カテゴリ:>母成峠( 3 )

2012.10/14(SUN)

西郷頼母歌碑




 10月11日、母成峠に行った。近くには「東軍殉難者慰霊碑」があって行ったのだが、そこに西郷頼母の歌碑があった

母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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以下、現地の案内板から

 なき魂も
  恨みは晴れてけふよりは
  ともに長閑く天かけるらん


この和歌は会津藩家老西郷頼母が明治二十二年四月二十四日、会津若松市阿彌陀寺で、会津藩殉難者慰霊祭が、晴れて執行出来るようになった喜びを詠んだ和歌で、西郷家で自刃した二十一人のうち六名までが小森家の血縁につながる人々であったこと、又、小森一貫斉が母成峠で戦ったことに思いを馳せ、一貫斉の曽孫である小森昌子さんが殉難者への鎮魂のため昭和五十九年九月、ここに建設したものである。
     母成弔霊義会

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※ 西郷頼母(さいごうたのも)
 文政13年(1830)閏3月24日 -明治36年(1903) 4月28日、幕末期の会津藩の家老。家禄1700石
※ 長閑く(のどけく)



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2012.10/12(FRI)

東軍殉難者慰霊碑




平成24年(2012)
・10月12日
 11日に母成峠を見たが、峠から猪苗代よりに少し下ると右手に「東軍殉難者慰霊碑」入口の案内板があって、車道から100メートル程行った先である

母成峠、十六橋の戦い(2012.10/11)

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東軍殉難者慰霊碑
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写真 2012.10/11

以下、現地の案内板から

 母成峠の戦いは、慶応四年(1868)八月二十一日、こヽ母成峠周辺を戦場として戦われた。この日、本宮、玉ノ井村に結集を終った西軍は、兵を三分し、谷干城(土佐)の率いる凡そ千名は勝岩(猿岩)口へ、板垣退助、伊地知正治の率いる凡そ千三百名は石筵本道口へ、川村純義(薩摩)の率いる三百名は山葵沢より達沢口へ、一斉に進発した。これを迎え撃つ東軍は、総数僅かに八百名、勝岩口には勝岩上に、大鳥圭介の率いる伝習第二大隊及び会・二本松兵併せて三百名が守備に当り、勝岩下には、新選組凡そ七十名を配置し、土方歳三・山口次郎がこれを指揮した。
 石筵本道口の第一台場(萩岡)第二台場(中軍山)第三台場(母成峠)には、会津藩主将田中源之進・二本松家老丹羽丹波、伝習第一大隊長秋月登之助らの指揮する会・仙・二本松及び伝習第一大隊併せて四百数十名が守備に当った。
 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分れ、午前九時頃から凡そ七時間に及ぶ激戦を展開したが、圧倒的な兵数と火力の差は如何ともすることができず、東軍は北方高森方面、西方猪苗代方面に敗退した。このため、西軍は、二十二日十六橋を突破し、二十三日戸ノ口原を経て、怒涛のように会津鶴ヶ城に殺到した。
 東軍戦死者 八十八名 西軍戦死者 二十五名

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以下、現地の案内板から

東軍殉難者埋□□
慶応四年八月二十一日、母成峠の戦いの東軍戦死者の遺体は当時西軍のきびしい命令により埋葬を許されず戦後暫くの間、放置されたままになっていたがこれを見かねた近くの人々が西軍の眼をぬすんで遺体を集め仮埋葬した。その後この地は雑草に覆われてその所在がわからなくなっていたのを、百十余年後の昭和五十三年六月二日猪苗代地方史研究会の手によって発見された。その後子孫を中心として母成弔霊義会を結成し毎年慰霊祭を執り行ってきたが、昭和五十七年十月六日東軍殉難者慰霊碑建設と同時に長く保存することにしたものである。

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2012.10/11(THU)

母成峠、十六橋の戦い




平成24年(2012)
・10月11日
 母成峠(現福島県郡山市、猪苗代町)から十六橋(猪苗代町)に行って来た。母成峠の戦いがあったのが新暦だと今時分で季節感は丁度良い。ただし天気は晴れていて、当時の濃霧とは程遠いものだった

 また、峠付近に戦いのあった形跡は無かったように思えたのだが…
 …新政府軍を迎え撃つために築いた堡塁が峠の稜線の東側に延々と伸び、頂上近くには、砲台の跡が残されている(2013パンフレット「八重のふるさと福島県」)とのこと
※ 朝10時に家を出、郡山を経て正午を30分程過ぎて母成峠に着いた

