カテゴリ:>黒羽( 25 )

2016.09/16(FRI)

新江寿三郎正教墓 大田原市黒羽小前田(共同墓地)




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写真;2016.09/16

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・新江寿三郎正教 克成とも/義助の弟/卒/明治元年四月十八日官軍隊長祖式金八郎と連絡に出て幕兵に捕えられ、十九日下野河内郡本郷村で斬/二十五歳/黒羽小前田に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
慶応 4年(1868)
・四月十九日
 秋月・土方隊は宇都宮城攻撃を前に、本陣を蓼沼村(現上三川町)満福寺に置いたが、この時に捕えた黒羽藩斥候兵三名(四名か)を斬首した。北関東戊辰戦争(昭和五十七年発行・田辺昇吉著)では、「黒羽藩士鈴木庄作、新江寿三郎、長棹速水他一名」とあって・・・

黒羽藩士墓(2015.12/03)
鈴木庄作墓(鎮国社)(2015.10/30)
長棹速己之墓(鶏足寺)(2015.04/03)
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2016.09/16(FRI)

新江新吾克巳墓 大田原市黒羽小前田(共同墓地)




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写真;2016.09/16

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・新江新吉克巳 新吾とも/明治元年九月二十七日下野佐良土村で南下の市川勢と戦い死/四十六歳/黒羽小前田に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

戦死供養塔(2013.12/19)

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2016.08/10(WED)

芭蕉の句碑 大田原市黒羽向町 100・常念寺




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 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日一六八九年)に余瀬をたって殺生石に向った。曽良の『旅日記』には、「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくの細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、
 「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある
 この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される
 特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる
 この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である
  芭蕉の里 くろばね
--現地の案内板から--



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2016.08/09(TUE)

益子理右衛門之墓 大田原市黒羽向町 100・常念寺




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写真;2016.08/09

墓碑に
紀匡隆之墓
黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・益子理右衛門匡隆 匡明の子/半隊長/明治元年八月二十六日下野駒返坂で戦死/四十二歳/黒羽・常念寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

↓三斗小屋宿~野際宿の戦い
野際宿に残る家(2013.05/30)



光明山称名院常念寺

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  宗 派 浄土宗/総本山 知恩院
  御本尊 阿弥陀如来坐像
 浄土宗宗祖法然上人の没後、弟子達は沢山の派に分かれて全国に教えを広めました。鎌倉の光明寺を拠点とし、関東に広めたのは鎮西派を創立した良忠上人です
その弟子尊観が鎮西流名越派を開きました
名越派の第五祖良栄上人は現在の益子町に圓通寺を開き、名越派大澤流の総本山となり隆盛を極めました
この圓通寺より、名僧と言われた光蓮社良遍上人が、永禄八年(一五六五)に黒羽にお出でになり、余瀬に「常念寺」を開山したのです。室町時代後期のことです
常念寺第三世良安上人の代、寛永八年(一六三一)に、藩主大関土佐守高増の命により、現在地に移転しました
明暦二年(一六五六)火災により灰燼に帰しましたが、天保四年(一八三三)に、高増の重臣だった高柳大蔵直清の子孫である高柳源左衛門らの尽力により、現在の本堂が建立されました
近世末期の建築様式で、見事な欄間彫刻が当時を物語っております
時を経て、明治政府の学区制の公布に伴い、明治七年本堂に当時あった寺子屋を、小学校「開達校」として開校しました
三十年後の明治三十七年、石井沢に新築移転、現在の川西小学校となりました

現在の住職は、第二十九世です。平成二十七年、開山四百五十年を迎えました
--現地の案内板から--



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2016.08/09(TUE)

鮎瀬文蔵墓 大田原市前田 863附近(前田赤台共同墓地)




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写真;2016.08/09

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・鮎瀬文蔵棟正 五郎とも/明治元年九月五日若松で戦死/十九歳/黒羽前田赤台に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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黒羽町大字前田字赤台(※あかんだい)共同墓地
官修墳墓
(官祭神)
 俗名   鮎瀬文蔵棟正(※あゆのせ)
 戒名   正棟院戦山良功居士
 戦死月日 慶応四年九月五日
 同 場所 会津にて戦死(若松河町裏)
 没年   十九歳
 注 棟正は黒羽藩出兵二番隊/隊長渡邊福之進隊平士
右 平成十二年四月二十六日 大宮司克夫記
--現地の案内板から--
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官修墳墓について
 官修墳墓は、戊辰戦争において戦死した士卒の墓である。明治七年二月十五日内務省通達によって官費をもって墳墓の管理が定められる。翌八年四月二十四日太政官達によって年額六円二十五銭を国庫から支出される。明治二十四年墳墓の改築・修繕を各地方庁(県庁)で処理することを定める。明治三十四年六月十四日社寺局通牒により、官修の文字を冠せられ、ここに初めて官修墳墓が誕生した
 官修墳墓は、初め鉄柵で囲まれたが後に石垣に改められる。右の石柱に官修墳墓と刻されている。また、墳墓の形式には士と卒の別がない
 石碑には、俗名、戒名が刻され、戦死の場所、年月日、没年などが刻されている
  平成十二年四月二十六日 大宮司克夫記
  前田赤台共同墓地管理委員会
--現地の案内板から--



