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2017.04/25(TUE)

川路大警視 彰義隊の撃滅
マツノ書店復刻版




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目次 ※一部
第一章 少年時代と其環境
第二章 島津斉彬公の偉大なる感化と訓陶
 一、斉彬公の襲封と士民の翹望
 二、開国進取主義と富国強兵策
 三、大義名分上千古の卓識
 四、公の薨去と士民の慟哭
第三章 藩内外に於ける君の活動
 一、文久二年の上京と出府
 二、久光公の帰国と海防準備
 三、文久三年の薩英戦争と再度の上洛
第四章 王政復古と戊辰役
 一、比志島青年の指導訓練
 二、太守茂久公の上京と利良君等の従軍
 三、戊辰役と利良君等の転戦
    戊辰役の導火線
    鳥羽伏見の戦
    比志島抜刀隊の奮撃
 四、利良君東征の途に上る
    宇都宮其他の形勢視察
    江戸開城と利良君の入城

「川路大警視」マツノ書店復刻版、p.74
慶応 4年(1868)
彰義隊の撃滅
慶喜恭順の意を表するや舊幕臣の之に服せざる者相結び、彰義隊と称して上野東叡山に據り、輪王寺宮公現
法親王を奉じて、徳川氏の恢復を計る、澁澤誠一郎之が隊長たり。五月十五日、西郷南洲大村益次郎等、薩
摩、長州、肥後、備前、大村、佐土原諸藩の兵を以て東叡山に迫り一は正面の黒門口より向ひ、一は本郷湯
島台方面より背腹を衝く、・・・
--引用;川路大警視・中村徳五郎著--

    東北の転戦
    凱旋賞賜と兵具奉行の任命
第五章 明治新政と警察制度の創設
第六章 征韓論の破裂と利良君の態度
第七章 警視庁の創設と其活動
第八章 西南役と川路大警視
第九章 西南役後の大警視
第十章 大警視の餘栄遣芳
年譜
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川路大警視(2017.03/02)



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2017.04/03(MON)

写真展 那須塩原市三島 5-1 那須野が原博物館/エントランス・ギャラリー




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 史跡探訪を始めて5年になる。区切りとして写真展をさせて貰った

慶応四年(1868)
栃木福島の戊辰戦争史跡・写真展
・会場;那須塩原市三島 5-1、那須野が原博物館/エントランス・ギャラリー(無料)
・期間;2017年 4月 1日(土)~ 4月16日(日)※休館日;月曜日
・写真一覧 44点
  小山市   海老原清右衛門墓
  益子町   長棹速己(速水)之墓
  足利市   梁田戦争戦死塚
  宇都宮市  官軍七首級之墓
  宇都宮市  桑名藩七名墓
  宇都宮市  戦士死十七名霊
  宇都宮市  六道辻「戊辰役戦士墓」
  壬生町   丹波山国隊・戦死二名墓
  壬生町   戊辰役三志士墓(安塚)
  日光市   ちくう君(小花和重太郎)の墓
  日光市   大鳥軍参謀柿澤勇記墓
  今市    戊辰戦争隊士の墓
  今市    第二次今市戦
  藤原    小原沢「殉難碑」
  黒羽    黒羽藩戦死吊祭塔
  西那須野  親王台
  塩原    沖長三郎墓
  塩原    四、塩原駐留
  三斗小屋宿 戊辰戦死若干墓
  板室    戊辰戰死供養塔
  下郷町   大峠(会津中街道)
  上三依   上三依野仏群
  横川    会津西街道横川一里塚
  横川    会津西街道横川宿
  田島    官軍・戰死十九人墓
  下郷町   戦死二十四人墓
  白河市   白河城本丸南面の石垣
  白河市   會津藩戊辰戰死十二士之墓
  白河市   棚倉藩鎮英碑
  白河市   (四)薩州藩の碑
  白河市   慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)
  白河市   会津藩戦死墓と銷魂碑
  白河市   仙台藩士戊辰戦歿之碑
  白河市   戦死供養塔
  白河市   海老名衛門君碑銘と戦死塚
  郡山市   母成峠
  猪苗代町  十六橋
  会津若松市 戊辰戦争戦死者の墓群
  会津若松市 二十一人之墓
  会津若松市 凌霜隊之碑
  会津若松市 長岡藩士殉節之碑
  喜多方市  佐藤銀十郎の墓
  只見町   河井継之助墓
  大玉村   戦死三十一人墓
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那須野が原博物館
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那須野が原博物館(2012.07/27)



