カテゴリ:さくら市( 6 )

2015.09/16(WED)

宝篋印塔 さくら市(氏家)勝山・さくら市ミュージアム




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現地の案内表示から
ほうきょういんとう
宝篋印塔
「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔といい、平安末から作られ、石造のものは鎌倉期から造立された。基壇上に基礎、塔身、笠、相輪を積み上げ、塔身の四面に梵字を彫るのが一般的だが、本塔は金剛界の四方仏を陽刻し、大型で安定感があり、笠石の隅飾突起が直立するなど、鎌倉時代でも最古期の特徴を示している
 氏家町桜野の実業家であり、貴族院議員であった瀧澤喜平治のコレクションの一つで、喜平治が京都から取り寄せたとされる。氏家ロータリークラブにより、平成5年、ミュージアム氏家の開館を記念して寄贈され、平成11年に相輪が修補された

※ 勝山城跡に「ミュージアム氏家」が建設されたのだが、勝山城と宝篋印塔の関連は無いようだ
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写真;2015.09/15(加工)



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2015.09/16(WED)

明治天皇駐蹕之蹟 さくら市(氏家)・勝山城跡




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写真;2015.09/15
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             ちゅうひつ
明治天皇駐蹕之蹟
明治九年六月十一日
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2015.09/16(WED)

勝山城跡 さくら市氏家(勝山)1297




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写真;大手口の橋・2015.09/15
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以下、現地の案内板から
かつやま
勝山城跡
 勝山城は南北420m、東西370m、鬼怒川の段丘面を天然の要害にした崖端城である。鎌倉末期頃、氏家氏が築き、その後芳賀氏によって強固な防備が完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であり、戦国時代では那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。だが宇都宮氏が慶長2年(1597)豊臣秀吉の命で改易したのに伴い、あえなく廃城になった
 明治以降の城跡は、特に黒須家が私財を投じて勝山周辺の土地を購入したことなどにより、よく遺存されていた。しかし、戦後の開発の波は勝山にも押し寄せ、文化人らによる啓蒙活動や保存運動が続けられたが、ついには本丸跡も破壊された
 しかし、これを機に本丸跡は公有地となり、初めての学術調査が行われ、大手口や土塁を復旧し、町指定史跡となった。平成5年(1993)城域内にはミュージアム氏家が開館し、廃城後400年を経て、勝山城は文化の拠点としてよみがえった
     *
 中世期の勝山城本丸は深い掘と高い土塁を巡らしており、これを囲む二の丸とは大小2つの木橋で結ばれていた。一つは城主や重臣たちが渡るこの大手口橋である。もう一つは通用口として南西部の搦手に架かっていた
 大手口には木橋とともに強固な大手門と北側土塁の張り出し部に櫓台が設けられており、本丸に攻め込む敵に対して矢を射る矢掛けの構造になっている
 昭和61年(1980)の発掘調査で、橋脚台とともに4つの柱穴が確認され、幅3.8m、長さ20mの木橋の存在が立証された。この橋は、調査結果や他の事例を参考に、往時の橋の姿を推定復元したものである
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案内図
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2015.09/16(WED)

浮島地蔵 さくら市(氏家)上阿久津




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から
うきしまじぞう
浮島地蔵
 鬼怒川沿岸の人たちが恐れたのは、洪水や水死などの水難です。それを救済してもらおうと水神や地蔵などの民間信仰が生まれ、特に浮島地蔵が信仰されてきました。どんな洪水にも流されず浮いてその地にとどまり救済する霊力のあるのが浮島地蔵なのです。大中の浮島地蔵も五十里洪水の時でも浮いていたそうです。上阿久津の浮島地蔵は鬼怒川の大水で重い石地蔵なのに浮きながら上阿久津に流れついたという伝説があります
 この地蔵の台座には元文4年(1739)とあります。「八日念仏講中」「女人等現当二世安楽所」の銘文は毎月八日に女性たちが念仏講を供養してきました。そのため今では、子授け・安産・子育てと女性に関係の深い信仰となっています
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2015.09/15(TUE)

弥兵衛ざくら公園 さくら市(氏家)上阿久津




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から

弥兵衛ざくら公園(仮称)
 阿久津河岸が入船千艘・出船千艘などと、大そうなにぎわいを見せていた頃です。鬼怒川の本流から荷倉の無数に立ち並ぶ榎の木沼まで運河が掘ってありました。当時この運河を”ミオ”と呼んでおりました。”ミオ”の北側に高い土手が築かれていて、船積み場を洪水から守ってました。また土手の上には杉などが植えられ、下は一面に熊笹が茂っていました。ミオの両岸には桜の木がたくさん植えられていたから、春になると見事に満開の桜が人の目を楽しませてくれたのです。桜の下には酒を楽しむ人が多く集まりました。無言の桜はこんな人達が好きなのでしょう。そんな人達に妙薬を授けました

 「春の弥生の酉の日に この花の下で酒を飲み交すと一生涯 中風にはかからない」

と、村人や船頭たちは、ここを花見の名所とし、桜の季節にはたいへんにぎわっていました
 鉄道が敷かれると川船はだんだん必要がなくなり、河岸は自然と消滅してしまいました。一帯にあった河岸の構築物は取りこわされ、運河も埋められ、土手の木も伐り倒されていきました
 ここに髪結い床を生業としていた"江屋弥兵衛"という粋な老人がおりました。見事な桜の木が次々と伐られていくのが切なく、残る二、三本の桜を請い受けてそのまま残しておきました
 こよなく花を愛した弥兵衛爺さんも、年老いて世を去りましたが、この桜を「弥兵衛ざくら、やひょう桜」と後の世の人は名づけて伝えてきた場所です
     管理 上阿久津文化財保存委員会
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2015.09/15(TUE)

阿久津河岸・船玉神社 さくら市(氏家)上阿久津150




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から
あくつかし ・ ふなだまじんじゃ
阿久津河岸・船玉神社
 徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国からの建築用材や食糧の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着所を「河岸」という
 阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた
 鬼怒川上流独特の川船を「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、舳の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている
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会津中街道〈宿場〉 ※ 詳細は下記「リンク」大峠(会津中街道)を!
1 .若松城下 (福島県会津若松市)
・・・
9 .野際宿  (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠;標高1468m)
10.三斗小屋宿(栃木県那須塩原市那須岳国有林)
・・・
17.矢板宿  (栃木県矢板市)
・・・
20.氏家宿  (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
--Wikipedia「会津中街道」2013.05/25--

大峠(会津中街道)(2013.05/24)

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写真;鬼怒川左岸「阿久津河岸」附近・2015.09/15
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