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2016.03/31(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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宇都宮第二次攻防戦要図
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
【コマ 245】
(ニ)宇都宮本道の接戦
 脱軍小山を保ち勢猖獗(しょうけつ)を極む。それ小山は奥洲本道の要衝にして、脱軍此所を略して四方を環視するに於ては、西軍援軍の北進を阻隔すると共に、その常総方面に於ける西軍の消長に関する大なり。かくて宇都宮西軍の変報は益々急なるに至りて、その板橋駅西軍本営に於ては、作戦の謀議密なるものあり。さる程に、徳川陸軍を率ゆる大鳥圭介は、四月十九日の払暁を以て、愈宇都宮を指して北進するに至る。時に西軍は松本、黒羽、根笠間、任生、土岐 岩村、田須坂、彦根、大垣、宇都宮の諸軍を以て、宇都宮を守るべく、南方里余の要害に據りて、戦備を厳にして脱軍を待つ。果たせるかな、大鳥圭介土方歳三等は、兵を分ちて驀進し来る。西軍烈戦奮闘して防けとも、軍装常に甲冑を附け、進止誠に遅鈍にして、稍々もすれば脱軍の陣後に落つ。然れども陣を固守して、最後まで防戦せんとす。脱軍の突撃いよ/\猛烈となるに至りて、西軍も遂に防ぐ能はず、茲に於て、兵を収めて宇都宮本城に據れり。一勝に乗ぜる脱軍の猛威尚も本道を猛撃する外に、更に別軍を鹿沼より注ぎて、宇都宮に向ふ。かくて本道の脱軍は早くも駅邑に迫り、巨弾を連発して大に是を撃つ。西軍力闘百砲を以て防ぎけるが、折しも近郷に潜伏せる諸国の浪人、四方より群がり蜂起し、各々隊を編みて脱軍の勢を援けて猖獗を極む。彼我の砲声四方に湧き、戦闘愈猛烈となりて西軍は苦戦にあり。忽ちにして鹿沼の脱軍別隊は、急転直下に西軍後背より攻め上り、脱軍勇猛突進四方に起り、濠を越し、石垣を踏破し、城門を蹴つて猛然たり。西軍殊守遂に敵せず、土崩瓦解となりて、宇都宮は脱軍に屠られ、藩主は館林に走れり
【コマ 246】
 小山の脱軍頑強にして、攻防の砲戦昼夜に亘るも勝敗決せず。四月二十二日となりて、脱軍南進の報あり。茲に於て、西軍には宇都宮攻城戦を張らんとす。脱軍、其計謀を察知し、城を去る一里の要害に進み、更に別軍を伏して待つ。果たして西軍の進撃は起れども、両軍敢死奮闘陣を固守して相譲らず、激闘惨を極めて亘に勝敗あり。かくて薩洲、長洲、黒羽の諸軍は安塚を攻めけるが、此所は何ぞ大鳥圭介が自ら守る所にして、防戦の巧妙西軍を渦巻き、砲銃弾の運用奇効を奏して、西軍の死傷は山と積みたり。此時に當りて、脱軍の別隊は、土方歳三に率ゐられて、薩洲、大垣、因州の陣に迫りて突如として後背より襲撃すれば、西軍大敗殆んと計を失ふに至る。適々薩州 長州、大垣の諸軍は下館を発し、雀宮より突入する所ありしが、脱軍及び桑名の兵は奇略を以て、その中堅を抜くに及びて、西軍遂に戦守の百計つき、兵を纏めて遠く引く。
 時に小山駅の西軍敗績して、今将に悲鳴を挙ぐるの苦境にあり。脱軍勇猛砲銃弾を注ぎて圧迫厳なり。依て下館突破の西軍は援を送りて、その四月二十四日を以て、脱軍の後背より攻め入らしむれば、小山の西軍再び復活し、両道呼応して大に戦ふ。攻防烈戦百砲轟々として天地を震動す。此間に於て、西軍は鬨を挙げて突進す。血戦数合遂に是を抜き尾撃して北進す。
 四月二十五日、下館の西軍は宇都宮に達す。茲に於て、西軍は大呼して再び宇都宮を攻む。それ脱軍の総督将大鳥圭介は軍略あり。脱軍隊士その多くは仏国式陸戦術の練兵にして、精鋭到る所西軍を悩ます掌中にあり、今や宇都宮の要害に據り、四方の関門を扼して厳備す。西軍、兵を進めて宇都宮を攻むれば。脱軍殊守防戦頗る巧妙を極め、西軍の作戦、脱軍の右を衝かば、忽ち左を破りて後背より襲来し、中央を攻むれば左右を突破して挟撃の陣を張り、作戦の巧妙愈神秘の極なり。更に脱軍の精鋭は桑名、幕府七連隊の諸軍を主力として、その神明、八幡の険に據り、援を城下に送りて、西軍の部署を襲うこと屢々。龍争虎撃、弾丸雨注となりて、西軍の鏖戦(おうせん)今や死傷山と積み、苦戦の陣に隊士の疲労大なるを望み見て、脱軍は鬨を挙げて突進す。長軍敗れ、黒軍崩れ、垣軍走りて、西軍の陣営、風静かなり。かくて小山突
【コマ 247】
破の西軍は漸く味方の敗陣に駈け付けて、勢を盛し返し、大呼豨突して宇都宮を反撃す。脱軍堅守百砲を発して是を迎え戦ふ。攻防の砲戦四方に起り、万山呼動して天地裂けむとす。脱軍益々弾を込め必死の頑守は西軍をして攻城の策を失はしむ。此時に當りて、因州参謀河田佐久間(馬)、西軍の敗勢益々甚だしく、隊士また志気沮喪して、戦ふ能はざるを望み見て、馬を躍らせ、弾丸飛行の戦線に起ちて憤激止ます、部下を叱咤して曰く、浪々たる流賊の為め多く兵士を失ふは残念なり、今にして是を破らされば、夜間の接戦益々危険なり、然らば日に未だ没せざるに及びて、城を抜かむ、それ我れに続えて進めと。猛然として外郭に迫る。脱軍是を防ぐに石垣の上にあり。忽にして西軍の打ち出す巨弾は城門を破る、河田、即ち猛進して死傷過多、然れども尚屈せす、益々突進を令して、隊士を激督す。須臾にして垣軍来る、茲に於て、河田は一呼して内郭に突進す。脱軍勇往左右の堅塁より銃を発して戦ふ徳川軍監吉村要人介、抜刀隊を率ゐて河田に肉迫。血戦激闘死傷を踏んで戦ひけるが、吉村遂に敗れて退却す。河田、一勝に乗じて城塁の一角を抜く。凱歌、砲声の間より漏れて、ほのかに外郭に聞ゆ。爾余の西軍之を望み見て鬨を挙げて躍入す。脱軍混乱遂に敗れて四方に潰走し、時既に日は暮れたり 依て西軍は一呼して神明、八幡の両陣に迫る、電光石火、両軍の戦闘猛烈を極めて、脱軍遂に守る能はず、土崩瓦解となりて、日光口に走る。
 西軍は宇都宮を略取して、主力は此所に宿陣す。而して薩州、長州、大垣の諸軍は、奥州白河口偵察を兼ね、西軍先鋒として、国境に向ふべく夜間を行軍するなり。依て宇都宮本軍に於ける、軍議を見るに、明日の白河攻撃につきては、長州、大垣、黒羽、館林の諸軍は南旗宿を攻め、然る後その大垣 黒羽、館林の諸軍は、南湖を廻りて、棚倉街道に進み、薩州、長州、大垣の諸軍は本道より攻む。而して土州、彦根、因州、筑州の諸軍は白坂駅を左折し、黒川村より原方口を攻むるにあり。依て午後四時を総撃の期とし、間道の西軍が、白川(河)後背に至りて、火の手を挙ぐるを以て合図とす。