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2016.08/05(FRI)

益子四郎墓 大田原市黒羽田町 450・大雄寺




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写真;2016.08/05

紀君信明墓
黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・益子四郎信明  小隊長/江戸に学び洋式兵法、砲術に長ず/物頭/明治元年八月二十三日下野小谷村で戦死/二十二歳/黒羽・大雄寺に墓
--幕末維新全殉難者名鑑--


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益子信明戰死之碑(2014.02/26)



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2016.03/09(WED)

銭室塚古墳 大田原市北滝 918




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銭室塚古墳
 指定月日 昭和52年5月18日
 所 在 地 大田原市北滝918
 管 理 者 銭室塚管理者

 銭室塚古墳は、6世紀末頃の円墳である。二段築成で下段の墳丘は、直径約26メートル、高さ約2メートルである。上段は、直径約18メートル、高さ約2.5メートルである。墳頂はやや南に傾斜しているが、直径約6メートル程度の平坦面をなし、墳形は截頭円錐形(せっとうえんすいけい)を呈している。墳裾と斜面部に河原石による葺石が見られる
 周溝については、外面からは顕著に認められないが、水田の基盤整備のあとを見ると、墳丘の周囲幅5メートルの範囲の土色が違うので周溝があったことは明らかである
 内部は横穴式石室となっており、側壁は河原石の小口積である。石室の規模は、全長9.3メートル、玄室長6.3メートル、奥壁幅1.4メートル、最大幅2メートル、奥壁の高さ1.45メートル、羨道部の長さ3メートルである。奥壁は花崗岩の一枚石で、ドーム状である。玄室の側壁は乱石積で、下部に長さ約1.3メートルの山石が使用されている。天井石には、幅1.2メートル、厚さ20センチメートルの扁平な花崗岩5枚が用いられている。床面は河原石の礫床である。羨道部前方に、扁平な花崗岩が1枚ある
--引用;大田原市ホームページ--
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--以下、現地の案内板(文字が剥落しており一部分)から--
大田原市指定文化財 史跡 銭室塚古墳
・・玄門には"ほうだて石(袖石)"が左右に立ち、その上に"まぐさ(楣)石"がしっかりと載っている。羨道部(墓道)の天井石は外されて墳丘斜面に1個存在している
・・ただ、金銀珍宝を埋めた塚と言い伝えられて銭室塚の名が残っている
 現在、周囲には他の古墳は認められないが、当時は数基の円墳が群集しており、・・・と思われる
 周囲の水田には、古墳時代後期に比定できる土器片が散布しており、銭室塚古墳もこの時期に築造されたものと推測される。未調査の古墳であるが、円墳ではなく墳形を帆立貝式とみる考え方もある
     大田原市教育委員会



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2015.11/01(SUN)

黒羽藩主大関家累代墓所 黒羽・大雄寺




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写真;2015.10/30
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黒羽藩主大関家累代墓所
黒羽・大雄寺
墓碑は、芦野石を用いた位牌型で、大小の五輪塔と宝きょう印塔の型もみられる
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大関家墓所
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黒羽藩最後の藩主(2012.10/22)



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2015.10/30(FRI)

藪智次郎墓 大田原市>黒羽・大雄寺




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写真;2015.10/30
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黒羽藩
藪智次郎
・藪智次郎 光著  明治元年五月二十六日磐城白河白坂で傷、二年四月七日死/十七歳/黒羽・大雄寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

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慶応四年(1868)
五月二十六日
第十二章 東西相峙す二旬 1/2(2013.04/02)



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2015.10/30(FRI)

鈴木庄作墓 大田原市>黒羽、前田・鎮国社




大関公之碑(鎮国社)(2014.08/17)

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写真;2015.10/30
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黒羽藩
鈴木庄作
・鈴木庄作 正勝  正直とも/明治元年四月十八日斥候に出て幕兵に捕えられ、十九日下野蓼沼村で斬/四十五歳(三十二歳とも)/黒羽・延寿院に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 黒羽・鎮国社の参道脇の墓地に二つの墓碑があった

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写真;2015.10/30
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鈴木庄作らが斬首に至る経過
黒羽藩士墓(2015.12/03)
長棹速己之墓(鶏足寺)(2015.04/03)
新江寿三郎正教墓(2016.09/16)



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