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2016.11/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷副総督、松平太郎公
国立国会図書館デジタルコレクション




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蝦夷副総督、松平太郎公
上圖は太郎公が十七八歳頃の肖像なり
下圖は五稜郭開城と共に東京刑法局に囚送せられ、鍛冶橋監獄(大鳥圭介が設計したる歩兵長屋)に入牢三年、放免出獄の當時、記念の為め撮影したるものと云ふ
--引用;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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徳川義臣傳(松平太郎)(2014.06/13)
慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.11/20(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 4
【コマ 318】
 五月十九日、與坂口に在りし西軍は、草生津の渡に舟を発し、暁気を衝いて信濃川を遡る。かくて長岡に上陸して、その動静を偵察すれば、一藩挙げて国境の防備に就き、城内今や空虚となりて、守備頗る怠る。茲に於て、西軍渡河の船隊は、火を城下に発し、各その大砲に弾を込めて、城兵の混乱を待つにあり。果たして火煙は城郭に迫り、鐘声鳴々耳を破り、民心の愕動また騒然を極めて、長岡城の大火は、焔煙天を焦して四目凄惨を極む。さる程に、砲声は轟然として川岸に湧き、猛弾飛び来つて、殿中に爆発すること頻々、城兵、決死の勇を揮つて、大手門に到れば、西軍の突進捲土重来も啻ならず。督将河井継之助、寡兵を叱咜して防戦必死、今や鏖戦苦闘となりて、城を捨てゝ栃尾に走れり。
 河井継之助、藩主牧野備前守を擁して、栃尾に在り。されば長岡城の変報に愕然たりし奥羽軍は、急遽小千谷口の戦守を解きて駆け来れば、城街今や灰盡に化し、白煙地を這ひて、惨状見るに忍びず。奥羽軍四方より群がり、伍々として栃尾に向ふ。さる程に、薩州、長州、上州、尾張、加賀の諸軍は大勝に乗じて栃尾を衝かむとす。飛報頻々、茲に於て、その二十一日を以て諸軍は兵を橡堀に纏めて、大に戦守を議するにあり。依て會将佐川官兵衛は會津、庄内の精兵を督して、杉澤の駅に至つて一撃を試むるや。西軍は主力を是に注ぎて、大挙して襲ふ。烈戦激闘、遂に佐川は重囲に陥りて、苦闘また如何とも為す能はず、決死の勇猛鬨高く、剣を抜いて囲みを衝けば、折柄進み来りし桑軍の一隊、松浦正明に率ゐられて、佐川の苦戦を救ふて力戦数合、遂に西軍を撃ち破つて、鹿嶺に陣を取るに至る。かくて桑軍は益々加はり、更に大崎駅に屯営して、戦備益々巌なり。
【コマ 319】
 されど西軍の進撃陣は、今や数手に分れて、日を逐つて勢ひ熾ん也。茲に於て、奥羽軍も結束して是に當るの必要を感じ、軍議を加茂駅に開きて、諸軍の向ふ所を部署す。即ち會津、米澤、長岡、仙台の諸軍を以て、左翼の主力と為し、岡将河井継之助、米将甘槽備後、同中條豊後、會将佐川官兵衛、仙将牧野新兵衛等是を督し、而して長岡口に向ふ。更に會津、桑名、米澤、上ノ山、村上の諸軍を右翼と為し、會将一瀬要人、桑将立見尚文、上将松平誠之進、村将鳥居三十郎等を以て、與坂口に向はしむ。茲に於て、別に一軍を起して、庄内、會津、山形、水戸の諸軍を以て、庄将石原多聞、同榊原十兵衛、會将木村大作、同土屋総蔵、水将市川三左衛門、同朝比奈弥太郎等をして、出雲崎口に當らしむ。
