カテゴリ:二本松市( 12 )

2017.02/22(WED)

二本松少年隊顕彰碑 二本松城跡




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写真;2013.08/27

二本松少年隊顕彰碑
 この一帯の平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年達が稽古を行った場所といわれています
 当碑は、昭和十五年(一九四〇)の紀元二千六百年記念事業にあたり、戊辰戦争に出陣した少年隊士の顕彰を目的に、町一丸となってこのゆかりの地に建立したものです
 碑表面は、旧二本松藩主丹羽家十六代当主・丹羽長徳の揮毫、碑裏面には隊長・木村銃太郎、副隊長・二階堂衛守をはじめ、出陣した少年隊士六十二名の氏名が刻まれています
     二本松市
--現地の案内板から--
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二本松少年隊の奮戦(2013.09/07)



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2017.01/30(MON)

二本松城跡のイロハカエデ 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
二本松城祉




※ 現在、事情があって史跡などを見に行けないでいる。なので当分の間、過去に撮った写真をもとにしてupすることにした
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写真;2013.08/27

二本松市指定天然記念物
一、名称 二本松城跡のイロハカエデ
「笠マツ」の西、園路の左斜面下部に植えられているイロハカエデである
 根元は斜面にそって西側が東側より一・六メートルほど高く、高所面における根回りが三・五メートルあり、高所の根元から約〇・五メートルのところで三本の幹に分かれ、さらに上部で枝分かれし、東西十七メートル、南北十五メートルに枝を張り、樹高が約十二メートルでやや南東に傾いている
 小枝が複雑に張り楓特有の樹形を示すとともに、幹は所々こぶ状をなし古木の観を呈し、秋季には見事な紅葉を見ることができる。樹齢三五〇年から四〇〇年であるが樹勢は旺盛である
 二本松城においては、寛永年間から明和年間にかけて「るり池」周辺の回遊式庭園をはじめとする庭園の整備が行われており、そのとき植えられたと思われる楓の古木が多く見られ、このイロハカエデはその代表的なものである
     平成十二年四月一日指定
     二本松市教育委員会
--現地の案内板から--

※ 二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある日本の城(平山城)。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。平成19年(2007)7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている
--引用・要約;「二本松城」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.01/28(土)12;28--

霞ケ城公園[二本松城址](2013.08/30)



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2013.09/07(SAT)

二本松少年隊の奮戦 大壇口の戦い




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写真;二本松城址の少年隊士像・2013.08/27【合成なり】
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二本松少年隊の奮戦
大壇口の戦い

 二本松藩では通常、20歳から60歳までの藩士が軍役に服することとしていた
慶応 4年(1868)
・ 7月
 西軍を迎え撃つため、軍役に服する年齢を15歳に引き下げ、さらに(入れ年)の慣習によって13歳までが戦闘に参加出来るようになる

 少年隊
 12歳  1名 久保豊三郎〈例外〉
 13歳 14〃
 14歳 19〃
 15歳 10〃
 16歳 12〃
 17歳  6〃
  計 62名〈確認がされたもの〉

 このうち13、14歳の少年たちの多くは丹羽右近隊に配属され、大壇口の守備に就いた。これは同隊の大砲方西洋流砲術師範木村銃太郎の門下生であったことによるものだろう
 少年隊々長木村銃太郎は23名(のち25名)の少年たちを率いて出陣した。木村はあざやかな緋の袴を着し、白地に雲龍を描いた陣羽織、明珍の具足に身を固め、長身の太刀を帯びていた
・  28日
 少年隊、大壇口に陣を張り一夜をすごす
・  29日
 北上してきた西軍により、大壇口前方の尼子台守備の一個小隊(軍師小川平助)が撃破される。ついで薩摩藩先頭の一軍が正法寺部落に入ると、これが少年隊の大砲の射程となり砲撃が開始された
 砲手 岡山篤次郎 13歳
    成田虎治  14歳
 銃撃戦では銃太郎の指揮のもと、さながら射撃稽古のようであったという。しかし西軍の兵およそ三千に対し味方は百程度であり、次第に劣勢となる
 高橋辰治  13歳 負傷(のち戦死)
 奥田午之助 15歳 銃弾に倒れた
 次いで隊長の銃太郎が左腕を撃たれ負傷した。丹羽右近隊はすでに敗走していたため、少年隊も退却しようとしたところ、今度は一弾が銃太郎の腰部を撃ち抜き、重傷の銃太郎はもはや帰城できぬと悟り、首を斬るよう命じた。ようやく首を斬った少年たちは、泣きながら棒や素手で穴を掘り銃太郎の屍を埋めた
 退却する少年たちが大燐寺前まで来たとき、南方から迫る西軍の一団から一斉射撃を受けた。銃太郎の首を持っていた二階堂衛守(副隊長)と岡山篤次郎が倒れ、残りの少年たちは大燐寺前の崖を登り敗走したのである

