カテゴリ:>藤原( 9 )

2015.10/06(TUE)

高原新田宿(会津西街道) 日光市(旧藤原町)




西國供養塔(2013.08/04)

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高原峠を通過した江戸時代の街道筋
高原新田宿
以下、「会津西街道の歴史を歩く(佐藤権司著・随想舎)」から引用
 現在の会津西街道は、藤原から鬼怒川に沿って北上し、川治温泉を通って五十里湖畔へと続く。だが江戸時代の会津西街道は川治温泉を通らず藤原宿から現在の日塩もみじラインに前後しつつ高原峠を登った。ここに家数十数軒の高原新田宿があった …
〈以下省略〉
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絵図・太閤下ろしの滝付近
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※↑写真;「会津西街道の歴史を歩く」裏表紙から



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2015.03/26(THU)

殉難碑 藤原小原沢




藤原の戦い(2012.10/16)

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写真;2015.03/25(殉難碑裏面)
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裏面に
藤原戊辰戦争戦死者
・東軍
幕府軍 村上求馬(幕府御使番、草風隊長)、伝習隊士ニ名
会津藩 浮州源四郎(朱雀二番士隊)、黒河内直衛(同上)、黒河内重次郎(同上)、井上佐久馬(朱雀足軽隊)、夫卒三名
・西軍
宇都宮藩 安形靭負太郎(家老長男)、齋田権兵衛(御武具奉行)、田中五太夫(一番隊)、彦坂新太郎(同上)、井上乾次郎(同上)、高瀬久馬、中上鎬之進、内山房吉、夫卒一名
佐賀藩 嬉野弥平次(侍隊五番隊長)、林虎之助(侍隊)、多伊良文治左衛門(撒兵隊二番隊長)、諸隈忠九(撒兵隊)、杉町悦蔵(同上)、村岡大之助(同上)、中野治郎助(同上)、吉浦廉之助(同上)、古賀七之丞(手回隊)、角田嘉一郎(同上)、早田軍平(足軽隊)、夫卒弥一、夫卒詫蔵
 ・・・
※ 安形靭負太郎(あがたゆきえたろう)
幕府軍
・村上求馬   大鳥圭介指揮草風隊長/明治元年六月二十六日下野藤原村で戦死
会津藩
・浮州源四郎  甚助弟/朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十八日下野大原で戦死/三十一歳
・黒河内直衛  保衛の弟/朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十九日下野柄倉村で戦死/三十四歳
・黒河内重次郎 朱雀士中二番田中隊/明治元年閏四月十八日下野大原で戦死/三十二歳
・井上佐久馬  六石五斗二人扶持/伊祖治父/朱雀足軽二番桜井隊/明治元年閏四月十七日下野大桑村で戦死/三十二歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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小原沢「殉難碑」

碑文
当地の渓流を挟んだこの附近一帯は、慶応四年(一八六八年)六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に築いた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉迫して来た西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し西軍の会津進出を阻止した。この日の戦死者は、東軍の隊長村上求馬ら三名、西軍の佐賀藩小隊長嬉野弥平次、宇都宮藩家老長男安形靭負太郎ら十八名にのぼった。裏面に誌した人々は、この戦前後の藤原町地内での戦死者を含んでいる。依って、ここに碑を建てて永えに其の雄魂を弔うものである。なお慶応四年は同年九月より明治と改元された
     昭和五十六年六月二十六日建之
     齋藤茂吉 撰文
     木村 始 謹書



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2013.08/04(SUN)

西國供養塔 会津西街道
高原新田宿




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高原新田宿
嘉永 5年(1852)
・長州藩士吉田松陰は22歳のとき、脱藩して宮部鼎蔵らと東北旅行に出て帰路途中ここ高原新田宿に宿泊した(東北遊日記)