写真 2012.10/11
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正面には
 戊辰戦役 母成峠古戦場
 松平保定書
向って左側面には
 東軍 大鳥圭介 田中源之進 丹羽丹波 土方歳三 以下八百名
 西軍 板垣退助 伊地知正治 谷 干城 川村純義 以下三千名 
右側面には
 決戦日(1868)
 慶応四戊辰年八月廿一日(太陽暦十月六日)
裏面には
 昭和五拾七年拾月六日
 母成両碑建設実行委員会建立
と刻まれている
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経過
慶応 4年(1868)
・正月
 戊辰戦争が始まり、戦域は次第に東へと移った
・ 3月
 新政府軍、江戸に進駐した
・ 4月
 江戸城明け渡し(無血開城)
 旧幕府の抗戦派は関東各地に脱走した
 ことに大鳥圭介率いる伝習歩兵隊を主力とした脱走軍(大鳥軍)は一時宇都宮城を占拠するなど、下野国周辺の新政府方諸藩にとって脅威となった
 以降、各地で戦闘が繰り広げられた
・ 5月  
 新政府軍、奥羽越列藩同盟軍(同盟軍)に占拠された白河城を奪取し、奥羽への突破口を確保した
 江戸では上野戦争に勝利して奥羽への兵力増援が可能になり、列藩同盟軍に対する本格的な攻勢作戦が準備され始めた
 浜通り地方の各藩を制圧
・ 7月
 新政府軍、二本松城を占領。一挙に会津攻略を目指す事となる
 この頃、越後口では山県有朋が4万もの大兵力で同盟軍を圧迫していたが、山脈を越えて会津への突破口を確保するには相当な時間が必要であった
 薩摩の伊地知正治と土佐の板垣退助は東山道総督府単独での会津侵攻を主張し、開始した

 侵攻を開始して、まず母成峠で大鳥軍と衝突した

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戦力
 新政府軍(東山道総督府)の戦力の中核は薩摩、長州、土佐、鳥取の各藩兵で補助的な兵力として北関東諸藩の部隊であるが日光口の中村半次郎支隊を併せれば三千
 指揮は参謀の伊地知、板垣両名の合議によって為され、この両参謀はともに少数精鋭主義を唱えている
 一方の同盟軍は兵力の過半を越後口の防衛に投入しており、会津国境の各峠にも兵力を分散配置していた。さらに二本松奪還に失敗したため予備兵力もなく、兵士は士気阻喪しつつあって、母成峠では大鳥軍は独力で守備しなければならない状況にあった
 母成峠の守備隊は伝習歩兵を中心に総数8百。地の利を考えても圧倒的な差があった
 装備した小銃は最新式のシャスポー銃(使用されなかったと云う説もあるのだが、あえて)であったが、新政府軍の各部隊でもスナイドル小銃を調達しており、火力は同等といえた
シャスポー銃(2012.07/07)
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侵攻路 新政府軍
・ 8月20日
 伊地知は母成峠を越えて猪苗代湖の北岸を進むことを主張し、板垣は御霊櫃峠を越えて猪苗代湖南岸を進むことを主張した
 母成峠を越えれば比較的平坦な地を会津まで進むことになり、電撃的な侵攻には向くが、猪苗代北岸の十六橋を破壊されれば侵攻は困難になる。伊地知はこれを承知の上、なお電撃的侵攻に自信があったのであろう
 この薩摩と土佐の意地の張り合いに、長州の桃村発蔵が調停に立ち、伊地知案による会津侵攻が開始された
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防御態勢 大鳥軍
 二本松失陥以前、同盟軍の母成峠陣地は会津と二本松を結ぶ連絡拠点であり、会津兵が守備についていた。二本松失陥以後は奪還攻撃のための前進拠点となり、奪還が失敗した後は国境防御の拠点となった。陣地も麓から中腹、頂上付近と追加構築され、次第に防禦主体陣地へと変わって行ったのである
・ 8月上旬
 大鳥軍、母成峠の守備につく。越後口では新政府軍の勢いが激しくなり、同盟軍は越後口の防御に力を注ぐ必要があった。そのため大鳥軍が母成峠守備に任じたわけである
 母成峠に入った大鳥軍は保有戦力に比して守備区域が広すぎる事から第三線陣地を構築した。既設の第一線、第二線陣地を活用しながら、最終的に第三線陣地で新政府軍の侵攻をくい止めようとしたのである
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前哨戦
 新政府軍は、母成峠攻撃に先立って中山峠に対する攻撃を開始した。この攻撃は陽動であり、3千の主力部隊はその間に母成峠へ向けて前進していた
 大鳥軍、新政府軍主力が母成峠へ前進中であることを察知、たまたま坂下にあった二本松藩兵残余三小隊、仙台藩兵三小隊、会津藩兵二小隊、伝習歩兵一大隊(当時の大隊の定員は戦闘員4百)を増援させて同地に展開させ、新政府軍を待ち伏せた(大鳥は猪苗代で開かれる同盟軍の軍議に参加のため、指揮を部下に任せ同地を離れた)
 新政府軍も坂下に敵軍が展開中との情報を得て、薩摩藩兵から一小銃隊(戦闘員80、中隊規模)を派遣した
 先着した薩摩藩兵は台地上に展開を済ませた大鳥軍の陣容を見て独力での攻撃は不可能と判断、薩摩藩、長州藩、土佐藩の合計6隊(5百名程度か?)の増援を得て攻撃を開始した
 台地に地の利ある大鳥軍への正面攻撃は無理で、新政府軍は左右両翼から攻撃を開始した。が大鳥軍の隠蔽陣地からの砲撃で近づけず
 新政府軍、土佐藩の一小隊が台地の後方に迂回し大鳥軍への背面攻撃を開始した。左右両翼は直ちに突撃を開始して形勢の逆転を図った
 伝習歩兵隊はこれに適切に反応して背後の土佐藩兵に一隊を向け、友軍を自陣に収容しつつ徐々に兵力を背面に向け、退路を確保した
 二本松、仙台、会津各藩兵は、殿軍戦闘を伝習歩兵隊に任せて戦場を離脱、踏み止まった伝習歩兵隊は30名余の死傷者を出し、頭取(隊長)であった浅田麟之助までが重傷を負いながら、日没まで新政府軍をくい止めた
・ 8月20日夕刻
 軍議のために猪苗代城へ赴いていた大鳥が母成峠に戻った

