カテゴリ:足利市( 8 )

2014.04/15(TUE)

梁田宿官軍宿営要図
於慶應戊辰三月九日夜




梁田戦争(2014.04/11)
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 梁田宿官軍宿営要図(於慶應戊辰三月九日夜)/足利市梁田公民館史料から

※ 長州勢梨羽小隊長突撃 ↓
    ときおき
梨羽時起(歳吉)
 1850 -1928
 長州藩士 海軍中将 男爵
      貴族院議員
 梁田戦争には長州藩小隊長として18歳で参戦。宿入り口を南側(雷電方面)から攻撃して幕軍の大砲二門を奪う。大垣藩から砲弾を借りて撃つと弾が小さ過ぎて、音だけは大きいがその割に飛ばない
その飛ばない弾がたまたま宿中にあった用水桶に当り、水がドッと流れ出すと敵は大いに驚き、渡良瀬川方に逃げたという
 日露戦争では第一艦隊の旗艦「三笠」の司令官として日本海々戦に勝利した
--梁田地区/歴史マップ--
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写真;長福寺入口付近から西方を見る(2014.04/11)



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2014.04/13(SUN)

日光例幣使街道 梁田宿(足利市)




にっこうれいへいしかいどう
日光例幣使街道

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写真;梁田宿附近、この道の先は渡良瀬川/2014.04/11

 日光例幣使街道は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る
 なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である
※ 幣帛(へいはく)
 現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する

宿場
  1.倉賀野宿(群馬県高崎市)
  2.玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)
  3.五料(ごりょう)宿・五料関(群馬県佐波郡玉村町)
  4.柴宿(群馬県伊勢崎市)
  5.境宿(群馬県伊勢崎市)
  6.木崎宿(群馬県太田市)
  7.太田宿(群馬県太田市)
  8.八木宿(栃木県足利市)
  9.梁田宿(栃木県足利市)
 10.天明宿(栃木県佐野市)
 11.犬伏宿(栃木県佐野市)
 12.富田宿(栃木県栃木市)
 13.栃木宿(栃木県栃木市)
 14.合戦場(かっせんば)宿(栃木県栃木市)
 15.金崎宿(栃木県栃木市)
 16.楡木宿(栃木県鹿沼市)
 17.奈佐原宿(栃木県鹿沼市)
 18.鹿沼宿(栃木県鹿沼市)
 19.文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)
 20.板橋宿(栃木県日光市)
 21.今市宿(栃木県日光市)
--Wikipedia「日光例幣使街道」2014.04/13--
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以下、現地の案内板から

梁田宿
 例幣使街道七番目、渡良瀬川渡河前の宿場である。本陣二軒、旅籠屋三二軒、総戸数一〇五軒があった
 明治元年の戊辰の役では、当宿に泊った幕軍を官軍が急襲し、官軍の圧倒的勝利に終わった。長福寺にこの時の戦死者の慰霊碑がある
 西 八木宿まで  三十丁
 東 天明宿まで  二里半

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2014.04/13(SUN)

梁田戦争戦死塚 足利市梁田町・長福寺




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写真;2014.04/11
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以下、現地の案内板から

足利市重要文化財(史跡)
梁田戦争戦死塚

 慶応四年(一八六八)三月九日未明のいわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
  表面に 戦死塚
  裏面に 慶応四戊辰年三月九日
      戦死六十四人此地埋 梁田宿
と行書をもって陰刻してある。
 梁田戦争の直後村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てたが、その後河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍に碑を移し、遺骨は現在地に改葬、昭和六年に碑も現在地に移して今日に至っている。
     昭和四十二年九月十九日 指定
     足利市教育委員会
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    すけなり
樺山資紀(覚之進)
 1837 -1922
 薩摩藩士 海軍大将 伯爵
      文部、内務大臣

 梁田戦争は30歳で参戦。この戦いで弟の橋口与助が銃弾を受け宿西側の若宮で戦死した。明治30年、足尾鉱毒の視察で梁田村を訪れた時に戦死塚を詣で、永く戦死塚を大切にするよう指示している
 「ほんとうに立派な人たちは、みな明治の維新で死んでしまった...」と、孫の白洲正子は祖父の資紀から聞かされていたという
--梁田地区/歴史マップ--



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2014.04/13(SUN)

