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2013.10/03(THU)

井上佐久馬墓 五十里、長念寺




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井上佐久馬
 会津藩/六石五斗二人扶持/伊祖治父/朱雀足軽二番桜井隊/明治元年閏四月十七日下野大桑村で戦死/三十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
 墓は国道 121号の旧道沿いの石段を上った長念寺墓域にある
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長念寺(ちょうねんじ)
 旧五十里村の菩提寺で、五十里ダム建設のため現在地に移転
以下、現地の案内板から

   長念寺
木造阿弥陀如来坐像(彫刻) 有形文化財
現在は湖底に消えた五十里村の長念寺に伝来した像。南北朝時代の特徴を表しており裳原仏業所の法橋慶円が康永二年(一三四三)に作成したとの墨書名がある。本像の作風や技法から裳破仏所系統の作品が判明する可能性もあり、大変貴重な作品である。
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写真;2013.10/03



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2013.10/03(THU)

高木六左衛門の墓 五十里湖畔




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※写真;当初、墓は布坂山にあったが、都合があってか、ここ「掘割」の地に移転された(2013.10/03)
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以下、現地の案内板①から

伝 高木六左衛門の墓
この布坂山は別に、腹切り山ともよばれています。

 天和三(一六八三)年、日光大地震によって葛老山(かつろうさん)の一部が崩壊し、男鹿川をせき止めて、周囲三十余キロメートルの湖ができました。これにより、会津西街道の交通は遮断され、会津地方からの年貢米の輸送等の大きな障害となりました。そこで会津藩は、藩士の高木六左衛門に掘割の工事を命じ、湖水の切り落としを図りました。しかし、工事は厚い岩盤にはばまれて難航し、完成しなかったのです。そのため、高木六左衛門は、責任を取って、この場所で割腹、自害したと伝えられています。
 四十年後の享保八(一七二三)年八月
この湖は決壊し、その水勢は下流に甚大な被害を及ぼしました。これが歴史に有名な五十里洪水です。
     日  光  市
     五十里自治区
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以下、現地の案内板②から

鬼怒川上流部
水源林と歴史・観光の町 日光市(旧藤原町)

 関東の北の端、福島県と接する栃木県藤原町は、南北に直線距離で40キロメートルもある細長い町です。北部を男鹿川が流れ、町の中央部で西から流れてきた鬼怒川と合流します。この鬼怒川はさらにどんどん南下し、やがて茨城県守谷町で利根川に注ぎます。
 上流部に位置する藤原町の主な産業は、鬼怒川温泉や川治温泉、そして龍王峡の渓谷美などの観光です。四季おりおり、川と山とが織りなす自然の美しさで訪れる人々を楽しませてくれるこの町は、貴重な”水源林の町”でもあるのです。

治水・利水・発電に役立つ五十里ダムと川治ダム

 藤原町の四方には緑豊かな山々が連なっています。町の9割以上が国有林で占められており、そこに降った雨や雪は地中深くにしみこみ、それが少しずつ流れ出て小川となり、小川が集まってやがて大きな流れとなります。私たちはこの水の恵みをさまざまに利用していますが、その一つの方法がダムです。
 川治温泉郷のすぐ上流には、1キロメートルを隔てて仲良く並ぶ2つのダムがあります。兄さんダムは、1956年、男鹿川に造られた五十里ダム。どっしりとした重力式コンクリートダムで、112メートルの高さは、完成当時、日本一を誇りました。洪水を防ぎ、農業用水や発電にも使う多目的ダムです。
 川治ダムは、1984年に鬼怒川に建設されました。こちらは優雅なアーチ式で、高さは日本第3位の140メートルです。洪水調節のほか、農業用水、都市用水として、その水は遠く千葉県へも運ばれています。
 現在、この2つのダムを結ぶネットワーク計画が進められています。五十里ダムは流域面積が広いので、流れ込む水の量は川治ダムの3倍近くもありますが、ダム湖が小さいために多くの水がそのまま下流へ流されています。一方、川治ダムの貯水能力は五十里ダムの2倍以上ですが、流域面積が狭いため、一度水位が下がるとなかなか回復しません。そこで、2つのダム湖を水のトンネルで結び、両方の弱点をカバーし合うわけです。これによって、ダムの水をより有効に活用することができます。
 又、それぞれのダムの横には資料館があり、周囲の自然や、湖底に沈んだかっての村の暮らし、ダムを建設した当時の工事の様子などが、写真や精巧な模型でわかりやすく展示されています。