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2017.03/06(MON)

越ノ山風 山縣有朋公




山縣公は慎重のうえにも慎重な性格であったらしい。そんな公の著作による「越ノ山風」の一節を以下に引用してupする(5月19日、新政府軍は長岡城を落としたが追討する余裕は無かった。7月25日、一度落とした城を同盟軍に奪還されて、その時の心境等を書いたものである)

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引用(部分);国立国会図書館デジタルコレクション/陸軍省編修掛編(陸軍省編修掛、1930)
【コマ 108】
越ノ山風 自七月廿六日/至十月七日
【コマ 109】
長岡ヲ取リ返サレタルコトハ、大イニ諸藩ノ人心ニ影響ヲ及ボシ、中ニハ急使ヲ京師ニ出シテ、事変ヲ報告スベキ乎ナド、照會シ来ルモノモアリタリ、余ハ三日ノ中ニ必ス長岡ヲ恢復スヘキニツキ改メテ京師ニ報告スルノ必要ナキ旨ヲ以テ、之ヲ斥ケタレドモ、要スルニ是レ敗餘ノ人心ヲ鎮静シ、以テ神速ニ攻撃ノ画策ヲ立ツルノ決心ニ過キス、諸兵ヲ集注シ、総テノ準備ヲ為スニハ、多少ノ時日ヲ要スルコト勿論ニシテ、長岡恢復ノ困難ナルコトハ、其実余ノ頭脳ヲ苦シメツヽアリシナリ
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山縣有朋記念館(2012.11/20)
長岡城落城(2015.01/24)



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2017.03/02(THU)

川路大警視 中村徳五郎[著]/マツノ書店復刻版




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川路大警視 /中村徳五郎[著]
付・大警視川路利良君伝/鈴木蘆堂[著]
維新史料出版・古書売買の「マツノ書店」さんから、予約限定復刻の案内が届いた。よく/\検討したうえで「川路大警視」のみの予約申込みをした
     *
「西南戦争」で陸軍少将を兼任。日本警察の父・川路利良を描いた稀書二点を合本復刻
--リーフレットから--
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幕末期の戦功
元治元年(1864)、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。慶応3年(1867)、藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ
慶応4年(1868)、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷が癒えると会津戦争に参加。戦功により明治2年(1869)、藩の兵器奉行に昇進した
--引用・要約;「川路利良」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.02/21(火)23;50--



