カテゴリ:会津若松市( 183 )

2017.08/18(FRI)

御薬園 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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写真↓;庭園の一部"枯沢"・2017.08/17
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名勝 会津松平氏庭園 昭和七年十月十九日指定
 旧会津藩松平氏の別荘で、もと藩の薬園のあったことから「御薬園」の名で親しまれている。庭園の築造年月は明らかでないが、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている
 中央に池を広くとり、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭(らくじゅてい)と称する。池の奥、右に男滝左に女滝がある。後方に低い築山を設けて、東山連峯の風景を豊かにとり入れ、また石敷路をたどって池畔をめぐる風致も変化に富んでいる
 江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園であり、文化財保護法による名勝として保護されている
     文化財保護委員会/財団法人会津保松会
--現地の案内板から--
     *
御茶屋御殿 ※工事中のため写真無し
 会津戦争(戊辰戦争)のとき、御薬園は新政府軍の治療所として使用された。そのため御茶屋御殿・楽寿亭は焼失を免れた
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御薬園 鳥瞰図
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2017.08/18(FRI)

御薬園(楽寿亭) 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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写真↓;2017.08/17
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楽寿亭 らくじゅてい/元禄9年(1696)建
藩主や藩の重役たちが、納涼・茶席・密議などのために用いた。「楽寿亭」の名は、三代藩主正容によって命名された。北側の濡縁には戊辰戦争の際の刀傷が今も残る
     *
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2017.08/18(FRI)

御薬園(重陽閣) 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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秩父宮妃勢津子殿下と御薬園・重陽閣
 秩父宮妃勢津子殿下は、藩主松平容保公の四男で初代参議院議長をつとめられた松平恒雄様、信子様のご長女として明治四十二年(1909)九月九日、重陽の節句に英国でお生まれになりました。十九歳の時に昭和天皇の直ぐの弟宮・秩父宮雍仁親王殿下とのご縁組みが整い、昭和三年(1928)九月二十八日にご成婚の儀がとり行われました
 このご婚儀は会津にとって大変に大きな意味を持つものでした。京都守護職として孝明天皇の篤いご信任をいただいたにも拘わらず、戊辰戦争以来実に六十年いわれなき汚名に悔しい思いを禁じ得なかった会津の人々は、このご慶事により新しい夜明けを迎えると、まさに狂喜ともいうほどの慶びに沸き立ったのです
 ご結婚の報告に帰郷された時の宿となった東山温泉新滝旅館では木造二階建ての別棟を新築、この建物が昭和四十八年ゆかりの地御薬園に移築された「重陽閣」です
 現在、重陽閣向かって正面左手には妃殿下お手植えの松が、また右手には御顕彰碑があり、二階には妃殿下の数少ない御真筆の扁額があります
--現地の案内板から--

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     *
秩父宮妃勢津子殿下
 秩父宮妃勢津子殿下は、明治四十二年九月九日、重陽の節句に、旧会津藩主松平容保公の四男で後の初代参議院議長松平恒雄様、信子様(侯爵鍋島直大息女)の長女として英国ロンドンにてご誕生になりました
 女子学習院からワシントンのフレンド・スクールに学ばれ、御年十九歳の時、畏くも皇太后陛下の思し召しにより昭和天皇の直ぐの弟宮秩父宮雍仁親王殿下とのご縁組みが調い、ご本家の子爵松平保男姪としてご入籍、お名前の節子を勢津子に改められ、昭和三年九月二十八日ご成婚の儀がとり行われました
 京都守護職として孝明天皇の篤いご信任をいただいたにも拘わらず、戊辰戦争以来実に六十年いわれなき汚名に悔しい思いを禁じ得なかった会津の人々は、このご慶事により新しい夜明けを迎えると、まさに狂喜ともいうほどの慶びに沸き立ったのであります
 こうして皇室に入られた妃殿下は、よく宮様を支えられ直宮妃としての責任を果たされました。昭和二十八年雍仁親王殿下薨去の後も、日英協会名誉総裁、結核予防会総裁、日本赤十字社名誉副総裁等をお務めになり、国際親善、社会公共のために尽くされました
 妃殿下は晩年、回想記『銀のボンボニエール』をお書きになりましたが、信頼と愛情に結ばれた宮様への熱い想いは読む者を感動させ、心のふるさと会津に寄せられる深いお気持ちを表す文字が心を打ちます
 平成七年八月二十五日、御年八十五歳のご生涯を閉じられました
 ここに秩父宮妃勢津子殿下の凛として気品溢れる彫像を拝してご遺徳を追慕し、末永くご功績を語り継ぎたいと思います
     秩父宮妃勢津子殿下記念事業委員会
     平成十五年九月七日建立
--現地の顕彰碑から--

