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2016.03/30(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
近代デジタルライブラリー




2016.03/29
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 慶応四年(1868)五月十五日、上野戦争
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奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 2
( 1から続く)
【コマ 250】
 その谷中門に於ては、天王寺、養福寺、浄光寺等に各砲陣を取り、彰義、歩兵、旭、万字、松石の諸隊を以て、一手の防備に就き、更に精鋭を送りて根津権現堂の境内に、前衝陣を張らしむるにあり。果たせるかな、萩、岡山の諸軍は本郷路を進撃して、東叡山の西北なる根津より迫らむとす。彰軍の前衛は是を防ぐに、霹靂天を衝きて銃を発す。西軍狼狽殆んど戦守に苦しみ百歩を退きて、撒兵して相争ふ。忽ちにして、萩軍は躍進して迫る。彰軍殊守血戦尚衆寡敵せず、退きて三崎町の要路を保つや、一勝に乗ずる萩、岡山の諸軍、勇猛大呼して是を抜き、捲土重来の勢を以て攻め寄せたり。彰軍谷中の本陣は高きに在り。敢死奮闘大小の砲を乱射して、防戦尤も努む。折しも昨日今日の五月雨に、天地今や雨露となりて、小川の水は濁々として四方に溢れ、茲に於て、西軍は進むも退くも水理を辨ぜず、浅瀬を探りて隊士混
【コマ 251】
沌す。彰軍、遥かに是を望みて、虚を衝くこと猛烈を極め、弾丸雨注して西軍を殪すこと、其数を知らず、烈戦苦闘萩軍崩れ、岡軍また悲鳴を挙げむとして、三崎口を固守す。南口の西軍は、是を望み見て憤激止まず、忽ち大村、佐土原、佐賀の諸軍を進めて是を援けしむ。彰軍、是を阻碍するに猛弾を発し、両軍奮激突戦紅白を辨ぜず、諸軍は必死を期して攻め戦ふ。然れども高きに在りし彰軍の猛撃陣には、三崎口援護の西軍も、最早堪ゆる能はざるに至りて、土崩瓦解となりて、根津方面に敗潰す。彰軍、鬨を挙げて是を尾撃すること急転直下、彰義隊は渋沢誠一郎是を督し、歩兵、万字の諸隊は、准隊長春日左衛門に率ゐられ、遂に根津の坂下に到れば、折りしも西軍の発したる伏兵は、あなたの竹薮の中より突如として現はれ、弾丸雨注して、彰軍の不意を衝くに至る。彰軍狼狽最早防ぐ能はず、土崩瓦解となりて谷中に兵を引く。此時に當りて、三崎口に苦闘したる萩、岡山の諸軍は、其虚に乗じて、万難を排して不忍池畔に走り、忽ち隊士を小舟に移し、発砲しつヽ中島に航き付けて、急転直下穴稲荷門に逼る。茲に於て、神木隊長酒井良介は、浩気隊と力を合せ、中島の西軍を砲撃すること猛烈なり。
 彰軍下寺通三門に於ては、彰義、遊撃、純忠、精忠の諸隊下寺等に陣を固め、而して山の外なる啓運寺、養玉寺を保ちて、大に殊守決戦を待つにあり 果たせるかな鹿児島、岡山、徳島、津、彦根、新発田の諸軍大呼豨突して啓運寺口に現はる。茲に於て、啓運寺及び養玉院にありし彰軍の砲陣は、轟然として巨弾を連発して防ぎ戦ふ。西軍頑守百砲を発して益々攻め来る。西軍の戦闘硝煙陣を覆ふて人色を辨ぜず、砲丸飛交して隊士の死傷悲惨たり。此間に於て、岡山、徳山の諸軍は大呼して猛進し来る。彰義隊准隊長川村敬三遊撃隊長人見勝太郎及び副隊長伊庭八郎等進み出でヽ是を迎ひ撃つ。激闘数合遂に血戦陣中に斬りまくり、その逃ぐるを追つて進撃しけるが。新発田、彦根、鹿児島の諸軍は猛然来り是を撃ち、茲に両軍は殊守決戦頑強勇邁、此間砲撃は天地に轟き渡り、龍争虎撃、両軍の力闘益々惨を極む。折しも遊撃隊副長伊庭八郎、抜刀隊を率ゐて鬨を挙げて突進す。爾余の諸隊意気大に振ひ、新発田の陣を崩して攻め入りしかば、西軍遂に守る能はず、陣を乱して
【コマ 252】
御徒町にと敗績したり。さる程に、西軍の精鋭は来つて、御徒町の敗軍を盛り返し、彰軍の疲労を衝いて躍動す。疾風迅雷當る可らず、彰軍辟易して再び逃げ戻り、銃砲を乱発して必死の防戦愈酣となれり。
( 3へ続く)
( 1に戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/29(TUE)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
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2016.03/29
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 慶応四年(1868)五月十五日を以て、新政府軍は彰義隊追討の大命を降す(上野戦争)
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【コマ 248】
奥羽の巻(第ニ巻)/関東戦史
(三)上野東叡山の戦 1
 江戸旗本の血盟國、宗家の安否を哀願すれとも、遂に聴き容れられざるに至りて、俄然として其態度を一変し、大同団結して薩長に抗し、以て徳川の屈辱を晴らさざれば止まず。薩長を論難するもの、既に常総に関東に崛起し北陸東山共に兵馬の馳駆する所とはなりて、上野東叡山に籠れる三千の旗本は、こヽに彰義の一戦を交へて、一命を宗家に捧けんと、陣容堂々として、隊旗を北風に飜す。されば徳川旗本の義挙を望み見たる親藩恩顧譜代の諸藩は、竊かに是が声援する所とはなりて、援軍伍々として来り会するに至れり。而して列藩より送れる援軍には、遊撃、歩兵、猶興、純忠、精忠、貫義、旭臥龍、神木、松石、万字、馬勝、浩義、白虎、水心の十五隊其数千五百人、血盟団と相俟つて、江戸市中に横行する様眼前敵無きが如し。されば江戸市中の物論は俄然鼎沸し、洛中の騒動殺気満々として、方今の形勢いよ/\不穏を極めたり。依て追討大総督府に於ては、頻りに解散命令を降して、大に市中の平事を計りけるが。その血盟団に於けるや、一度は主家徳川の安危の定まるまてと答へて之を拒み、二度には宗家の廟堂を離るヽに忍びざる旨を答へて応ぜず、三度には歴代の書冊、記録、寳器等を保護せざる可らずとて命に服せず、かくして幾度の命にも従ふの様子も無く、有繫(さすが)の御大将たりし慶喜も、彰義隊の旗色を望み見て、今や専心力注の謹慎蟄居の状も、却つて人心の疑惑を買ふべきを悟りて、切々妄挙を抑制しつヽ、嘆声を漏らせしも憐れなりき。去る程に、江戸城明渡の期日も来り、同時に江戸退去の時期と為るに至りて、慶喜も今や詮なく、麾下の末路に、深き遺憾を残して、身は御一門の封地なる水戸表にと遁れ行きたり。されば大総督府に於ては、彰義