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2017.01/27(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 7
【コマ 323】
・・・
 折しも新発田藩主溝口伯耆守は、俄然として動静を一変せる形迹あり。茲に於て、津川に在りし桑名藩主松平定敬は、報を得て憂苦措く能はず、軍事奉行を送りて、往いて新発田を勸説し、同盟の實を挙ぐるに、藩主を津川に預らんとす。然れども新藩是を聴かず。されば六月十八日を以て、村松藩を先鋒として、會津、桑名、米澤の諸軍を以て、いよ/\新発田城に迫り、大に厳談に及べば、新藩畏怖して異心なきを誓ひ、兵を出して、奥羽軍と共に長岡口に向ふ。以来新発田藩の奮闘、接戦最も努むる所、諸軍、毫も其の異心を疑はず。然れども、新発田藩は、上野征伐につき、既に西軍に欵を通じたるもの、今奥羽軍に伍するも、一度西軍の圧迫を受くれば、旗幟暗々、奈何なる変轉も計る可らず。内実恰も薄氷を踏むにも似たりと云ふべし。若しそれ新発田が、終始一貫、その態度を奥羽軍と共にするあらば、越後口の戦争は、西軍百万を以て當るも、容易に抜く能はざるものゝ由、然るを事茲に出でざるは、會津を追落する唯一の動機となると云ふ。當時越後口西軍に歌はれたる軍歌を見るに「會津殿様トンボの性よ、新発田掃木(伯耆)に落され
【コマ 324】
た」とは、又以て知るべし。余談はさて措き、新発田先鋒とする奥羽軍は、直ちに見附の苦戦を挽回せんとして、南進するに至る。さる程に、曩き(さき)に見附に迫れる西軍は、新発田口奥羽軍の襲来を耳にして、各要衝の地に兵を配り、而して其進撃を阻隔せんとす。然れども奥羽軍は、見附を挽回せんとするもの、疾風迅雷、早くも前衛を破りて、二十二日には、見附に迫れり。時に西軍は福島及び大黒村に在りて、奥羽軍の後背を保つに至りしかば、長岡、會津、庄内の諸軍は、此所に迫りて勝敗を決せんとして進む。されば奥羽軍は初めより攻勢を取るものなるを以て、突戦頗る頑強を極め、砲銃の発射天地を破りて、硝煙朦々忽ち駅中を焼き、肉迫また疾風迅雷も啻ならず。會将佐川、早くも松代の陣を衝き、是を破つて長岡、庄内の諸軍を進ましむ。此間西軍の防戦は、必死をつくして大小の砲を発し、萬山みな呼応して轟声百雷に似たり。庄将石原多門、奇略を以て富山の陣を動かし、鼓声堂々大呼して猛撃す。須臾にして、松代の敗士は加軍と共に反撃し、岡軍の部署に當りて、弾丸雨注す。龍争虎闘、岡軍遂に苦戦となりて、米将中條豊後、同色部兵部、芋川大膳の率ゆる一隊、猛然起つて岡軍を保つに至る。烈戦奮闘、惨また惨を極めて、西軍遂に利非す、土崩瓦解となりて、弾薬砲車を掠奪せられたり。此時に當りて、西軍の一隊は捲土重来して、長岡城下を出発し、往いて大黒村方面の敵を防がんとす。奥羽軍一勝に乗じ、凱歌を挙げて長岡に向へは、両軍の先鋒は突如として相會し、而かも奥羽軍の狼狽殆んど戦守の策を失し、漸く水田に撒兵して防戦しけるが、折しも此所は粘土泥濘にして隊士半身濁水に在り。されば隊士の疲労は、苦戦の陣となりて、最早堪ゆる所に非ず、退きて福井村を保てば、此時新発田口の奥羽軍は、見附に戦つて遂に抜く能はず、今や塁を築きて対峙の姿にあり。此間に於て、西軍は大黒村の防備を益々固む。されば、奥羽軍は、西軍の戦陣その固きを望み見ては前日来の大敗戦に憤激措く能はず、猛然再興の勇を揮つて豨突せんとす。茲に於て、岡将河合継之助、自ら自藩の精鋭を督して急先鋒となり、而して福井村を発す。六月二十四日、岡軍は先陣の勇を揮つて、大黒村の駅外に至れば、遙かに見ゆる西軍の陣、忽然巨砲を発して、力拒甚だ熾ん也。依て後詰
【コマ 325】
の奥羽軍は、
・・・
( 8へ続く)
( 6へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.01/17(TUE)

壬生義士伝 吉村貫一郎
南部盛岡藩二駄二人扶持足軽、脱藩後新選組入隊




 み ぶ ぎ し で ん
「壬生義士伝」
 浅田次郎による日本の歴史小説。南部地方盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士の吉村貫一郎を題材とした時代小説である。新選組で守銭奴や出稼ぎ浪人などと呼ばれた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞した
--引用・要約;「壬生義士伝」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.07/24(日)13;55--
     *
五稜郭に霧がたちこめる晩、若侍は参陣した。あってはならない“まさか”が起こった―義士・吉村の一生と、命に替えても守りたかった子供たちの物語が、関係者の“語り”で紡ぎだされる。吉村の真摯な一生に関わった人々の人生が見事に結実する壮大なクライマックス。第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長篇小説
--内容(「BOOK」データベースより)--

