カテゴリ:>大内宿( 4 )

2013.07/26(FRI)

大内峠一里塚
下郷町大内




平成25年(2013)
・07月26日
 大内宿「美濃屋」さんの写真を撮りに行ったついで、まづ「櫻木姫墳」を見て、「大内峠一里塚」、「大内峠茶屋跡」を見て来た。生憎、雨が降ったり止んだりで十分には楽しめず!
※ この一里塚・峠の茶屋までは車道を外れて旧下野街道(会津西街道)を歩く。戊辰戦争では戦場となった地である

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写真;大内峠一里塚(対のもう片方は写真左にある)2013.07/26
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以下、現地の案内板から

大内峠一里塚
 この大内峠一里塚は、会津城下「大町札の辻(おおまちふだのつじ)」から五里(約二十km)の位置にあたります。
 下野街道の一里塚は、そのほとんどが対で構築されたと考えられますが、現在ではそのほとんどが破壊されて消失したか、あるいは片側だけとなっており、大内峠一里塚のように対で現存していることは希なことで、県内でも貴重な文化遺産となっています。
 会津若松から江戸までは約六十一里(約二五二km)、会津藩主はこの区間を五泊六日の旅程で参府していますが、藩主の参勤通行はもとより、物資輸送のためにこの街道を幾度となく往還した人たちにとっても、一里塚は大きな目安となったことでしょう。



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2013.07/26(FRI)

大内峠 古戦場と峠の茶屋
下郷町大内




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以下、現地の案内板から

大内峠古戦場
 戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことです。
 すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されています。
 この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をみることができます。
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以下、現地の案内板から

大内峠の茶屋跡
一 大内峠見晴宜敷場所、茶屋前々之通、手軽ニ御駕篭立場設け候事 但し治定之所ハ申建置候間、追而可申聞候
一 右御小休場所御設入用之陣桐油、雪菰、手桶、柄杓、茶碗之類御貸渡之儀、申建置候間、追而可申聞候


 これは文政十年(一八二七)四月、会津八代藩主松平容敬(かたたか)が下野街道を通って江戸から下向する際に郡奉行から郡中各郷に出された廉書(かどがき)の一部です。南山地方にとって藩主の参勤通行は実に約百五十年ぶりの出来事で、この資料からも大内峠に茶屋があったことを確認することができます。
 発掘調査をしたところ茶屋跡からは当時の建物の遺構や江戸末期から明治初期までの会津本郷焼の陶器片などの遺物が多数出土し、礎石の配置から、当初は桁行六間、梁行四間半だったものが、最後には桁行、梁行ともに三間半の建物となっていたことがわかり、大内峠の茶屋は明治の初めまで営まれていたことが判断されました。
 大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのでしょう。

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写真↑;峠の茶屋(2013.07/26)

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写真↑;大内峠付近の下野街道(会津西街道)2013.07/26
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大内峠から関山の戦い

慶応 4年(1868)
・ 8月25、26日
 西軍は山王峠の会津勢を制圧し糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵)
・  29日
 田島に向け進撃を開始。田島に会津勢の姿はなく無血占領
・  30日
 西軍、後続の肥前兵を合流し大内集落を目指して進軍を開始する。途中、街道の東西の山から会津勢の抵抗を受けて敗走することもあったが後方からの増援により回復。会津勢を大内峠まで後退させた
・ 9月 1日
 大内集落に宿陣した西軍は、肥前・芸州・宇都宮・大田原兵の序列で大内峠を目指す。会津勢は山頂に胸壁を築いて正面からの敵に応戦、芸州兵は左右の山から攻撃を開始。この時会津勢の左側から迫った芸州兵に対し、清龍足軽三番隊の隊長、野村悌之助は奮戦したが討死した。これに奮起した会津勢は芸州兵を撃退したが、正面・右方からの激しい攻撃にあって堪らず大内峠を退き、さらに後方の氷玉峠を越え栃沢まで後退した
・   2日
 西軍、大内集落から再度の進撃。会津勢は栃沢に拠って抵抗したが西軍は苦戦の末栃沢を占領した。会津勢は北方三キロの関山に退く。追撃したが夕刻となり氷玉峠まで退いて野営した西軍を見て、会津勢はふたたび栃沢を占領したという
・   3日
 西軍、後続の諸隊を集結し攻撃前進を開始。薩摩・黒羽・宇都宮・中津・今治・人吉・肥前の兵が大内を出発した。戦闘膠着
・   4日
 会津勢、本道上で西軍に砲撃され、戸惑う間に西軍別動隊が前進した。さらに薩摩兵が突撃を開始したのを機に、会津勢は関山周辺から退却した。大山柏によると、会津勢は退却後の集結を予定に入れず「散乱」したという
--参考文献;「戊辰戦争全史〈下〉」菊地明/伊東成郎編・p.140・前田宣裕--