二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)

丹羽右近隊(大壇口の戦い)
少年隊
〈戦死〉
  木村銃太郎 22歳 隊長
  二階堂衛守 33〃 副隊長
  高橋辰治  13〃
  奥田午之助 15〃
  岡山篤次郎 13〃
  徳田鉄吉  13〃
  遊佐辰弥  13〃
  木村丈太郎 14〃
  成田才次郎 14〃
〈負傷〉
  久保豊三郎 12歳
  大島七郎  13〃
  小川安次郎 13〃
  久保鉄次郎 15〃
  三浦行蔵  16〃
このほか(少年隊)
〈戦死〉
  田中三治  16歳 樽井隊
  岩本清次郎 17〃
  中村久次郎 17〃
  根来梶之助 16〃 大谷志摩隊
  上崎鉄蔵  16〃
  小沢幾弥  17〃 大砲方朝河八太夫門人


※ 明珍;甲冑師の一派のこと

--参考文献;「戊辰戦争全史・下」菊地明/伊東成郎編・p.50、51/間島勲--



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2013.09/01(SUN)

内藤四郎兵衛戦死の地 二本松
二本松城址




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写真;箕輪門前、2013.08/27
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大城代
内藤四郎兵衛
  戦死の地
城門を開いて敵勢に斬り込み、獅子奮迅の末、壮絶な戦死を遂げた。
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二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)



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2013.08/31(SAT)

自刃の碑 二本松
二本松城址




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写真;本丸天守台下、2013.08/27

以下、現地の案内板から

丹羽和左衛門(六十六歳/城代)
安倍井又之丞(六十五歳/勘定奉行)自刃の碑

 当碑は、慶応四年(一八六八)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自刃(割腹)した両人の供養碑です。
 丹羽の自刃の様子は、床几(腰掛け)に腰をおろし、軍扇(ぐんせん)を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。
 当初この碑は天守台の中央奥に建っていましたが、平成七年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、当所に移設しました。

※ 丹羽和左衛門(にわわざえもん)・安倍井又之丞(あべいまたのじょう)
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二本松藩士自尽の地
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写真;2013.08/27

以下、現地の案内板から

二本松藩士自尽の地
 慶応四年(一八六八)戊辰戦争において、薩摩・長州・土佐藩兵を主力とした西軍約七千名に対して、応援兵を合わせても兵力約千名の二本松藩は各所で戦いを繰り広げ、七月二十九日ついに城下・城内の戦いとなり正午頃二本松城は炎上し、落城しました。
 二本松藩の戦死者二百八名以上という戊辰戦争中最大の壮烈な戦いでした。
 ここでは、主戦論者であった家老・丹羽一学(にわいちがく)、城代・服部久左衛門(はっとりきゅうざえもん)、小城代・丹羽新十郎(にわしんじゅうろう)の三名が責任をとり自尽(割腹)し、壮絶な最期を遂げました。
     二本松市
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二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)



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2013.08/31(SAT)

二本松城、落城する 二本松
慶応 4年(1868) 7月29日




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写真;二本松城本丸と東櫓台、2013.08/27
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二本松城、落城する