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盛岡藩

盛岡藩は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた

慶応4年(1868)
当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない

明治元年(1868)
  9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏
 10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が盛岡城に入城する
 10月14日 奥羽鎮撫総督府から沢宣種が入城、戦後処置を行う
 11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、藤川能登(藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の東京への護送、楢山佐渡・江幡五郎・佐々木直作ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う
 11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、久保田藩兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる
 12月 7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収
 12月17日 南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる(白石藩)
 12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は松代藩、松本藩、弘前藩の管理下となる
--引用・要約;「盛岡藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.12/03(土)00;09--

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 本を読んでいて、以前にtv放映(映画、2003年「壬生義士伝」)された中井貴一が演じた吉村貫一郎とどうしても重なって仕方がない
 吉村貫一郎は本名嘉村権太郎、幕末の盛岡藩士(二百石六人扶持)であり慶応元年一月に盛岡へ下向を命じられると出奔した。その後新選組の隊士となる(ウィキ)
現在伝わる吉村貫一郎像は、嘉村権太郎をモデルとした浅田次郎氏の創作であるらしい
--2017.03/24 更新--
     *
【二駄二人扶持】 一駄は馬が背の両側に背負う分の米で、つまり二俵、二駄で四俵。普通これを年に二度か三度に分けていただくから御切米と呼んだ。一人扶持は一日約五合、二人扶持で一日一升。一年で三六〇升(三六斗)、おおよそ十俵
--引用;「壬生義士伝」浅田次郎--



