カテゴリ:新島八重( 5 )

2015.09/07(MON)

八重之像 鶴ヶ城三ノ丸




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写真;2016.09/02
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以下、現地の案内板から

 明日の夜は 何国の誰か ながむらん
        なれし御城に 残す月影


 明治元年(一八六八)九月二十二日巳の刻(午前十時頃)、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた籠城戦に終止符が打たれました。山本(新島)八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕」(せっしやくわん・歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと晩年(八十四歳)に語っています
 降伏の儀式が終わり夜が更けると、八重は三ノ丸の一角で一首の和歌を詠みました。このとき「月が物凄いように輝いていた」とのちに回想しています
 --八重が物心ついたときから日々見上げてきたお城、籠城戦では城を枕に殉死する覚悟までしたこの鶴ヶ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか--
 煌々と輝く月明かりの下で詠まれた和歌に、八重の無念さが込められています

     *

新島八重(一八四五年~一九三二年)
 会津藩砲術師範・山本家に生まれ、戊辰戦争では銃を手に鶴ヶ城に籠り、奮戦した
 明治に入って京都に移住し、同志社の創立者となる新島襄と結婚。後に日本赤十字社社員となり、日清、日露戦争では篤志看護婦として傷病兵を看護した
 初代京都府議会議長を務めた山本覚馬は兄
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2013.08/03(SAT)

新島八重 空白の4年間
福島民友 2011年(平成23年)11月25日(金曜日)




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平成25年(2013)
・ 8月 3日
 NHK大河ドラマ・八重の桜、再放送「再起への道」を見ていたところ、会津藩降伏後、八重ら家族が米沢藩士内藤新一郎方で生活する様子があった
 さて、米沢のどの辺かとネットで探したところ、米沢にいたことを裏付ける資料が見つかったという新聞記事があった。2年ほど前のものだが引用してupする
 なお、ドラマの設定もこの資料内容に沿うものであった

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以下、記事を引用

福島民友 2011年(平成23年)11月25日(金曜日)

新島八重/米沢に足跡 空白の4年間
 戸籍に「出稼ぎ」記述
 若松で新資料を発見

大河で注目 生涯ひもとく

 2013(平成25)年放送のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決まった会津若松市出身の新島八重が戊辰戦争後、一時山形県の米沢に出稼ぎに出ていた可能性が高いことが24日、元会津図書館長の野口信一さんの調査で分かった。これまで会津藩が降伏、開城した1868(明治元)年から、兄の山本覚馬がいる京都へ向った71年まで4年間の八重の消息は明らかになっていなかった。戊辰戦争後、八重が京都に向かうまでの資料は少なく、八重の生涯をひもとく上で貴重な資料として注目が集まる。
     *
 野口さんによると、会津図書館収蔵の「各府県出稼戸籍簿」に戊辰戦争後、現在の青森県などにあたる斗南藩に移住しなかった会津の人たちの戸籍が記載されている。戸籍簿には、八重の母親である「山本権八の妻」らとともに、八重が「川崎尚之助(八重の最初の夫)の妻」として、71年に米沢藩士内藤新一郎方に出稼ぎに出ていた…と記されている。
 斗南藩に移住が始まったのが70年といわれており、野口さんは「移住に合わせて米沢に行ったとも考えられる」と話す。また、八重と内藤家のつながりは明らかではないが、野口さんは藩校日新館での学問、武術教育が充実していた会津には「各地から砲術、やりの技術を学びに来る藩士が多かった。内藤もその一人で、山本家に砲術を習いに来ていたのではないか」と推測する。当時の八重の足取りについては、会津若松市の東山方面で暮らしたとする内容の小説もある。
 また、野口さんは、これまで会津藩士ではなかったとされていた川崎尚之助が、会津藩士の石高や役職などを記した「御近習分限帳」に名前が記されていることも見付けた。
 京都以前の会津時代などの八重については資料が少なく、虚実入り交じっているという。大河ドラマで注目を集める今、野口さんは「まだまだ解明すべき部分が多い。今後事実が明らかになっていくのでは」と期待している。
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2013.01/12(SAT)

新島八重とスペンサー騎兵銃
NHK 大河ドラマ「八重の桜」




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平成25年(2013)
・ 1月12日
 NHK の大河ドラマ「八重の桜」PR用絵葉書
 いいものを頂戴した。感謝!
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NHK 大河ドラマ「八重の桜」(2013.01/06)
スペンサー騎兵銃(2013.01/11)