※ 吉田松陰(よしだしょういん)
  長州藩士。1830-1859
※ 宮部鼎蔵(みやべていぞう)
  熊本藩士。元治元年(1864)六月、池田屋で会合中に新選組の襲撃を受け、結果自刃した。享年45才
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西國供養塔と(道標)
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※ この西国供養塔は宿中程にあって右には道標があり「従是 右ハ阿らゆみち 左ハあいづ□(み)ち」と刻まれている
 阿らゆみち=新湯道
※ 新田と名がつくが、ここは標高1200m余りで水田は無い
※ 万治二年(1659)の地震で元湯(現那須塩原市湯本塩原)がほとんど壊滅した。残ったうちの六戸が古高原に移り、延宝三年(1675)には塩湯山湯泉寺も古高原に移った〈文久三年(1863)以後廃寺〉。これらのことが「高原新田宿」成り立ちの起源であるようだ。また、湯本山円谷寺は新湯に移ったが戊辰戦争によって焼失、廃寺となった
--塩原町史--
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2013.08/02(FRI)

法華題目塔道標
旧会津西街道高原新田宿




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平成25年(2013)
・ 8月 2日
 スキー場(ハンターMt)のユリを見に行き、帰り途に会津西街道の高原新田宿(現鶏頂開拓)に寄って来た。ここは慶応四年五月、藤原にいた郡上藩「凌霜隊」が塩原へと辿る分岐の宿である
凌霜隊戦記の一部、其の一(2012.08/19)

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写真;2013.08/02、「南無妙法蓮華経」の題目&右塩原道・左会津道、とようやく読める?
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以下、現地の案内板から

日光市指定文化財
ほっけだいもくとうどうひょう
法華題目塔道標

種別  有形民俗文化財(信仰)
総丈  160cm
幅   (塔身)42cm (基台)60cm
奥行  (塔身)28cm (基台)61cm

 この塔道標は、万治三年(一六六〇)旧会津西街道における会津道と塩原道の分岐点に道標として建立されたものである。その場所は旧高原新田宿の最北端の境界(関東と会津)地点である。
 中央部に法華題目が刻まれているのは、日蓮宗の伝道者や旅行者が道中の安全を祈願したためと考えられることから、この街道は日蓮宗の重要な伝播道でもあったことを示している。
 万治三年は会津藩による山王峠の難路打開普請の翌年に当たる(「会津藩家世実紀」巻之十九)。山王峠の普請は、会津藩の江戸方面の公用道としての機能を飛躍的に増大せしめた。これによって廻米をはじめ会津圏との商品流通の量的拡大を容易にしたであろう。この塔道標はこのような事情を示す資料的価値も大きい。
     昭和四十九年九月十四日指定
     日光市教育委員会
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2012.10/18(THU)

大原村の戦い「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月25日




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小原沢の戦い(2012.10/17)
藤原の戦い(2012.10/16)
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 会幕軍は本営を藤原(新藤原駅付近、現星七郎氏方)に置き、前哨陣地を大原(地図で大原、信号のある三叉路附近、現藤原中学校辺)に置いた
 新政府軍、肥前佐賀藩と宇都宮藩は連携して藤原・大原の攻撃を開始した(この時大鳥、山川は不在)。攻撃は佐賀藩の持つ後装式アームストロング砲が威力を発揮するなどして快勝。藤原本営の占領は出来なかったものの、小佐越、大原の前哨陣地を占領した
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慶応 4年(1868)
・ 6月25日 大原村の戦い
「南柯紀行」から引用


 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是れ大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ返らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り、途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、猶駕(籠)を急がせ高原へ帰り来りし処歩兵体の者追々南方より来るを見るゆえ何者ぞと尋ねしに、第三大隊の兵士にて今朝より大原にて敗軍し此村に引揚げ、則隊長も来り居れりと云余愕然切歯に堪えず隊長に会いしに其の語る処今兵士より聞きし次第に異ならず、敵小佐越の方なる川岸より「アルムスツロンス(アームストロング)」の野戦砲を以て頻りに射撃せし故、之れに向て打(撃)合いし故、敵は散兵を左側の山へ登せ我が左側幷に背面を打ちし故之を防ぐ能わず引退き大原村にても防ぐ能わず、同村迄は草風隊の援兵来りしかども烈戦にも至らず引揚げ、同村も敵の為に放火せられ藤原迄返りし処、同村には宿陣の処もなく当駅まで引退きたりと云、余之を聞き余が留主(守)中と雖も手筈の事は兼ねて隊長へ申含め置たるに、其詮なく不埒の挙動なりと甚だ奇怪に思えど今更之を譴責するも益なし、今日戦い負けて是迄引揚る程なれば敵軍又明日藤原へ押寄る事必定なり、是より急ぎ帰り防戦の手筈を為し今日の恨を晴さんと言い捨て直ちに乗駕し、四ツ過ぎし頃藤原に着き本日の戦いの模様を一と通り糾明し、明暁敵又襲来するに相違なし因て何れも大憤(奮)発して今日の恥を雪ぐべしと一同へ令し、即ち専ら防禦の索を運らしたり、藤原村の向岸なる下方に、滝の湯とて温泉場あり、此辺の人家へ敵今夕方より潜伏し居る由なりと聞きし故、凡距離も分りおれば手臼砲打にて驚かすこと一索なりと思い付き、其掛りの者へ命じ三四発撃たしめしに果して敵二十人計りも隠れ居り、此砲声に怖れ逃げ帰りし由なり。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.10/17(WED)

