りぬ。
( 2/2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
南部宮古湾の凶変 2/2(2016.03/07)



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2016.03/02(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/会津包囲総攻撃
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 以下、籠城戦中城内の様子から降伏に至るまで
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奥羽の巻(第二巻)/会津包囲総攻撃
【コマ 394】
(五)會津の籠落
 嗚呼、非絶壮絶、会津若松の籠城戦争や。思ひは八月二十一日、東部の嶮を衝きて、急転直下、二本松口東山道西軍の侵入するに至りて、一藩挙げて是が防備に就く有様なるを以て、素より糧食及び弾薬の持久の途を講ずる寸隙のあるべき筈なく、有り合せのもの、是を以て対陣幾日を知らぬ、城兵の志気を支持せざる可らざる内情こそ悲惨なれ。
 孤城今や、勇闘殊守の籠城や、城兵の辛苦こそ、果たして如何ばかりなりけむ。斯くて九月十五日以後は、糧食の途全く盡き、剰つさい城外の圧迫は、包囲西軍総勢二万人、大砲百余門、巨弾は幾日となく、連日連夜、孤城に雨
【コマ 395】
注す。此間に於て、積屍は日増に地を埋め、万草は血に塗れて、惨風実に悲観なる所にありて、隊士は鏖戦(おうせん)苦闘するなり。分別なき十三四歳の幼年に至るまで、護衛隊を編成して、城門を警護し、或は弾薬を運びて、一死を君難に捧ぐる城中の辛苦。河原町大法寺の僧日海、天守閣に読経三十日。烈婦の憤起又惨。
 されば城内にありては、地下石塁を築きて、藩主容保を居住せしめ、後殿の女奥方は、樓櫓の下に住ひ、莚を畳みて起臥し、諸将の妻子は皆屋下に住して、避難すと雖も、今は食するに、米麦さいも無きのみか、馬を殺し、肉を食ひ尽して、更に革まで煎じ、馬糧の藁を口噛みつヽも、辛き且夕の命脉を保たざる可らざるなり。あはれ之をしも食ひ尽して、今は口にするものとて更に無きに至りぬ。
(略)
【コマ 396】
 九月二十二日、藩主親子は、妙国の梵宇に、蟄居謹慎の身となり、同時に大小の砲器一切押収せられて、城明渡しとなり、翌二十三日を以て、会軍の総ては、猪苗代に引退仰付られ、以て武人の装を解かれしなり。
〔附記〕会津落城は殊の外悲壮なり、畢竟、上下一統一死を君難に報ずと云ふ、武士道の結果に外ならず。藩主容保の身や、巳れ京都守護職を拝命し、専心力注国事に尽□したる當時の事情より推考し、今その落城史を草するに當りて、著者は一種云ふべからざる悲痛の念を呼び起すなり。
・・・
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
徳川義臣傳(松平肥後守)(2014.07/23)
中野竹子(2013.08/13)



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2016.03/01(TUE)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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※ 守山藩陣屋は、JR水郡線「磐城守山駅」の東側 300メートル付近に在ったようだ


※ 守山藩(もりやまはん)
 陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩/水戸藩の御連枝で支藩である/藩庁は守山陣屋である/また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた
--引用・要約;「守山藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.10/16(金)09;13--