慶応 4年(1868)
・ 7月26日
 守山藩の列藩同盟からの離脱・降伏に続き、三春藩も降伏開城した。この日、板垣退助の率いる新政府軍は三春城に入城した
・  27日
 平方面から進攻した渡辺清左衛門(参謀、大村藩士)率いる一軍が三春城に入る。いよいよ新政府軍は二本松攻略に向け進攻することとなるが、まず軍を二手に分けた。渡辺軍は三春藩を先導に小浜へ、板垣軍は本宮へ向けて夫々進攻した
 板垣軍
  先鋒 忍藩一小隊・黒羽藩三小隊と砲二門
  本隊 土佐藩三小隊と砲隊・三春藩一小隊・大垣藩二小隊・館林藩一小隊半と砲二門・彦根藩二小隊
〈遡って〉
・  26日夜
 板垣軍の一部である薩摩二、四、六番隊・土佐の二個小隊が板垣に無断で出撃した
・  27日
 払暁、糠沢村上之内の二本松兵を奇襲攻撃
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      【薩摩】              【二本松勢】
  隊長  薩摩四番隊長 川村与十郎(純義)  二小隊 樽井弥五左衛門
      〃 六番隊長 野津 七次(道貫)
  兵力  数百名               百三十~二百余名
  損害                    死傷者 凡六十名
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 この奇襲攻撃で間道を通った土佐二個小隊は戦闘に間に合わず。また軍を進めた板垣軍が阿武隈川をはさんだ本宮の対岸、高木村辺に着くがここに二本松兵の姿は無かった
 一方、二本松軍にすれば、新政府軍に本宮を占拠されれば手薄な二本松城は危機に瀕するため、郡山布陣の大谷鳴海隊二個小隊は本宮に移動していたが、板垣軍の進撃を知った血気の若侍たちはこれを迎撃せんと本宮対岸に舟で渡り、忍・黒羽の新政府軍兵を味方の樽井隊と見誤って近づき、至近距離から散弾砲をあびて四散した。しかも舟は本宮側に引き上げられており、追撃を受けて多くの溺死者を出した
 本宮の対岸に到着した板垣軍本隊も同様、本宮へ渡るにも舟は無く川を挟んだ銃撃戦が続いた。しかし、兵の過多と銃火器等の優劣もあり二本松勢は城方面へと退却した
・  28日
 郡山から進攻した仙台藩を主力の同盟軍、本宮奪還戦を試みるが失敗
 〈ところで〉
  二本松軍の総兵員   およそ 2300名
  うち郡山・須賀川方面     1400〃
  二本松             900〃(うち 500名は城下各部署に配備) 
 同盟軍の仙台・会津などの援軍を合わせてもせいぜい1000名ほどの兵力で新政府軍を迎え撃つことになるのである
・  29日
 本宮の板垣軍は 大壇(おおだん)口から
 小浜の渡辺軍は 供中(ぐちゅう)口から
 それぞれ二本松城下へ向けて進撃した。このとき大壇口の守備は二本松の丹羽右近隊、このなかには木村銃太郎(22歳)を隊長とする少年隊が入っていたのである
 > 板垣軍、尼子台で二本松の小川平助隊を撃破
 > 板垣軍、大壇口の丹羽右近隊と激しい銃撃戦(丹羽右近隊、供中口破られるの報に退却)
 > 渡辺軍、供中口を破る
 > 渡辺軍、城下各地で激しい戦闘後二本松城に突入した
 さて、藩主丹羽長国とその家族を米沢へ落とした二本松城内では重臣たちが最期を迎える。あくまでも降伏開城を拒み、大城代内藤四郎兵衛(正置)の指図により城に火が放たれた
 [自刃]
 家老丹羽一学(富穀/とみよし)
 郡代丹羽新十郎(正名/まさな)
 城代服部久左衛門(保定)
 城代丹羽和左衛門(弘道)
 勘定奉行安部井又之丞(良明)
 [討死]
 大城代内藤四郎兵衛(正置)
※ 自刃は降伏に等しいとし、城門を開いて敵陣のなかに斬りこみ壮烈な討死を遂げた
・ 9月 4日
 二本松藩主丹羽長国、帰順降伏の使者を送る
※ 藩主丹羽長国の正室・久子は美濃大垣藩九代藩主戸田氏正の二女であり、戊辰時の大垣藩主戸田氏共とは姉弟である。氏共は密使を二本松藩に送るなどして恭順、降伏を勧めていたであろうが、結果は姉と義兄に敵対して戦うこととなったのである

