カテゴリ:会津若松市( 176 )

2017.06/09(FRI)

内藤得道墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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内藤得道墓
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・内藤得道
明治元年(1868)九月十七日
 内藤一族が泰雲寺で自刃した際に、その様子を見届け、遺品・遺言を介右衛門のもとへと届けた泰雲寺の僧だと云う
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内藤氏家属墓(2017.06/07)



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2017.06/07(WED)

大竹主計墓/原 早太墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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大竹主計墓
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・大竹主計  会津藩/四百五十石、軍事奉行番頭対席/遊撃隊頭/明治元年九月五日会津面川(御山とも)で戦死/四十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
原 早太墓
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・原 早太  会津藩/三百六十石/朱雀寄合一番隊中隊頭/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十六日面川で死/三十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
一ノ堰の戦い(2013.09/11)
     *
供養塔 大竹主計墓・供養塔・原 早太墓
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供養塔表に
 白虎寄合二番隊長 原 早太之霊
 純義隊主将    大竹主計之霊
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2017.06/07(WED)

梶原平馬供養塔 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺





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梶原平馬供養塔
平成二十五年(2013)六月吉日建立


梶原平馬 かじわらへいま
 天保13年(1842)? - 明治22年(1889)は、幕末の会津藩家老
・生涯
内藤家に生まれ(内藤介右衛門信節は兄)、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉は山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐となる
・幕末
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた
・明治
その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった
--引用・要約;「梶原平馬」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.10/07(金)10;27--
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会津戦争記聞(2013.08/13)



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2017.06/07(WED)

武川信臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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武川信臣墓
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墓誌に
・・・
信臣ハ通称ヲ三彦ト称シ 内藤可隠ノ第三子 戊辰戦争時主家ノ□姓ヲ名乗リ彰義隊ニ属シテ上野ノ山ノ戦ニ奮戦 敗北後 江戸ニ潜伏中西軍ニ捕エラレ凄マシイ拷問ニ屈セズ明治元年十月□日江戸ノ獄舎□刑セラル
    武川信臣
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2017.06/07(WED)

内藤氏家臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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内藤氏家臣墓
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・阿部重四郎  安部とも/家老内藤介右衛門譜代家来/明治元年九月十七日介右衛門の父内藤可隠と子女が若松・泰雲寺で自決したときこれに殉じた/三十歳
・石野八四郎  家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家に殉じ自刃/三十一歳
・富田喜千六  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自刃
・名野八四郎  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川の泰雲寺で自刃
・古川重兵衛  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家主家一族と自刃/四十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
元木吉之助墓
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・元木喜代之助 吉之助とも/六石二人扶持/家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で自刃/三十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2017.06/07(WED)

上田氏家属墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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上田氏家属墓
・上田伊閑  八百石、八郎右衛門の父/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で子女と自刃/六十一歳
・上田ナオ  シゲとも/八郎右衛門の母、伊閑の妻/明治元年九月十七日夫らとともに自害/五十八歳
・上田チエ  八郎右衛門の娘/明治元年九月十七日一家で死/九歳
・上田ジュン 八郎右衛門の妹/明治元年九月十七日一家で自刃/三十歳
・上田ミネ  八郎右衛門の叔母/伊閑の妹/明治元年九月十七日伊閑らとともに自刃/五十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
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2017.06/07(WED)

内藤氏家属墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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--以下、現地の墓誌(部分)から--
墓誌
戊辰戦争ノ風雲急ヲ告ゲ西軍ノ進撃会津城下ニ迫ル 家老内藤信節ノ父 可隠ハ内藤一族 並ビニ家臣及ビ上田伊閑ノ一族ト共ニ城ニ赴クモ城門閉ジラレテ入ルコト出来ズ 止ムナク菩提所泰雲寺ニ待機ス 明治元年九月十七日西軍 一ノ堰ヲ突破シ面川村ニ迫リ来タルトノ報ニ泰雲寺ニテ全員壮烈ナル自刃ヲ遂ゲラル
 内藤家一族
    内藤可隠
    内藤可隠妻 ※モト(つやとも)
    内藤信節妻 ※介右衛門の妻・フサ(ひさとも)
    内藤英馬
      秀
      しだ
      □
      清
      つく
    武川新六姉重
 上田家一族
    上田伊閑
      しけ子
      みね子
      じゅん子
      ちえ子
 内藤氏家臣
    古川十兵衛
    石野八四郎
    安部重次郎
    元木吉之助