〈附記〉西軍先鋒は直ちに白河口に接戦し、宇都宮の本軍も翌日白河に進みたり。然るに未だ白河口を抜く能はず、茲に於て、五月十一日を以て、増兵、器具、
【コマ 248】
弾薬を請求するが為め、村田三介は東京に発足し、十二日本営大手門前なる酒井侯の舊藩邸に於て、西郷隆盛と会見、十三日総指揮官大村益次郎に協議し、白河口の内情を報告する所ありけるが、大村は頑として是を排斥したり。西郷は参謀世良に依りて、奥羽の実情を知悉するもの。依て白河口の厳備を説き、益々援の急なるを迫る。茲に於て、彰義隊征伐の議一決し、十四日大総督の裁可あり、即ち彰義隊環視の西軍を送るに至る。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

村田三介 1845-1877
 明治時代の軍人/明治六年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる/明治十年三月十一日戦死/享年三十三歳



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2016.03/30(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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2016.03/29
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 慶応四年(1868)五月十五日、上野戦争
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 3
( 2から続く)
【コマ 252】
 さる程に、南門口の戦闘は愈猛烈となりて、山王台の彰軍の猛弾を発する百雷も啻ならず、巨弾益々飛び走つて西軍の中堅を破るに至る。西軍更に精鋭を是に注ぎて攻むれども、彰軍の殊守堅くして南門は容易に抜く能はず、激闘惨を極めて、西軍尚苦戦にあり。時に津軍は大城の外郭なる筋違見附に現はれ広小路を横断して、山下の南辺に逼る。然るに津軍の陣形は、恰も彰軍が南門の横背陣を保つにありければ、彰軍の狼狽一方ならず、為めに志気大に咀喪して部署に動揺起る。西軍是を遠きに望み見て勇を鼓舞し、奮撃突戦、捲土重来して、アワヤ石垣を踏み越さむとす。されば山王台の砲陣に於ては、撒弾を込めて四方を防ぎ、銃手を送りて津軍を撃たしむ。茲に於て、津軍は半ば殪れ、広小路の西軍死傷山と積みたり。連続する激闘に彰軍の南門陣も、弾将に尽きむとして、疲労は更なり。此状況を窺ひたる西軍の参謀西郷隆盛、命令一下総勢を南門口に注ぎ、大呼豨突して疾風迅雷も啻ならず
鹿軍先鋒早くも石垣を踰え、熊本、鳥取の諸軍士堤を蹴破り、岡山、佐賀、尾張の諸軍猛進して、遂に南門を抜き、尚も進みて新黒門に迫る。此時に當りて、谷中門は崩れ、下寺口も敗れて、砲声轟々天を衝き、飛弾四方に交叉して部署は崩れ、硝煙瞑朦上野の山を包みて、隊士の混戦千軍万馬の走駆となりたり。
 熊本、鳥取の諸軍早くも穴稲荷門に裏切るあり。酒井良介、全軍を率ゐて敢死奮闘、遂に敗れて新黒門に到れば、彰義隊准隊長天野八郎等今や西軍の中に乱入して、血戦悲惨なり。その山王台は爆弾を取交はして既に血戦あり。忽ちにして谷中門の西軍は押し来る。渋沢隊長、春日准隊長等敗れに破れて、にげ来るあり。遊撃隊長人見勝太郎、副長伊庭八郎、川村准隊長等また下寺の苦戦に逃げ来る。菅村准隊長等天野八郎と共に新黒門に敗れ、両軍の混戦今や路上となく、林中となく、上野の山を埋めて龍争虎闘、激闘惨を極めて両軍の死傷其数を知らず、隊士鮮血淋漓屍を踏んで、勇往邁進、槍手
【コマ 253】
は進み、抜刀隊は鬨を挙げて発し、銃手は進み或は退きつ、今や屍山血河の戦場となりて、惨また惨を極む。かくて西軍の大勢は廟廓の近辺に群がり、凱歌を挙げて百砲を乱発す。砲弾爆発四方に起り、忽ち廟堂を破壊して火の手を援け、今や中堂、法華堂を始めとし、金殿玉樓は焔烟渦巻きて地を焦し黒煙天に漲り満目悽惨なり。隊士の混戦此間に行はれ、或は自刃するあり、刺しちかいするあり、猛火の中に躍り入るあり。上野の血戦惨風血生ま嗅き間に、輪王堂宮公現法親王は、万苦の中に宮殿を御遁れ給ひ、漸く根岸に忍ばれて、三河島村にと落ちさせ給ふ。夜もすから戸田川の渡りは舟止と為りて、難苦の中に辛ふして、うち越えさせ給ふ御身の上や、黒きすみ染めの法衣をまとい、御足には草鞋を付けさせられ、蓑と笠とに御身をやつして、息も絶え/\疲れに疲れて、僧に援けられつヽ、絲より細き五月雨の、ひねもず降る草野の旅路に、落武者の群に入らせられ、道を探りて奥羽に御下向の先途も憐れなりけり。

〈附記〉上野彰義隊及び援軍中には、追討の命も今日明日には降るまじと、大に油断し、就中、援軍中には竊かに寓居を訪れしもの、或は今や帰陣せむとするもの多々ありて、みな急転直下の戦争に腰を抜かし、帰陣することを止めたるを以て、実戦に當りしは、約盟の彰義隊と援軍の半数なりと云ふ
 輪王寺宮には会津御降下の御予定なり。然れども日光、宇都宮、白河口は西軍の屯営もなりて今や途なく、依て常陸海岸に御避難あらせらる。
 東叡山は徳川二代将軍秀忠の治世に於て、大胆不敵横暴老獪と云ふへき、天海と云ふ坊主、家康死後、家康の遺訓を振り廻し、大に勢力を得たるに図に乗りて、第一に己れ老体川越より伺候は骨が折れるを以て、江戸の片隅を拝領して草庵を営みたしと、小さく申し出たるに始まりて、第二に上野の山を手にし、第三に此所は江戸城の鬼門地なるを以て、平安朝の比叡山を楯として、東照宮を勧請し江戸鎮護の霊場たらしめ、第四に後水尾天皇の第二皇子今宮を迎えて親王門跡と為し、暫くして将軍の全力を注がしめたる霊臺なるを以て、幾多の歳月と、幾億万の土木費を□耗したるかは更なり。その徳川大将軍たる権威を以て諸侯の心血を傾倒したる造営に係り、大に国宝として保存すべき建造物なるは勿論なり。その常行燈は尾張義直、法華堂は紀伊頼宜、輪蔵は水戸頼房、文殊堂は堀直寄、石の鳥居は酒井忠世、鐘樓は土井利勝、三王門は永井尚政と何れも天下の美を尽せるもの。西軍隊士は見當り次第、手當り次第、無暗に破壊するに於ては、山僧たるもの、欲と恨みの経文を上ぐるも當然なり。
