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2015.12/13(SUN)

山王茶屋峠下跡地 会津西街道・糸沢峠下




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平成27年(2015)
・12月13日
 山王茶屋は「奥会津博物館」に移設され、古民家レストランとなって保存されているが、その茶屋が元あった場所を見てきた
 慶応四年(1868)閏四月、日光を撤退して田島に向う大鳥圭介が、会津藩若年寄山川大蔵とはじめて出会った場所である
 この後、大鳥圭介は山川と行動を共にすることとなる
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山王茶屋と糸沢宿(2012.07/24)
栃木、福島の戊辰戦争 1/2(2013.12/01)南柯紀行/大鳥圭介
山川大蔵(浩)(2013.04/01)



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2012.07/24(TUE)

山王茶屋と糸沢宿 会津西街道




平成24年
・ 7月24日
 横川宿から山王峠を経て糸沢の峠下にあった山王茶屋跡を探す
 山王茶屋は「奥会津博物館」に移築され、古民家レストランになって保存されている。博物館で場所を聞いたところ、横川方面に向かって行くと道の駅があり、その先500メートルほどの左手だそうだ
 民家があった。そこの直ぐ先には山の神だか氏神さまの小さな鳥居もあるしキッと此処だ!

 糸沢宿では糸沢本陣と龍福寺を

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以下、「南柯紀行・大鳥圭介」から引用

慶応 4年(1868)
・閏 4月 4日、 5日

 四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原幷鈴木藩(蕃)之助等と同宿す。
 五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
 山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為めに贈(送)られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。
本日、糸沢、中食、夕食、田島に着き本陣に宿す。
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以下、現地の案内板から

町指定重要文化財

名  称 「山王茶屋」(旧渡部家住宅)
旧所在地 南会津郡南会津町(旧田島町)糸沢字山王
創建年代 元和三年(一六一七)
移築復元 平成十八年二月

 山王茶屋はもと、南山通り(下野街道)の山王峠入口に建っており、主に旅人の休泊所として利用された。
 明治十七年に編纂された「南山新道之記」には雪中行路の便をはかるため、元和三年に建てられたと記されているので、およそ四〇〇年前の創建と考えられる。
 戊辰戦争時の慶応四年(一八六八)、西軍に焼討ちされ焼失するも、翌明治二年には、焼ける前と同規模に再建されたと伝えられている。
 構造的な特徴は、一般旅客の出入口とは別に、武士階級専用の玄関「乗り込み玄関(のっこみとも)など近世宿駅の本陣形式を備えている点である。
 江戸時代、宿駅にはこの形式の本陣が設置された。しかし、明治五年に宿駅制度が廃止され、戦後の住環境の変化の中で、そのほとんどが姿を消していった。

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・文化庁、登録有形文化財「糸沢本陣」
以下、パンフレット「下野街道」から

 会津若松市の大町札の辻から栃木県の今市宿まで約三十二里(約130km)を結んだ下野街道の会津側に7つある宿場のひとつの糸沢宿。本来宿場に入っていく道は、宿場特有の枡形を形づくり、鍵の手に曲がっているのだが、現在は整備され昔の面影はほとんど残っていない。それでも会津藩主が滞在したといわれる旧本陣があり、集落で暮らす人々の心の拠り所となっている。

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・「熊野山龍福寺」真言宗豊山派
以下、パンフレット「下野街道」から

 平安時代の創建と伝えられ、戊辰戦争で官軍が会津に攻め入った時に宿泊した寺として知られる。官軍の兵士(芸州)が書いたという板戸の落書きや襖絵が今も残っている。

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介
     現地、案内板・パンフレット「下野街道」
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