カテゴリ:猪苗代町( 7 )

2014.09/06(SAT)

中島與一郎光尹墓 耶麻郡猪苗代町新町4899・西円寺




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写真;2014.09/02
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・中島与一郎  土佐藩/新留守居組/砲隊/土佐郡秦泉寺村の人/明治元年八月二十一日会津母成峠で戦死/二十八歳/会津猪苗代・西円寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



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2014.09/06(SAT)

勝軍山戦死之墓 耶麻郡猪苗代町新町4899・西円寺




母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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写真;2014.09/02
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慶応四年八月二十一日の母成峠の戦いの中で、最も激戦地であった勝軍山の戦いにおける東軍戦死者二十九名の合葬墓。被葬者の名前は判明していない

西円寺
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2014.09/06(SAT)

亀ケ城跡 耶麻郡猪苗代町古城跡7150-1




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写真;2014.09/02
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以下、現地の案内板から

猪苗代町指定重要文化財 史跡
亀ケ城跡
     平成十年一月七日指定
 三浦氏の一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。その子盛連には六男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建久二年(一一九一)亀ケ城を築いたと伝えられています。
 以後、十四代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正十七年(一五八九)「摺上原の戦い」で葦名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。
 しかし亀ケ城は、江戸初期に出された一国一城令にも破却されず、近世を通じて城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。
     平成十年三月二十七日
     猪苗代町教育委員会
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写真;大正時代の亀ケ城跡(現地の案内板から)



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2013.09/05(THU)

土津神社の石段
猪苗代




平成25年(2013)
・ 9月 5日
 腰を痛めて出歩くのが億劫に。で、以前の写真 1枚をupする
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 土津神社(2013.08/27)
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2013.09/02(MON)

お手植 猪苗代、土津(はにつ)神社
たかまつのみやでんか




高松宮殿下お手植 の松

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写真;2013.08/27

高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう/1905-1981)殿下の御手によるものであろうか
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土津神社(2013.08/27)



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2013.09/02(MON)

お手植 猪苗代、土津(はにつ)神社
ありすがわのみやでんか




有栖川宮殿下お手植 の松

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写真;2013.08/27

有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう/1862-1913)殿下の御手によるものであろうか
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土津神社(2013.08/27)



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2013.08/27(TUE)

土津神社 猪苗代町
はにつじんじゃ




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平成25年(2013)
・ 8月27日
 二本松城跡を見て帰途、猪苗代で土津神社に..
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※ ↓拝殿、2013.08/27
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保科正之公御鎮座
国指定史跡 会津藩主松平家墓所

土津神社々記抄

  土津神社社務所
  電話(0242)62-2160
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※ ↓會津中将源君之墓、2013.08/27
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国指定史跡 会津藩主松平家墓所
見禰山御社々記抄

一、鎮座地  福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山
一、神社名  土津神社
一、祭 神  会津藩主松平氏の祖保科正之
   相殿  三代藩主~九代藩主

一、由 緒
 土津神社の御祭神である土津霊神・保科正之公は、二代将軍徳川秀忠の第四子、三代将軍家光の弟で、高遠藩藩主・保科正光の養子であり、寛永二十年(一六四三)会津に封ぜられ会津松平家の始祖となった。
 晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足(きっかわこれたる)を師として専ら卜部家(うらべけ)神道の伝を学び、道の奥義を極められた。
 寛文十一年(一六七一)公は惟足から霊号を『土津』と奉られた。土津の意は、惟足によると、土(つち、はに)は宇宙構成要素の根本であり、万物の始めと終わりであり、信実の主体である。その道理を公は体得された。また公は会津の領主であるから「津」の字に無関係ではない。故にこの二つから「土津」と申し上げたといっている。言い換えれば、宇宙の万理を究められた会津藩主の意といってもよいのである。
 公はこの時、『余の没後は神道の礼をもって磐椅(いわはし)神社の神地に葬ってもらいたい』という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経(まさつね)公に伝えさせた。
 寛文十二年(一六七二)八月二十一日、公は自ら猪苗代に参られ見禰山に登って墓地を定め、『我が身はここに納めてくれ。』と家臣に命じられた。そして『万代と祝ひに来にけり会津山高天の原にすみかもとめて』と詠まれた。惟足はかたわらにあって、御歌に応えて『君ここに千歳の後のすみところ二葉の松は雲をしのがん』と詠じた。公はことのほか感じ入られて、帰城された。
 帰途公はこの年没した大老田中正玄の墓に立寄られた。
 同年(一六七二)十二月十六日、江戸に戻られた公は容態すぐれず、老臣・友松氏興(うじおき)を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役として後のことを託された。同月十八日霊神ご逝去。そこで、友松氏興は公の遺命とおり神道の礼を尽くして見禰山に葬り、惟足を招いて葬事を行わせた。
 延宝元年(一六七三)、神祇官領長(しんぎかんれいちょう)・吉田兼連(かねつら)がご神体を奉じて仮殿に安置した。この時より、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝三年(一六七五)八月十九日竣工。同二十三日正遷宮(せいせんぐう)の式を行い、ご神体を正殿に安置し、磐椅神社の末社とした。
 土津神社は、神殿・回廊など奥日光又は東北の日光といわれるほど荘厳壮麗であったが、明治の戊辰の兵火で、神殿がことごとく焼失した。今の社殿は明治十三年(一八八〇)七月の造営に成るものである。

