カテゴリ:ブリュネ( 1 )

2012.08/10(FRI)

ジュール・ブリュネ Jules Brunet




 フランス陸軍の士官(陸軍砲兵大尉)
 フランスは江戸幕府の要請を受けて軍事顧問団を派遣したがその一員として来日した。当時幕府陸軍歩兵奉行であった大鳥圭介らと共に「伝習隊」の調練にあたり、後に榎本武揚率いる旧幕府軍に参加し戦った愛すべきフランスの侍である
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※ ジュール・ブリュネ
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1838年
・ 1月 2日
 フランスで生まれる

軍事顧問団

1866年
・ナポレオン三世は日本との関係を深めるため、第十五代将軍・徳川慶喜との関係を強め、軍事顧問団を派遣することを決めた。ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に、そしてフランス陸軍砲兵大尉として来日することとなった
1867年初め
・日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練した
1868年
・戊辰戦争で江戸幕府は新政府軍に敗北することになる。フランス軍事顧問団は新政府から日本退去を命令されたが、ブリュネらは残留を選択し、フランス軍籍を離脱した。彼らは脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。シャノワーヌ隊長は参加しなかった

箱館戦争

 ブリュネは、榎本武揚を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」(箱館政権)の創設を支援した。ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を支援し、四個連隊はフランス人下士官・フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエを指揮官とした
1869年
・ 6月
 五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた

名誉回復

 ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、1870年に普仏戦争が勃発したこともあって軍に復帰することを許された。セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍はナポレオン三世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した
1898年
・戦争相となっていたシャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめている
 また、日清戦争では日本軍の上陸を支援し、シャノワーヌとともに明治政府から勲二等旭日重光章を授与されている。これは外国人に授与される勲章としては最高位のものであり、明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったと言われる
1911年
・ 8月12日
 パリ近郊の自宅で死去

スケッチ

 常にスケッチブックを持ち歩いていたと言われ、メキシコや日本などの遠征先で数多くのスケッチを残している
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・「南柯紀行」大鳥圭介
 部分を引用する
(前略)
 仏人にて同盟し仙台より伴い行きたるもの、凡五人「ブリュネ」(砲兵甲必丹)「フォルタン」(元砲兵指図下役)「マラン」(元歩兵指図役下役)「ブーヒヘ」(上同断)「ガスノーフ」(仏帝乗馬方)
 右の内にてマランは余と同行して五稜郭に至り、此に止まれり、ブーヒヘは土方と同行して五稜郭に至り、江差松前へカズノーフと共に兵隊に属して行きたり、ブリュネ、マラン、フォルタン三人は箱館に止れり。
 ブリュネは上にも載せしが如く、予横浜三岳伝習以来の教師にして、未だ年齢壮かけれども性質怜悧にして、度量学築城学に長ぜり、カズノーフは学術は浅き人なれども篤実撲(樸)直の性にて西洋にても両三度戦場に出て、巳(已)に「クリミヤ」役のときセハステポル(セパストーポル)に赴き戦いし由なり、戦地にては鋭敏にて臨機の策に長じ、頗る勇猛にして兵隊に先(立)ち、松前進軍の時も屢功ありたると云。
 マラン、ブーヒヘ、フォルタンの三人は多く練兵の事に勉励せり。
(後略)


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参考文献;Wikipedia「ジュール・ブリュネ」
     「南柯紀行」大鳥圭介
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