【コマ 249】
団の輩にして斯の言を左右に托すの所以は、夫れ或は輪王寺宮の在る故なるを察して、法親王をして京都還行を勧むる所ありき。然れども當山の執當覚院と云ふ坊主、頑として容れず。かくて総督府の命令頻発するを見て、隊士は皆戦闘の免れ難きを語り合ひつヽ、東叡山は日々に戦守の陣を固め、隊士は剣を磨き、腕を撫して大道狭しと云はむばかりの活歩、偶々市中に西軍隊士を見るや、或は罵倒し、或は殺害して益々暴威を逞ふするに至る。時適々大総督府に在りては、諸道の援軍急なるに至りて、彰義隊の監視を絶たざる可らざる事情起る。茲に於て、五月十五日を以て、愈彰義隊追討の大命を降し、以て諸軍の向ふ所を定む。
 五月十四日夕暮に及んで、追討の大命は東叡山に降る。されば彰義隊に於ては、一山の周囲は戦備を尽すと雖も、攻防の対戦に臨みては、尚外柵の要を認め、依て之を市民に徴するや。市民は彰義隊の身の上に深く同情し、競ふて金穀木材類を搬出して応援するあり。外柵の固めも今は成りて、臼砲、四斤砲等を始め巨砲を据え付くる至りて、附近の町人老幼一切をして、兵火の間暫く避難を布令す。月、朧ろにして、南風吹きそよく十四日の夜は、市民避難の騒動引きも切らず。此間に於て、東叡山の各部隊は皆部署に就きて、弾を込めて守り明かせば、五月十五日、天、漸く暁を報ず。暁風は細雨を齎して、天地粛々、砲声遥かに大城に起れば、鹿児島、萩、佐賀、岡山、鳥取、熊本、徳島、柳川、砂土原、津、彦根、新発田の諸軍、部署を四方に取りて、押し寄すること、捲土重来も啻(ただ)ならず。
 鹿児島、熊本の諸軍、逸早くも上野広小路に現はれ、大小の砲を聞きて、東叡山南門に突進す。更に岡山、佐賀、尾張の諸軍は、富山、水戸の二藩邸より迂回してまた南門を攻む。それ南門は東叡山の咽喉を為す要害の地、此所を守るは、血盟の彰義隊を始め万字、神木、浩気の諸隊を以てし、而して南門より穴稲荷門に亘りて戦守を張る。砲弾爆発天地を破り、彼我の硝煙陣を覆ふて四顧瞑朦、此間飛丸は往行して隊士の殪るるもの数を知らず。然れども彰軍の陣は高きに在りて、常に俯瞰に地位を保ち、接戦益々猛烈を極むるも、防戦奇効を奏し、更に歩兵隊の来つて、射撃を援護するに至りて、西
【コマ 250】
軍今や進むに途なし。依て広小路に巨砲を配置し、猛烈なる砲撃を以て対峙す、此時に當りて、その鳥軍は、湯島台なる天神の別邸に在り。遥かに南門の味方敗勢を見て、忽ち火を放つて四方の民舎を焼き、黒煙地に靡きて四顧溟朦なるに乗じ、中町の裏に進みて、不忍池の地畔に現はれ来る。彰軍、遥かに杉森の中より是を望み、巨弾を込めて俯してその到るを待つ。忽然起る彰軍を砲声猛弾連続して鳥軍の陣を砕く。鳥軍、愕然其為す所を知らず、死傷を捨てヽ広小路に走れり。茲に於て、南門口の西軍は大呼□突して、砲を発して躍動す。彰軍山王台の砲陣は今や百弾を送りて、四方を撃つ。南門の彰軍益々勇を鼓舞し、大に西軍撒兵の陣に弾丸を雨注す。砲声天地を衝き硝煙漲りて人色を辨ぜず、戦闘激烈となりて互に死傷あり。山王台の巨門益々猛烈となりて、西軍進む能はず、百歩を退きて是を防ぐ。時しも津軍は竹町の方面より進み来つて、山下に逼り、酒樓に登りて座敷の中に兵を配り、簾の中より銃口を並列して、山王台を狙つて、一斉に弾丸を雨注す。彰軍堅□撒弾を込めて大に津軍を攻む。山王の彰軍より打ち出す巨弾は、轟然天空に鳴り、悽声を発して酒樓に命中すること数発、爆裂飛び揚りて火災起り、焔裀矇々渦き起りて、満目凄惨たり。津軍、最早戦ふ能はず、隊士混乱して、煙りの中より漸く身を以て遁る。
 その谷中門に・・・
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
上野東叡山旗本の血盟(2016.03/27)



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2016.03/27(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)
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 慶応四年(1868)二月二十三日、彰義隊結成さる
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【コマ 191】
奥羽の巻(第ニ巻)
上野東叡山旗本の血盟
 夫れ、江戸城を北にして上野の丘あり。寛永三年こヽに東叡山寛永寺を建立し、以て江戸城の鎮護と為すと共に、徳川永代の廟堂と定めたり。元来本山は、京都比叡山延暦寺に擬へて、川越喜多院の住職天海と云ふ坊主、徳川の開祖家康の死後、家康の遺言を振り廻して、己れを高めむとて、宗門の神厳を保たむとて、徳川天下の崇敬を収めむとて、是を内幕と為して、その表面には、京都方に対する万一の難に備へむと、畏れ多くも、後水尾天皇の第二皇子今宮を迎えて、親王門跡と為したりき。
 されはかヽる由緒深き霊廟なるを以て、その設計は、一に水戸の東照社を
【コマ 192】
模擬したるものにして、その荘厳天下の美を尽し、而して境内広大なる梵地は、黒門を始め七ツの関門構へを以て、是を圍繞し、更に内部には、文珠楼大悲の閣、盧遮那の象、山王祠稲荷、二基の鐘楼、法華堂、多寶堂、法親王の宮殿に至るまで、みな艶麗を極めたり。僧坊凡て三十六人、その四軒寺と下寺に住する十八坊は、東に在り。錦小路、谷中路、奥寺とに住む十八坊は西に在り。而してこの梵刹の地たる、東は高く、北は根岸三河島の田園に続き、西北は根津谷中の村里に連りて、南は不忍池を扼する也。池水溢れて、その落ち往く忍川の流れには、三橋を架して広小路の街路に臨む。