 五月二十五日、長岡口に向ふ奥羽軍の先鋒は、大茂駅に至りて、西軍と戦つて是を破り、兵を益々進めて、その逃ぐるを尾撃す。さる程に、與坂口に向ふ奥羽軍は、兵を分ちて二と為し、會津、村上、上ノ山の諸軍は本道より進み、桑名、會津萱野隊の諸軍は、間道より進みけるが、西軍も亦た是を豫知して金崎及び雷塚に陣して、その到るを扼守するにあり。茲に於て、會軍は先鋒の勇を揮つて、突如林の中より猛撃を開けば、西軍愕動して陣営また防ぐ能はず。されば桑将馬場三九郎、同大平九左衛門等は、直下に谷合を降りて攻め立てければ、西軍の狂乱は今や部署を捨てゝ、走らざるを得ず。茲に於て、長将勝原國助、部下を叱咤して力拒堅闘、飽くまでも頑守せんとするや。折しも一鞭高く馬を躍らせたる猛将は、突如として岩壁より現はれ出でたり。勝原、是れを望み見て、その手にせる短銃を発射すること数発、弾、みな當らず。さる程に、馬は益々驀進し来りて、遂に勝原と組打ちせしむ。七離七合、馬首肉薄、一騎打ちの光景こそ、悲絶壮絶と云ふべし。何ぞ是れ桑将馬場三九郎の、鋭刀を振りかざして、勝原を殪さんとするもの。勝原、今や頭を斬られて、鮮血淋漓。されど未だ屈せず。刀尖縦横に輝き、勇猛鬼神の如し。馬場、今や両手に刀を持ち、大渇是を叱咤して、遂に勝原の腕を斬り落す。勝原、最早戦ふ能はず、馬首を返して一目散と逃ぐるや、折しも横合より出づる槍尖、その胸を刺すに及びて、猛将遂に落馬し、桑藩小
【コマ 320】
池勇八、勇み来つて、その首を取る。
・・・
( 5へ続く)
( 3へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.11/13(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 3
【コマ 316】
 五月五日、此日は節句の吉日とて、四方屋内に祝し、戸外は鯉ノボリ揚々として、天地自ら喜色あり。曩きに長岡藩は厳正中立を標榜して、小千谷西軍の軍営に指り、天下の大計を具状して許されず、茲に起止を明立して、断然西軍に抗争せんとするに當り、薩賊長奸討伐の血祭を兼ね、奥羽戦陣を祝さんとして、藩主牧野備前守公より酒肴あり。隊士、剣を収めて盃を交はし熱膓昂墳、気焔実に萬丈なり。やがて一発の号砲の轟くや、長岡藩の戦闘準備は茲に成り、家老河井継之助、軍事奉行萩原要人、同山本帯刀等は、何れも武装厳めしく、いよ/\戦陣に就くに至る。茲に於て、米軍督将上杉主水、越後口奥羽軍の総軍令となり、米澤、長岡、會津、庄内、村松、村上、仙台、桑名、水戸、上ノ山及び幕府衝鉾隊、遊撃歩兵隊の諸軍を以て、いよ/\その向ふ所を部署す。
 妙見口に在りし西軍は、今や六日市村に屯して、浦柄山を本陣と為し、更に城山に要害を固めて、戦守いよ/\巌なり。茲に於て、十日未明を以て、奥羽軍は本道間道に兵を進めて、一挙して是を屠らんと。即ち會将佐川官兵衛、庄将中村七郎左衛門、米将芋川大膳、岡将山本帯刀等は本道より進撃し。桑将町田老之亟、同大平九左衛門、會将一瀬要人、幕府遊撃隊長伊庭八郎等は、その金倉山の嶮を踰え、間道より進む。さる程に、西軍の一隊は信濃川対岸に在りて、本道の形勢を偵察し、早くも川を渡つて榎嶺に據り、更に後詰め本軍と共に挟撃陣を開きて、忽然本道の奥羽軍を猛撃するに至る。奥羽軍奮闘烈戦相當り、而かも進む能はず、此間に於て、間道進撃の奥羽軍は、大挙して突進す。長州奇兵隊、勇猛頑強よく是を防ぎけるが、夜に入りて遂に潰え去る。茲に於て、本道の奥羽軍は勇躍して兵を進む。西軍、榎嶺の大敗に憤怒惜く能はず、翌十一日の払暁を以て、再び榎嶺に攻め来る。されば會津、長岡、桑名の諸軍は、三方より攻め立てゝ、攻防烈戦惨また惨を極め、遂に西軍を撃つて走らせり。此時に當りて、岡将萩原要人は、長岡、會津の諸軍六百人を擁して、榎嶺を東南に去ること十余町、朝日山と云ふ所に陣し、嶮に就いて是を固守す。十三日は折柄の大霧、暁天尚暗く四顧を辨ぜず。西軍、榎嶺の一敗を挽回せんとて、長軍奇兵隊を先鋒と為し、鼓声堂々、殊死