【コマ 254】
 彰義隊突破の西軍は是より主力を奥羽平潟口に注ぎ、その白河口には精鋭を送るなり。而して東叡山の敗士は、品川沖に在りし徳川海軍に吸収せられ、後ちに雲を起す榎本武揚に投するなり。
end
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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 慶応四年(1868)五月十五日、上野戦争
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 2
( 1から続く)
【コマ 250】
 その谷中門に於ては、天王寺、養福寺、浄光寺等に各砲陣を取り、彰義、歩兵、旭、万字、松石の諸隊を以て、一手の防備に就き、更に精鋭を送りて根津権現堂の境内に、前衝陣を張らしむるにあり。果たせるかな、萩、岡山の諸軍は本郷路を進撃して、東叡山の西北なる根津より迫らむとす。彰軍の前衛は是を防ぐに、霹靂天を衝きて銃を発す。西軍狼狽殆んど戦守に苦しみ百歩を退きて、撒兵して相争ふ。忽ちにして、萩軍は躍進して迫る。彰軍殊守血戦尚衆寡敵せず、退きて三崎町の要路を保つや、一勝に乗ずる萩、岡山の諸軍、勇猛大呼して是を抜き、捲土重来の勢を以て攻め寄せたり。彰軍谷中の本陣は高きに在り。敢死奮闘大小の砲を乱射して、防戦尤も努む。折しも昨日今日の五月雨に、天地今や雨露となりて、小川の水は濁々として四方に溢れ、茲に於て、西軍は進むも退くも水理を辨ぜず、浅瀬を探りて隊士混
【コマ 251】
沌す。彰軍、遥かに是を望みて、虚を衝くこと猛烈を極め、弾丸雨注して西軍を殪すこと、其数を知らず、烈戦苦闘萩軍崩れ、岡軍また悲鳴を挙げむとして、三崎口を固守す。南口の西軍は、是を望み見て憤激止まず、忽ち大村、佐土原、佐賀の諸軍を進めて是を援けしむ。彰軍、是を阻碍するに猛弾を発し、両軍奮激突戦紅白を辨ぜず、諸軍は必死を期して攻め戦ふ。然れども高きに在りし彰軍の猛撃陣には、三崎口援護の西軍も、最早堪ゆる能はざるに至りて、土崩瓦解となりて、根津方面に敗潰す。彰軍、鬨を挙げて是を尾撃すること急転直下、彰義隊は渋沢誠一郎是を督し、歩兵、万字の諸隊は、准隊長春日左衛門に率ゐられ、遂に根津の坂下に到れば、折りしも西軍の発したる伏兵は、あなたの竹薮の中より突如として現はれ、弾丸雨注して、彰軍の不意を衝くに至る。彰軍狼狽最早防ぐ能はず、土崩瓦解となりて谷中に兵を引く。此時に當りて、三崎口に苦闘したる萩、岡山の諸軍は、其虚に乗じて、万難を排して不忍池畔に走り、忽ち隊士を小舟に移し、発砲しつヽ中島に航き付けて、急転直下穴稲荷門に逼る。茲に於て、神木隊長酒井良介は、浩気隊と力を合せ、中島の西軍を砲撃すること猛烈なり。
 彰軍下寺通三門に於ては、彰義、遊撃、純忠、精忠の諸隊下寺等に陣を固め、而して山の外なる啓運寺、養玉寺を保ちて、大に殊守決戦を待つにあり 果たせるかな鹿児島、岡山、徳島、津、彦根、新発田の諸軍大呼豨突して啓運寺口に現はる。茲に於て、啓運寺及び養玉院にありし彰軍の砲陣は、轟然として巨弾を連発して防ぎ戦ふ。西軍頑守百砲を発して益々攻め来る。西軍の戦闘硝煙陣を覆ふて人色を辨ぜず、砲丸飛交して隊士の死傷悲惨たり。此間に於て、岡山、徳山の諸軍は大呼して猛進し来る。彰義隊准隊長川村敬三遊撃隊長人見勝太郎及び副隊長伊庭八郎等進み出でヽ是を迎ひ撃つ。激闘数合遂に血戦陣中に斬りまくり、その逃ぐるを追つて進撃しけるが。新発田、彦根、鹿児島の諸軍は猛然来り是を撃ち、茲に両軍は殊守決戦頑強勇邁、此間砲撃は天地に轟き渡り、龍争虎撃、両軍の力闘益々惨を極む。折しも遊撃隊副長伊庭八郎、抜刀隊を率ゐて鬨を挙げて突進す。爾余の諸隊意気大に振ひ、新発田の陣を崩して攻め入りしかば、西軍遂に守る能はず、陣を乱して
【コマ 252】
御徒町にと敗績したり。さる程に、西軍の精鋭は来つて、御徒町の敗軍を盛り返し、彰軍の疲労を衝いて躍動す。疾風迅雷當る可らず、彰軍辟易して再び逃げ戻り、銃砲を乱発して必死の防戦愈酣となれり。
( 3へ続く)
( 1に戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/29(TUE)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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2016.03/29
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 慶応四年(1868)五月十五日を以て、新政府軍は彰義隊追討の大命を降す(上野戦争)
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【コマ 248】
奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 1
 江戸旗本の血盟國、宗家の安否を哀願すれとも、遂に聴き容れられざるに至りて、俄然として其態度を一変し、大同団結して薩長に抗し、以て徳川の屈辱を晴らさざれば止まず。薩長を論難するもの、既に常総に関東に崛起し北陸東山共に兵馬の馳駆する所とはなりて、上野東叡山に籠れる三千の旗本は、こヽに彰義の一戦を交へて、一命を宗家に捧けんと、陣容堂々として、隊旗を北風に飜す。されば徳川旗本の義挙を望み見たる親藩恩顧譜代の諸藩は、竊かに是が声援する所とはなりて、援軍伍々として来り会するに至れり。而して列藩より送れる援軍には、遊撃、歩兵、猶興、純忠、精忠、貫義、旭臥龍、神木、松石、万字、馬勝、浩義、白虎、水心の十五隊其数千五百人、血盟団と相俟つて、江戸市中に横行する様眼前敵無きが如し。されば江戸市中の物論は俄然鼎沸し、洛中の騒動殺気満々として、方今の形勢いよ/\不穏を極めたり。依て追討大総督府に於ては、頻りに解散命令を降して、大に市中の平事を計りけるが。その血盟団に於けるや、一度は主家徳川の安危の定まるまてと答へて之を拒み、二度には宗家の廟堂を離るヽに忍びざる旨を答へて応ぜず、三度には歴代の書冊、記録、寳器等を保護せざる可らずとて命に服せず、かくして幾度の命にも従ふの様子も無く、有繫(さすが)の御大将たりし慶喜も、彰義隊の旗色を望み見て、今や専心力注の謹慎蟄居の状も、却つて人心の疑惑を買ふべきを悟りて、切々妄挙を抑制しつヽ、嘆声を漏らせしも憐れなりき。去る程に、江戸城明渡の期日も来り、同時に江戸退去の時期と為るに至りて、慶喜も今や詮なく、麾下の末路に、深き遺憾を残して、身は御一門の封地なる水戸表にと遁れ行きたり。されば大総督府に於ては、彰義