東軍戦死者追弔碑 足利市梁田町・長福寺




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写真;2014.04/11
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以下、現地の案内板から

足利市重要文化財(史跡)
梁田戦争関連史跡
明治戊辰梁田役
東軍戦死者追弔碑 一基
   高さ 二六〇・〇センチメートル
   大正十三年三月(一九二四)

 花崗岩製の台の上に建てられた、点紋粘板岩製の石碑。
 裏面には「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建立」とあり、さらに尽力者「真下菊五郎」「川島為龍」「斎藤元次郎」「中山金太郎」「塚越米太郎」の五名が刻まれている。
 梁田戦争は慶応四年(一八六八)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。
 戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は高い。
     平成十七年三月二十四日 指定
     足利市教育委員会
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長福寺
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2014.04/12(SAT)

衝鉾隊軍監柳田勝太郎之墓 足利市久保田町1582・崇聖寺(そうしょうじ)




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衝鉾隊軍監柳田勝太郎之墓
以下、「梁田地区歴史マップ(梁田地区自治会長連合会/梁田地区史料調査委員会)」から

 会津藩士 1834~1868
 軍監とは、戦場での兵士の行動を監視する役目で軍目付とも言い、隊長に次ぐ立場である
 京都を守護するため、藩主松平容保に従ったがやがて鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸の会津屋敷に戻った。その後柳田は、総督古屋佐久左衛門と江戸より行動を共にした
 梁田戦で数発の銃弾を受け、直ちに自刀で自分の首を斬ったと伝えられている。崇聖寺には胴体を、会津の大龍寺には首を埋葬した
 碑の裏面には一面に文字が刻られているが、その中に〈そよと吹く風のたよりを聞くならば 花はみやこに散るとこそ知れ〉と京都時代に詠んだ歌がある
 大正14年に遺族によって建立された
享年34歳
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柳田勝太郎 重遠
理記とも/小右衛門倅/百五十石/古屋作左衛門隊に加わり衝鋒隊軍艦/明治元年三月七日下野梁田で傷、九日自決/三十四歳/会津藩
--幕末維新全殉難者名鑑--



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2014.04/12(SAT)

戊辰戦役幕軍之墓 足利市下渋垂町 468・自性寺




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戊辰戦役幕軍之墓 自性寺

以下、「梁田地区歴史マップ(梁田地区自治会長連合会/梁田地区史料調査委員会)」から

 本村(下渋垂村)内で幕府側2人の戦死者あり、埋葬したとの記録があるが、寺のどこで幕兵は眠っているのだろうか
 石碑の裏面には、中央部分に一行で〈慶応四戊辰年三月九日戦死〉と刻字されている。前住職によると、昭和20年の8月までは年一回必ず東京から遺族と思われる人が墓参に来ていたという
 現在は山門入口の右側にあり、お地蔵さまと仲良く並んでいる…

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自性寺
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2014.04/12(SAT)

梁田戦争 2 足利市梁田




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写真;「弾痕の松」梁田公民館隣"招魂社"敷内、2014.04/11
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第11冊 コマ番号 186/484~
p.326
復古外記 稿本 東山道戰記 第六  
                  

○古屋某、歩兵千八百許人ヲ率ヰテ、将サニ信濃ニ據ラントス、是日、薩摩、長門、大垣三藩兵、曉ニ乘シテ、之ヲ梁田驛ニ破ル、某等、遂ニ會津ニ走ル、明日、督府、武藏、上野、下野諸藩ニ令シテ、其餘黨剿夷セシム
※ 古屋某(作左衞門、舊幕府歩兵頭、)
  梁田驛(下野、)