一、奥の院(正之公奥都城)  猪苗代指定文化財
一、土津霊神之碑  猪苗代指定文化財
一、御神宝  旧国宝太刀吉房県指定文化財太刀画像等
一、境内社  八社(岩彦、信彦、久彦、幸彦、石彦、忠彦、進功霊社、五社神社)
一、祭 日  春季大祭 五月三日
     秋季大祭 九月二十一日 もみじ祭 十月末日
     御祥忌祭 十二月十八日
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※ ↓土津霊神之碑、2013.08/27
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以下、現地の案内板から

町指定重要文化財(美術工芸品)
土津神社霊神之碑
     昭和六十年三月二十八日指定

 会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が撰文し、字数は一九四三、筆者は当時第一等の能筆家土佐左兵衛高庸である。
 神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野(河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
 伝説によると、初め亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出だしてしまった。そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
 亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。

     猪苗代町教育委員会
     平成八年二月設置


(碑文)
土津霊神碑

  土津者 東照大權現之孫源中将之霊號也霊神諱正之小字幸松 台徳院秀忠公之子 大猷院家
  光公之弟 大将軍家綱公之叔父母神尾氏慶長十六年辛亥夏五月七日生於江府焉七□ 台命信
  州高遠城主従五位肥後守源姓保科氏正光為義父弱冠義父卒任肥後守賜為清刀入高遠寛永九年
  壬申冬□叙従四位下甲戌之秋 家光公上洛霊神扈従七月十八日 公參内是日霊神任侍従拝
 皇帝 太上皇賜天盃丙子之秋大増封戸移于羽州最上城賜行光刀乃入最上巡封域加□諸士更召多
  士各頒職事無大無小咸自為之戊寅之夏最上近邑白岩民将叛霊神治之驛告辛已之秋八月三日
  世子家綱公誕霊神獣光忠刀左文字小刀癸未之夏韓使来貢 公引見南殿霊神侍座秋復益封戸移
  于奥州會津城正保二年乙酉夏任左近衛少将四月二十三日 世子元服霊神理髪獣来國光刀于
  公獣守家太刀行光刀于 世子 公賜長光刀 世子賜将監長光刀賜御盃秋叙従四位上冬十一月
 天子特贈□翰宮額於 大權現 勅使格于日光山霊神登山攝 御事慶安四年辛卯夏四月二十日
  公大漸召霊神於寝□託 世子而薨霊神常在府佐之秋 家綱公任内府拝大将軍 勅使来霊神登
  城承應二年癸巳秋 公任右府 勅使来霊神登城 公命謝上使霊神興副使侍従今川範英上京師
  冬十月十日參内拝
 帝 公事畢私覿賜天盃 仙洞 新院 女院如前儀□謁関白太閤亦會之反太閤関白送之十三日
  勅答賜天盃而退則任中将賜太刀乃辭官拝賜而出 仙洞勅答賜仙盃賜太刀 新院勅答如前式是

※ 正面のみ



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