 徳川武士の末路や、慶応戊辰の春尚浅き正月、悲憤慷慨殺気満々たる頃は輪王寺宮公現法親王(北白川宮能久親王)の、親しく是を管領し給ふ所にして、覚王院、當山の執當となりて、是を司宰する所たり。かくて、大将軍たりし徳川の末路や、十五代二百六十五年を最期に、武門の政権を奉還したる果報は、薩長の手一つにて、徳川慶喜は、今や朝敵の汚名を受け、天地の間に容るヽの地なきに臨みては、皆人の共に想外とする所たり。
 然れは大樹慶喜の身、思ひは鳥羽伏見の苦境を忍びて、漸く江戸に遁れ来るや。江戸の四面は論議上下に熱狂して、宗家の安危も、心もとなかりし徳川麾下旗本の旧武士は、皇室の危態と天下の存亡に、憂苦いよいよ禁じ難く事茲に至りて、同志相語らいつヽ、四谷鮫ケ橋円応寺に会合するあり。こヽにて、同盟嘆願書を草し、以て朝敵の汚名を雪き、併せて君側の奸悪共を郤けて、而して徳川の宗家に対して、その恙なき様にと哀訴する所ありき。時に同座の志士僅かに十有七人。それより二月を暮せは、人目騒がしきに至りければ、居を浅草本願寺に移したり。志士、有為転変の世の中をかこちつヽその成り行きを語り明かせし程に、此挙を聞きて集る者、朝に夕に忽ち五百人に上りければ、茲に於て、志士大同一団結束して、一死を義に捧くと云ふ意味を以て、彰義隊と命名するに至れり。依て徳川の志士、将に是より大に為すあらむと、即ち同志の心を強むるに、左の誓文に署名して、いよ/\硬き血盟に身命を殪さむとす。
【コマ 193】

方今、社稷危急存亡ノ時、臣子盡忠奉国ハ、士道ノ常ニシテ、諸士ノ所仰也。然レトモ、昇平三百年ノ久シキ、志気相弛ミ候ヨリ、盡忠報国ハ、人口ニ膾灸スルノミニシテ、互ニ其実際ヲ見ズ。故ニ、今日ノ形勢ニ至リ候モ、敢テ人ヲ恨ムニ詮ナク、誰カ是ヲ不耻哉。然ラハ、言行不相反、愈身命ヲ抛棄シ、君家ノ御窘辱ヲ一洗シ、反逆ノ薩賊ヲ戮滅シ、上 朝廷ヲ尊奉シ、下万民ヲ安途セシメ、遥カニ神祖ノ聖霊ニ報イ奉ルヘク、有志ノ志ハ、断然一死ヲ天地神明ニ誓ヒ、姓名ヲ此帳ニ記載ヲ仰ク。我等雖不敬、聊カ馳驅ノ労ヲ以テ諸君ノ孤衷ヲ世ニ示サンモノナリ。
          有志血判連書

 漸く盟約成りし頃には、徳川征伐の風潮京師に溢れ、志士群集して、江戸は不穏となれり。依て徳川慶喜も竊かに大城を忍び出て、いよ/\上野東叡山大慈院に蟄居す。されば徳川旗本の彰義隊は、浅草を発して慶喜に随従し今は一千五百人、共に/\上野の丘に據りたり。茲に於て、総軍の編成あり志士勇みて、迫り来る万一の難に、一統連座社稷と共に、殉死を遂けむとは覚悟したる也。彰義隊の統轄左の如し。
     隊長   池田大隈守
     同    渋沢誠一郎
     准隊長  天野八郎
     同    川村敬三
     同    菅沼三五郎
     同    春日左衛門
     頭取   半門五郎
     同    吉田定太郎
     同    本田繁三郎
     同    織田主膳
     軍監   吉村要人介
【コマ 194】
     同    酒井宰輔

 右は彰義血盟団の主脳者也。更に准頭取として、近藤武雄外六名あり。また各隊の頭取として、比留間良八外二十一名あり。此外記録掛組頭として窪田新助外七名あり。会計掛組頭に、田中清三郎外五名あり。器械掛組頭に松崎平三郎あり。
 彰義隊の血盟団、隊士僅かに千五百人と雖も、江戸旗本八幡より抜きすぐりたる豪の者のみ。関東の天地風雲いよ/\急を告けて、一旦有事に処しては、蹶然剣を抜いて、一死を争はむとする者のみ也。宗家の窘辱と討奸の義挙に、尽忠奉国の実を体現して、士道に殪れむのみ。これ実に三河武士の花なり。何ぞ戦勝を期して、余生の栄華を俟つの類ならむや。
 かくて、徳川親藩恩顧の諸藩にては、江戸旗本の義挙を愛して、竊かに援軍を送りて、其数今や千数百人に及へり、輪王寺宮殿下、血盟団に推されて迫り来る禍乱に、陣頭に起たせ給ふ。されば討奸の慨気関八州に靡きて、旭日昇天の慨ありて存する也。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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写真;西軍殉国者墳墓(長寿院)・2014.05/25
慶応戊辰殉国者墳墓・西軍(長寿院) (2014.05/26)

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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 5
( 4から続く)
【コマ 267】
 七月一日、奥羽軍は白河を攻む。大目立武蔵、仙軍を率ゐて阿武隈川を渡り、元天神山に奮戦して遂に是を破り、尚も尾撃して頑強也。而して二軍は立石山の麓に迫り、細谷烏、天神町裏より躍進して、城背なる馬除院を略取し、尚も進みて城を衝くや、西軍百砲の陣は、猛弾を連発して頑守す。細谷烏、百戦遂に抜く能はず、撒弾を浴せ掛けらるヽに至りて、那須原に退却したりけり。七月三日に至れば、軍事局総長坂英力は、仙台中将の名代と為りて、大兵を擁して白河に発足の報あり。奥羽軍是を聞きて凱歌天を衝く。
 七月十五日、軍事総長、いよ/\須賀川に来る。茲に於て、諸軍を会して白河城の総攻を令す。依て諸軍は早くも根田口に迫る。然るに西軍は予め是を探知して、根田に餌兵を止めて、主力を左右に潜伏せしむ。果たせる哉、奥羽軍の大勢は、忽ち根田の餌兵を討落して、大呼して城に向ひけるか、折柄起る西軍の伏兵陣、奥羽軍の背後に現はれて、根田の本道口を喰ひ止めたり。茲に於て、西軍放射の陣容は挟撃に在り。されば切角進み来りし奥羽軍も、鏖戦(おうせん)苦闘遂に敗れに敗れて、鏡沼指して走るに至る。