【コマ 249】
団の輩にして斯の言を左右に托すの所以は、夫れ或は輪王寺宮の在る故なるを察して、法親王をして京都還行を勧むる所ありき。然れども當山の執當覚院と云ふ坊主、頑として容れず。かくて総督府の命令頻発するを見て、隊士は皆戦闘の免れ難きを語り合ひつヽ、東叡山は日々に戦守の陣を固め、隊士は剣を磨き、腕を撫して大道狭しと云はむばかりの活歩、偶々市中に西軍隊士を見るや、或は罵倒し、或は殺害して益々暴威を逞ふするに至る。時適々大総督府に在りては、諸道の援軍急なるに至りて、彰義隊の監視を絶たざる可らざる事情起る。茲に於て、五月十五日を以て、愈彰義隊追討の大命を降し、以て諸軍の向ふ所を定む。
 五月十四日夕暮に及んで、追討の大命は東叡山に降る。されば彰義隊に於ては、一山の周囲は戦備を尽すと雖も、攻防の対戦に臨みては、尚外柵の要を認め、依て之を市民に徴するや。市民は彰義隊の身の上に深く同情し、競ふて金穀木材類を搬出して応援するあり。外柵の固めも今は成りて、臼砲、四斤砲等を始め巨砲を据え付くる至りて、附近の町人老幼一切をして、兵火の間暫く避難を布令す。月、朧ろにして、南風吹きそよく十四日の夜は、市民避難の騒動引きも切らず。此間に於て、東叡山の各部隊は皆部署に就きて、弾を込めて守り明かせば、五月十五日、天、漸く暁を報ず。暁風は細雨を齎して、天地粛々、砲声遥かに大城に起れば、鹿児島、萩、佐賀、岡山、鳥取、熊本、徳島、柳川、砂土原、津、彦根、新発田の諸軍、部署を四方に取りて、押し寄すること、捲土重来も啻(ただ)ならず。
 鹿児島、熊本の諸軍、逸早くも上野広小路に現はれ、大小の砲を聞きて、東叡山南門に突進す。更に岡山、佐賀、尾張の諸軍は、富山、水戸の二藩邸より迂回してまた南門を攻む。それ南門は東叡山の咽喉を為す要害の地、此所を守るは、血盟の彰義隊を始め万字、神木、浩気の諸隊を以てし、而して南門より穴稲荷門に亘りて戦守を張る。砲弾爆発天地を破り、彼我の硝煙陣を覆ふて四顧瞑朦、此間飛丸は往行して隊士の殪るるもの数を知らず。然れども彰軍の陣は高きに在りて、常に俯瞰に地位を保ち、接戦益々猛烈を極むるも、防戦奇効を奏し、更に歩兵隊の来つて、射撃を援護するに至りて、西
【コマ 250】
軍今や進むに途なし。依て広小路に巨砲を配置し、猛烈なる砲撃を以て対峙す、此時に當りて、その鳥軍は、湯島台なる天神の別邸に在り。遥かに南門の味方敗勢を見て、忽ち火を放つて四方の民舎を焼き、黒煙地に靡きて四顧溟朦なるに乗じ、中町の裏に進みて、不忍池の地畔に現はれ来る。彰軍、遥かに杉森の中より是を望み、巨弾を込めて俯してその到るを待つ。忽然起る彰軍を砲声猛弾連続して鳥軍の陣を砕く。鳥軍、愕然其為す所を知らず、死傷を捨てヽ広小路に走れり。茲に於て、南門口の西軍は大呼□突して、砲を発して躍動す。彰軍山王台の砲陣は今や百弾を送りて、四方を撃つ。南門の彰軍益々勇を鼓舞し、大に西軍撒兵の陣に弾丸を雨注す。砲声天地を衝き硝煙漲りて人色を辨ぜず、戦闘激烈となりて互に死傷あり。山王台の巨門益々猛烈となりて、西軍進む能はず、百歩を退きて是を防ぐ。時しも津軍は竹町の方面より進み来つて、山下に逼り、酒樓に登りて座敷の中に兵を配り、簾の中より銃口を並列して、山王台を狙つて、一斉に弾丸を雨注す。彰軍堅□撒弾を込めて大に津軍を攻む。山王の彰軍より打ち出す巨弾は、轟然天空に鳴り、悽声を発して酒樓に命中すること数発、爆裂飛び揚りて火災起り、焔裀矇々渦き起りて、満目凄惨たり。津軍、最早戦ふ能はず、隊士混乱して、煙りの中より漸く身を以て遁る。
 その谷中門に・・・
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
上野東叡山旗本の血盟(2016.03/27)



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2016.03/27(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)
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 慶応四年(1868)二月二十三日、彰義隊結成さる
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【コマ 191】
奥羽の巻(第ニ巻)
上野東叡山旗本の血盟
 夫れ、江戸城を北にして上野の丘あり。寛永三年こヽに東叡山寛永寺を建立し、以て江戸城の鎮護と為すと共に、徳川永代の廟堂と定めたり。元来本山は、京都比叡山延暦寺に擬へて、川越喜多院の住職天海と云ふ坊主、徳川の開祖家康の死後、家康の遺言を振り廻して、己れを高めむとて、宗門の神厳を保たむとて、徳川天下の崇敬を収めむとて、是を内幕と為して、その表面には、京都方に対する万一の難に備へむと、畏れ多くも、後水尾天皇の第二皇子今宮を迎えて、親王門跡と為したりき。
 されはかヽる由緒深き霊廟なるを以て、その設計は、一に水戸の東照社を
【コマ 192】
模擬したるものにして、その荘厳天下の美を尽し、而して境内広大なる梵地は、黒門を始め七ツの関門構へを以て、是を圍繞し、更に内部には、文珠楼大悲の閣、盧遮那の象、山王祠稲荷、二基の鐘楼、法華堂、多寶堂、法親王の宮殿に至るまで、みな艶麗を極めたり。僧坊凡て三十六人、その四軒寺と下寺に住する十八坊は、東に在り。錦小路、谷中路、奥寺とに住む十八坊は西に在り。而してこの梵刹の地たる、東は高く、北は根岸三河島の田園に続き、西北は根津谷中の村里に連りて、南は不忍池を扼する也。池水溢れて、その落ち往く忍川の流れには、三橋を架して広小路の街路に臨む。
 徳川武士の末路や、慶応戊辰の春尚浅き正月、悲憤慷慨殺気満々たる頃は輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)の、親しく是を管領し給ふ所にして、覚王院、當山の執當となりて、是を司宰する所たり。かくて、大将軍たりし徳川の末路や、十五代二百六十五年を最期に、武門の政権を奉還したる果報は、薩長の手一つにて、徳川慶喜は、今や朝敵の汚名を受け、天地の間に容るヽの地なきに臨みては、皆人の共に想外とする所たり。
