カテゴリ:>関山宿( 2 )

2013.09/05(FRI)

戦死四十人墓脇石仏像
会津美里町関山




関山戦争(2012.09/01)&戦死四十人墓
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関山「戦死四十人墓」脇にあった石仏像
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写真;2013.08/08
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〈再掲〉
大内峠から関山の戦い

慶応 4年(1868)
・ 8月25、26日
 西軍は山王峠の会津勢を制圧し糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵)
・  29日
 田島に向け進撃を開始。田島に会津勢の姿はなく無血占領
・  30日
 西軍、後続の肥前兵を合流し大内集落を目指して進軍を開始する。途中、街道の東西の山から会津勢の抵抗を受けて敗走することもあったが後方からの増援により回復。会津勢を大内峠まで後退させた
・ 9月 1日
 大内集落に宿陣した西軍は、肥前・芸州・宇都宮・大田原兵の序列で大内峠を目指す。会津勢は山頂に胸壁を築いて正面からの敵に応戦、芸州兵は左右の山から攻撃を開始。この時会津勢の左側から迫った芸州兵に対し、清龍足軽三番隊の隊長、野村悌之助は奮戦したが討死した。これに奮起した会津勢は芸州兵を撃退したが、正面・右方からの激しい攻撃にあって堪らず大内峠を退き、さらに後方の氷玉峠を越え栃沢まで後退した
・   2日
 西軍、大内集落から再度進撃した。会津勢は栃沢に拠って抵抗したが西軍は苦戦の末栃沢を占領した。会津勢は北方三キロの関山に退くと、西軍は追撃したが夕刻となり氷玉峠まで退いて野営した。これを見て会津勢はふたたび栃沢を占領したらしい
・   3日
 西軍、後続の諸隊を集結し攻撃前進を開始。薩摩・黒羽・宇都宮・中津・今治・人吉・肥前の兵が大内を出発した。戦闘膠着
・   4日
 会津勢、本道上で西軍に砲撃され、戸惑う間に西軍別動隊が前進した。さらに薩摩兵が突撃を開始したのを機に、会津勢は関山周辺から退却した。大山柏によると、会津勢は退却後の集結を予定に入れず「散乱」したという
--参考文献;「戊辰戦争全史〈下〉」菊地明/伊東成郎編・p.140・前田宣裕--
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2012.09/01(SAT)

関山戦争




平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
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以下、関山宿北側入口にある案内板から

こんにちは関山です
 「関山」は、本郷町より約五キロメートルの距離にあって寛永十八年(1641)に上小松村と合併し現在の集落形態となっています。縄文時代後期より、遠い祖先が各方面との交流を保ちながら集落の基盤造りをしていたことが、壇原遺跡の土器石器などから知られています。
 街道の道幅が広く、両側に家並みがあり旧日光街道・下野街道とも言われた会津西街道の宿場であり、府城玄関に当たる街道の源の形状を今に伝えています。
一里塚の設置など旅の指標整備が早くから進められていました。
 しかし、慶応四年(明治元年・1868)の会津戊辰戦争では関山・栃沢攻防の激戦の舞台となり、五十あまりの集落全体が兵火により焼失しており、現在も、集落南側には会津藩士野村悌之助らを弔った戦死者四十人の墓などが名残をとどめています。
 また、多彩な信仰があり会津三十三観音の一つ「関山観音」を始めとする数多くの神仏が存在することや、八神沢沼に生息する森の宝石と呼ばれる「モリアオガエル」など、大切な資源が数多く残っております。
     平成十三年一月
     関山村づくり実行委員会

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以下、現地の案内板から

戦死四十人墓
 慶応四年(1868)正月三日、鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の端緒となり、会津藩は西軍を相手に戦う羽目に追われて行きました。
 戦いは会津にも及び、日光・田島口の交通の要衝にあった関山でも、同年九月二~三日にわたり激しい攻防戦があり、双方とも死傷者が続出、東軍では野村悌之助・渥美守太郎以下四十名が戦死しました。また、関山の民家は敵の進撃を阻止するため、全戸兵火にかけられました。
 このあたりに凄惨な戦いがあった名残りを止めるかの如く、その墓が立っています。
朝敵・賊軍の汚名を着せられたため、最初の墓石は自然石で祀られましたが、後に現在のものに再建されています。
     会津美郷町教育委員会

※ 野村悌之助 青龍足軽三番隊中隊頭、9月3日大内峠で戦死
  会津藩青龍隊 36~49歳の藩士で構成、朱雀隊に次ぐ正規軍の中核

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写真;2015.07/28
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以下、現地の案内板から

会津札所二十四番
関山観音 会津美里町文化財
 徳一大師が会津入りをして各地に寺院を建立してまわった時の大師の作ではないかとの一説がある十一面観音像が祀られている。
 この観音像は寛永十八年(1641)関山の集落に合併した上小松村の護佛であって、創建当時、堂宇は集落より離れた平地にあったが寛政二年(1790)に集落を見下す山腹を整地し、五八段の石段をもうけて移建したのが現堂宇である。
 下野街道ぞいの山ふところにある壮厳な菩薩で一生に一度だけの願いはかなえるともいわれ、信仰されている。
     会津美里町教育委員会

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慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 白河口の新政府軍は母成峠の会幕軍(大鳥圭介ら)を撃破して若松城下に突入したが兵力不足であった
・ 9月 1日未明
 日光口、大内村に宿営していた新政府軍は若松城下への突入を急いでいたが、会幕軍(日光口守備隊長山川大蔵)の銃撃を受ける。反撃してなお大内峠に向い激戦となり、宇都宮藩大沢富三郎以下四人が戦死。一旦大内村に退く
・ 9月 2日早朝
 新政府軍、再び進撃を開始したが会幕軍は徹底抗戦し氷玉峠で膠着。大総督府直属の軍監中村半次郎が直接指揮をとる
・ 9月 3日
 新政府軍、栃沢を攻略し関山に進出
・ 9月 4日
 新政府軍は会幕軍陣地に突入し、会幕軍は堪らず関山に火を放ち撤退。新政府軍はようやく関山から本郷へと進攻する

※ 大内から関山までの戦闘における会幕軍の戦死者は、青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助以下将兵約四十名に及んだ
※ 会幕軍日光口守備隊長山川大蔵は城下の形勢悪化により帰城、替って一連の戦闘を指揮したのは小山田伝四郎か



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