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2017.08/17(THU)

伴百悦墓 会津若松市北青木13-33・善龍寺




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伴百悦
束松事件現場(2013.08/18)
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2017.08/17(THU)

会津藩三名墓 会津若松市北青木13-33・善龍寺




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会津藩三名墓
・小日山善次郎  善左衛門伜/五石五斗二人扶持/独礼/進撃小室隊/明治元年八月二十九日若松長命寺で戦死/二十五歳
・小桧山覚次郎  戊辰役戦死
・小日山友四郎  友次郎とも/善左衛門二男/六石二人扶持/朱雀足軽四番横山隊/明治元年九月三日会津関山で戦死/十八歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※小日山善左衛門 六石二人扶持/玄武士中伊与田隊/明治元年九月十七日会津一ノ堰で戦死/五十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
<裏面>
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2017.08/17(THU)

井上恒之助墓 会津若松市北青木13-33・善龍寺




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井上恒之助 会津藩
誠志隊半隊頭/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、面川(井出中野村とも)で死/四十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2017.08/17(THU)

高木盛之輔墓 会津若松市北青木13-33・善龍寺




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高木盛之輔 安政元年(1854) - 大正8年(1919)2月19日
日本の武士、検察官。会津藩藩士として戊辰戦争を、別働第二旅団の一員として西南戦争を戦った。姉の高木時尾は照姫附き祐筆で、元新撰組副長助勤斎藤一(藤田五郎)に嫁ぐ。福島県立会津高等学校の創立功労者の一人である

生涯(戊辰戦争・西南戦争)

会津藩、家禄300石の高木家に生まれる。高木家は藩大目付を務める家柄であった。会津戦争の当初は伝令を務め、松平容保、定敬兄弟が出陣していた滝沢本陣に危急を報告した。その後年少者で組織された護衛隊に属して篭城戦を戦った。藩降伏後は猪苗代で謹慎生活を送る。この際軍事方水島純の命で同年輩の山川健次郎、赤羽四郎、柴四朗ら五人で謹慎所を脱出し、若松で土佐藩の伴中吉に主君容保、喜徳父子への寛大な措置を嘆願した。処刑もあり得ることを覚悟の上の行動であった。その後東京へ赴き、西南戦争では山川浩陸軍中佐の元で転戦する

戦後は各地の地方裁判所で検察官として勤務し、明治44年(1911)に検事正で退官する。勤務の傍ら郷里に中学校(旧制)を創設すべく私財を提供し、また会津地方の各地でその必要性を訴え、私立会津中学の開校に結実する。明治の末年には加藤寛六郎と共に見禰山義会の結成を主導し、加藤と共に『正之公政教要録』を校閲している。大正2年(1913)には会津藩戦死者が埋葬された阿弥陀寺の整備に資金を提供した

著述に山川浩の伝記『櫻山集』、戊辰戦争時に自刃した伯母沼澤道子の伝記『沼澤道子傳』、『佐川官兵衛父子傳』のほか、戊辰戦争の体験記である『会津籠城中護衛隊記』がある。会津会会員。墓所は会津若松の善龍寺
--引用・要約;「高木盛之輔」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.06/17(金)04;11--
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2017.06/09(FRI)

内藤得道墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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内藤得道墓
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・内藤得道
明治元年(1868)九月十七日
 内藤一族が泰雲寺で自刃した際に、その様子を見届け、遺品・遺言を介右衛門のもとへと届けた泰雲寺の僧だと云う
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内藤氏家属墓(2017.06/07)



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2017.06/07(WED)

大竹主計墓/原 早太墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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大竹主計墓
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・大竹主計  会津藩/四百五十石、軍事奉行番頭対席/遊撃隊頭/明治元年九月五日会津面川(御山とも)で戦死/四十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
原 早太墓
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・原 早太  会津藩/三百六十石/朱雀寄合一番隊中隊頭/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十六日面川で死/三十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
一ノ堰の戦い(2013.09/11)
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供養塔 大竹主計墓・供養塔・原 早太墓
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供養塔表に
 白虎寄合二番隊長 原 早太之霊
 純義隊主将    大竹主計之霊
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2017.06/07(WED)

梶原平馬供養塔 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺





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梶原平馬供養塔
平成二十五年(2013)六月吉日建立


梶原平馬 かじわらへいま
 天保13年(1842)? - 明治22年(1889)は、幕末の会津藩家老
・生涯
内藤家に生まれ(内藤介右衛門信節は兄)、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉は山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐となる
・幕末
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた
・明治
その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった
--引用・要約;「梶原平馬」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.10/07(金)10;27--
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会津戦争記聞(2013.08/13)



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