 奥羽軍、四月二十五日以来の奮戦、七月十五日と為りて、遂に起つ能はず疲兵を纏めて北行に決す。依て此所に白河口総督府を置かる。即ち鷲尾侍従は、白河口東山道西軍総督を命せられ、久我大納言、東北遊撃の督将となりて、白河常宣寺内に行営を置き、板垣退助、伊地知正治等と共に、大に作戦
【コマ 268】
を議するにありき。
[附記] 白河の戦争に於て討死したる西軍隊士は、同所長寿院墓地に埋葬せられたり。而して其氏名年齢出身地に就ては、棚倉町故井上光一氏の遺稿に詳か也。
 白河口総督鷲尾侍従は、八月となりて、所労の為め帰京を命せられ、正親町中将、代つて軍務の総督と為る。
end
( 4へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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写真;↑稲荷山公園に立つ"のぼり旗"、奥羽越列藩同盟の旗印仕様・2014.08/25

 されば細谷烏と十六さヽげ
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 4
( 3から続く)
【コマ 265】
 五月二十九日、西軍、陣容堂々城郭を発し、大呼猪突して是を攻む。攻防の砲戦昼夜に亘り、天地轟々として万山も崩れむとす。六月一日の暁天、薩将前原一誠は、薩軍を率ゐて、坂口を攻め上れば、阿部参謀、不意を喰つて野石村に走れり。坂口の敗戦に諸軍は驚き入りて、脱軍を先鋒として、仙台、福島の諸軍は攻め来る。薩軍頑守して弾丸雨注す。折しも駈け来れる細谷烏の一隊、抜刀して鬨を挙げて突入す。薩軍、細谷烏の奮戦に、今や発銃の逞無し。さる程に、仙脱の諸軍は来りて、遂に前原を撃つて走らす。
 かくて六月七日も暮れたり。時に細谷烏は大和田山に潜み、而して西軍の動静に虎視を張る。折しも銃声一発、天地を震動せしめて、銃丸は富士見山の頂上より来る。細谷烏、是を遠きに望み見て、変を通告する間に、西軍歩兵は山を駈け降りて、発砲しつヽ根田町に進撃す。されば仙軍は七曲坂に在りて、細谷烏を掩護して接戦猛烈。茲に於て、西軍は忽ち七曲坂の仙軍を銃撃して益々迫る。細谷烏、この虚を衝いて奮撃突戦、此時駈け来れる十六人の抜刀隊、これこそ棚倉藩の剣客の一隊、右手に五尺の大刀を振り廻し、左
【コマ 266】
手に一丈有余の槍を提げて、疾風迅雷す。されば細谷烏と十六さヽげ、一手となりて西軍陣中に乱入して頑強勇猛、接戦當る可らず、力闘遂に斬り崩して、敵を富士見山に追ふ。九日、西軍は富士見山より砲火を開き、弾丸雨注して奥羽軍を攻む。然れども攻防遂に勝敗決せず、日、既に歿して互に兵を引く。
 六月十二日、奥羽軍は本道より攻め上りて、一挙して白河を抜かむと、即ち会津、二本松、棚倉の諸軍は本道を進み、仙台、福島、脱藩の諸軍は、本道の進撃を掩護しつヽ、左翼を保ちて猛撃を開始したり。日、漸く暮れて、天、雨あり。然れども対峙解けす。夜暗益々弾を込めて戦闘酣なり。明くれは六月十三日、奥羽軍は愈戦線を頑守して、一意突進を令す、茲に於て、参謀大松澤掃部輔は、会津、仙台、福島の諸軍を率ゐ、細谷烏を先鋒と為して白河の入口に迫り、その愛宕山を攻撃して鬼虎の勢あり。かくて中島主将は二本松、脱藩の諸軍を以て、大谷地村を抜いて、一挙して石切山に進む。此時会津、棚倉、相馬の諸軍は、総督将西郷頼母に率ゐられて、棚倉街道金山口を猛進し、西軍を合戦坂に攻め破りて、大呼して町裏に到る。西軍、城を背にして防戦せしが、守勢甚だ険悪なるを以て、俄然として攻勢を取って、両道より進撃を始む。長州、黒羽、忍、大垣の諸軍は江戸街道に進み、薩州、彦根、土州、因州の諸軍は棚倉街道に猛進す。疾風迅雷、龍争虎撃となりて奥羽軍は遂に是を防ぐ能はず、隊士狂乱して退くに至りて、西軍は急転一下に四方より驀進し、而して和田山を囲むに至る。されば高根参謀は孤兵を激して、是を防ぐに必死の勇を揮へしかと、弾丸今や殆んど尽きて、隊士、抜刀して囲みに乱入す。血戦苦闘ちり/\と為りて四散す。時に仙将大目立武蔵は、仙台、会津、二本松の諸軍を指揮して、白河の西方なる野州羽太より進み来つて、米村の西軍陣営を襲ひけるが、西軍の力戦當る可らず、一挙に撃破せられて、再び羽太に敗兵を収む。されど此時会将相馬太郎は、流弾に中つて殪れ、兵気大に狙喪す。
 六月十五日、仙将大目立武蔵、仙台、会津の諸軍を率ゐて、羽太を発し、夜暗に乗じて白坂を襲ふ。攻防烈戦遂に勝敗決せず、翌朝に至つて奥羽軍は兵を引く。二十三日は折柄の大雨襲来に、奥羽軍は稍々沈静にありけるが、
【コマ 267】
此間に於て、棚倉街道筋の西軍は、いよ/\南進して、棚倉攻撃に移れり。かくて棚倉城も遂に陥落して、奥羽軍の兵気頓に弛む。さる程に、二十六日となりて、仙台の援兵は石川大和に率ゐられて、矢吹駅に来る。然るに参謀増田歷冶は、白河口の頽勢を望み見て、二十九日の夜を冐し、火を矢吹に放つて須賀川に退却す。茲に於て、変報、白河四邊の奥羽軍に到る。総軍愕然全く膽を潰して、その為す所を知らず。されば細谷烏は憤然その非を怒り、往いて増田を刺さむとして、須賀川に尾行し、両将相会して焼討を論判するや、増田、細谷烏の嘖問遁る能はず、歎声を発して而して曰く、予や、白石に到つて自害せむと。細谷、是れ一の奸言たるを悟らず、増田を刺すを止めて、相約して別る。
( 3へ戻る)
( 5へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/24(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
近代デジタルライブラリー




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「石巻市」蔵
 平成二三年度
 県南地方観光推進事業「"桜"プロジェクト」
 財団法人白河観光物産協会
仙台藩からす組の旗 (2014.06/21)
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 3
( 2から続く)
【コマ 263】