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2016.12/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 6
【コマ 321】
・・・
 時に與坂方面に於ては、西軍五百余人の一隊、島崎より進み来つて、突如北野の奥羽軍を襲ふに至りしかば、桑将町田老之丞は、本軍となりて是を防ぎ戦ひ、更に立見尚文は、左翼軍となりて、荒巻山に陣し、両道呼応して俯瞰して撃つ。然れども西軍は大兵のもの、即ち桑軍の寡を侮りて、接戦毫も倔する色なく、更に大砲隊を富岡山に送りて、烈戦奮闘、益々馬首肉迫して猛撃す。桑軍、寡兵と雖も、常に千兵の働きを為すもの、眼前この急迫を望むも、敢て動かず、志気を鼓舞して奮撃突戦、威風甚だ熾ん也。依て西軍は更に一隊を迂回せしめ、以て荒巻の後背を衝かしむるや。桑将立見尚文、猛然起つて、一挙して是を崩すに至る。砲戦天地を震裂し、激闘いよ/\酣となるに至りて、會軍来り是を援護すれば、庄軍又寺泊より駆け来つて、北野を保たむとす。桑軍驀進遂に北山に陣し、而して島崎攻撃の西軍を俯撃す。西軍、北山の変を望み見て大に驚き、兵を送りて是を防がしめんとすれば、早くも桑軍の為めに、島崎の駅中を焼討せらるゝに至りて、陣営惶擾殆んど為す能はず、兵器を捨てゝ、出雲崎にと逃げ走る。
 北越の戦陣、戦闘四方に起りて、攻防いよ/\多端を告ぐるも、新発田藩は尚閉息して、敢て傍観するには、奥羽軍の憤激一方ならず、依て今に於て一挙是を屠らんとす。然るに上杉弾正大弼は、遅々たる新発田の内情を察知
【コマ 322】
し、先づ温和手段を以て彼を収めんと、即ち六月五日を期して、藩主溝口伯耆守をば、親しく米藩に延見し、而して軍謀を建てんと申出でたり。然れども新発田藩は是を解するに、米藩、軍謀を名とするも、實は藩主の出陣を促がし、機に乗じて人質と為し、而して厳談を浴せ掛けるものと為し、一に是が防遏策を講じて、領民を扇動し、土寇を起して、藩主の出陣に反対せしむ。されば土民の狂乱いよ/\實物となりて、領内の騒動言語に絶し、切角来りし米藩の重臣も、是を望み見て同情満身に溢れ、旨を報じて、その会見を中止せざるを得ざりき。
 六月八日、奥羽軍は見附宿の総攻撃を決す。時に西軍はその大口及び十二潟の要衝に厳備をつくし、以て見附の前衛陣を張るにあり。茲に於て、奥羽軍は長岡、米澤、會津、庄内、仙台の大勢を本道に進め、巨砲十数門是を川岸に配置して攻撃の陣を固むるや、更に千坂の大兵を前進せしめて、一呼して此所を猛撃すれば、大口及び十二潟の西軍陣は、一度に瓦解して、敗士は皆見附に走る。されば連勝に乗ずる奥羽軍、喊声今や百雷の如く、馬首は勇んで愈見附に迫る。長岡、會津、庄内の諸軍は、七軒村より進撃し。木本、砲兵の部隊は、福井村より進み。衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田及び仙軍を以て、二手に分れて、大口及び十二潟より進み 更に七軒村右側は砲兵、浩義及び庄軍を以て是に當る。斯くて七軒村の會軍は、一躍して本道関門を抜き、福井村の木本隊は、突進するに至りて、大口村方面は奥羽軍の向ふ所敵なし。依て西軍は主力を駅中に収めて、守死防戦、百砲を発して猛勢侮る可らず、攻守の激闘天地唯だ轟々として砲声四面を破り、萬山鳴動して互に勝敗あり。然れども数道より攻め上る奥羽軍の鋭鋒は、忽ちにして胸壁を抜き、陣営に乱入して、鬨を挙げて全軍を躍進せしむ。血戦激闘十数合、龍争虎撃の間に、西軍の苦戦も遂に其堪ゆる所に非ず、隊士の死傷山積して、見附の西軍こゝに壌乱せり。
 見附の敗戦に西軍はその回復を計る為め、敗兵尚ほ援を収めて、主力を五泉及び福井村に駐屯するに至れり。茲に於て、木本隊は福井口に胸壁を築き 岡軍は、五泉口に虎視を張りて、西軍の動静を警戒せしむ。六月十三日に至
【コマ 323】
りて、西軍は砲銃を乱発して突進す。捲土重来。奥羽軍の殊守殆んど計を失して、苦戦堪ゆ可らず、急騎を飛ばして、援を見附に乞へば、會津、庄内、米澤の諸軍は、佐川會将と共に、長駆して是を保つて烈戦奮闘、尚ほ敵する能はざるに至りて、後詰の諸軍は岡将河合継之助に率ゐられて、漸く敗陣を守るに至る。然れども西軍の鋭鋒は、大勢の陣を以て押し寄せ、急転直下、弾丸雨注して益々肉迫するには、奥羽軍みな辟易して防ぐ能はず、先を競ふて見附に敗走し来る。両軍堅闘烈戦相當り、砲声日夜に亘りて、益々弾を込めて戦ふ。龍争虎撃、屍山血河となりて、勝敗尚決せず、惨風吹き巻き起りて、奥羽軍の兵気は次第に沈下するのみ。やがて六月十七日に至れば、奥羽軍の戦闘力は、最早持久の策も尽きて、漸く残塁を固守するに過ぎず。是に反して西軍は益々兵を動かし、包囲の圧迫は日を逐ふて厳を極め、更に精鋭なる別軍は、福井村より迂回して、見附の後背を圧迫するに至る。奥羽軍の鏖戦、みな苦闘の間に隊士は四散し、弾つき、力つきて、最早手の出づるの策無し。
 ・・・
( 7へ続く)
( 5へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.12/02(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 5
【コマ 320】