 然れは大樹慶喜の身、思ひは鳥羽伏見の苦境を忍びて、漸く江戸に遁れ来るや。江戸の四面は論議上下に熱狂して、宗家の安危も、心もとなかりし徳川麾下旗本の旧武士は、皇室の危態と天下の存亡に、憂苦いよいよ禁じ難く事茲に至りて、同志相語らいつヽ、四谷鮫ケ橋円応寺に会合するあり。こヽにて、同盟嘆願書を草し、以て朝敵の汚名を雪き、併せて君側の奸悪共を郤けて、而して徳川の宗家に対して、その恙なき様にと哀訴する所ありき。時に同座の志士僅かに十有七人。それより二月を暮せは、人目騒がしきに至りければ、居を浅草本願寺に移したり。志士、有為転変の世の中をかこちつヽその成り行きを語り明かせし程に、此挙を聞きて集る者、朝に夕に忽ち五百人に上りければ、茲に於て、志士大同一団結束して、一死を義に捧くと云ふ意味を以て、彰義隊と命名するに至れり。依て徳川の志士、将に是より大に為すあらむと、即ち同志の心を強むるに、左の誓文に署名して、いよ/\硬き血盟に身命を殪さむとす。
【コマ 193】

方今、社稷危急存亡ノ時、臣子盡忠奉国ハ、士道ノ常ニシテ、諸士ノ所仰也。然レトモ、昇平三百年ノ久シキ、志気相弛ミ候ヨリ、盡忠報国ハ、人口ニ膾灸スルノミニシテ、互ニ其実際ヲ見ズ。故ニ、今日ノ形勢ニ至リ候モ、敢テ人ヲ恨ムニ詮ナク、誰カ是ヲ不耻哉。然ラハ、言行不相反、愈身命ヲ抛棄シ、君家ノ御窘辱ヲ一洗シ、反逆ノ薩賊ヲ戮滅シ、上 朝廷ヲ尊奉シ、下万民ヲ安途セシメ、遥カニ神祖ノ聖霊ニ報イ奉ルヘク、有志ノ志ハ、断然一死ヲ天地神明ニ誓ヒ、姓名ヲ此帳ニ記載ヲ仰ク。我等雖不敬、聊カ馳驅ノ労ヲ以テ諸君ノ孤衷ヲ世ニ示サンモノナリ。
          有志血判連書

 漸く盟約成りし頃には、徳川征伐の風潮京師に溢れ、志士群集して、江戸は不穏となれり。依て徳川慶喜も竊かに大城を忍び出て、いよ/\上野東叡山大慈院に蟄居す。されば徳川旗本の彰義隊は、浅草を発して慶喜に随従し今は一千五百人、共に/\上野の丘に據りたり。茲に於て、総軍の編成あり志士勇みて、迫り来る万一の難に、一統連座社稷と共に、殉死を遂けむとは覚悟したる也。彰義隊の統轄左の如し。
     隊長   池田大隈守
     同    渋沢誠一郎
     准隊長  天野八郎
     同    川村敬三
     同    菅沼三五郎
     同    春日左衛門
     頭取   半門五郎
     同    吉田定太郎
     同    本田繁三郎
     同    織田主膳
     軍監   吉村要人介
【コマ 194】
     同    酒井宰輔

 右は彰義血盟団の主脳者也。更に准頭取として、近藤武雄外六名あり。また各隊の頭取として、比留間良八外二十一名あり。此外記録掛組頭として窪田新助外七名あり。会計掛組頭に、田中清三郎外五名あり。器械掛組頭に松崎平三郎あり。
 彰義隊の血盟団、隊士僅かに千五百人と雖も、江戸旗本八幡より抜きすぐりたる豪の者のみ。関東の天地風雲いよ/\急を告けて、一旦有事に処しては、蹶然剣を抜いて、一死を争はむとする者のみ也。宗家の窘辱と討奸の義挙に、尽忠奉国の実を体現して、士道に殪れむのみ。これ実に三河武士の花なり。何ぞ戦勝を期して、余生の栄華を俟つの類ならむや。
 かくて、徳川親藩恩顧の諸藩にては、江戸旗本の義挙を愛して、竊かに援軍を送りて、其数今や千数百人に及へり、輪王寺宮殿下、血盟団に推されて迫り来る禍乱に、陣頭に起たせ給ふ。されば討奸の慨気関八州に靡きて、旭日昇天の慨ありて存する也。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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写真;西軍殉国者墳墓(長寿院)・2014.05/25
慶応戊辰殉国者墳墓・西軍(長寿院) (2014.05/26)

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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 5
( 4から続く)
【コマ 267】
 七月一日、奥羽軍は白河を攻む。大目立武蔵、仙軍を率ゐて阿武隈川を渡り、元天神山に奮戦して遂に是を破り、尚も尾撃して頑強也。而して二軍は立石山の麓に迫り、細谷烏、天神町裏より躍進して、城背なる馬除院を略取し、尚も進みて城を衝くや、西軍百砲の陣は、猛弾を連発して頑守す。細谷烏、百戦遂に抜く能はず、撒弾を浴せ掛けらるヽに至りて、那須原に退却したりけり。七月三日に至れば、軍事局総長坂英力は、仙台中将の名代と為りて、大兵を擁して白河に発足の報あり。奥羽軍是を聞きて凱歌天を衝く。
 七月十五日、軍事総長、いよ/\須賀川に来る。茲に於て、諸軍を会して白河城の総攻を令す。依て諸軍は早くも根田口に迫る。然るに西軍は予め是を探知して、根田に餌兵を止めて、主力を左右に潜伏せしむ。果たせる哉、奥羽軍の大勢は、忽ち根田の餌兵を討落して、大呼して城に向ひけるか、折柄起る西軍の伏兵陣、奥羽軍の背後に現はれて、根田の本道口を喰ひ止めたり。茲に於て、西軍放射の陣容は挟撃に在り。されば切角進み来りし奥羽軍も、鏖戦(おうせん)苦闘遂に敗れに敗れて、鏡沼指して走るに至る。
 奥羽軍、四月二十五日以来の奮戦、七月十五日と為りて、遂に起つ能はず疲兵を纏めて北行に決す。依て此所に白河口総督府を置かる。即ち鷲尾侍従は、白河口東山道西軍総督を命せられ、久我大納言、東北遊撃の督将となりて、白河常宣寺内に行営を置き、板垣退助、伊地知正治等と共に、大に作戦
【コマ 268】
を議するにありき。
[附記] 白河の戦争に於て討死したる西軍隊士は、同所長寿院墓地に埋葬せられたり。而して其氏名年齢出身地に就ては、棚倉町故井上光一氏の遺稿に詳か也。
 白河口総督鷲尾侍従は、八月となりて、所労の為め帰京を命せられ、正親町中将、代つて軍務の総督と為る。
end
( 4へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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写真;↑稲荷山公園に立つ"のぼり旗"、奥羽越列藩同盟の旗印仕様・2014.08/25

