カテゴリ:>黒磯( 22 )

2017.02/20(MON)

奥州街道越堀宿 那須塩原市越堀




--------------------
c0185705_19252077.jpg

奥州街道越堀宿
 慶長八年(一六〇三年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌九年、奥州街道が整備された。以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた
 伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向った。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野井の藤田和泉重統である。宿場の形勢は、彼がその仮屋を払い請け、旅篭を建て替えた事に始まる
 越堀の地名は、彼が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列・廻米その他物資の輸送、商人・旅人の往来等で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった
  平成二十六年三月
  鍋掛地域車座談議運営委員会
--現地の案内板から--
--------------------
「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.12/22(TUE)

沼ッ原 那須塩原市黒磯




 会津中街道、板室本村を北に向うと、沼ッ原→麦飯坂→三斗小屋宿→大峠→野際新田に至る
--------------------
c0185705_2312209.jpg

慶応 4年(1868)
・ 8月22日
 西軍、白河にいた館林藩3小隊と黒羽藩3小隊が、三斗小屋を目指して出発。彼等は三斗小屋の会津藩隊を撃破し、会津西街道にいる西軍と合流して若松へ攻め込む事にしていた。三斗小屋へは、那須岳を越えて行く部隊(北温泉泊陣)と、会津中街道の板室から行く部隊(大沢泊陣)の二手に分れた
三斗小屋の戦い
・ 8月23日 
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れて進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
明治元年(1868)
・ 9月10日
 残留部隊によって三斗小屋は全戸焼き打された
--------------------
c0185705_1945497.jpg

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.12/18(FRI)

有田文太郎之墓 那須塩原市越堀116・浄泉寺




--------------------
c0185705_21281954.jpg

写真;2015.12/17

官軍
土佐藩有田文太郎之墓


土佐藩(土佐・二十四万二千石・山内氏・外様)
・有田文太郎 明治元年八(九)月若松で傷、十月二十五日下野越堀で死/二十一歳/栃木県黒磯・浄泉寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
浄泉寺
c0185705_21291040.jpg




「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.12/09(WED)

子爵青木周蔵墓 那須塩原市青木




c0185705_1712015.jpg

--------------------
夫人追憶碑
c0185705_171573.jpg

   In memoriam
 Grafin Elisabeth Aoki geb Baronin von Rhade
   1848 -1931
--------------------
以下、現地の案内板から

--青木和子子爵夫人建碑の独文和訳及説明--
・碑面の表
 追憶しつつ
 旧姓レーデ男爵の令嬢であるところの
 エリザベート
 青木子爵夫人
 1849年 -1931年
     *
・碑面の裏
 青木重夫子爵夫人
 青木和子
 1978年 9月 7日に建碑して贈る

銘記するために石碑を建てる/碑文外の説明
説明
 エリザベート周蔵子爵夫人は大正三年七月第一次世界大戦勃発のため一子ハナ子さんを伴いドイツに帰国せられた
 子孫は健在なりと(和子夫人の説明)
 碑文和訳;青木和子旧子爵夫人 掲示担当者;佐藤正男・菊地清
                      平成12年 2月 1日
--------------------
青木嬢の結婚(2012.11/25)
榎本武揚外相からの書簡(2012.11/24)
とちぎ明治の森記念館(2012.08/02)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.06/06(FRI)

多田温兵衛墓 那須塩原市鍋掛・正観寺




鍋掛宿「正観寺」(2012.09/29)
c0185705_21341734.jpg

写真;2014.06/06
--------------------
多田温兵衛 貞義
時義、正信とも/迅衝十三番隊/土佐郡新町田淵の人/明治元年六月六日下野鍋掛駅で病死/十九歳/同地・正観寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.06/06(FRI)

芭蕉の句碑 那須塩原市鍋掛




c0185705_15413981.jpg

写真;2014.06/06
--------------------
平成26年(2014)
・06月06日
 生憎の雨だったが、鍋掛(宿)まで「多田温兵衛墓」のお参りに行き、墓近くにあったこの句碑を観て来た
--------------------
以下、現地の案内板から

芭蕉の句碑

 芭蕉が元禄二年(一六八九年)三月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。

 野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす

 この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
 その昔行われた那須野の狩を想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
 句碑の建立は、文化五年(一八〇八年)十月に、当時鍋掛宿の俳人菊地某外数名によるものと思われる。
 平成五年(一九九三年)三月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。