【コマ 317】
先陣勇を揮つて、捲土重来も啻ならず。會軍数十人、その麓に前衛陣を張りけるが、西軍の躍進尋常ならざるに辟易して、先づ潰走して本陣に投ずるや。西軍、機に乗し抜刀鬨を挙げて、驀入し来る。朝日山の奥羽軍、今や銃を収めて敢て戦ふ事を為さず。その屏息の状は、榎嶺に在りし桑軍をして憤激せしむ。茲に於て、立見尚文、部下を率ゐて来り是を保てば、長岡會津の諸軍は、既に/\戦守を解きて、倉皇として下山するにあり。されば立見尚文は、大声を放って是を叱咤し、逃ぐるを捕えて、防戦最も力む。攻防烈戦、噴煙渦巻き起りて、天地為めに崩れんとす。然れども、西軍遂に利あらず、みな右往左行となりて、四方に潰走するに至る。
 此時に當りて、六日市村に在りし西軍は、城山及び浦抦山の嶮に陣し、以て本道の奥羽軍を攻む。茲に於て、會津、米澤、庄内、長岡の諸軍は三道に相分れて、城山に逼れり。されと西軍は高きに在りて、是を俯観し、防戦頗る頑強を極む。さる程に、三道の奥羽軍は城山に群がり、烈戦奮闘鬨を挙げて猛進し、一挙して此所を破り、西軍の逃ぐるを追て、遂に浦柄山の本陣に到る。此所は西軍の本據地、堅塁四方に連り、砲座また高きに在りて、砲銃共に俯観の陣たり。されば奥羽軍騎虎の勢ひを以てするも、その陣形の不利なる所、配陣また意の如くならず、堅守奮闘、龍争虎撃、天地轟々として日夜止まず。折柄降りしきる五月雨は、四面を雨露に包みて、対戦一層の困難を加ふ。されば隊士は嶮難岩頭に起ちて、西軍狙撃の中に頑守し、その弾薬兵粮の如きは、谷合深き森林の奥底に置き、是が運搬歩行は、縄を辿りて昇降し、其苦辛また言語に絶す。西軍の接戦日夜に止まず、かくて十八日に至れば、霖雨は変りて嵐と為り、大風起りて天地は震動迅雷と為りたり。茲に於て両軍の砲声全く止み、諜旨また西軍の守備怠るを確知す。岡将山本帯刀 米将千坂太郎左衛門、庄将石原多聞等は、暗夜を衝いて浦柄本陣に忍び入り矢庭に火を放つて、その軍営を焼く。火煙曚々見る間に天に漲り、西軍惶擾また防ぐ能はず。此間に於て、奥羽軍は一斉に猛撃を開始し、更に會津上ノ山の諸軍を迂回せしめて、小千谷口本道に伏兵陣を張らしむ。米将千坂太郎左衛門、上杉主水の命に依り、突撃を令して鬨高く、総軍大呼して陣を屠り
【コマ 318】
尚も尾撃して圧迫頗る急也。敗士の混乱漸く本道に出づれば、その足もとに虎視を張れる奥羽軍の伏兵、會将佐川官兵衛と共に、剣を引き抜いて突入當る可らず、更に桑軍の急馳するありて、奥羽軍の志気昇天の慨あり。敗報、小千谷の本営に達す。西軍、忿怒措く能はず、直ちに千数百の援兵を送りて、本道に向つて逆襲せしむるも、戦闘猛烈尚勝敗遂に決せず、日、遂に暮る。依て奥羽軍は明朝を俟つて大挙して小千谷に向はんとす。
 五月十九日、・・・
( 4へ続く)
( 2へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.11/09(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 2
【コマ 314】