 五月二十一日、奥州岩代信夫、伊達及び関東の無頼漢を以て成れる烏組、督将細谷十太夫と共に須賀川に在り。西軍再び襲来の報を得て、小田川に進発すれば、果たして、西軍の先手は、七曲の嶮に陣す。細谷烏、蹶起勇奮(けっきゆうふん)刀を抜いて、七曲に躍入すれば、西軍その姿を望み見て、右往左行の混乱と為 而して四散す。元来細谷烏は刀の武者也。素より一銃を手にする能はず、蓋し本来が無頼の奸物なるに依る。督将細谷十太夫、その戦闘に臨む都度、奸物連に令を降して云ひけるは、敵は銃隊、我軍は刀の組なり、然れば彼は
【コマ 264】
遠きに利を得て、我軍は近きに効あり、然らば敵を見る、隊士一ニ人の死傷を顧みる事なく、進んで刀を揮ふに如かずと。細谷烏の接戦、万事如斯猛獣的なり。更に姿そのものが、徹頭徹尾黒装とありては、西軍の気に喰はぬ所と云ふべし。
 奥羽軍の戦守の陣、遥かに是を望めば、主力を四道に注ぎ、以て関東、米村、原方、棚倉の口々を守るに在り。更に金山口には、富賀須参謀此所に在り、その釜ノ子口には、高根参謀、二本松の兵を督して是に在り。さる程に西軍の交戦陣は砲銃を乱発して四方より群がり迫り、奥羽軍の堅闘防戦いよ/\猛烈となって、西軍の接戦は酣と為りたり。此時に當りて、西郷総督将は今泉参謀を従ひて、会津、二本松の精鋭を督して、坂口、双石、入澤の各地に転戦し、大に西軍の前進を防きけるか、折しも白寺町方面に起る火煙を合図に、西軍は大呼して驀進し来る。奥羽軍、最初の力戦遂に辟易して、今土崩瓦解となりて敗績す。
 かくて五月二十五日も暮れたり。奥羽軍は総勢一万六千の兵を進めて、白河城攻撃の軍議成る。茲に於て、奥羽軍の先鋒隊は棚将平田弾右衛門是を督し、白河口及び金山口の二手に進む。やがて金山口先鋒隊は其追分地に間道するや、西軍は谷間に露営して夜も深し。棚軍大砲隊長吉田國之進、仙台、会津の諸軍を山頂に導き、府瞰の陣よく西軍を掃討して、いよ/\郷渡村に総軍は屯集し、吉田、臼砲を率ゐて白坂口の先鋒と為り、会将木村兵庫と共に進み、その白河口は平田弾右衛門是を攻む。かくて白坂口奥羽軍は旗宿裏を間道し、西軍の虚を衝いて驀進し、白河口に向ふ奥羽軍は合戦坂山頂に配陣するや、西軍は早くも麓に迫り、麦畑の間に撒兵して発銃尤も努む。茲に於て、両軍の戦闘は益々猛烈と為りて、勝敗の決する所無かりけるが、接戦烈しく肉迫するに至りて、奥羽軍の弾薬は缺亡して遂に苦戦と為りしかば、弾薬奉行の到るを待ちつヽ戦ふ程に、其人は今は所在も知り難きに一同愕然 奉行杉浦粂八郎は、部下運搬の人夫を率ゐて、何思ひけん、既に/\棚倉城下に帰城したるもの。茲に於て、防戦の策計はつきて、仙軍の持場は俄然として瓦解し、白河口の奥羽軍は殊守尚苦戦大敗、戦守を施す折も無く土崩瓦
【コマ 265】
解と為りて潰走したりけり。翻つて白坂口の戦況を見るに、会将木村兵庫は意気揚々白坂駅の東方に進み、西軍の守備兵を追つて遂に山に登り、銃口を並列して一斉に発せば、西軍是に呼応して接戦起る、忽ちにして西軍の陣地近くには火の手は昇り、奥羽軍の志気を援けて麓を一掃し、西軍をして西山指して遁走せしむ。棚軍大砲隊は吉田國之進と共に勇み立ち、榴弾を込めて連撃頗る猛烈なりしかば、猛弾爆発して西軍の殪るヽもの其数を知らず、かくて麓を逃げ延びたる西軍の一手は、早くも白坂関門際の土堤に撒兵し、砲銃を乱射して防戦最も努む。茲に於て、奥羽軍の大砲隊は山を駈け下り、関門の敵を目標にして、百弾を込めて堅守奮闘、烈戦相當りて破竹の勢あり、されば西軍も殊守及ばず、見る/\退きて高きに陣す。奥羽軍是を追撃せんとしけるが、此地は密林四方を埋め、湖沿徒に草野に隠れて進止意の如くならず、隊士は□みを呑んで追迫を止め、而して旧の位置に引き揚けて敵情の動静を虎視するのみ、さる程に、弾薬の缺亡は此所にも起りて、補給の途は事全く絶え、両道の先鋒中途に座折して、白河総撃の陣配茲に動揺す。
( 2へ戻る)
( 4へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/23(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 2
( 1から続く)
【コマ 262】
・・・茲に於て、薩軍参謀川村純義は十文字坂を間道して、八龍神の麦畑に銃手を撒兵せしめ、突如として奥羽軍の足もとを衝く。奥羽軍、不意の襲撃に驚き立ち、アワヤ土崩瓦解と為らんとする折しも、棚将阿部内膳は馬上勇々しく、部署を疾駆して兵を田畝に移し、以て薩軍三方の進撃に當らしむ。此時に當りて、純義隊副長渡邊網之助は、棚軍の火砲を道路の上に挽き出し、榴弾を連発せしめて、その砲煙の立ち昇るを見て凱歌は高く、川村を目掛けて突進す。続いて阿部内膳も躍り出て、棚軍は先鋒と為りて、麦浪を押し分けて勇み進む。両軍殊守力戦、川村、棚軍の勇猛に恐れて走り去る。さる程に、白坂口の西軍は兵を纏めて山手に走り、次第に総軍を撤兵して、田畝の間に潜みつヽ、銃を発して驀進す。更に大砲隊は、本道より山上に移して、益々弾を込めて奥羽軍を撃つ。此時に至りて、仙将坂本大炊は、会津街道の要害に在り。西軍の突進益々火急の報を得て、兵を二手に分ちて、谷間に降りて防戦必死也攻防遂に西軍辟易し、百歩を退きて是を防ぐ。坂本、寡兵を率ゐて阿武隈川を渡り、銃を発して益々西に進み、而して部下を激して奮撃突戦。折しも飛び来る銃弾に、頭部貫通せられて茲に殪る。かくて白坂口の戦闘は、いよいよ酣となるに至りて、参謀今泉亀之助、仙台及び会津の諸軍を率ゐて、鬨を挙げて驀進す。
 此時に棚倉街道の守備振はず、棚軍衆寡敵し難きに至りて、退きて桜町関門を固守す。西軍是を逸せず、総軍驀入して桜町に放火するに至る。棚軍遂に守る能はず、隊士、部署を捨てヽにくるや。諸口々の奥羽軍も、此時みな退きて、白河城塁に據りて戦ふ。茲に於て、西軍は三道より兵を進め、奥羽軍を白河城に挟撃して鬨高し。奥羽軍、必死と為りて四方を防ぐも、総軍一
【コマ 263】
郭の割據は作戦不利なる所、隊士は抜刀して血路を開くに至る。血戦苦闘、会将一柳四郎左衛門、此所に討死し、奥羽軍四散す。此時に當りて、参謀瀬上主膳は、仙軍の敗士を収めて、須賀川駅に逃げ延び、更に軍事局の命に背きて、二本松まで、にげ来れるに依り、軍罰に処せらる。