 されば細谷烏と十六さヽげ
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 4
( 3から続く)
【コマ 265】
 五月二十九日、西軍、陣容堂々城郭を発し、大呼猪突して是を攻む。攻防の砲戦昼夜に亘り、天地轟々として万山も崩れむとす。六月一日の暁天、薩将前原一誠は、薩軍を率ゐて、坂口を攻め上れば、阿部参謀、不意を喰つて野石村に走れり。坂口の敗戦に諸軍は驚き入りて、脱軍を先鋒として、仙台、福島の諸軍は攻め来る。薩軍頑守して弾丸雨注す。折しも駈け来れる細谷烏の一隊、抜刀して鬨を挙げて突入す。薩軍、細谷烏の奮戦に、今や発銃の逞無し。さる程に、仙脱の諸軍は来りて、遂に前原を撃つて走らす。
 かくて六月七日も暮れたり。時に細谷烏は大和田山に潜み、而して西軍の動静に虎視を張る。折しも銃声一発、天地を震動せしめて、銃丸は富士見山の頂上より来る。細谷烏、是を遠きに望み見て、変を通告する間に、西軍歩兵は山を駈け降りて、発砲しつヽ根田町に進撃す。されば仙軍は七曲坂に在りて、細谷烏を掩護して接戦猛烈。茲に於て、西軍は忽ち七曲坂の仙軍を銃撃して益々迫る。細谷烏、この虚を衝いて奮撃突戦、此時駈け来れる十六人の抜刀隊、これこそ棚倉藩の剣客の一隊、右手に五尺の大刀を振り廻し、左
【コマ 266】
手に一丈有余の槍を提げて、疾風迅雷す。されば細谷烏と十六さヽげ、一手となりて西軍陣中に乱入して頑強勇猛、接戦當る可らず、力闘遂に斬り崩して、敵を富士見山に追ふ。九日、西軍は富士見山より砲火を開き、弾丸雨注して奥羽軍を攻む。然れども攻防遂に勝敗決せず、日、既に歿して互に兵を引く。
 六月十二日、奥羽軍は本道より攻め上りて、一挙して白河を抜かむと、即ち会津、二本松、棚倉の諸軍は本道を進み、仙台、福島、脱藩の諸軍は、本道の進撃を掩護しつヽ、左翼を保ちて猛撃を開始したり。日、漸く暮れて、天、雨あり。然れども対峙解けす。夜暗益々弾を込めて戦闘酣なり。明くれは六月十三日、奥羽軍は愈戦線を頑守して、一意突進を令す、茲に於て、参謀大松澤掃部輔は、会津、仙台、福島の諸軍を率ゐ、細谷烏を先鋒と為して白河の入口に迫り、その愛宕山を攻撃して鬼虎の勢あり。かくて中島主将は二本松、脱藩の諸軍を以て、大谷地村を抜いて、一挙して石切山に進む。此時会津、棚倉、相馬の諸軍は、総督将西郷頼母に率ゐられて、棚倉街道金山口を猛進し、西軍を合戦坂に攻め破りて、大呼して町裏に到る。西軍、城を背にして防戦せしが、守勢甚だ険悪なるを以て、俄然として攻勢を取って、両道より進撃を始む。長州、黒羽、忍、大垣の諸軍は江戸街道に進み、薩州、彦根、土州、因州の諸軍は棚倉街道に猛進す。疾風迅雷、龍争虎撃となりて奥羽軍は遂に是を防ぐ能はず、隊士狂乱して退くに至りて、西軍は急転一下に四方より驀進し、而して和田山を囲むに至る。されば高根参謀は孤兵を激して、是を防ぐに必死の勇を揮へしかと、弾丸今や殆んど尽きて、隊士、抜刀して囲みに乱入す。血戦苦闘ちり/\と為りて四散す。時に仙将大目立武蔵は、仙台、会津、二本松の諸軍を指揮して、白河の西方なる野州羽太より進み来つて、米村の西軍陣営を襲ひけるが、西軍の力戦當る可らず、一挙に撃破せられて、再び羽太に敗兵を収む。されど此時会将相馬太郎は、流弾に中つて殪れ、兵気大に狙喪す。
 六月十五日、仙将大目立武蔵、仙台、会津の諸軍を率ゐて、羽太を発し、夜暗に乗じて白坂を襲ふ。攻防烈戦遂に勝敗決せず、翌朝に至つて奥羽軍は兵を引く。二十三日は折柄の大雨襲来に、奥羽軍は稍々沈静にありけるが、
【コマ 267】
此間に於て、棚倉街道筋の西軍は、いよ/\南進して、棚倉攻撃に移れり。かくて棚倉城も遂に陥落して、奥羽軍の兵気頓に弛む。さる程に、二十六日となりて、仙台の援兵は石川大和に率ゐられて、矢吹駅に来る。然るに参謀増田歷冶は、白河口の頽勢を望み見て、二十九日の夜を冐し、火を矢吹に放つて須賀川に退却す。茲に於て、変報、白河四邊の奥羽軍に到る。総軍愕然全く膽を潰して、その為す所を知らず。されば細谷烏は憤然その非を怒り、往いて増田を刺さむとして、須賀川に尾行し、両将相会して焼討を論判するや、増田、細谷烏の嘖問遁る能はず、歎声を発して而して曰く、予や、白石に到つて自害せむと。細谷、是れ一の奸言たるを悟らず、増田を刺すを止めて、相約して別る。
( 3へ戻る)
( 5へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/24(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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「石巻市」蔵
 平成二三年度
 県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
 財団法人白河観光物産協会
仙台藩からす組の旗 (2014.06/21)
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 3
( 2から続く)
【コマ 263】
 五月二十一日、奥州岩代信夫、伊達及び関東の無頼漢を以て成れる烏組、督将細谷十太夫と共に須賀川に在り。西軍再び襲来の報を得て、小田川に進発すれば、果たして、西軍の先手は、七曲の嶮に陣す。細谷烏、蹶起勇奮(けっきゆうふん)刀を抜いて、七曲に躍入すれば、西軍その姿を望み見て、右往左行の混乱と為 而して四散す。元来細谷烏は刀の武者也。素より一銃を手にする能はず、蓋し本来が無頼の奸物なるに依る。督将細谷十太夫、その戦闘に臨む都度、奸物連に令を降して云ひけるは、敵は銃隊、我軍は刀の組なり、然れば彼は
【コマ 264】
遠きに利を得て、我軍は近きに効あり、然らば敵を見る、隊士一ニ人の死傷を顧みる事なく、進んで刀を揮ふに如かずと。細谷烏の接戦、万事如斯猛獣的なり。更に姿そのものが、徹頭徹尾黒装とありては、西軍の気に喰はぬ所と云ふべし。