 以下、守山藩が列藩同盟を脱し、西軍に下った顛末である
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奥羽の巻(第二巻)/奥州白河口戦史
【コマ 280】
(六)守山藩と白河口の城代
 奥州白河口は二本松藩を首脳として、棚倉、三春、福島、守山、下手渡の六藩、領主の威力を以て武備を張る所、西軍は東山道海陸の全力を注ぎて、此所を突破を謀議するもの、蓋し仙台、米沢、会津の何れを衝くの先決問題とせり。此時に當りて、守山藩主松平大学頭頼升は、白石の列藩同盟より脱して、欵を西軍に通するに至る。今その顛末を概言するに、守山藩は水戸藩の支藩にして、當時十歳の若殿たりし頼之は、水戸烈公二十二男に當り、仙台、南部、会津は共に姻族の間柄にあり。
 初め会津追討問題の白石評定に上るや、列藩一致して是が寛宥赦免の哀願と為りけるも、遂に奥羽同盟して去就を同一軌に取らんとして、こヽに勤皇佐幕の激論生じて方向容易に決し難きに臨み、その守山藩は己れ二万石の分限と雖も、正邪を弁ずるには上下の区別無しとて、家老三浦平八郎は、水戸の家憲に基く純然たる勤皇論を持ち出し、而して是を論難して曰く、数日の
【 281】
論判、帰する所は一ありてニ無し、何時までも左様愚図/\して居ては、小便も相催せる故是にて御免と、断然座を起つて、憚り乍ら大書院の廊下より放尿数丈、一座のものを呆然たらしめし豪のもの、藩主頼升は病辱に在り、若殿頼之まだ十歳の少年、一藩の向背は重臣の預つて力ある所、三浦の所見は遂に藩論と為りて、上下みな勤皇を口にするに至る。
 茲に於て、守山藩は敵地に介在して、所謂勤皇の態度に出でたるを以て、家老三本木鎗三郎、同増子鼎一郎、同遠藤無位の三人は、恰も脱藩人なるかの如き扮装にて、陣中を切り抜いて京都に向ふ。かくて京都二條城に到れば、烏丸侍従より、錦旗一流及び錦肩印(官軍たる表識に錦切れを右の肩に付けたるものヽ由)六十一枚を交附せられ、意気悠々帰国するに至る。
(以下、略)
・・・
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.02/29(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/徳川脱藩浪人
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 以下、大鳥圭介が起草したと云う「檄文」である
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奥羽の巻(第二巻)
【コマ 240】
徳川脱藩浪人
(略)
官賊、奸謀ヲ逞シテ、徳川大君ヲ朝敵ニ陥レ、封土城郭兵器悉グ奪ヒ、臣子ヲ以テ君父ヲ討タシム。決シテ公明正大ノ王政ニ非ス。况ンヤ、今上御幼冲、叡慮ニ出テサル事天下衆人ノ識ル所、必竟、彼等ノ所為ニシテ、朝廷ヲ奉欺所ナリ。
官賊、先日尊攘(尊皇攘夷)ヲ主張シナガラ、今日既ニ皇室ヲ軽侮シ奉リ、朝憲ヲ乱シ、人倫ノ大義ヲ破リ、外夷ニ媚ヲ献スルニ至る。其反覆表裏、売国ノ賊タルコト明カ也。諸藩主、是ヲ諌事スルモノナキノミカ、却ツテ悪ヲ助クルハ抑々何事ソヤ。嗚呼、悲哉。皇国ノ正気泯滅シ、外国ニ併呑セラルヽ期遠カラス。夫レ、大君、一己ノ私ヲ去リ、皇国百万生霊ノ為メニ社稷ヲ惜マス、三百年ノ基業ヲ一朝ニ抛チ、水戸ノ僻邑ニ退隠ス。大君ハ真ニ仁者ト云フヘシ。僕等、譜代恩顧ノ臣トシテ、泣血奉命主家ノ顚覆ヲ救ハス、賊手ニ一矢ヲモ投セス、オメ/\ト脱走スルコト、士道ノ耻辱。先朝孝明天皇及ヒ徳川氏祖神ニ対シ、地下ニ謝スルノ辞ナシ。然ルヲ僕等忍ヒテ命ヲ全フシ、暫ク浮浪ノ徒ト為スルト雖モ、皇国ノ人民タリ。何ソ、売国不義ノ賊ト倶ニ、天ヲ戴クニ忍ヒンヤ。唯々、節ニ死シテ後止マンノミ。待ツヘシ、不日官賊を屠リ、且ツ之ヲ助クル藩主ノ不義ヲ問ハントスルヲ。之レ僕等ノ私ニ非ス。報国盡忠鋤奸ノ義挙タリ。此時ニ當リ、錦旗、天地ニ翩飜スルモ必ス踏躪スヘシ。錦旗、素ヨリ人手ニ成リ。賊手ニ在リテハ賊手ニ動ク、賊旗、何ソ恐ルヽニ足ランヤ。大公、至正志謄義烈。徳川浪士、皇国ノ為メ売国不義ノ賊ヲ誅鋤ス。即チ天兵也。
天兵起ルノ日、兼テ同盟諸藩君臣四方ニ応援協力スヘシ。却ツテ機会ヲ失ヒ、汚名ヲ千歳ノ下ニ残ス勿レ。
依テ激ス。
【コマ 241】
     慶応四年四月     徳川脱藩浪士共