※ 大山柏(おおやまかしわ) / 1889年 6月 2日-1969年 8月20日
日本の華族、陸軍軍人、考古学者、公爵、貴族院議員(無所属倶楽部)、文学博士(慶應義塾大学)、戊辰戦争研究家。階級は陸軍少佐。明治の元老であり後の陸軍大将・大山巌の次男としても知られる
--参考文献;Wikipedia「大山柏」2013.07/27--
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2012.08/31(FRI)

大内宿本陣跡




平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
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大内宿
 江戸時代には宿屋や問屋が軒をつらね、幾多の旅人たちがこの宿場で旅の疲れを癒した。明治以降、近代化から取り残されたおかげで、昔ながらの景観が今に残ることとなり、昭和56年には、国の重要伝統建造物群保存地区の選定をうけた

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以下、現地の案内板から

大内宿町並み展示館(大内宿本陣跡)
 大内宿の本陣は会津と奥州街道を結ぶ会津西街道の拠点のひとつとして江戸時代の初期に建てられ会津藩の初代藩主・保科正之、二代藩主・正経が江戸参勤のためこの街道を利用し、ここで昼食をとったという記録が残っている。この時の行列の総人数は約六百人で、宿場内はたいへんなにぎわいであったという。
ところで、大内宿は戊辰戦争の舞台となったことから、本陣に関する記録、図面等が散失しいまだ発見されていない。このため同じ街道の糸沢宿・川島宿の本陣を参考に設計し復元されたものである。
本陣には殿様専用の玄関(乗りこみ)・上段の間・風呂・雪隠があり、茅屋根のどっしりとした風格とともに当時の面影を色濃く再現している。
     下郷町
     下郷町教育委員会

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問屋本陣
 当時の輸送は宿場ごとに荷物を馬に付け替えて運んでいた。その中継問屋であって、馬と人足の手配は問屋本陣にとって重要な役割だった



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2012.08/30(THU)

戦死二十四人墓




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写真;↑大内ダム建設の際に移転された「戦死二十四人墓」 2015.07/28

平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
 慶応4年(1868)8月下旬から9月、若松表は緊急の危機に瀕し各地に転戦していた部隊を呼び戻し新政府軍の会津進攻を阻止せんとした。それによりここ大内峠から栃沢、関山の地では激戦が繰り広げられたのである
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以下、現地の案内碑から

慶応戊辰年(1868)九月一日より翌未明に亙り日光口守備隊長山川大蔵は、大内峠に據り官軍佐賀・宇都宮・大田原の各藩の兵を迎撃す
この戦斗で宇都宮藩大沢富三郎以下二十四名の戦死者の霊を供養せんと地元有志にて茲に墓碑を建立せり
     *
※ 大沢富三郎 正精
宇都宮藩/明治元年九月一日会津大内峠で戦死/四十二歳/宇都宮・慈光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 白河口の新政府軍は母成峠の会幕軍(大鳥圭介ら)を撃破して若松城下に突入したが兵力不足であった
・ 9月 1日未明
 日光口、大内村に宿営していた新政府軍は若松城下への突入を急いでいたが、会幕軍(日光口守備隊長山川大蔵)の銃撃を受ける。反撃してなお大内峠に向い激戦となり、宇都宮藩大沢富三郎以下四人が戦死。一旦大内村に退く
・ 9月 2日早朝
 新政府軍、再び進撃を開始したが会幕軍は徹底抗戦し氷玉峠で膠着。大総督府直属の軍監中村半次郎が直接指揮をとる
・ 9月 3日
 新政府軍、栃沢を攻略し関山に進出
・ 9月 4日
 新政府軍は会幕軍陣地に突入し、会幕軍は堪らず関山に火を放ち撤退。新政府軍はようやく関山から本郷へと進攻する

※ 大内から関山までの戦闘における会幕軍の戦死者は、青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助以下将兵約四十名に及んだ
※ 会幕軍日光口守備隊長山川大蔵は城下の形勢悪化により帰城、替って一連の戦闘を指揮したのは小山田伝四郎か

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 墓碑、向って左側面に「明治四十一年九月建立」とある
 右の小さな墓は会津藩士小出勝之助単独のものだという

・小出勝之助  戊辰役戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



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