 五月二日、敗報、福島に達す。軍事局の狼狽、果たして如何ばかりなりけむ。参謀増田歷冶、一軍を率ゐて福島を発す。四日須賀川に到る。此時に當つて、奥羽軍路局総長坂英力は、諸藩に令を伝えて、而して須賀川を去る。奥羽軍即本道及び会津街道より進みて、須賀川より再び白河城に迫る。西軍力拒百砲を発して、防戦猛烈を極め、かくて戦闘は日夜に連り、彼我の損傷も甚し。さる程に、軍路局の命に依る援軍は、伍々として列藩より群り、頽勢(たいせい)の奥羽軍を援けしかば、砲声轟々万馬狂奔して、五月十日も暮れたり。然れども西軍には援兵無く、且つ弾薬缺亡(けつぼう)するに至りて、最早奥羽軍の鋭鋒を衝く能はず、烈戦遂に敗績して、兵を国境に引揚ぐ。敗報、江戸に達す。大総督府、愕然として後事を議するや。総指揮官大村益次郎、猛然議を立てヽ曰く、伝へ聞く、越後口の戦争激烈を極め、総督宮様、日夜苦慮遊さると云ふ。援兵は此所に急かざる可らざる所、今や白河口を顧る逞あらずと。此時西郷隆盛は、大村の議に不法を鳴らして曰く、白河口は賊勢大衆を以て固むる所、容易に抜く能はざる可し、果たして然らば、仙米を撃つ尚遼遠に終る 况んや伊地知正治(総督将)は同郷の士也。我、伊地知を援けざる可らずと。茲に於て、上野彰義隊を攻む。五月十八日となりて、彰義隊突破の西軍は、いよ/\白河に達したり。
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( 3へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/23(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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 慶応四年(1868)五月一日、白河口攻防の大激戦は西軍(新政府軍)が勝利したのだが、白河の回復を図ろうとした同盟軍との間に、戦闘はなお七月中まで続いたと云う
カテゴリ;>戊辰白河口戦争記
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
【コマ 259】
(一)白河関門の戦 1
 白河は奥州街道の関門地にして、山と川とに依りて自然の要害を為し、世に云ふ守るに易き攻むるに難き白河城は、駅街を南にして、峨々として此所に聳立す。戊辰も浅き春の東北の天空は、俄然として、かき曇り、奥羽列藩が、固き同盟の下に、愈西軍に抗すべく、今や共同作戦の陣を敷き、以て守殊防戦の心力を尽して、勝敗を此要害の与奪に堵せんとせるは、また深き所以の存する所たり。
【コマ 260】
 元来、白河城は阿部氏十万石の居城にてありけるが、慶応三年に至りて、城主、棚倉に移封となりて、今は二本松藩の預り也。されど慶応四年の今日城郭には主人無しと雖も、戊辰事件の惹起するに及びて、会津が裏面の主人役、即ち会津が国境を守るには、白河に厳備を張らざる可らざるは勿論、今や奥羽諸藩の共通利害の上より見るも、敵を白河関門に入れざるが、聊も大勝の基礎なり。茲に於て、会藩家老西郷頼母、白河関門の総督将と為り、仙藩白石城主片倉小十郎、奥羽軍の総参謀と為りて、関門の厳備いよ/\整ふ かくて白河を守るものには、会津、仙台、ニ本松、棚倉、石城、相馬、福島 三春、守山の諸軍にして、白河口の力戦、それ西軍を一呼に屠らむと、総軍に志気昇天の慨(がい)あり。
 四月二十五日も夜は深くして、徳川脱藩残党数百人、彰義隊軍監吉村要人介と共に、江戸街道を落ち来るあり。然るに是を追撃せる土州、薩州、長州 大垣の諸軍は、逸早くも坂口及び九番町附近に来りて、此所に夜営の陣を張るに至る。茲に於て、総参謀片倉小十郎、諸将を会し戦守を議して曰く、我軍、白河の戦争は愈切迫したり。凡そ初陣の勝敗は、常に全軍の志気を左右す。然らば我軍是を傍観して、敢て敵の襲来を受くるより、我より進みて、敵の一膽を潰すに如かしと。即ち会津幷に脱軍を進めて、翌二十六日、突如として西軍の営を攻む。西軍狼狽、隊士は恟々として、戦守の砲を発せしかと、奥羽軍の勇猛には當可らす。接戦一敗五里余を退きて、芦野村方面にと其影を歿す。
 白河の初陣、砲声四方に鳴動し、以て西軍の襲来を報ずるや。棚倉家老平田弾右衛門、大兵を擁して界の明神社内に陣を固む。此時に當りて、西軍の主力は既に宇都宮を発し、芦野村に到達す。薩州、長州、土州、大垣、因州 館林、黒羽、彦根、忍の諸軍、奥羽の大空を望み見て、意気揚々昇天の慨ありと云ふべし。されば奥羽軍は、南旗宿の嶮に依り、巨砲を連発して是を防ぐ。然れども西軍大勢の陣は、百砲を放つて四方より進み、砲戦二十八日より起りて、二十九日に終る。其間戦闘昼夜止まず。此間に於て、西軍の鋭鋒は、いよ/\白河城の突破に、全力を注ぐに至る。依て大垣、黒羽、館林の
【コマ 261】
諸軍は、小鹿山の麓を迂回し、南湖を進軍して、棚倉本道に現はれ。土州、因州、彦根、忍の諸軍は、白坂口より左折して、黒川村方面に来る。蓋し黒川より進みて、原方より突入するにあり。奥羽軍は是を望み見て、南旗宿の陣に不安を来せしかば、茲に於て、旗宿を退き、城を顧みて本道を扼守す。西軍、南旗宿の空虚を衝いて、薩州、長州、大垣の諸軍を進め、而して九番町の近邑に逼(せま)りて疾風迅雷、勢ひ甚だ熾(さか)ん也。されば仙台、会津の諸軍は、是を本道に防戦し、その棚倉、石城、相馬の諸藩は、棚倉口に在りて是を扼守し、二本松、会津、福島、脱藩の諸軍は、原方口に在りて、必死を尽して頑守し、彼我の戦闘益々猛烈を極めたり。
 五月一日、本道白坂口関門に當つて、西軍の突進するあり。依て瀬上参謀は、仙台を督して本道に進み、会将一柳四郎左衛門は、会軍を率ゐて原方口に防戦す。須臾(しゅゆ)にして、仙将坂本大炊は、仙軍を督して会津街道の陣を保ては、西軍、白坂及び原方のニ道に進み、巨弾を以て是を壓迫(あっぱく)しつヽ、突進愈猛烈なり。奥羽軍、殊守して弾丸雨注す。激闘酣(たけなわ)となり、西軍主力は轉還し、兵を分ちて三道より迫り来る。その七曲村より進む西軍は、小丸山に向ふものにして、黒川口の西軍は立石山に来るものとし。更に一軍は西三坂山及び大坂山を攻むるものとす。惟ふに小丸山口は西軍の接觸甚だ近く、会将大沼権兵衛は九番丁に虎視し、純義隊長西村人要介は稲荷山に進み、棚将工藤庄左衛門は登り町を固め、更に阿部半右衛門、小川次郎、中野市蔵等の棚将は金比羅山及び大松坂を據守す。而してその西村場は如何と云ふに、天神山及び水神原は会軍是を守り、その立石山は仙軍の固むる所たり。