     黒磯市教育委員会

鍋 掛 宿
 鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
 江戸時代初期の正保三年(一六四六年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.05/15(THU)

明治天皇御駐輦之碑 那須塩原市黒磯・越堀宿
奥羽街道




c0185705_18154199.jpg

写真;2014.05/08
--------------------
      明治天皇御駐輦之碑

明治 9年(1876)
・ 6月 2日 奥羽御巡幸
    … …
   12日 親園→大田原→北久保→
      越堀(御晝饌)
      →夫婦石坂→蘆野行在所
   13日 寄居→白坂→戊辰戦役戦死者墓→白河行在所→白河城阯
   14日 …
    … …
・ 7月20日 灯台巡視船「明治丸」にて横浜に到着
※ このこと↑から、1996年に国民の祝日「海の日」となった
--------------------
「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.05/15(THU)

鍋掛の一里塚 那須塩原市黒磯・鍋掛
奥州街道




c0185705_13222023.jpg

写真;正面に鍋掛神社の鳥居、向って右、石垣上に一里塚がある。2014.05/08
--------------------
以下、現地の案内板から

那須塩原市指定文化財
鍋掛の一里塚(史跡)
     管理者 鍋掛神社

 江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す塚である。
     鍋掛宿誌
 当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 「野間の大野家文書」には、慶長九年甲辰(一六〇四)に築かれたという記録が残っている。
 もとは、ここより約十一メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された。(平成六年三月)
 また、かっては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。
     昭和四十四年一月一日 指定
     那須塩原市教育委員会
--------------------
c0185705_13225039.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.12/27(FRI)

寺子の一里塚(史跡) 黒磯、寺子




c0185705_13411634.jpg

写真;2013.12/23
--------------------
以下、現地の案内板から
てらご
寺子の一里塚(史跡)
     管理者 寺子行政区

 一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
 ここ寺子の一里塚は、奥州街道四十二番目のもので、江戸より四十二里(約百六十五キロメートル)の距離を示す塚である。
 一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 鍋掛(なべかけ)の一里塚が慶長九年甲辰(一六〇四)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
 最初の一里塚は、現在地から約五十メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
 現在の塚は、平成七年三月に復元されたものである。

     平成七年三月吉日
     那須塩原市教育委員会
--------------------
c0185705_13503712.jpg

写真;左から右(白河方面)に横切るのが旧奥州街道で一里塚は見て左折する角にある
   2013.12/23



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2013.12/23(MON)

寺子地蔵尊 黒磯市(現那須塩原市)寺子




--------------------
平成25年(2013)
・12月23日
 那須町黒川へ行く途中、寺子地蔵尊があり立ち寄ってみた。そこに信仰する人々の切な願いが、何の飾ることもなく綴られていた
--------------------

c0185705_17204692.jpg

写真;2013.12/23



寺子地蔵尊

 お地蔵さま
 絶えない苦労と切ない願いを聴いて下さい
 悠々の余笹川の流れのまゝに生きぬく勇気を与えて下さい
 良き縁を結んで下さい
 可愛い子供を授けて下さい
 そして幼な児と老いたる身を守って下さい
 あなたにすべて委縋して今日も臆することなく生きて行きます

     平成十六年十月
     赤沼石田坂寺子講中
--------------------

c0185705_9221597.jpg

写真;「寺子地蔵尊」2013.12/23

以下、現地の案内板から
てらご
寺子地蔵大菩薩

 享保年間(一七一六~一七三六)は、この辺一帯が大飢饉に見舞われ、食べるものが無く「老人や子供の餓死者が多かった」と言われている。その難を逃れる為、熊久保仁兵衛、鴇巣次良兵左衛、松本九兵衛、後藤仁衛門、井上□兵衛氏らにより話し合い各家を宿として信州の石工、北原又衛門、原孫七、伊藤万右衛門、北原磯左衛門に依頼して餓死者を供養する為地蔵を建てたと言い伝えられている。
 また、本地蔵は「イボ」地蔵とも言われている。毎年八月二十三日には、講中の出席をえて、子供の成長と家中安全を願って念仏をあげております。

     平成二十二年三月
     鍋掛地域車座談義運営委員会
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]