 金崎に於ける西軍の一敗、雷塚の陣、また守備弛む。茲に於て、桑軍は突如横背に現はれ、疾駆して弾丸雨注するや。西軍惶擾殆んど戦守に苦しみ、土崩瓦解となりて、鹽の入嶺に敗走す。依て二十八日、奥羽軍一勝の勢に乗じ、桑軍を先鋒として来り是を攻めけるが、敗士今や四方より群集して今や大勢の陣、桑軍破竹の勢ひを以てするも、何ぞ一手を以て抜くべくも非ず。茲に於て、兵を引き揚げ、而して本道の味方と合撃せんとす。時に西軍の一隊は、島崎に侵入の報あり。依て桑将町田老之亟は、北野の要衝に到りて、その到るを扼守す。さる程に、本道進撃の會津、村上、上ノ山の諸軍は、進み来つて遠浦に陣し、以て長軍奇兵隊と接戦猛烈也。元来長の奇兵隊は、兵制を改良して、教練また本邦第一と称するもの、その作戦の巧妙勇敢の術技奥羽軍を壓すること數等。されば是を對敵とする奥羽軍、また如何に困難なりしぞ。龍争虎撃、銃戦遂に破れしかば、見る/\蛍勇を揮つて、抜刀して突進す。血戦激闘、死傷相當り、有繫(さすが)の奇兵隊も遂に守りを失して潰走す。時既に桑軍の一隊は大山に迫り、砲声三方に湧きて天地轟々、萬山震裂して奥軍利あらず。
 五月二十九日、會津、桑名、上山の諸軍は大山を発し、根小屋に到つて、夜の明くるを待ち、六月一日の暁氣を侵して、小島谷より阿弥陀山に豨突すれば、此所は西軍の守備百砲を発し、弾丸を注ぐこと雨霰の如し。依て桑将大平九右衛門は、一隊を率ゐて備後山より背撃せんと、麓を迂回して兵を進むれば、又もや起る西軍の射撃陣、発銃一斉に弾丸を送って、遂に桑軍を破り、督将大平九右衛門を殪すに至る。茲に於て、桑軍みな小島谷に退かさるを得ざりき。されば桑軍督将立見尚文は、味方の敗戦に憤激措く能はず、是より寺泊に進みて、庄内、會津の諸軍と合し、以て出雲崎を攻撃せんとす。されど會藩是に賛せず、議、遂に決せずして此所に宿陣せざるを得ず。
 六月二日に至れば、本道進撃の奥羽軍先鋒は、道中雨露の困苦を凌んで、漸く今町に達す。然るに此所には、既に西軍の陣するありて、薩州、長州、高田、松代、富山の諸軍、部署を保つて巨弾を連発す。會将佐川官兵衛、隊
【コマ 321】
士を激督して猛進すれば、西軍の胸壁は白煙朦々銃丸雨注して、防戦最も頑強也。攻防烈戦、龍争虎闘となりて、勝敗決せず、両軍の死傷惨また惨を極む。折しも猛弾は信濃川対岸より飛び来つて、西軍の後背陣を襲ふに至る。西軍愕動殆んど為す所を知らず、後顧の憂色今や陣頭に漲りて、部署大に弛めり。何ぞ計らん、米軍督将千坂太郎左衛門、衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田の諸軍を率ゐて、対岸に雄飛せるを。茲に於て、本道の奥羽軍は、一斉に躍進して益々弾を注ぎ、南北挟撃の陣形に、志気昇天の慨を示すに至れり さる程に、庄軍の一隊は今町を始め、中ノ島、千戸の各部落に侵入して火を放ち、駅中を焼き払つて、西軍に肉迫すること豨突迅雷、威勢甚だ猛悪なり。さる程に、奥羽軍の突入は四方に起りて、大呼の壓迫何ぞ西軍の堪ゆる所ならんや、見る/\土崩瓦解となりて敗走す。
 時に與坂方面に於ては、
・・・
( 6へ続く)
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.12/01(THU)

アメリカ領事館(本覚寺) 神奈川県横浜市神奈川区高島台 1-2




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写真;t.hさん提供

本覚寺
 本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた
 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという
 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である
--神奈川宿歴史の道--
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※ 山門の白くペンキを塗られた跡は今に残るが、随分と薄くなってきている模様



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2016.11/25(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷副総督、松平太郎公
国立国会図書館デジタルコレクション




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蝦夷副総督、松平太郎公
上圖は太郎公が十七八歳頃の肖像なり
下圖は五稜郭開城と共に東京刑法局に囚送せられ、鍛冶橋監獄(大鳥圭介が設計したる歩兵長屋)に入牢三年、放免出獄の當時、記念の為め撮影したるものと云ふ
--引用;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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徳川義臣傳(松平太郎)(2014.06/13)
慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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