 さる程に、下黒川口に在りし西軍は、早くも立石山に迫りて、攻勢頗る猛烈を極め、為めに仙軍の凡ては見る/\瓦解して、遂に西軍の奪う所となりて、此所に屈強なる砲陣を置かるヽに至る。茲に於て、西軍は益々勇を鼓舞し、巨弾を以て天神山を連撃しければ、飛弾は新町裏登り町等に落下して、爆音百雷の如し。会将一柳四郎左衛門、同横山主悅、仙将瀬上主膳、棚将工藤庄左衛門等は必死を期して防げども、俯仰の陣形その及ばざるに、苦戦大敗して天神山も侵奪せらる。茲に於て、会軍は米村口に潰走し、仙軍は九番
【コマ 262】
町に逃げ迷ひ、西軍の逆撃に殪るヽもの数十人、棚将阿部内膳、立石山の敗戦に憤激措く能はず、純義隊副長渡邊網之助と共に合戦坂に進撃せんとして八龍神に達せば、遥かの山上東南一帯の地には、薩州、長州、大垣の諸軍は忽然大小の砲を発して、陣形頗る頑強なり。棚軍大砲隊長吉田國之進、榴弾を込めて連撃すれば、砲弾見る/\敵陣に爆発して、味方の意気を鼓舞すること甚だ大也。龍争虎闘、烈戦相當りて奥羽軍有勢にあり。茲に於て、
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.03/21(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
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 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
【コマ 268】
(ニ)棚倉の戦
 白河関門の戦闘地と為りて、奥羽軍連りに是が回復を計りつつある六月、その二十四日を以て、西軍には棚倉攻撃の命は降れり。茲に於て、薩州、長州、土州、大垣の諸軍は、白河関門棚倉本道口に戦守を張りけるが、大命一下忽ち方向を輾還して、本道に進撃戦を取る也。蓋し事茲に至れるは、西軍棚倉藩の虚を看破しての事也。何となれば、白河口の防備に於て、奥羽軍は是が回復を計りて、容易に白河の地を去らざるのみか、却つて戦守を固むる今日、その棚倉藩とて、同盟藩たる責任上、白河口総指揮の命は至重至厳にして、等しく持場を守るべきは勿論なるを以て、此戦況に臨む間は、素より居城の武備を顧るの遑も無し。棚倉の実情それ右の如し。果たして然らば、今や棚倉街道に在りし西軍、俄然その姿を歿して、南進するに至りし□報の起るに於ては、棚倉藩たるもの、何ぞ閑々として居らるべきものぞ。然りと雖も、白河関門の部署を虚にする訳にも参らず、茲に於て、白河在陣の棚倉は、西郷総督将の許可を得て、居城の守備に當るにあり。さりとて大兵を割く訳には非ず、実に寡勢の孤兵に止まる也。武士の去就は、斯る場合に処して、少しは馬鹿げたる感もありけれど、同盟の義約を主位として、自己一藩を客と為すは、飽く迄も奥羽の士道を脱せず、棚倉藩たるもの、能く列藩の武道を体現したるなれ。
 居城守備の許可に依りて、参謀阿部内膳、同平田弾右衛門等は、自藩の孤兵を以て、郷渡村の要衝を保ち、而して大敵此所に防ぐにあれど、西軍の進撃は、破竹の勢を以て、巨門を開いて郷渡の陣を撃殺する也。されば棚軍は必死の勇を揮つて、大に防戦に努めしかど、元来が寡兵なるを以て、力拒遂に敵する能はず、退きて金山村に走れり。棚軍郷渡の敗戦に、白河在陣奥
【コマ 269】
羽軍の本営に於ては、相馬、石城、会津、仙台の諸軍の中より、更に部署を割きて援を送るあり。茲に於て、棚軍は先觸を得て大に踴躍し、而して金山に一戦を交ゆるも、西軍大呼の勢には當る可らず、退きて松原に砲陣を敷くに到る。此時に至りて、白河の援軍は三森、上台に依りて戦守するも、西軍一呼の勢は威風堂々棚軍の陣を抜き、更に急転して三森に逼り、上台を撃つに至る。石城相馬の諸軍、三森の陣を固守して是を防ぎけるが、砲戦一敗地に塗れて部署を壊乱し、而して逆川に遁れ、激闘の戦陣これを遥かに望み見て、その抜く可らざるを知りて、浅川に退却して防備を固む。さる程に、上台の戦闘は猛烈を極めて、仙台、会津の孤兵は烈戦遂に守りを失し、長駆して須賀川に兵を引く。かくて棚軍の孤兵のみ本道の大敵に當るに至りて、是が防禦の策も全く尽き果てヽ、本城の禍危は眼前に横はりたり。
 西軍、上台を略取して、愈攻城の策を決す。薩州、大垣、黒羽の諸軍は、山手の間道して小菅生より進み、長州、土州、館林、彦根、因州の諸軍は、尚も本道に添ふて進撃す。然るに此時に當りて、海軍に依て常州平潟に上陸したる浜道の西軍は、奥州関田村より進み来つて、等しく棚倉に迫るにあり。西軍両道の攻撃陣、巨弾を遥かの彼所より送りて、こヽに攻城の砲声は伝へられたり。されば棚倉藩の孤城や、今や興廃与奪の分岐に掛る火急に臨み、一藩挙げて是が防戦に當るも、其多くは白河に在陣して、漸く警備の許可を得たるものヽみ、是が実戦に當らむとは、勝敗云はずして定まる所、更に列藩の援軍すら、石城、相馬の諸軍は、浅川にて援道絶たれ、仙台、会津の諸軍は須賀川に走るに及びて、本陣の援兵派遣も、今や全く時遅く、向後たヾ城を枕に討死を決する外、更に手の出すべき策は無き也。
 西軍、益々砲弾を送るに至りて、棚軍は孤塁に拠りて、数門の大砲を以て応戦はしたるものヽ、東西の総攻陣には當る可らざる勿論也。かくて巨弾は益々城街に落下して、爆発四方に飛び上り、砲煙朦々、大風襲来して砲火を導き、見る間に黒煙は天に漲りて、棚倉落城の火災は起れり。西軍、是を望み見て、凱歌を挙げて猛撃すれば、飛弾は城郭に爆発し、石垣を破り、土堤を崩して猛弾の往行満目悽惨。此間隊士は鬨高く、焼熱の戦場に向つて、剣
【コマ 270】