 此時に當りて、本道の西軍は小千谷口に来る。會津、長岡、村松、村上の諸軍は會将佐川官兵衛に率ゐられ、烈戦奮闘頑強に抵抗しけるが、折柄の大雨に、奥羽軍の武器たる火縄銃は、半ば発火する能はず、唯だ空銃を手にして、陣中に馳駆するのみ。二十六日の敗戦に、二十七日も敗れ、二十八日の西軍突撃は、連勝に乗ずる威風當る可らず、本道の奥羽軍は、みな遁れ/\て長岡城に群集す。さる程に、間道の西軍は益々進みて、桑軍を襲ふ。桑軍既に小千谷の敗報に力折れ、退きて柏崎を保たんとす。
 五月一日、西軍の間道進撃に、桑軍は三手に分れ、立見は赤田に陣し、馬場は大塚を保ち、町田は内方に屯営して、而して是を迎え戦はんとす。時に水戸結城黨の残黨六百人は、市川三左衛門等に率ゐられて、脱走して出雲崎に在り。鯨波の接戦に参加せんとして、荒浜に来りけるが、薩州賀州の兵に破られて、退きて椎谷を固む。西軍尚進んで宮川より攻め立て、椎谷に迫つて戦闘尤も力む。水軍力拒而かも衆寡敵せず、遂に敗れ去る。西軍の一隊は右翼の陣を保つて、春日より入りて、赤田の桑軍を襲ふ。桑将富永大兵衛、兵を撒兵して接戦最も努め、西軍遂に進む能はずして、砲声のみ天を衝く。折しも西軍後背に起る鬨の声、山岳の並木に連呼して、勢ひ甚だ熾ん也。西軍是を望み見て、早くも味方の援護と察知し、剣を揮つて突進す。富永、頑守金鐵の如く、奮撃突戦、血戦相當りて兵を益々激督し、攻勢を取つて驀進す 西軍、その防ぐ可らざるを見て、急騎を後背に飛ばして、急援を請ひけるが何ぞ計らん、そは桑名、水戸の諸軍にして、立見尚文の是を率ゐて、既に既に弾を込めて、陣を守つて西軍を待つもの。忽然大小の砲を発射して、西軍を衝くこと、疾風迅雷も啻ならず。茲に於て、西軍全く膽を潰し、土崩瓦解となりて、兵を遠く引く。
 五月二日、本道に在りし奥羽軍は、小千谷進撃として、片貝村に迫つて兵を進む。時に老幼土民の避難は駅外に連り、騒動混乱また名状すべからず。是を土民に問ひは、西軍大勢押し寄せて、駅中既に陣を固むるに至りしと云ふ。茲に於て、會将野口九郎は間道に進んで、片貝村の右翼先鋒と為り、會将木村利左衛門は東方の先鋒と為り、會将土屋総蔵は砲兵隊と共に、本道口
【コマ 315】
に陣し、部署既に成る。會将佐川官兵衛は、長岡、會津、米沢、庄内、幕府浩義隊の諸軍を督して、更に本軍と為り、以て虎視を片貝村の四囲に張る。果たせるかな、霹靂一声天地を衝いて巨弾数発、あなたの叢林より轟然として飛び来る。奥羽軍是を望み見て、勇気百倍し、本道間道の砲門を一斉に発して、接戦破竹の勢あり。さる程に、庄将榊原十兵衛の率ゆる庄軍は、逸早く山上に駆け上り、弾を益々込めて、俯観して西軍を撃つ。然れども此所に迫れるものは、薩州、長州、加州、高田、富山の諸軍千余人、何れも長岡攻撃の先鋒兵たる事とて、頑強勇邁一歩も退く事を為さず、猛然起つて、本道口を突破せんとす。會将土屋参謀、勢ひ抜く可らざるを見て、砲を挽いて百歩を退くや、其虚を衝ける加州の精鋭、鬨を挙げて驀進し来り、田畝の間に在りて、堤上に陣し、発銃最も猛烈也。會将佐川官兵衛、是を遠きに望み見て、憤戦措く能はず、土屋を叱咜して突進せしむ。時に本道を目掛けて駈け来る一隊、土屋の陣を乗り越して、矢庭に加州の陣に斬り入る。奥羽軍是を見て、何所の兵なるを知らず、衆皆其勇気に恐れ入る。是れ上ノ山藩松平誠之進の率ゆる一隊也。會将佐川官兵衛、片貝の一戦會藩先陣を遅れしを慨し會軍を先鋒として、大挙本道を驀進す。疾風迅雷、蹄底土煙を起して、威勢また岩をも衝かんとす。西軍、辟易してまた防ぐ能はず、逸早く小千谷口に敗走す。
