カテゴリ:棚倉町( 16 )

2017.02/11(SAT)

棚倉城隅櫓跡(二重) 棚倉町




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棚倉城隅櫓跡(二重)
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写真;2012.11/04
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棚倉城(2012.11/04)



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2017.02/01(WED)

八槻都都古別神社 棚倉町八槻
やつきつつこわけじんじゃ




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写真;2013.02/04

八槻都都古別神社
御由緒
 延喜武内社で陸奥国白川郡の明神大社であり、奥州一の宮の旧幣中社である
・・・(以下、下記のリンク先を参照されたい)
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八槻都都古別神社(2013.02/06)
馬場都都古和氣神社(2012.11/15)



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2016.05/31(TUE)

八溝山頂 茨城(大子町)、福島(棚倉町)の県境




↓写真;2016.05/31
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八溝山頂
 茨城、栃木、福島の県に跨って聳える八溝山(1022メートル)の山頂。ここに三角点があり、茨城と福島を分けるらしい。山頂を示す標柱が福島側にあって、設置は福島県棚倉町であるらしい
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歴史
 古来よりの信仰の山でもあり、山頂に豊作祈願の神である八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)が、八合目に坂東三十三箇所の二十一番札所である日輪寺(にちりんじ)がある。八溝山の名は八つの谷に分かれた山容から空海(弘法大師)が命名したと伝えられているが、日輪寺の名もまた空海がこの地で邪鬼を退散させた伝説に由来するといわれる。元治元年9月、水戸天狗党別働隊の田中源蔵ほか三百余名が追討軍に追い詰められ八溝嶺神社に立て篭もった。しかし、食料不足、情勢から神社前で隊を解散した。田中、隊員たちは下山後、捕縛されほとんどが処刑された
--引用・要約;「八溝山」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/26(土)08;41--

2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



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2014.07/30(WED)

棚倉城(亀ケ城)址 棚倉町




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写真;【追手門の大欅】2014,07/27
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以下、現地の案内板から

棚倉町城下絵図
 棚倉は、常陸国(現茨城県)の平潟港からの街道が通り、新政府軍にとっては、会津へ向う上で重要な位置にあった。又、新選組の斎藤一らも会津へ向うためこの街道を利用した。
 戊辰戦争での棚倉藩は、奥羽越列藩同盟軍として、藩の主力が各地で戦った。中でも藩士阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は仙台藩の「鴉組」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」と謡われるほど新政府軍から恐れられた。
 慶応四年(一八六八)六月二十四日、各地へ出動し手薄になった棚倉城下に、参謀板垣退助が率いる新政府軍総勢八八〇余名が大砲六門をもって進撃し、主力を欠く棚倉城は、一日で城下町の一部とともに焼失した。
     平成二四年度
     「桜プロジェクト」
     福島県県南地方振興局

※ 絵図、省略
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仙台藩からす組の旗(2014.06/21)



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2014.07/28(MON)

長久寺と山門 棚倉町大字花園




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写真;2014.07/27
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以下、現地の案内板から

長久寺と山門
 長久寺は、宝永二年、太田備中守資晴公が駿州田中より移り棚倉藩五代城主となり、棚倉城南門外に仮堂を建て、宝永四年五月十二日、花園の地に総本山身延山久遠寺第三十三世遠沾院日享上人を開山として、太田公、御母堂 本成院殿妙元日貞大姉位の菩提と、この地に法華経の道場を建立、夫公院高徳山長久寺(現在は瑞光院)を開創する。
 当山山門は、その時に、棚倉城二の丸南門を山門として長久寺開基太田公が寄進移設されたもので、初代城主丹羽長重公が築城(寛永二年)の門と言われ、棚倉城に縁ある建物として現存する唯一のものである。
 今現在はトタン葺、切妻造、薬医門、前面主柱・脇柱間を改築して仁王尊を安置している。
 この仁王尊は、寺誌に「馬場村都都古別神社ノ本地仏維新ノ際□所火中ヨリ日要感得之右周旋人伊野下村」とある。
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このお寺さん、他に「清正公堂」なるものがあったが、由緒など不明
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2014.02/18(TUE)

公文力之助墓 棚倉町棚倉新町一二九、蓮家寺





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写真;2012.11/04
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     くもん
官軍土藩/公文力之助義盛
側面に
慶應四戊辰六月二十四日/□奥州金山驛時年二十四
とある
 土佐藩の足軽で迅衝六番隊に所属した、土佐郡小高坂村の人である。慶応四年六月二十四日磐城棚倉金山駅外で戦死した。享年24
--幕末維新全殉難者名鑑--
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公文力之助
 慶応四年一月に土佐藩の勤王の志を持った下士や郷士を主として編成された、武力討幕部隊「迅衝隊」の主要隊士であった
〈迅衝隊〉
 総督      深尾丹波成質
 総督兼大隊司令 乾正形(板垣退助)
 大軍監     谷守部干城
 隊士総数    約六百

 ↓死はこの戦闘でか?
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
 ↓蓮家寺「弔魂之碑」
弔魂之碑(2012.11/04)



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2013.06/25(TUE)