小原沢の戦い 「南柯紀行」から
慶応 4年(1868) 6月26日




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藤原の戦い(2012.10/16)
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※ 小原沢(鬼怒川公園駅付近)に陣を置いた大鳥圭介軍は、新政府軍を迎え撃つ体勢を整えた

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慶応 4年(1868)
・ 6月26日 小原沢の戦い
「南柯紀行」から引用


 今夜は暫く眠らず、小泉村胸壁築立の事を指揮し七つ時頃より余も小原に出張し先ず本道と川向うとを防ぐ、胸壁を築立てんと頻りに人足を鞭韃(撻)して之を急ぎ、漸く半出来たる頃、即二十六日朝五つ時頃にもありたるか小佐越の方に当り小銃の声遥に聞えたり、暫時ありて兼て差出し置たる物見の者馳せ帰り、敵鬼怒川の両岸に上り来り、先鋒は已に二十町計の処まで進来れりと云、未だ胸壁は成らざれども草風隊を正面に備え伝習士官隊の者を川岸に配ばり第二大隊の内を山林の間に散布し、其余の第二大隊を応援に残し、夫々手筈を定め今や来ると待かけし処間もなく敵の先鋒川向に来り、大砲を放ちながら次第に進み来れども身(味)方格別発砲せず敵愈勢いに乗じて前進し、又本道の方へも追々押し来り互いに血戦に及び、敵は多勢の強兵なれば容易に辟易する色なく大小砲連々打続て、川向の岸を経て猶奥深く進み我陣の横を撃たんとせしを、我樹陰の胸壁より一斉に小隊打を為せしに由り、大に驚き少し引色見えし故味方猶烈敷打立て、本道の方にては午時頃迄は互いに小銃の打合盛なりしが、敵味方とも小谷を隔て小高き処にあれば双方とも近寄る能わず、味方も今朝より引続き戦いければ、余程疲労せり、於是予備に残し置きたる兵半小隊計を浅田鱗(麟)之介(助)に率かせ、本道の方に向わしめしに、味方新兵の加わりたるを以て大に気力を得、第二中隊の者並に草風隊の兵士勇を奮い、士官は刀を抜き兵士は剣を附け、声を揃えて胸壁より飛び出し、谷川を渡り切り入りしにより、敵狼狽敗走踏止りて戦い者も余程ありたれども、大抵之を打倒し切斃し追行きしに、谷間に下り戦い居りし者は急卒の事なれば、逃げ道を失い困迫せるを切殺したるも多し、已に本道敗れ味方之を追撃したる上は、川向うの敵後しろを断たるるの患ある故、益引色にて戦う処を愈烈敷連発せし故多く弾薬器械を打棄て散々に敗走せり、乍去二十町計りも追撃して之を逐うことを止め、八つ時凱旋せり、川向うの敵は順道を経て帰る能わず、多くは山へ逃げ登りし処深山にて素より路なき処なれば、大に餓え翌晩漸く今市に帰りたる者ありと云事を後ちに聞き知りたり。
 本日味方死傷大抵如左
  士官戦死 草風隊長 村上求馬 隊士一人
   傷  者 草風隊軍目会入(人)某一人
   兵士薄手三人戦死無之
    分 捕
   小銃 二十挺計  元込弾薬 五六千発  刀 十四五本  長持 一棹  雑具品々
  斬首十四五
 此戦争に最功勲ありしは草風隊の村上求馬、鈴木弥七郎今一人は名を失したり、第二大隊中にて滝川充太郎、浅田鱗(麟)之助、大村卓司なり会津候より羅紗を贈りて其功を賞せられたり。
 後ちに川向うの戦地に渡り之を巡視せしに、路傍の松杉等小銃の弾痕星の如くにて其辺り血流れ弾薬兵糧散乱せり。
 其後敵大原辺迄は巡邏に来りたり、互に番兵の者と砲発すれども格別の戦いに至りし事なし。
 六月中無事。