 奥羽軍の戦守の陣、遥かに是を望めば、主力を四道に注ぎ、以て関東、米村、原方、棚倉の口々を守るに在り。更に金山口には、富賀須参謀此所に在り、その釜ノ子口には、高根参謀、二本松の兵を督して是に在り。さる程に西軍の交戦陣は砲銃を乱発して四方より群がり迫り、奥羽軍の堅闘防戦いよ/\猛烈となって、西軍の接戦は酣と為りたり。此時に當りて、西郷総督将は今泉参謀を従ひて、会津、二本松の精鋭を督して、坂口、双石、入澤の各地に転戦し、大に西軍の前進を防きけるか、折しも白寺町方面に起る火煙を合図に、西軍は大呼して驀進し来る。奥羽軍、最初の力戦遂に辟易して、今土崩瓦解となりて敗績す。
 かくて五月二十五日も暮れたり。奥羽軍は総勢一万六千の兵を進めて、白河城攻撃の軍議成る。茲に於て、奥羽軍の先鋒隊は棚将平田弾右衛門是を督し、白河口及び金山口の二手に進む。やがて金山口先鋒隊は其追分地に間道するや、西軍は谷間に露営して夜も深し。棚軍大砲隊長吉田國之進、仙台、会津の諸軍を山頂に導き、府瞰の陣よく西軍を掃討して、いよ/\郷渡村に総軍は屯集し、吉田、臼砲を率ゐて白坂口の先鋒と為り、会将木村兵庫と共に進み、その白河口は平田弾右衛門是を攻む。かくて白坂口奥羽軍は旗宿裏を間道し、西軍の虚を衝いて驀進し、白河口に向ふ奥羽軍は合戦坂山頂に配陣するや、西軍は早くも麓に迫り、麦畑の間に撒兵して発銃尤も努む。茲に於て、両軍の戦闘は益々猛烈と為りて、勝敗の決する所無かりけるが、接戦烈しく肉迫するに至りて、奥羽軍の弾薬は缺亡して遂に苦戦と為りしかば、弾薬奉行の到るを待ちつヽ戦ふ程に、其人は今は所在も知り難きに一同愕然 奉行杉浦粂八郎は、部下運搬の人夫を率ゐて、何思ひけん、既に/\棚倉城下に帰城したるもの。茲に於て、防戦の策計はつきて、仙軍の持場は俄然として瓦解し、白河口の奥羽軍は殊守尚苦戦大敗、戦守を施す折も無く土崩瓦
【コマ 265】
解と為りて潰走したりけり。翻つて白坂口の戦況を見るに、会将木村兵庫は意気揚々白坂駅の東方に進み、西軍の守備兵を追つて遂に山に登り、銃口を並列して一斉に発せば、西軍是に呼応して接戦起る、忽ちにして西軍の陣地近くには火の手は昇り、奥羽軍の志気を援けて麓を一掃し、西軍をして西山指して遁走せしむ。棚軍大砲隊は吉田國之進と共に勇み立ち、榴弾を込めて連撃頗る猛烈なりしかば、猛弾爆発して西軍の殪るヽもの其数を知らず、かくて麓を逃げ延びたる西軍の一手は、早くも白坂関門際の土堤に撒兵し、砲銃を乱射して防戦最も努む。茲に於て、奥羽軍の大砲隊は山を駈け下り、関門の敵を目標にして、百弾を込めて堅守奮闘、烈戦相當りて破竹の勢あり、されば西軍も殊守及ばず、見る/\退きて高きに陣す。奥羽軍是を追撃せんとしけるが、此地は密林四方を埋め、湖沿徒に草野に隠れて進止意の如くならず、隊士は□みを呑んで追迫を止め、而して旧の位置に引き揚けて敵情の動静を虎視するのみ、さる程に、弾薬の缺亡は此所にも起りて、補給の途は事全く絶え、両道の先鋒中途に座折して、白河総撃の陣配茲に動揺す。
( 2へ戻る)
( 4へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/23(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 2
( 1から続く)
【コマ 262】
・・・茲に於て、薩軍参謀川村純義は十文字坂を間道して、八龍神の麦畑に銃手を撒兵せしめ、突如として奥羽軍の足もとを衝く。奥羽軍、不意の襲撃に驚き立ち、アワヤ土崩瓦解と為らんとする折しも、棚将阿部内膳は馬上勇々しく、部署を疾駆して兵を田畝に移し、以て薩軍三方の進撃に當らしむ。此時に當りて、純義隊副長渡邊網之助は、棚軍の火砲を道路の上に挽き出し、榴弾を連発せしめて、その砲煙の立ち昇るを見て凱歌は高く、川村を目掛けて突進す。続いて阿部内膳も躍り出て、棚軍は先鋒と為りて、麦浪を押し分けて勇み進む。両軍殊守力戦、川村、棚軍の勇猛に恐れて走り去る。さる程に、白坂口の西軍は兵を纏めて山手に走り、次第に総軍を撤兵して、田畝の間に潜みつヽ、銃を発して驀進す。更に大砲隊は、本道より山上に移して、益々弾を込めて奥羽軍を撃つ。此時に至りて、仙将坂本大炊は、会津街道の要害に在り。西軍の突進益々火急の報を得て、兵を二手に分ちて、谷間に降りて防戦必死也攻防遂に西軍辟易し、百歩を退きて是を防ぐ。坂本、寡兵を率ゐて阿武隈川を渡り、銃を発して益々西に進み、而して部下を激して奮撃突戦。折しも飛び来る銃弾に、頭部貫通せられて茲に殪る。かくて白坂口の戦闘は、いよいよ酣となるに至りて、参謀今泉亀之助、仙台及び会津の諸軍を率ゐて、鬨を挙げて驀進す。
 此時に棚倉街道の守備振はず、棚軍衆寡敵し難きに至りて、退きて桜町関門を固守す。西軍是を逸せず、総軍驀入して桜町に放火するに至る。棚軍遂に守る能はず、隊士、部署を捨てヽにくるや。諸口々の奥羽軍も、此時みな退きて、白河城塁に據りて戦ふ。茲に於て、西軍は三道より兵を進め、奥羽軍を白河城に挟撃して鬨高し。奥羽軍、必死と為りて四方を防ぐも、総軍一
【コマ 263】
郭の割據は作戦不利なる所、隊士は抜刀して血路を開くに至る。血戦苦闘、会将一柳四郎左衛門、此所に討死し、奥羽軍四散す。此時に當りて、参謀瀬上主膳は、仙軍の敗士を収めて、須賀川駅に逃げ延び、更に軍事局の命に背きて、二本松まで、にげ来れるに依り、軍罰に処せらる。
 五月二日、敗報、福島に達す。軍事局の狼狽、果たして如何ばかりなりけむ。参謀増田歷冶、一軍を率ゐて福島を発す。四日須賀川に到る。此時に當つて、奥羽軍路局総長坂英力は、諸藩に令を伝えて、而して須賀川を去る。奥羽軍即本道及び会津街道より進みて、須賀川より再び白河城に迫る。西軍力拒百砲を発して、防戦猛烈を極め、かくて戦闘は日夜に連り、彼我の損傷も甚し。さる程に、軍路局の命に依る援軍は、伍々として列藩より群り、頽勢(たいせい)の奥羽軍を援けしかば、砲声轟々万馬狂奔して、五月十日も暮れたり。然れども西軍には援兵無く、且つ弾薬缺亡(けつぼう)するに至りて、最早奥羽軍の鋭鋒を衝く能はず、烈戦遂に敗績して、兵を国境に引揚ぐ。敗報、江戸に達す。大総督府、愕然として後事を議するや。総指揮官大村益次郎、猛然議を立てヽ曰く、伝へ聞く、越後口の戦争激烈を極め、総督宮様、日夜苦慮遊さると云ふ。援兵は此所に急かざる可らざる所、今や白河口を顧る逞あらずと。此時西郷隆盛は、大村の議に不法を鳴らして曰く、白河口は賊勢大衆を以て固むる所、容易に抜く能はざる可し、果たして然らば、仙米を撃つ尚遼遠に終る 况んや伊地知正治(総督将)は同郷の士也。我、伊地知を援けざる可らずと。茲に於て、上野彰義隊を攻む。五月十八日となりて、彰義隊突破の西軍は、いよ/\白河に達したり。
( 1へ戻る)