 奥羽軍、片貝村の一勝に乗じて、大挙小千谷に向つて進撃す。惟ふに此地一帯は山岳重峰、道路また嶮を以て鳴る。本道を差し挟む山脉は、さ程にも高からねば、虎視を四方に配つて、行軍を続けしか、果たして軍旗は高く天を刺し、○八の大白旗に続いて、赤旗十数旒、點々として南風に飜るを見る。戦陣たゝ異常の光景は、俄然として砲声萬山に轟き、銃丸また飛び来ること霰の如し。奥羽軍愕然俄かに戦守を張り、兵を配りて将に猛撃に移らんとす、折しも砲声を合図に出動したる西軍、小千谷より蹶起(けっき)して、本道を攻め来る山上の西軍俯観の陣、今や砲銃を乱発して、攻勢抜く可くもあらず、本道の逆撃陣、また弾丸雨注して豨突するには、有繫(さすが)の奥羽軍も敵す可らず、土崩瓦解となりて、長岡城に逃げ込めり。
【コマ 316】
 五月五日、・・・
( 3へ続く)
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.11/08(TUE)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
【コマ 312】
(二)北越の接戦 1
 西軍の進撃今や奥羽越の連携を誘致せしめて、大呼して長岡に向ふ。茲に於て、長岡藩は蹶然起つて、會軍を収め、小千谷、妙見口、榎嶺の三道に兵を進めて、西軍の進撃を防がんとす。此時に當りて、桑名藩主松平定敬は、その日光口に在つて、幕府陸軍奉行松平太郎の論告を聴き、退いて其領柏崎の陣営に在り。然れども、定敬、素より戦守を張るに非ずして、同地勝願寺に在つて、専ら屏居謹慎にある也。されど西軍の参謀等は、その柏崎の陣営
【コマ 313】
を理由として、断然謹慎の實意を聴かず、却つて討伐を期するにありしかは領民を保護して、塗炭の苦を除くは、領主たる武門の習はしとて、茲に於て萬一の防戦を計りて、兵制の大改革を行ひ、桑名藩軍事奉行立見鑑三郎(尚文)を総督将に任じ、松浦正明、町田老之亟を隊長に補し、富永大兵衛、馬場三九郎、大平九左衛門等を以て参謀と為し、山脇十左衛門に総軍監を命じて、而して柏崎の陣営を守るにあり。
 果たせるかな、閏四月十六日に至れば、西軍の一隊は既に高田を発し、左翼兵を青海川に進め、右翼兵を小村嶺に送り、更に精鋭を谷根小菅に注ぎて早くも柏崎に攻め寄せたり。茲に於て、藩主定敬は、加茂町の寺院に宿りて、向後の成り行きを俟つ。桑軍、西軍の襲来を聞きて憤慨措く能はず、然る上は一戦たゞ死あるのみと。即ち立見尚文は婦人坂の嶮に據り、松浦正明は広野嶺に陣し、町田老之亟は大河内に在りて、先づ防備の砲火を開く。
 西軍の一隊小村嶺に押し寄するや、會将木村大作、山浦鐵四郎等は、幕府歩兵遊撃隊(隊長古屋作左衛門)の一隊を率ゐて、上條口に進み、而して小村の敵を防ぐ。さる程に、町田参謀の督する桑軍は、小河内の城山に陣して、俯して弾丸雨注す。西軍殊守遂に崩れは、町田は追撃尚進んで、遂に米山の要害を抜くに至る。かくて二十六日に至れば、雨気天地を覆い、夜は暗黒となりて、大風襲来す。茲に於て、立見尚文は地理に明ある土民を先導とし、西軍山上の営に向つて、兵を注げば。山上今や炬火を起して、暗夜尚明星の如し。立見四方を警戒しつゝ、銃に弾を込め、谷根より青海川岸に添ふて進軍しつゝ動静を監視す。やがて暁に至れば、炬火次第に消え、牒者の報知に依りて、西軍の守備怠るを知る。茲に於て、総撃を令し、大呼して迫る。西軍惶擾殆んど戦守に苦しみ、土崩瓦解となりて、鯨波の嶮に據れり。立見、兵を益々激督し、巨門を放つて追迫益々急なり。西軍遂に防ぐ能はず、鯨波を捨てゝ走る。さる程に、西軍の逆撃陣は忽然百砲を発して、鯨波を突き、二手に分れて、広野嶺を攻め、婦人坂を攻撃するに至る。桑軍堅闘よく二道を防ぎ、遂に攻勢を取つて、再び鯨波駅に進み、奮撃突戦、更に西軍を破つて、将に大に為す所あらむとす。
【コマ 314】
・・・
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--