以下、南柯紀行より引用する

夜四時頃にもありけるが本多兵数人と共に帰り物語りけるは、今日の戦い全軍敗走せるによって帰路を絶(断)れ漸く小林の間に潜匿し敵数歩の処まで来れども幸い見付ること能わず、其去るを見て迂路を取り山に登り還りたりとぞ、而して会、松、仙の兵を問うに死傷甚だ少し、伝習隊は士官の戦死三四人頭取浅田鱗(麟)之助も重傷を蒙り、兵士死傷凡三十人なり、余益々三藩の兵の頼(恃)むに足らざるを知れり、然れども亦本多、大川其他士官の無事にて帰るを見て悲喜相交り手を執て涕を流せり。
 今夜は兵隊と共に石筵山の山上に宿す。
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母成峠の攻防
・ 8月21日
 朝、母成峠は濃霧であった
 新政府軍は正面と左右両翼の三隊に分かれて母成峠に迫った。母成峠には三線の陣地がある。正面隊は敵正面の部隊に砲撃を集中し、左右両翼隊は同時に迂回して、第三線の背後へ左右から一隊ずつ送り込んで敵の退路を遮断し、三線の敵陣全体を包囲することにした
 ・伊地知は左翼に薩摩小銃一番隊から六番隊までの最精鋭六隊を集中
 ・右翼は長州三番隊(戦闘員九十名、中隊規模)と土佐藩の七小隊が担当
 ・正面中央には薩摩藩準主力級の七隊に加え、大砲一番隊から三番隊までの三砲隊を集中した
 新政府軍の三隊は濃霧の中を前進、午前9時頃には右翼隊が第二線陣地に接触した
 大鳥軍は接敵の合図に号砲2発を撃ち、戦端が開かれた
 新政府軍中央隊は第一線陣地を攻撃
 大鳥軍は第一線を放棄し第二線陣地へ後退した。第二線陣地を堅固に守っていたが、敵右翼隊一部が北方へと迂回するのを察知すると、大鳥軍一部を敵迂回隊に向けた。この大鳥軍一部が迂回隊との戦闘に破れて第二線陣地へ潰走したことで大鳥軍は動揺した
 新政府軍中央隊が第二線陣地に接近すると、大鳥軍はさらに混乱し、右翼隊が陣地に突入すると第三線陣地目指して後退した
 その頃、新政府軍左翼隊は濃霧の中、道無き山中で進撃が出来ず戦闘に加われずにいた
 新政府軍右翼隊と中央隊は第二線陣地で合流、正午頃に第三線陣地の攻撃に向かう。峠の頂上に停止すると砲兵団を展開、間断無く第三線陣地へ砲弾を放った
 大鳥軍、猛砲撃に堪らず後退したが、敵左翼隊の前進が遅れ背後には未だ到達していなかった。包囲こそ免れたものの、反撃中であった伝習歩兵隊はまたしても味方から置き去りにされ、山中への逃亡を余儀なくされたのである

