カテゴリ:山川大蔵( 1 )

2013.04/01(MON)

山川大蔵(浩)
やまかわおおくら(ひろし)




弘化 2年(1845)11月 6日-明治31年(1898) 2月 4日
日本の武士(会津藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍少将。男爵。貴族院議員
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経歴

幕末
父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1000石)。母は会津藩家臣・西郷近登之の娘・えん。姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に大山捨松らがいる。初名を大蔵(おおくら)、与七郎等
※ 浩は明治以降の改名である

万延元年(1860)
・父の死去により家督を相続する
文久 2年(1862)
・藩主・松平容保の京都守護職拝命に伴って上洛する
慶応 2年(1866)
・幕府の使者と同行してロシアへ渡航する。ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知る

慶応 4年(1868)
・戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩の谷干城が率いる部隊を相手に巧妙に戦い、結果的に新政府軍は会津西街道(日光口)から会津に突入することは出来なかった。会津戦争の局地戦では、既に包囲された会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じた。籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城して妻・トセも爆死している。戦後は禁固謹慎に処せられる

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写真、【左・山川大蔵、右・土方歳三】2012.05/12

明治 3年(1870)
・斗南藩大参事に就いたものの、藩の実収は少なく藩士の生活も困窮し、自身も妹・咲子(捨松)を函館へ里子に出す等の苦労を重ねている

明治時代
 廃藩置県後は青森県に出仕した
明治 4年(1871)
・戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、陸軍に出仕する
明治 6年(1873)
・陸軍少佐として熊本鎮台に移り、佐賀の乱で活躍している
明治10年(1877)
・西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。選抜隊を率いた山川は、薩摩軍が攻囲し、熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城への入城に成功し、救援部隊第一号となった。だが、この際の怪我が元で左手の自由を失っている。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えていたという
明治13年(1880)
・陸軍大佐に進級
明治18年(1885)
・森有礼の命により、東京高等師範学校(現・筑波大学)及びその附属学校(現・筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・高等学校)、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の校長に任じられる
 その後は陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入される

明治23年(1890)
・貴族院議員に勅選され、谷や曾我祐準とともに院内会派・懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。同じ年に行われた日本最初の衆議院議員選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したが落選している
明治31年(1898)
・ 1月26日
 軍務等の功により男爵に叙せられる
・ 2月 4日
 病没。墓は青山霊園にある

※ 幕末の一級史料である「京都守護職始末」を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟健次郎が完成させたとするのが定説となっている

--参考文献;Wikipedia「山川浩」2013.04/01--



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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