桑名藩隊行動概略図
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2016.10/10(MON)

横浜村での日米交渉の様子を描いた錦絵




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--↑引用;企画展案内冊子「幕末維新期の点描/そのとき小山は」から(絵図)--

ペリー艦隊との交渉 林 復斎(はやしふくさい)
 翌安政元年(1854)正月にペリー艦隊が再来。復斎は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として老中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。復斎はすでに当時の諸外国の動静を理解しており、鎖国(海禁)体制の現状維持は困難と考え、異国船への薪水食料の給与程度はやむを得ずと判断し、ペリー艦隊との交渉でも柔軟に対応した。ただし、通商要求に関しては時期尚早として断固拒絶した
 長期にわたった交渉の中で江戸城に登城し、老中の阿部や海防参与の水戸藩主徳川斉昭などにも交渉経緯を伝えるなど、江戸と浦賀を往復した。米国側からは「55歳くらい。中背で身だしなみ良く、厳粛で控えめな人物」と評されている。復斎は米国艦隊との交渉記録を後に『墨夷応接録』(墨夷はアメリカのこと)にまとめている
和親条約締結と下田追加条約
 3月3日(1854)、横浜村において日米和親条約が締結。条文は日本文、漢文、英文の3種類で交換されたが、日本文での署名者は復斎を筆頭としている。ただし、日本側が英文版への署名を拒否したため、国際法上の条約締結の体裁が整わず、また条約正文を何語にするかも結論が出なかったため米国側は困惑した
 そこで新たな開港地として予定されていた下田・函館をそれぞれ米艦隊が視察した後、下田で再び交渉を行うこととなった
 覚弘と鵜殿鳩翁が下田取締掛として任命され、目付岩瀬忠震・永井尚志なども下田へ派遣されたが、依然としてペリーとの交渉役となったのは復斎であった。この地における交渉で、漢文版を廃して条約正文を日本語・英語・オランダ語の各語版とすること、英文版へ日本側全権が署名すること、異国人遊歩地の範囲や批准書交換などその他の手順が決定され、下田追加条約(additional regulations、日本側は「条約附録」と呼んだ)が締結。復斎は大任を果たした
※ 林 復斎(はやしふくさい)
--引用・要約;「林 復斎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.06/20(月)14;07--

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--↑引用;企画展案内冊子「幕末維新期の点描/そのとき小山は」から(絵図)--
 写真上左 伊澤美作守 浦賀奉行
    中 林 大学頭 交渉団筆頭
    右 戸田伊豆守
   下左 中島三郎助 浦賀奉行所与力
      (三)千代ヶ岡の追落(2016.02/21)
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2016.10/03(MON)

西南戦争警視隊戦記 マツノ書店(予約限定出版)




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リーフレットの写真↑、上は政府軍司令官谷干城

西南戦争警視隊戦記 マツノ書店(予約限定出版)

谷干城(たにたてき)
天保 8年(1837)- 明治44年(1911)
明治10年(1877)
 熊本鎮台司令長官のとき、熊本城にあって攻防戦を指揮、52日にわたった西郷軍の攻撃から熊本城を死守し政府軍を勝利に導いた
※ 戊辰戦争では板垣退助が率いる迅衝隊大軍監として、北関東・会津戦線を戦い抜く
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2016.09/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
国立国会図書館デジタルコレクション