 徳川浪士の檄文、それ右の如し。一読三嘆、何そ猛烈の立論なるぞ。さわ云ふものヽ、これ今日に於ての驚嘆なり。飜つて往時を推回するあらむか、徳川浪人の意中たヽ薩長を憎むのみ。然ればこそ斯る檄文も草し得べけれ。光陰矢の如く戦後将に五十年、今日此所に晒け出す、それ或は趣味あらむ。本書は関東浪人軍の総督将大鳥圭介が、麾下浪士を狩り集めるに當りて、その非凡と才と気焔とに依りて、自ら起草したるものなりと云ふ。圭介、得て大胆不敵の言論を吐く者也。斯る筆鋒を以て麾下を督する限りは、當時の雷同不平浪人たるもの、図に乗らざるを得ざるは勿論、錦旗に対して発砲するも、敢て怪まざりしは、素より其所と云ふべし。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
栃木、福島の戊辰戦争 1/2 (2013.12/01)



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2016.02/26(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/五稜郭の包囲総攻撃
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【コマ 480】
蝦夷の巻(第三巻)五稜郭の包囲総攻撃
(四)五稜郭の瓦解
 西軍出動早くも千代ヶ岡は落ちて、今や五稜郭のみとなりたり。それ此所は鐡将のみの立て篭る所なりと雖も、西軍躍入となりては、最早防戦の策なきに至れり。茲に於て、榎本の命脈は生死与奪の分岐なり。されば迫り来る惨状に、榎本は愈意を決し、郭内奥の一室に在りて、彰義隊改役大塚霍之亟を招き、大に後事を託する切なるものあり。大塚即ち座を起つて将に去らむとするや、俄然榎本は短刀を引き抜いて、屠服せむとするにあり。大塚驚天して衆を呼び、而して是を制す。榎本曰く、予は既に覚悟の処、今や止むる勿れ。今にして巳れを決する、即ち衆命の身代はりなりと。此時に至りて衆駆けつけたり。曰く。それ早計なり、客年以来の奮戦も、今や包囲となり
【コマ 481】
たる以上は、上下一続はみな同じと云ふべし、然らば隊士は死を決せり、何ぞ総督の一命のみに心よしとせんや、我軍一死を義約に殪すには、まづ郭内の弾薬を費ひつくし、然る後ち総挙の肉弾を以て敵陣に斬り入らむ、これ我軍の本懐なりと。茲に於て、榎本意を正し、愈総軍絶滅の血戦を行はむとするあり。
 蝦夷軍臨終の覚悟、存亡を総挙の肉弾戦に捧げて、鐡将の怨恨今将に郭外に迷い出でむとす。時に弁天台場の籠客なりし、蟠龍艦長松岡磐吉新撰組長相馬主計等先導となりて、薩軍参謀田島敬三等の一行は、五稜郭大手門に来りて、総督等に接見を求む。田島曰く、『足下等義を重んじ茲に籠城せらるヽ感ずるに堪へたり、然れども此場に臨みて衆命を損ふこと、恰も無益の殺生を好むに似たり、されば此度の軍功に代へて、是を天朝に奏上し、貴下全軍を援けむ事を希ふ、然らば速かに城明け渡し、寛典の御処置を待つことヽせられよ』と。榎本答ひて曰く、我等同盟の士官は、みな死を決しての籠城なれば、一応衆評を取らむと、而して郭内に入る。郭内の論議今や主戦降順囂々たり。然れども心力交々つきて降に就く、是れ武士の名を汚すべきに非ず、さらば今回の屈辱を忍び、向来天下有事に當りて専心力注、暫くこの垢を呑まむと。士卒咽嗚して降を一決するにあり。茲に於て、榎本、松平は大手門に来つて曰く、『衆みな陣門に降り、速かに天誅を蒙らむ。さらば願くば寛典の御処置を以て、兵卒を助命あられなば、予等が死後の大幸なり』と。蝦夷軍こヽに降る。
 五月十八日は五稜郭の明渡しと為る。全軍総て一千八百共に収められて函館市稱名寺及び實行寺に謹慎す。兵器弾薬すべて、長州軍監前田雅楽是を収む。かくて室蘭守備隊も謹慎となれり。五月二十一日を以て榎本対馬以下五百八十人、津軽藩預りと為り、五百十八人秋田藩に引き渡されて、共に英米船に依り送致せらる。其余は尚函館の寺院に謹慎の身、西軍千余人は是が警護に就く。
 蝦夷総督榎本鎌次郎、副総督松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、函館奉行永井玄蕃頭、陸軍添役相馬主計、蟠龍艦長松岡磐吉の七名
【コマ 482】
は、五月二十五日を以て東京に送らる。
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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