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.10/17(WED)

藤原町(現日光市)の小原沢に行く途中にあった郷土資料館




以下、現地の案内板から
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日光市郷土資料館
-- 仲附の旅籠(なかつけのはたご) --

 この建物は、会津西街道の藤原宿で明治元(1868)年に建築された仲附の旅籠を、昭和五十六年藤原町がここへ移転したものです。
 江戸時代、会津西街道の仲附は信州の「中馬(ちゅうま)」と並ぶ特殊な輸送手段でした。
 仲附輸送の特色は、会津藩が設置した宿駅を継ぎ送るというしくみでなく、一人で五~七疋の馬をひき目的地まで附け通すというところにあり、輸送も早く、運賃も安く、荷物のいたみも少ないという便利なものでした。
 幕末、藤原宿には五軒の仲附宿がありましたが、この宿は「加登屋(かどや)」の屋号で呼ばれ常時十人前後の仲附が宿泊していたといわれます。
 なお、この建物は、持主であった斎藤敬作氏が、藤原町に寄贈したもので屋根はかやぶきでした。

 ・建 物 木造平屋
 ・面 積 159.20㎡(48.15坪)
 ・平面図

      平成七年一月
      日光市教育委員会
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写真;2015.03/25



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2012.10/16(TUE)

藤原の戦い  6/25 大原村の戦い、 6/26 小原沢の戦い





 今市攻略に失敗した会幕軍は藤原に陣地を築き、会津街道口の防禦持久戦に移った

慶応 4年(1868)
・ 5月
 会津侵攻路を確保するため進撃していた土佐藩だったが、白河口の攻防が膠着するとその増援に向う。これに代わった佐賀(肥前)藩が今市に着陣した
・ 6月25日
 佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍は連携し、会幕軍が守備する藤原口を攻撃する
 その一隊を小百(今市市)から、もう一隊は大渡(同)から鬼怒川を渡河し、宇都宮藩兵は鬼怒川左岸の船生(塩谷町)から会幕軍の第一線陣地(小佐越、藤原町)を攻撃した。ここを突き進むと大原(同)で陣を構えた会幕軍と交戦し、船生から山を越えて大原陣地の背後に回った別働隊の働きとアームストロング砲が威力を発揮して敗走させた
 会幕軍、藤原方面に退却した
・ 6月26日
 新政府軍、藤原に向け鬼怒川の左右両岸から進撃を開始した
 迎える会幕軍、左岸ではモウキ山(藤原町)の断崖上から攻撃し、右岸では上滝まで兵を引かせ、敵を引き付けると一斉に射撃した。新政府軍、会幕軍の猛攻に堪らず四散敗走する
 会幕軍は地形を利しての大勝であった

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・ 7月21日
 大鳥圭介、伝習大隊を率いて会津若松に向う
・ 8月7日
 宇都宮藩兵を主力とする新政府軍、船生の戦いで会幕軍を撃退する
・ 8月21日
 新政府軍、薩摩藩士中村半次郎(桐野利明)を藤原口軍監に任命
 会幕軍、藤原村に放火して退却
 山川大蔵、藩兵を率いて五十里から会津若松に向う
・ 8月24日
 宇都宮・佐賀藩隊、小百から栗山に向う

・ 9月14日
 若松城総攻撃
・ 9月22日
 会津落城。松平容保、城を出る

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以下、現地の案内板から

戊辰戦争「大原村の戦い」 6月25日

 日光山の戦火回避後、慶応四年(一八六八)、閏四月から五月初めの二度にわたる今市宿攻防戦は、政府軍がこれを死守した。
 敗退した会幕軍は、陣容を立て直すために一旦会津へ退き、再び南下して政府軍の進撃に備えた。
 会幕軍は、下原(小佐越駅付近)・大原(藤原中学校付近)・藤原(新藤原駅付近)など街道筋へ主陣や前線基地を築き、装備を整えて、一日でも長く戦闘を持ちこたえ、若松城下をめざす政府軍の前進を阻もうとした。政府軍は、頑強な抵抗に苦しめられたが、八月、会幕軍の主戦場白河口へ結集する退却によって前進できた。
 大原・藤原などの集落は、会幕軍の退却に伴って焼き払われた。