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箱館戦争概略図 1

※明治 2年(1869) 4月12~14日
蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
【コマ 444】
(一)二俣口の戦
 西軍第三軍は乙部村より北進して、間道二俣口に逼るにあり。夫れ二俣の地たる、蝦夷軍北邊の要害たると共に、江差と相俟つて西海岸の防備なり。されば蝦夷軍に於ては、陸軍奉行土方歳三を総督将と為し、傳習、衝鉾、工兵、砲兵の諸隊を送りて、山間険難の地を選びて、絶壁に陣営を置くものとす。
 四月十二日、西軍先鋒は、馬首肉迫して、暁霧を冐して二俣口の前衛を襲ふ。折しも蝦夷軍は糧食を取り居たることゝて、突然の襲撃に、一営惶擾殆んど戦守に苦しみ、退いて急を本陣に告ぐ。依て傳習隊は進んで山谷の険に據り、弾を込めてその到るを待つや。松軍先鋒の西軍は、□一勝の勢ひに乗じて、いよ/\二俣陣に現はれ来る。茲に於て、傳習隊俯瞰の陣は、弾丸雨注して攻め立つ。西軍、驚き迷ひ、仰へて是に接戦しけるも、俯仰の接戦遂に堪ゆ可らず、逸早く陣を捨てゝ走り去る。砲声本陣に達し、戦勝の報を得て蝦夷軍の志気大に振ふ。さる程に、□の隊旗を押し立てゝ、弘軍の精兵は、先陣の勇を揮つて、傳習隊を目掛けて、大呼豨突す。彼我の接戦いよ/\酣となるに至りて、松前、大野、長州の諸軍は、傳習隊の疲労を衝いて、突進甚だ急なり。然れども傳習隊の作戦巧みに妙を極め、更に高地を占むる陣形なるに依り、西軍、大兵を以て是を攻むるも、容易に進む能はず、大砲を並列して互に砲撃す。折しも薩軍は山手に深入し、迂廻して二俣本陣を襲はんとせしが、此時傳習隊を援けんとして来れる衝鉾隊と、俄然途中に於て相会し、隊士の惶擾殆んど混乱し、土崩瓦解となりて走り去る。かくて日も暮れ
【コマ 445】
て西軍は兵を引く。土方歳三、全軍に令して曰く、『敵、この山谷に在りながら、更に間道を迂回するに於ては、何れより攻め寄するか計り難し、さらば諸隊は、一同此岩砦に據り、今夜は徹夜の警戒を為さむ』と。依て全軍は本陣に在りて戦守を固め、偵察を頻りに派遣して虎視す。果たせるかな、西軍の夜襲は、大呼豨突の勢を以て、二俣本陣にと攻め来る。蝦夷軍の砲兵隊、西軍を大陣地の中に収めて、巨弾を注ぐこと猛烈。さる程に、西軍歩兵は砲弾の下を潜行し、鳴りを殺して、愈々本陣の砦下に進み、突如として弾丸を雨注す。蝦夷軍、此襲来に驚き立ち、俄かに榴弾砲を呼び寄せて、縦横無盡に乱撃すれば、電光石火、爆裂四方に轟き、天為めに崩れんとす。
 両軍の戦闘日夜に兼行し、十三日の曙光、ほの/\と東に昇る。されど暁霧は益々疊み、両軍の対峙解けず。茲に於て、蝦夷軍は大霧に乗し、衝鉾隊を先鋒として、西軍の疲労を衝くに鬨を挙げて発す。参軍大川正次郎、同大島寅雄、同畠山五郎七郎等衝鉾、傳習の諸隊を督して、急転直下砦下を掃蕩し、逃ぐるを追つて、遂に弘軍の陣に迫る。弘軍堅守銃を乱発して、相接戦する程に、その薩軍は大野、松前の敗軍を還り返して、大に畠山の陣を横撃するに至る。左右の猛撃に、畠山、遂に敵する能はず、百歩を退きて是を防げば、二俣の本陣横背に進みて、西軍の足もとに銃を発す。西軍惶擾兵は疵れて起つ能はず、土崩瓦解となりて遠く引く。さる程に、西軍荒手の精鋭は忽ち攻め来りて、肉迫捲土重来し、左翼に銃手を保つて、抜刀して進み来る。蝦夷軍殊守尚當る可らず、退きて再び岩砦に據りて是を防戦す。西軍益々後続兵を増し、一挙に此所を抜かんとして、突戦前日の談に非ず。龍争虎闘、砲銃の乱撃彼我に起り、隊士の殪るゝもの其数を知らず。されど此所は難攻の要害地、守備兵は僅かに五ヶ小隊と雖も、西軍大勢七連発の元込銃隊に當つて、優に是を支ゆるに足るもの。二昼夜に亘る攻防の激戦、蝦夷軍の一銃千発を放つて、銃身既に熱し、冷水を桶に汲み取り来つて、砲銃を是に浸しつゝ、発銃益々頑強也。されば西軍の鉄砲も発熱全く用を為さず、浸水の余暇も無き圧迫に、今や屍山血河となりて、苦戦大敗、日の暮るゝを待つて、遂に潰え去る。此戦争に於て、蝦夷軍は三万五千の銃弾を要したると云ふ。
【コマ 446】
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