○慶應出軍戰状ニ云、三月五日ニ、上州高崎ノ城下ニ晝正午比ニ着イタシ候處、徳川氏陸軍所標札可有之ト知識源助見届之、速ニ其標札ニ向テ尋レハ除キテ無之、故ニ宿屋ノ亭主ヲ呼テ客人ニ面會スヘキ旨ヲ達シケレハ、暫シテ渡邊亘ト名乘ヲ面會ス、尋問スル央ニ、長藩片山正作等モ參掛リ、我旅館ヘ可參旨達シテ歸ル、暫時ニ及ヘトモ參ラス、亦知識、別府氏等差越シ、同道シテ渡邊外ニ壹人來ル、兩人ニ向テ尋云、何用ニテ當地ニ可被參哉、兩人云、今般官軍御下向ニ付、江戸ヨリ御警衞方トシテ兵隊ヲ繰出シ、人馬宿賦トシテ唯今當所ヘ參候ト答フ、然ハ陸軍所重役ヨリ差圖ニテ候哉ト尋レハ、其儀巨細不相分トイフ、隊長古屋作左衛門何篇存知罷在、追付當驛ニ可著ト答ヘケルニ、數多之兵隊ヲ以御警衞ナト可申譯更ニ無之、眞ニ謝罪相立度趣意ニ候ハヽ、江戸ニ上下一同愼鎭シテ、妄リニ兵隊ヲ以テ御警衞ナト可申道理モ無之、勿論彌其趣意ニ候ハ、一ト先指圖ヲ得テスヘキコトコソ當然ニ候處、未謝罪不相立候内ニ、私ニ數多之銃隊繰出候儀、不審之條々可有之ト兩人ニ達ス、此方モ追付當所發足ニ付、無別儀謝罪歎願趣意アラハ、是ヨリ兵隊早々江戸ニ還シ可申旨ヲ、古屋等重立候者ヘ屹ト可相達ト、兩人ニ向テ演舌シテ、夫ヨリ高崎ヲ一字頃ニ發シ、新町宿ニ四字頃ニ著ス、直ニ探索人等、深谷、本庄邊迄差出候得共、古屋等進兵之様子モ更ニ分ラス、此夜、鴻巣、行田邊ヘ兵隊屯集之風聞申來ル、三月六日深谷之驛ニ晝頃ニ著ス、當所之住人本忍藩川上豐太郎ヲ以テ、行田、羽生陣屋邊ヘ探索方差出候處、武州羽生徳川氏之陣屋ヘ兵隊千五六百人繰込、過日大砲六挺、彈藥駄荷數多運入レ、銘々餅等ヲ民家ニ命シテ、非常之用意イタシタル由巨細ニ相分候、六日ノ夜、徳
p.327
川氏ノ監察櫻井庄兵衞、徒目付


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以下、現地の案内碑から

梁田戦争弾痕の松

 戊辰戦争の緒戦であり、有名な武将が多数参戦したことで戦史に高く評価されている
慶応四年三月九日の梁田戦争当時梁田宿中山藤作氏方にあったこの松は、その幹に砲弾を受けておるものであるが、大正七年頃中山家が転居されるに際し由緒ある松として梁田村に寄贈され小学校地に移植した
 後に招魂社内に移されていたが、ここに招魂社をこの地に奉還されるに伴い、梁田戦争の数少ない遺跡の一つとして永く保存すべく三度ここに移されたものである
     撰文 梁田公民館長  山岸正三
     揮毫 梁田小学校教諭 漆原芳三



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2014.04/11(FRI)

梁田戦争 足利市梁田




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 梁田宿官軍宿営要図(於慶應戊辰三月九日夜)/足利市梁田公民館史料から
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以下、現地の案内板から

梁田戦争について

 慶応四年(一八六八)三月九日早朝、上渋垂方面から急進した西軍(薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩)約二百余名は辰の上刻(午前七時頃)、いっせいに銃砲攻撃を開始した。薩摩藩、大垣藩は例幣使道を梁田宿へ、長州藩は南側から迂回し、本郷と中屋敷の中間から梁田宿中央裏手へ、薩摩藩一小隊は本道上から小生川へ渡良瀬川沿いに進撃した。
 いわば、梁田宿を三方から包囲する作戦であり、深い朝霧に隠れての奇襲攻撃であった。
 一方、総督古屋佐久左衛門が率いる東軍(幕府軍)約九百余名は三月八日午後、羽生陣屋を出発し梁田へ宿営した。翌九日の早朝に出発する予定で、まさに朝食の準備中であった。完全に不意を衝かれた東軍も、勇猛果敢に防戦し、梁田宿一帯はしだいに市街戦の様相となり、やがて凄惨な白兵戦となった。次第に宿場の中に追い込まれた東軍は、次々と戦死者を出し、午前十時頃その戦いは終った。
 東日本最初の戦いという梁田戦争(梁田の役)が、足利地方における明治維新の幕開けとなった。
 同年四月に、江戸城は開城し、九月に年号は明治元年となった。
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写真;東軍総督・古屋佐久左衛門(1833~1869)/足利市梁田公民館史料
2014.04/11