信臣ハ通称ヲ三彦ト称シ 内藤可隠ノ第三子 戊辰戦争時主家ノ□姓ヲ名乗リ彰義隊ニ属シテ上野ノ山ノ戦ニ奮戦 敗北後 江戸ニ潜伏中西軍ニ捕エラレ凄マシイ拷問ニ屈セズ明治元年十月□日江戸ノ獄舎□刑セラル
    武川信臣
     *
内藤氏家属墓
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・内藤可隠   二千二百石、重臣介右衛門の父/隠居/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で子女八人とともに自刃/六十七歳
・内藤モト   つやとも/可隠の妻/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/五十八歳
・内藤フサ   ひさとも/介右衛門の妻/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/二十三歳
・内藤ヒデ   介右衛門の娘/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で死/六歳
・内藤英馬   介右衛門の伜/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で死/三歳
・内藤ジュウ  介右衛門の姪/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/二十三歳
・内藤トク   介右衛門の妹/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/十九歳
・内藤ツグ   介右衛門の妹/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/十七歳
・内藤セイ   介右衛門の叔母/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害
・武川俊六の姉 明治元年九月十七日若松・泰雲寺で自害
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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・泰雲寺
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2017.02/01(WED)

腰掛待合 会津若松城・茶室「麟閣」




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こしかけまちあい
腰掛待合
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 客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立の際に一旦露地に出て、後の席入りの合図を待つ施設。この腰掛待合も、森川家から移築、復元したものである
--現地の案内板--
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茶室、麟閣(2013.03/12)



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2016.12/06(TUE)

殉節白虎隊士之霊 会津若松市一箕町大字八幡字墓料78(妙国寺)




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写真;2016.12/04
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白虎隊士埋葬由来
 慶応四年(1868)八月二十三日、大野ヶ原に出陣した白虎隊士中二番隊は明け方からの激しい戦闘で負傷者が続出した。味方の必死の攻撃にもかかわらず敵の侵攻は止まない。やむを得ずお城を目ざして退却することとなり、山中をさまよいながら、ようやく飯盛山上にたどりついた。しかし、白虎隊士二十名の見たものは燃えさかる天守閣であった
「もはや、これまで、君公も自刃し果てなられたであろう。敵の恥ずかしめを受けるよりは、いさぎよく自刃しよう」。と衆議一決、山上の露と消えた
 白虎隊士の遺体は誰も手をふれることが出来ず、野ざらしの状態であった。牛ヶ墓の吉田伊惣治は余りにも可哀そうに思い、夜な夜な遺体を菩提寺の墓地に運び埋葬したのである
 よって当山は白虎隊士最初の埋葬地である
     妙國寺
--現地の案内板--
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白虎隊士自刃仮埋葬地
 宝光山妙国寺(ほうこうさんみょうこくじ)は、顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)開祖の日什上人(にちじゅうしょうにん・1314~1392)が誕生・入滅した霊場である
 戊辰戦争直後、会津藩主松平容保(かたもり)・善徳(よしのり)父子がしばらくこの寺に謹慎した。また、飯盛山(いいもりやま)で自刃した白虎隊士の一部の遺体が仮埋葬された所でもある
--現地の案内板--
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妙国寺
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飯盛山/白虎隊十九士(墓)(2016.07/23)



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2016.12/05(MON)

古田伝之助墓 会津若松市北会津町下荒井16(宝寿院)





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写真;2016.12/04

古田伝之助  会津藩/敢死隊/明治元年八月二十三日会津笹山で戦死/四十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 藩の募兵に応じ敢死隊に編入。西軍が城下に迫るや、白虎隊などと共に戸ノ口原に出陣、笹山で戦死した

宝寿院
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