以下、南柯紀行より引用する

 二十一日敵来るときは、萩岡の台場に木砲二発を打ちて合図と為すこと兼て約束なり、余昨日已来の奔走にて大に疲れたれば早暁まで熟睡せり、然る処六つ半頃なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり、是れ敵来るなりと直ちに起き、飯を喫し兵隊へ令を伝え中軍山へ上り見れば、敵軍両道に分れ一は南方の谷間より進み、一方は北方にある山上に来れり、因て兵を夫々分配し田中は中軍山に趣(赴)き、余は大隊幷に二本松の兵を帥いて勝岩の上に登り北方の敵に当れり、先ず本多大川を兵隊に付けて遣し少し後より至り見れば、已に砲声盛にして互に渓を隔てて打合い居れり、我に胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰(選)組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元(許)なく思い少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず、余種々之を指揮し置き四つ半頃にもありけるか、南方の砲声衰えたる模様(第二大隊の持場と南方の口とは距離一里余)なれば、心掛りの儘南方に下りて中軍山近く至り見るに、萩岡に火焔颺れり甚だ不思議に思い歩み行く内に、萩岡の方面破(敗)れ会津の兵引上(揚)げ敵入りて陣小屋に火を放ちたりと言伝う、而して勝岩よりの上の敵は我が火の烈しきによりて、胸壁に近づく能わず次第に引退き、勝岩より下に回り南方へ進みければ、勝岩の方も砲声減ぜり、因て第二大隊の内一小隊を中里山に廻し援助を為さしめんと思い、十丁計りも上りける処中軍山の辺の砲声近く聞え、歩兵共追々引退く色に見ゆる故如何なる事にやと思う内、八時前なる頃敵早中軍山よりも近き山上に来り発砲せり、於是余又関門の傍に下り敗兵を集め此にも堅固の胸壁あれば、今一防戦と頻りに指揮せる内、何者の所業にや本営の陣屋に火をかけたり、敵兵なれば敵已に後方に回りたりと言触し、追々逃去り踏留まるもの甚少し、実に此口敗れなば会の滅亡旦夕にあり、今一奮発と怒罵すれども、必死の者乏しく、敵は次第に迫りける故、胸壁に留まるもの余を合して僅に数人のみ、間もなく敵群り至り弾丸雨よりも甚しく、因て会人田中、小森其外と謀り此勢に及び今共に骸を駢べ死するとも其甲斐なし、暫く退きて猶防禦の一策を立つべし、但勝岩より上に出でたる兵隊へは未だ此事を通ずるに暇あらず、此兵帰路を失い困迫すべけれども今更之を報ずる手段もなければ、乍残念退くより外策なしと申合せ、夫より順路を経て山を下り木地小屋の方へ返りしに、敵近く逐い来り連に狙撃為せども一発も命中することなく、其場を逃げ延び(後略)
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十六橋 新政府軍
・ 8月22日
 母成峠を奪取した新政府軍、次早急に為すべきは十六橋の確保であった
 前日左翼を前進して戦闘に間に合わなかった川村与十郎の薩摩小銃四番隊は、前夜から敵退路に陣取り大鳥軍残兵と交戦していた
 一方、母成峠失陥を知った会津藩は十六橋を破壊し、敵の会津若松突入を防ぐべく佐川官兵衛を総督として十六橋方面に藩兵を出撃させた
 川村隊は夕刻から前進を再開、一気に十六橋に迫った。まさにその時、十六橋は会津藩兵が破壊するところであった。川村隊は銃撃により会津藩兵を撃退、間一髪で橋を確保し、会津若松への橋頭堡を築いた
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※ 写真、十六橋(じゅうろっきょう)は、福島県耶麻郡猪苗代町と会津若松市に跨る一級水系阿賀野川水系日橋川に架かる橋。猪苗代湖にほど近い場所にあり、旧若松街道を通す。名前の由来は、弘法大師が16の塚を作り橋を作ったといわれることからと云う
 二代目にあたる橋が戊辰戦争「十六橋の戦い」の舞台となったもので、今あるのは五代目か?
 この日、通行は不可であった


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参考文献;大山格ホームページ「母成峠の戦い」
     「南柯紀行」大鳥圭介
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