( 3へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/23(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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 慶応四年(1868)五月一日、白河口攻防の大激戦は西軍(新政府軍)が勝利したのだが、白河の回復を図ろうとした同盟軍との間に、戦闘はなお七月中まで続いたと云う
カテゴリ;>戊辰白河口戦争記
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
【コマ 259】
(一)白河関門の戦 1
 白河は奥州街道の関門地にして、山と川とに依りて自然の要害を為し、世に云ふ守るに易き攻むるに難き白河城は、駅街を南にして、峨々として此所に聳立す。戊辰も浅き春の東北の天空は、俄然として、かき曇り、奥羽列藩が、固き同盟の下に、愈西軍に抗すべく、今や共同作戦の陣を敷き、以て守殊防戦の心力を尽して、勝敗を此要害の与奪に堵せんとせるは、また深き所以の存する所たり。
【コマ 260】
 元来、白河城は阿部氏十万石の居城にてありけるが、慶応三年に至りて、城主、棚倉に移封となりて、今は二本松藩の預り也。されど慶応四年の今日城郭には主人無しと雖も、戊辰事件の惹起するに及びて、会津が裏面の主人役、即ち会津が国境を守るには、白河に厳備を張らざる可らざるは勿論、今や奥羽諸藩の共通利害の上より見るも、敵を白河関門に入れざるが、聊も大勝の基礎なり。茲に於て、会藩家老西郷頼母、白河関門の総督将と為り、仙藩白石城主片倉小十郎、奥羽軍の総参謀と為りて、関門の厳備いよ/\整ふ かくて白河を守るものには、会津、仙台、ニ本松、棚倉、石城、相馬、福島 三春、守山の諸軍にして、白河口の力戦、それ西軍を一呼に屠らむと、総軍に志気昇天の慨(がい)あり。
 四月二十五日も夜は深くして、徳川脱藩残党数百人、彰義隊軍監吉村要人介と共に、江戸街道を落ち来るあり。然るに是を追撃せる土州、薩州、長州 大垣の諸軍は、逸早くも坂口及び九番町附近に来りて、此所に夜営の陣を張るに至る。茲に於て、総参謀片倉小十郎、諸将を会し戦守を議して曰く、我軍、白河の戦争は愈切迫したり。凡そ初陣の勝敗は、常に全軍の志気を左右す。然らば我軍是を傍観して、敢て敵の襲来を受くるより、我より進みて、敵の一膽を潰すに如かしと。即ち会津幷に脱軍を進めて、翌二十六日、突如として西軍の営を攻む。西軍狼狽、隊士は恟々として、戦守の砲を発せしかと、奥羽軍の勇猛には當可らす。接戦一敗五里余を退きて、芦野村方面にと其影を歿す。
 白河の初陣、砲声四方に鳴動し、以て西軍の襲来を報ずるや。棚倉家老平田弾右衛門、大兵を擁して界の明神社内に陣を固む。此時に當りて、西軍の主力は既に宇都宮を発し、芦野村に到達す。薩州、長州、土州、大垣、因州 館林、黒羽、彦根、忍の諸軍、奥羽の大空を望み見て、意気揚々昇天の慨ありと云ふべし。されば奥羽軍は、南旗宿の嶮に依り、巨砲を連発して是を防ぐ。然れども西軍大勢の陣は、百砲を放つて四方より進み、砲戦二十八日より起りて、二十九日に終る。其間戦闘昼夜止まず。此間に於て、西軍の鋭鋒は、いよ/\白河城の突破に、全力を注ぐに至る。依て大垣、黒羽、館林の
【コマ 261】
諸軍は、小鹿山の麓を迂回し、南湖を進軍して、棚倉本道に現はれ。土州、因州、彦根、忍の諸軍は、白坂口より左折して、黒川村方面に来る。蓋し黒川より進みて、原方より突入するにあり。奥羽軍は是を望み見て、南旗宿の陣に不安を来せしかば、茲に於て、旗宿を退き、城を顧みて本道を扼守す。西軍、南旗宿の空虚を衝いて、薩州、長州、大垣の諸軍を進め、而して九番町の近邑に逼(せま)りて疾風迅雷、勢ひ甚だ熾(さか)ん也。されば仙台、会津の諸軍は、是を本道に防戦し、その棚倉、石城、相馬の諸藩は、棚倉口に在りて是を扼守し、二本松、会津、福島、脱藩の諸軍は、原方口に在りて、必死を尽して頑守し、彼我の戦闘益々猛烈を極めたり。
 五月一日、本道白坂口関門に當つて、西軍の突進するあり。依て瀬上参謀は、仙台を督して本道に進み、会将一柳四郎左衛門は、会軍を率ゐて原方口に防戦す。須臾(しゅゆ)にして、仙将坂本大炊は、仙軍を督して会津街道の陣を保ては、西軍、白坂及び原方のニ道に進み、巨弾を以て是を壓迫(あっぱく)しつヽ、突進愈猛烈なり。奥羽軍、殊守して弾丸雨注す。激闘酣(たけなわ)となり、西軍主力は轉還し、兵を分ちて三道より迫り来る。その七曲村より進む西軍は、小丸山に向ふものにして、黒川口の西軍は立石山に来るものとし。更に一軍は西三坂山及び大坂山を攻むるものとす。惟ふに小丸山口は西軍の接觸甚だ近く、会将大沼権兵衛は九番丁に虎視し、純義隊長西村人要介は稲荷山に進み、棚将工藤庄左衛門は登り町を固め、更に阿部半右衛門、小川次郎、中野市蔵等の棚将は金比羅山及び大松坂を據守す。而してその西村場は如何と云ふに、天神山及び水神原は会軍是を守り、その立石山は仙軍の固むる所たり。
 さる程に、下黒川口に在りし西軍は、早くも立石山に迫りて、攻勢頗る猛烈を極め、為めに仙軍の凡ては見る/\瓦解して、遂に西軍の奪う所となりて、此所に屈強なる砲陣を置かるヽに至る。茲に於て、西軍は益々勇を鼓舞し、巨弾を以て天神山を連撃しければ、飛弾は新町裏登り町等に落下して、爆音百雷の如し。会将一柳四郎左衛門、同横山主悅、仙将瀬上主膳、棚将工藤庄左衛門等は必死を期して防げども、俯仰の陣形その及ばざるに、苦戦大敗して天神山も侵奪せらる。茲に於て、会軍は米村口に潰走し、仙軍は九番
【コマ 262】
町に逃げ迷ひ、西軍の逆撃に殪るヽもの数十人、棚将阿部内膳、立石山の敗戦に憤激措く能はず、純義隊副長渡邊網之助と共に合戦坂に進撃せんとして八龍神に達せば、遥かの山上東南一帯の地には、薩州、長州、大垣の諸軍は忽然大小の砲を発して、陣形頗る頑強なり。棚軍大砲隊長吉田國之進、榴弾を込めて連撃すれば、砲弾見る/\敵陣に爆発して、味方の意気を鼓舞すること甚だ大也。龍争虎闘、烈戦相當りて奥羽軍有勢にあり。茲に於て、
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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