を抜いて発す。龍争虎闘、屍山血河となりて、尚戦に堪ゆる者は、血戦陣中に一死を決する也。勇往混乱、城兵みな去るに及びて、棚倉城、こヽに陥落す。
 此時に當りて、平潟口西軍は新田山の険を抜き、総軍大呼して湯長谷藩に攻め入るの形勢にあり。されば棚倉追撃の西軍は此所に屯営して、南門外の民舎を宿営地に當て、而して平城の攻撃を環視するものとす。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
阿部内膳正煕之墓(常宣寺)(2014.06/21)

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 戊辰役棚倉藩戦死者弔魂碑
・蓮家寺境内
  藩士阿部内膳以下四十七名
  郷夫/殉難者十名
  明治庚辰五月 阿部正功
・内儀茂助之墓
  表郷村下羽原
  鹿島神社隣り緑川氏敷地内



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2016.03/19(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/維新の最大疑獄
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 以下は、明治元年(1868)、孝明天皇の良き相談相手であったと云う中川宮(久邇宮朝彦親王)が、慶喜と通じ陰謀を企てたとの嫌疑をかけられ広島藩お預けとされた件である
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奥羽の巻(第二巻)
【コマ 404】
維新の最大疑獄
 奥羽の戦場に、白河陥ち、棚倉陥ち、岩城敗れて、二本松も崩れしと雖も会津若松未だ抜けず、仙台尚遠く、庄内は秋田に迫り、南部頑強にして、奥羽戦争の勝敗さい予知する能はず、天皇愈東行御親征に就き給ふ頃しも、時は八月、京都には流説紛々として、中川親王の険謀画策は喧伝せられたり。曰く、中川宮の御使は、窃かに関東に忍び、徳川浪人に通じて、不軌を謀ると。路頭愈喧騒を極めて、その紀州藩は既に不軌を謀る、事皆中川宮に通ずと。耳語相伝へて飛報は江戸に到り、而して曰く、紀州、水野等中川親王を奉じ、薩長二藩を討伐の画策ありと。東西瀕々、中川宮を中心として、不穏
【コマ 405】
の巷噂となりたり。されば一大捜査は中川宮の身辺に當りて、暗々裏に監視を注ぐと共に、一方には真否糺問と云ふ名目を以て、薩長の巨魁たる岩倉具視の麾下なる、大原重徳卿を勅使と云ふ肩書にて、中川宮邸に、膝詰談判を開始したり。大原即ち中川宮に突進するに當りて、一通の書附をば、是を隠謀の証拠物件として持参するなり。
 惟ふに、中川宮は二條齋敬と共に、徳川の大政返上以来は、専ら謹慎を旨とし、薩長の新政体も千里の遠きに傍観しつヽ、やがて廻り来る時運を待ちて、幽かなる閑日月を暮し越せしもの、されば世事に遠き身の、卒然この噴問を受くるは、全く寝耳に水の観あるなり。
 大原が強制威壓の論議は峻烈を極む。されど隠謀の根跡なき中川宮は、良心に従ひ、正理の命ずる所、大に抗弁する所ありけるが。大原が持参の書附には、既に中川宮の姓名あるのみならず、更に押捺の印影もあるなり。論議は印影の真否如何に帰着したるを以て、宮も黙し難く、慨然として是を論駁して曰く、然らばその確証を示して、予が責任を明かにせむと。その所謂大原が、持参の謀叛書附の印影と、宮が日々に使用する実印をば、是を対照せしめて、相違あるを示されき。有繫(さすが)の大原も事茲に至りて、呆然たり。大原一時は眩惑したれども、左右の言説朦朧に托し、無理を通して遂に巻き込み痛はしくも、不軌の罪名に服さしめたりとかや。而して其後の経過を見れば中川宮は謀叛を理由として、流罪に処せられたるは疑ふ可
らず。

兼テ御不審ノ筋アリ、参朝ヲ止メ、謹慎被仰付置候処、近頃不軌ヲ謀リ、徳川慶喜等ニ密使差遣、内応スヘキ陰謀露見ニ及ヒ、勅使ヲ以テ、御糺問相成、無相違旨言上、容易ナラサル所為甚以テ不届至極ニ付、厳重ノ御沙汰ニ可被及筈ニ候ヘ共、格別ノ叡慮ヲ以テ、安芸藩ヘ御預被仰付候事。

 御沙汰書是なり。思ひは幕末の政局に當りて、精意国事に奔走したる中川宮は、謹慎蟄居、暗雲より隠退したる今日此頃や、突然にも不軌の罪名を以
【コマ 406】
て、安芸藩に檻送せらるヽに至る。當時京都に在りて、よく中川宮の性格を拝承する者(新撰組流浪記)、この流罪処分を批評して曰く、これ冤罪なり。中川親王をして、流罪に処すべき事情は、多々理由の在りて存するなり。(一)幕末に於ける公武一和論者として、薩長の激論手段を妨害したる果報なり。(ニ)新政府は藩閥を以て独占したる結果、目前に忌断すべき危険人物は、多々ある所より、是を除去する精神に於て、親王を貶する必要あり。(三)薩長が愈天下に令するに至るや、共に伏見宮の御生れにして、而かも御兄弟なる、山科宮を奉載するを以て、政見相反する久邇宮(中川宮)の行く末は頗る不安なり。かヽる所より中川宮を片付けざるべからず。
 右は中川宮流罪の根本理由なりとかや。是れ果して事実とせむか。宮の御境遇こそ、気の毒の至りと云ふべし。蓋し幕末に於ける、公武一和と云ひ、佐幕と云ふはみな當時の政治組織に見て、一個の政見にして、時の天下と其見を同ふしたるもの、さればこれに奔走するは、敢て咎む可きなし。果して然らは、其時代に於ては、激論政策なるものも、同一なる政見論たるに今や激論黨か、一朝にして自家に権を握りしとて、過去の経歴を現在に律するは断じて不可なり。惨虐の誹りを免る可らず。その会津追討と云ひ、庄内追討と云ひ、當時に於ける薩長の當路政官は、幾分宿怨を有し、公道を踏むに私心を混入したる嫌なき非ず。
 人は云ひり。中川宮の流罪事件は、維新史上の最大疑獄にして、果たして不軌の陰謀ありや、否や、頗る疑問事なるを以て、當時要路の薩長人には、此疑獄事件に付、一応の弁解を浴すと。噫々。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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