政府軍 約1200名、砲 4門、木砲 数門
会幕軍 約 500名、伝習第二大隊・別伝習隊・草風隊 
「藤原町誌」通史編から
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戊辰戦争「小原沢の戦い」 6月26日

 ここ小原沢も、激戦地であった。この辺りは、モウキ山の曽根が鬼怒川へ突き出て、「大べつり」と呼ばれる最大難所の一つであった。戦争当時は、荷物を積んだ駄馬がやっと一匹通れるぐらいの小道が、曽根をへつって通じていた。
 進撃する政府軍が、難所を越えると、道は切り通し風の上り坂になり、大きく蛇行している。陣地を構えて政府軍を迎え撃つのに絶好の地形であった。会幕連合軍は、近隣の農民を使役して、左手小高い丘に溝型の防御施設を設け、モウキ山の麓に姿を見せた政府軍兵士を一斉射撃したのである。
 近くの殉難碑に、両軍の戦死者名が刻まれている。
     藤原町
「藤原町誌」通史編から
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写真;【殉難碑】、2012.10/16

小原沢「殉難碑」
碑文

当地の渓流を挟んだこの附近一帯は、慶応四年(一八六八年)六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に築いた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉迫して来た西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し西軍の会津進出を阻止した。この日の戦死者は、東軍の隊長村上求馬ら三名、西軍の佐賀藩小隊長嬉野弥平次、宇都宮藩家老長男安形靭負太郎ら十八名にのぼった。裏面に誌した人々は、この戦前後の藤原町地内での戦死者を含んでいる。依って、ここに碑を建てて永えに其の雄魂を弔うものである。なお慶応四年は同年九月より明治と改元された。
     昭和五十六年六月二十六日建之
     齋藤茂吉 撰文
     木村 始 謹書

※ 宇都宮藩家老 長男 安形靭負太郎(あがたゆきえたろう)

※ 昭和56年(1981)
・ 6月
 田辺昇吉氏(日光山麓の戦)や友人の星光二氏(当時藤原町長)らによって建立された

--参考文献;「下野の戊辰戦争」大嶽浩良--



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2012.07/20(FRI)

藤原山慈眼寺 会津西街道藤原宿




平成24年(2012)
・ 7月20日
 藤原から鶏頂山が形良く見える所があって、その写真を撮りに行ったものの生憎の天気で見る事は出来なく、近くのお寺さんを覘いてみた
 このお寺さん、ボケ除け祈願もして貰える ^^;)
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慈眼寺本堂
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--以下、参道入口の案内板(一部)から--

日光市指定文化財

   木造十一面観世音菩薩立像
 種別・・有形文化財  総高・・一四一センチメートル  巾 ・・六〇センチメートル
 員数・・一体     像高・・一二一センチメートル  製作年代・・江戸時代初期

 この十一面観音は、金泥塗りの木造である。胸部と前衣の一部に欠損がみられるほか、前頭部の十面体にも若干の欠損がみられるが、全体として保存状態は良好である。
欠落欠損は、慶応四(一八六八)年の戊辰戦役の際に、藤原で行われた激戦によって受けた損傷であると思われる。
藤原を舞台にした戦いでは、会津軍が終始優勢にあった。しかし、白河方面では、会津軍は逆に苦戦を続けていた。この劣勢を挽回するために、藤原の軍が応援に向かうことになり、橋をこわし、人家を焼き払って引き上げた。この時会津軍の中野善六なる人物が、戦火の中からこの十一面観音を救い出したとの由来を、その子孫が昭和十五年頃当寺を訪ねて来て話したという。
観世音菩薩は、仏教における諸菩薩の中でも最も慈悲を表す仏である。最も現世利益のあらたかなものとして広く信仰されている。観世音菩薩は、根本総体として、千手・如意輪など多くの種類をとるが、十一面観音もそのひとつの形である。
     昭和四十五年五月十二日指定
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