江戸時代に大地震で出現した五十里湖

 現在の五十里湖はダムによる人造湖ですが、かってこの場所には同じ名前の自然の湖がありました。その湖は、1683(天和3)年9月1日、日光・南会津地方で大きな地震が起き、崩れ落ちた葛老山(かつろうさん)が川をせき止めてできました。水をためてどんどん大きくなった湖は、約5カ月後、上流の村まで水びたしにしました。
 自然にできたダムですから、雨で湖水がいっぱいになった時、その圧力で崩れるかもしれません。もし、湖の水がいっぺんに流れ出したら大変なことになってしまいます。このため会津藩は、1707(宝永4)年、関所役人・高木六左衛門に水抜き工事を命じました。しかし、ブルドーザーなどない時代ですから、大きな岩を取り除くことができず、工事は失敗しました。
 湖の出現から40年後の1723(享保8)年8月10日、人々の不安は的中しました。何日も続いた暴風雨で湖の水かさが増し、ついに五十里湖が決壊したのです。濁流は川治村、藤原村を押し流し、被害は遠く宇都宮にまで及びました。現在の五十里ダムが完成したのは、決壊から233年後の昭和31年。再び湖が誕生し、水害の心配もずっと少なくなりました。
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2012.07/21(SAT)

会津西街道五十里宿




平成24年
・ 7月20日
 藤原の慈眼寺を見た帰り、五十里ダム管理支所に立ち寄って「わくわくダムダム資料室」を見てきた。五十里湖と五十里村の変遷を示した説明の掲示はあったが、ここはダムの資料室なので戊辰戦争に関係するものの展示や掲示が無かったのは当然か?
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--以下、現地展示説明資料から--
天和 3年(1683)
・ 9月 1日未明
 日光・南会津地方を大地震が襲った。マグニチュード7.3と推定されている。「御普請出来候石垣を残らず壊し、双輪塔も押し倒す」という激震であった。震央附近の葛老山が崩壊し、崩壊地点の上流で合流する男鹿川と湯西川がせき止められた。約150日間で周辺の西川村と五十里村が水没し、谷間に五十里湖という大湖水が形成されたのである。湖は決壊すれば下流域に大災害を引き起こす危険性が強く、当時この地域を支配していた会津藩にとって湖水の水抜きは必至の課題であった。掘削工事が行われたが大岩盤にさえぎられ失敗した。この絵図は五十里村の名主を代々勤めた赤羽家に伝来したもので、元禄元年(1688)頃の幕府代官や会津藩・宇都宮藩の役人立ち合いによる現地視察の際に描かれたものと推定される。その後、大地震から40年後の
享保 8年(1723)
・ 8月10日
 連日の暴風雨により湖水は一瞬にして決壊、鬼怒川の下流域は大洪水となった。この五十里洪水は下野国史上最大の自然災害といわれ、広範囲にわたって計り知れない災害をもたらした。

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・ 日光を一旦退いた旧幕府軍は六方越えを経て日向村(現栗山)から田島を目指すが、途中ここ五十里に宿した
--以下、「南柯紀行・大鳥圭介」の記述を引用--
慶応 4年(1868)
・閏 4月 3日
 三日早立和田某と一同日向村を出て危坂を越え河沼にて昼食す、此時三日目にて始(初)めて米飯を食したり、夫より河流を渡りて五十里駅に出たり、此駅は人家六七十軒もあり田島より日光への本往還なれば先ず格別の差支もなし、本陣に至りて萱野権兵衛に面会し日光表の形勢を委に談じ、何卒全軍を一度田島まで引揚げ其上にて再び出張したき旨を掛合い漸くに承知す、然らば兵隊の順次を定め宿割をなし三依越すものもあり、又当駅に止宿もあり余は此駅に泊して怪我人運送の人足兵粮支度の事を其掛の者へ命じたり。
 今晩は日向記の旅館に至り米田其他の士官と臥したり。
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--以下、「南柯紀行」から大鳥の行動と概略--
・閏 4月 4日 五十里を出て横川に至る
     5日 横川を出て三王峠、糸沢で山川大蔵に会い共に田島へ
     6日 -16日 田島にて軍再編
    17日 第三大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、横川泊
    20日 藤原着
    21日 高徳の貫義隊斥候、土州の斥候隊と小戦闘
    22日 小佐越村
    23日 小佐越村を出て大桑村へ。栗原村の先で戦闘
    24日 藤原にいる第二大隊も小佐越へ呼び寄せる
    25日 無事
    26日 今市で戦闘
    27日 -30日 無事
   5月 1日 高百村に出る
     2日 - 5日 瀬尾村前まで行って地形など見定む
     6日 夜、大桑村を出て今市で戦闘
     7日 無事
     8日 総軍を一旦大原、藤原へ引揚げ
    10日頃 敵人大桑、小佐越、小原を悉く焼払う
     8日 -15日 別段異事なし
    15日頃 若松に行く(山川大蔵と、滞留五六日)
    20日 藤原に戻る
   5月末 - 6月20日頃 格別の戦争なし
     *
・  6月24日
 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ帰らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、
(後略)
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--参考文献;現地展示説明資料/「南柯紀行」大鳥圭介--



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