栃木県道・福島県道60号
黒磯棚倉線




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平成25年(2013)
・ 6月25日
 峠を越え黒羽藩領から棚倉藩領に入る
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                とちゅうとうげ
写真(2013.06/24)は栃木福島県境 戸中峠
栃木県道・福島県道60号黒磯棚倉線は、栃木県那須塩原市から福島県東白川郡棚倉町に至る県道(主要地方道)である

制定年;昭和36年(1961)
 起点;栃木県那須塩原市鍋掛
 終点;福島県東白川郡棚倉町棚倉
Wikipedia 2013.06/25

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2013.06/25(TUE)

神武天皇遥拝所(ようはいじょ)
赤館(公園)




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平成25年(2013)
・ 6月24日
 赤館(公園)にあった記念の碑(標柱)

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※ 遥拝所とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所をいう

※ 紀元二千六百年記念行事とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す
(Wikipedia「紀元二千六百年」2013.06/24)

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2013.06/24(MON)

赤 館(あかだて、赤館公園)
棚倉町




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平成25年(2013)
・ 6月24日
赤館は標高345メートルの丘陵地にある。近世棚倉城が築城されるまでは丘陵に館が築かれ、この地を治めていた
現在は公園として整備され、棚倉の町並みが一望でき、春には300本の桜が咲き誇る

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以下、現地の案内板から

赤 館

 赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。標高わずか三五四mのこの丘陵は関東東北の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
 鎌倉初期この赤楯(館)は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の一円(直轄領地)となった。応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。
 一五一〇永正一〇年戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配した。やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
 一五七一元亀二年白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。この年は信長が延暦寺焼内した年であったが、棚倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍を被った。
 一五七五天正三年佐竹は前年に続いて赤館を攻めたが葦名・結城連合軍が撃退する。この時葦名軍は付近の稲を青刈した。青刈りはやがて情ある結城の武将斑目兄弟の悲劇となる。戦国無情の感がある。
 一五九〇天正八年正月伊達正宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七郡で、伊達氏は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。
 徳川の天下となると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。
 一六〇九慶長十四年立花宗茂が五万石赤館城主となった。翌年城の東に遷宮した宇賀神社は、今も棚倉町の氏神と栄えている。
 一六二二元和八年丹羽長重が五万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、五万石に相応しい家臣団を擁する城郭でなかった。かって越前等一二三万石を支配した長重は、二年後から現在の城跡の地に平地城を築城しはじめた。以後の赤館は廃棄された。長重は粗壁の乾かぬうちに白河十万石に転封され去った。
 一六二七寛永四年内藤信照が五万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。
 一六二九寛永六年京都大徳寺の玉室和尚が棚倉に流され、沢庵は上山に流された。中世的権利を主張する後水尾天皇の怒りを静めるため家光の乳母斎藤氏(春日局)が参内したが、天皇は皇女興子内親王に譲位するほどの紫衣事件であった。信照は根小屋観音堂の側に小庵を建て玉質を加護した。この草庵跡に「玉室宗珀謹居之跡」の大石碑あり、付近で「南無阿弥陀仏」と書かれた小石が見つかると古老は語る。
 一七八三天明の飢饉で根小屋村が滅んだ。山上に城のある麓の城下町を根小屋というが赤館の麓にも根小屋村があった。眼下の川は根小屋川と言い、根小屋堰は御城水と呼ばれ城堀に清水を注いだ。
 誰が名付けたか赤館と呼ばれ、古代人の足跡の上に、堀跡があり、その上に館跡があり、その上に公園がある。人間の汗と涙と喜びで綴る祖先の生活を私たちに物語ってくれる。現在の平和で活力のある棚倉の幸せを語ってくれる。未来の子孫もここから紺碧の空と四方の緑と眼下の街と川に愛着を感じ、家族を慈しみ町を愛し続けてくれるであろう。赤館は単なる遺跡や公園ではない。棚倉人の心の盾として生き続ける聖地だ。

     郷土史家 澤田周作
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写真;赤館から望む棚倉の街並み 2013.06/24



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2013.02/06(WED)

八槻都都古別神社 棚倉町八槻
やつきつつこわけじんじゃ



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馬場都都古和氣神社(2012.11/15)
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随神門
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随神門から本殿を
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■ 御由緒
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延喜武内社で陸奥国白川郡の明神大社であり、奥州一の宮の旧国幣中社である。
日本武尊の御創建にかかわり、祭神は味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネノミコト)で相殿に日本武尊が合祀されている。
伝記によると「日本武尊東夷征討の時高篠山に陣を取り、八満山の夷と戦うこと数度、敵強制にして屈せず、天地神明に祈り給う時味耜高彦根命が現れ、尊を助け、この国を護らんと宣せられ給うよって力を得て一気に夷を討ち平らげた」とある。
南郷北郷合わせて18郷に近津大明神を通じて農業を殖産した。
■ 祭礼日
       歳 旦 祭    1月 1日
       節 分 祭    2月 3日
       御田植祭  (旧正月 6日)
       祈 年 祭    3月 1日
       新 嘗 祭   11月23日
       例 大 祭  (12月の第 2土・日曜日)
       霜月大祭  (12月の第 2土・日曜日)
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