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2013.01/06(SUN)

NHK 大河ドラマ 八重の桜・第1回




新島八重(2012.09/20)
スペンサー騎兵銃(2013.01/11)
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平成25年(2013)
・ 1月 6日
 NHKの大河ドラマ「八重の桜」が今夜から始まった。主として大鳥圭介の足跡を追いたいという事で始めたこのブログとは少し趣が違うのだが、大いに興味があって観た
 以下に朝日新聞の番組欄の記述をそっくり引用してupする。特に子役の鈴木梨央についてのことなど全く同感!
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大河らしく壮大な幕開け

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「八重の桜」
 ★ NHK 夜 8:00
 1860年代に米国を二分した内戦、南北戦争が冒頭、描かれる。それはヒロイン新島八重(綾瀬はるか=写真)と彼女が生きた時代の日本が、世界規模で起こる変化の波に今後のみ込まれていくことを示唆する。壮大な幕開け。大河ドラマの名にふさわしい。
 初回の今夜は、八重が会津藩・鶴ヶ城で銃を構えて新政府軍と戦う会津戦争から、17年前の1851年へとさかのぼる。砲術師範の家に生まれ、兄・覚馬(西島秀俊)にあこがれる5歳の八重。秋の「追鳥狩」と呼ばれる藩の軍事演習中、ふとしたことで藩主・松平容保(綾野剛)と出会う。
 「殿様に、ご恩さ返してぃ」「わたし、鉄砲さやりてぃ」。八重の一途な思いや純粋さを、初回は子役の鈴木梨央が温かな響きの会津弁に乗せて、見事に表現している。
(河村能宏)
--参考文献;朝日新聞 2013年 1月 6日・13版40p--



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2012.09/20(THU)

新島八重 旧姓山本八重




平成24年(2012)
・ 9月20日
 白河集古苑にて開催中の「新島八重の生涯と戊辰戦争展」を見に行く
 伊王野の道の駅から「追分の明神」を越えて福島に入り、「白河の関跡」と「旗宿」を見て「白坂」に戻り、ここから旧奥州街道を白河へ向かった

「新島八重の生涯と戊辰戦争展」
特別企画展、白河/二本松同時開催
 期間  9月14日(金)~11月 4日(日) 午前 9時~午後 5時
    休館日、月曜日(月が祝祭日の場合は翌日が休館)
 会場 白河会場(白河集古苑)
    二本松会場(二本松市歴史資料館)

長州大垣藩六人之墓(2013.05/18)
会津藩戦死墓、会津藩銷魂碑・松並(2012.06/27)
松並、東軍の慰霊碑(2012.06/26)
白河城の攻防(2012.06/02)

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新島八重(旧姓、山本) 1845~1932
 会津藩砲術師範の山本家に生を受ける。会津での籠城戦では、男装しスペンサー銃を手に戦いに挑む。敗戦後、兄・覚馬を頼って京都へ移り、同志社創設者の新島襄と出会い結婚。後に、日清・日露では篤志看護婦として従軍した。激動の時代を生き抜いた彼女は、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」や「ハンサムウーマン」などと称される。
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  白河会場
  新島八重の生涯と戊辰白河口の戦い
  --ゆずれない心、それぞれの矜持(プライド)--
 八重は実に波乱に富んだ人生を歩みました。戊辰戦争時には故郷を守るために身をなげうち、京都に来てからは夫・襄と新島家を支えました。襄の永眠後、日清・日露戦争では若き看護婦たちを率いて傷病兵を助け、戦死者の遺族や女性の自立のためのサポートにも携わりました。こうした八重の生涯を見ると、会津藩士の娘として、新島家の人間として、世の進歩的女性としての矜持を感ぜずにはいられません。
 八重のように大切な「なにか」を守る戦いはここ白河でも繰り広げられました。戊辰戦争時の白河口の戦いです。新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が譲れない想いをもって戦いました。百日に及ぶ激戦がその証です。互いの矜持と信念の衝突です。
 展示品は言葉以上に語りかけています。ぜひとも八重と白河口で戦った人々の矜持に心を通わせてみて下さい。
--参考;「新島八重の生涯と戊辰戦争展」白河会場パンフレット--



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