生涯

天保4年(1833)、筑後国御原郡古飯村(現・福岡県小郡市)の庄屋の次男として生まれる

大坂で医学を修め、江戸に洋学や剣術を学び、古屋家の養子となり御家人になる。神奈川奉行所の運上所の定役となる。野毛の官舎に住み、長老派宣教師やヘボンに英語や洋学を学ぶ
文久2年(1863)には、神奈川奉行所通訳となった。その後、横浜に駐屯していたイギリスの軍隊に用兵術を学ぶ。なお、このときの部下に今井信郎がいる
慶応元年(1865)には、西洋式軍隊訓練場である太田陣屋の普請係となり、慶応2年(1866)春に竣工させている
慶応3年(1867)4月、伝習隊は江戸に移り、越中島などにて、幕府陸軍の訓練を担当した

戊辰戦争開戦時は幕府陸軍で歩兵差図役頭取の要職にあった
慶応4年(1868)2月5日から7日にかけての鳥羽・伏見の戦いで指揮官が戦死した佐久間信久の第11連隊と、同じく戦死した窪田鎮章の第12連隊の残存兵力約1000人が麹町三番町の兵舎から脱走した。その後、逃亡や捕縛などでその数は半数に減ったものの、約500人が下野方面に屯ろしていた
2月10日頃、陸軍総裁・勝海舟の許可を得て、元京都見廻組の今井信郎らと共に脱走兵取締のために江戸を出発し、塩谷郡佐久山宿(現在の栃木県大田原市佐久山)にて脱走兵を帰順させる。それらを忍藩に預けて自身は江戸に戻り、新たに信濃鎮撫の命令を受け、3月上旬に新たに500人の兵を率い、先に帰順した400名と合流、武蔵羽生陣屋に入り、900名の部隊を結成する。8日には羽生を出発し、下野国梁田郡梁田宿に入るが、翌9日に古屋隊は官軍の奇襲攻撃をうけ敗北(梁田の戦い)

翌日、鹿沼にて部隊を再編成し、藤原を経て22日には、会津に入り松平容保に謁見し、24日には部隊名を衝鋒隊に改める。翌25日には、若松城下を発ち、水原をへて4月1日、新潟に着いた。その後、11日には、与板へ移動、与板藩から軍資金の提供を受け、高田を経て、飯山城を信濃平定の拠点にすべく、23日には飯山城下へと迫った。25日、衝鋒隊と、官軍の松代・尾張藩兵との間に戦闘が始まった。戦いの前半は衝鋒隊が優勢であったが、玉虫色の態度を示していた飯山藩が、衝鋒隊に対して突然発砲、衝鋒隊は総崩れになり敗北した(飯山戦争)。越後へ退却すると、高田藩の裏切りにあって襲撃され、衝鋒隊は四分五裂となり敗走した。しかし小千谷にて再結集し、閏4月27日からの鯨波戦争では小千谷市南方に位置する雪峠にて会津軍と共によくこれを守ったが、官軍の3度に渡る波状攻撃を受け、小千谷を放棄、片貝村へと退いた(その後の展開は北越戦争参照)

その後、衝鋒隊は8月末まで、越後国で交戦を続けていたが、翌9月には米沢藩の降伏、若松城下に官軍が進出するなどの状況になり、会津方面に撤退。若松城籠城軍と合流を試みるも、城は包囲されており、福島を経て、9月14日、白石に到着。10月10日には、石巻から榎本艦隊に合流し箱館に向かった。蝦夷共和国では歩兵頭に就任
明治2年(1869)5月12日、箱館五稜郭で新政府軍軍艦による艦砲射撃を受けて重傷を負い、4日後の16日に死去した。享年37
--Wikipedia「古屋佐久左衛門」2014.04/11--
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古屋佐久左衛門 智珍
幕臣/元久留米藩士高松勝太郎/凌雲の弟(兄)/江戸に学び古屋家を継ぐ/蘭英学に通じ、洋式兵学で高名/明治元年衝鋒隊を率い転戦、二年五月十四日五稜郭で戦死/三十歳/墓は東京荒川区・円通寺
--幕末維新全殉難者名鑑--
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