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二俣口の戦い
 箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した
     *
明治 2年(1869)
・ 4月 9日 乙部に上陸した新政府軍1500名は3ルートから箱館に向け進軍を開始する。二俣口ルートは箱館への最短路で、稲倉石から二俣、大野村に至る峠越えのルートであった。大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河し、正面の台場山を越えるか或いは迂回するかとなる。新政府軍は軍監駒井政五郎が松前・長州藩兵など500を率いて進撃
・  10日 旧幕軍(蝦夷軍)は陸軍奉行並・土方歳三が衝鋒隊2個小隊と伝習歩兵隊2個小隊など300の兵を率い、台場山に本陣を置いた
・  13日 江差から進軍してきた新政府軍、天狗山を攻略しそのまヽ台場山本陣に攻撃を開始する
   自他ともに兵を繰替翌十三日朝第七字過迄十六時間の戦争、敵進む能わず終に引退く。此段我兵の費す所の弾薬殆んど三万五千発に及び、・・・(「麦叢録」・小杉雅之進)
※↑で、「十三日朝第七字過迄」とあるのは、「十四日朝第七時過迄」と読み替えると解り易い?
・  14日 新政府軍、銃弾を撃ちつくし、疲労困憊して稲倉石まで撤退
・  16日 新政府軍、第ニ陣2400名が江差に上陸すると二俣方面に援軍(薩摩・水戸藩兵ら)を派遣する
・  17日 以降)旧幕軍、滝川充太郎が率いる伝習士官隊2個小隊が増強
・  23日 新政府軍、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる 
・  24日 未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行
・  25日 未明、新政府軍、撤退しこれ以降台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する
・  29日 二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕軍は矢不来で守勢に回っていた。その後矢不来が突破されたことにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる
--引用・要約;「二俣口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.04/15(水)14;19--



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2016.08/31(WED)

函館戦争図




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 戦争の日本史18
 戊辰戦争
 保谷徹著/吉川弘文館2007年初版発行
--この本のカバーから--
函館戦争図 市立函館博物館五稜郭分館所蔵
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箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2016.08/22(MON)

忠が不忠になるぞ悲しき 水戸藩諸生党始末




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水戸藩諸生党始末
忠が不忠になるぞ悲しき
 穂積忠著

・目次
  まえがき
 諸生蜂起
 南上
 下妻戦争
 水戸帰還
 大発勢水戸へ
 那珂湊戦争
 部田野原
 天狗党勢大子へ
 藩政改革
 天狗党壊滅
 幕府目付下向
 水戸脱出
 越後戦争
 会津戦争
 水戸へ
 弘道館の戦い
 脱出行
 松山戦争
 潜伏
  参考文献
  あとがき

2011年 7月20日初版/発行所・株)日新報道
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市川三左衛門(水戸諸生党) (2016.08/19)



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