--参考文献;「戊辰戦争全史」菊地明/伊東成郎編--



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2013.08/31(SAT)

二本松少年隊 二本松
二本松城址



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以下、現地の案内板から

二本松少年隊

 慶応四年(一八六八)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣、七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
 この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
 なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
     二本松市
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二本松藩の戊辰戦争(2013.08/31)



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2013.08/31(SAT)

霞ケ城の傘マツ 二本松市
二本松城址




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写真;2013.08/27

二本松市指定天然記念物
一、名称 霞ケ城の傘マツ
 "八千代の松"といわれるアカマツの巨木で、根元周囲三.〇メートル、目通り幹囲三.九メートル、樹高約四.五メートルあり、地上一.六メートルで三枝している。南の支幹は枯死し、中央の支幹は周囲二.二メートル、北の支幹は一.五メートルあり、東西に一四メートルで傘状に広がっている。
 推定樹齢三〇〇年といわれ、樹勢も旺盛であり、独特の形状を呈している。
     昭和五十一年七月二十一日指定
     二本松市教育委員会
--現地の案内板から--



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2013.08/30(FRI)

霞ケ城公園[二本松城址]二本松
かすみがじょう




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写真;2013.08/27
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以下、現地の案内板から

かすみがじょうこうえん にほんまつじょうし
霞ケ城公園[二本松城址]

 二本松城は、室町中期に奥州探題(たんだい)を命じられた畠山満泰(はたけやまみつやす)が築城し、以後畠山氏歴代の居城として百四十年余り続き、天正十四年(一五八六)伊達政宗(だてまさむね)の執拗な攻撃により落城しました。豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)の重要な支城として、中通り(仙道・せんどう)警備の任を与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めました。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。
 寛永二十年(一六四三)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重(にわみつしげ)公が十万七百石で入城し、幕末まで丹羽氏十代の居城として二百二十余年続きました。しかし、慶応四年(一八六八)戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、七月二十九日に落城しました。
 明治から大正末年までは民間製糸工場として活用が図られ、その後は公園として開放され、春は桜花が全山を包み、ツツジ・フジが彩りを競い、夏は緑したたる庭池、秋は菊人形と紅葉が錦を織りなし、冬は老松にかかる雪景の風情は、市民の憩いの場として、また多くの来園者が訪れています。なお、本丸は平成三年の発掘調査を契機に石垣の修築・復元工事が行われ、平成七年に完成しました。
     二本松市
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2013.08/29(THU)

洗心亭 二本松
二本松城跡




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写真;2013.08/27
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以下、現地の案内板から

福島県指定重要文化財
洗心亭   一棟
     平成十六年三月二十三日 指定
 二本松城跡南西寄り、霞ケ池西畔の丘腹に東面して建つ茶亭である。桁行五間、梁間二間、浅い床と天地付の棚および簡素な平書院を飾る北端の上座敷から中座敷・下座敷を一文字型に並べて配し、東面から北面にかけて幅二尺の榑縁を外縁式に折り回す。柱や土壁・建具等をはじめ、軒天井や垂木などに至るまで、すべて数寄屋風の手法が採用されている。
 建立や沿革は、明治四〇年(一九〇七)旧二本松藩士安部井磐根の執筆による「洗心亭記」が残され、これによると前身は城内に建立された茶亭のうちの一棟「墨絵の御茶屋」で、天保八年(一八三七)背方の崖崩れにより阿武隈川畔地蔵河原に移築され、藩主の釣茶屋として利用されていたものであるという。明治維新後、旧藩士の授産などに従事していた山田脩に旧藩主から譲渡され、明治四〇年、城跡内の現在地(ほぼ旧所在地と推定)に再移築された。二本松市歴史資料館所蔵『安井時僚覚書』によれば、延宝七年(一六七九)にはその存在が知られているため、創建は一七世紀中葉ぐらいであったと推定される。
 大名による茶屋(茶室)の県下における数少ない遺構の一つとして重要である。
     二本松市教育委員会
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