カテゴリ:>関谷宿( 4 )

2013.11/09(SAT)

第二次関谷宿の戦い 那須塩原市関谷
慶応 4年(1868)閏 4月23日




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・閏 4月22日 
 板室、阿久戸、油井で戦いのあったこの日、宇都宮城奪回戦における伊地知正治率いる後続の部隊が大田原城に着いた
 そして、関谷宿に再び敵兵(会幕兵)出没の報が入ると
・   23日
 早朝、伊地知の率いた部隊が大田原藩の案内を得て関谷宿に向った
 新政府軍の接近に会幕軍は関谷宿西の山地に後退して布陣、麓に枯れ枝を積んで火を放ち、その後ろから銃撃し抗戦するも、四方に散開した新政府軍の攻撃にたまらず逃走を図った
 新政府軍、一里(だと大網村附近になる)ほど追撃する

 > 新政府軍;約 180人(薩一小隊、長一小隊、垣一小隊、大砲二門、忍一小隊)
 > 会 幕 軍;〃 300人

伊地知正治日記ニ云(板室、阿久戸、油井の戦い)
賊ヲ大網村ニ撃テ之ヲ破ル(関谷宿、大網村の戦い)

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[近代デジタルライブラリー]復古記 第11冊 コマ番号 344/484
p.642 から引用
復古外記 東山道戰記 第十五 自 明治元年閏四月二十一日
               至 同    五月  朔日

○薩摩、長門、大垣、忍四藩兵、再ヒ大田原傍近ノ賊ヲ關谷村ニ撃テ、之ヲ破ル。

○伊地知正治日記ニ云、閏四月廿三日、五番隊關谷ヘ押寄候處、賊徒官軍ノ強ヲ恐レ、遙之山路ニ引入、乾ケル木ヲ積テ火ヲ放チ、其後ヨリ覘打候構ニテ待設候得共、我手山根傳ニ四方ヨリ引包打立候故、暫時之間ニ首級三ヲ得、壹里餘追討ニテ引揚候事、但、味方手負戰死無之。
○慶應出軍戰状ニ云、閏四月二十三日早天、太田原繰出シ、關谷迄相進候處、賊嶮ニ據リ、三百人計守禦之備ヲ嚴ニシ、及防戰付、一小隊ヲ左右ニ分チ、四番分隊ヲ斥候トシ、四ツ時分ヨリ及戰争、一字計之間ニ賊徒悉追散シ、鹽原邊ニテ一里半計追討イタシ、賊首三十余級得、則人數引揚、太田原ヘ一泊。
○戊巳征戰紀略ニ云、閏四月廿三日、我三番一小隊、薩兵ト大田原ニ至ル、直ニ關谷ニ押寄セ、賊ヲ走ラシ、三人ヲ斃ス。
○戸田忠友家記ニ云、閏四月野州關谷ヘ賊徒屯集ニ付、薩州兵隊爲嚮導出兵及戰争、同廿四日右歸陣。
○大田原勝清家記ニ云、閏四月廿四日、官軍、領内關谷村ヘ賊徒襲入之報知御座候ニ付、同朝出兵打拂有之節、嚮導之者四人差出。
○東山道戰記ニ云、宇都宮敗走之賊兵、鹽原山ニ屯集シテ、油井、板室山之賊ト俱ニ相謀テ、野州路ヲ刧シ候ニ付、油井村之方ハ、昨日官軍二百人余進撃ニ相成候、然ルニ此鹽原山之賊ハ、已ニ關谷村迄押出シ來リ候由報知有之候間、閏四月二十二日夜、太田原在陣之官軍々議ヲ致シ、關谷村ヘモ打向可申ト、翌二十三日曉、太田原ヲ立テ關谷之方ヘ及進撃候、此日、官軍薩一小隊、長一小隊、吾藩一小隊、大礮一門、軍師佐竹五郎、銃隊長小出五平次、礮長河田忠兵衛、忍一小隊、凡テ百八十人計也、巳ノ時關谷村ヘ馳着、賊之虚實ヲ窺シニ、賊兵三百人余有之由也、依テ忽發砲シテ村之左右ヨリ亂入セシニ、賊ハ此□大ニ驚キ、一支モ不致迯出シ、何所トモ無リ散リ行候、此日討取之賊ハ二人ニシテ、官軍死傷無、未之時、悉ク軍ヲ纒メ、太田原ヘ歸陣致シ候。
○東山新聞ニ云、野州關谷合戰、官軍百八十人計、薩一小隊、長一小隊、垣一小隊、大砲二門、忍一小隊、死傷無之、賊軍三百人餘、脱走兵死二人。
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※ 写真;会幕軍が関谷宿西山中に布陣したといわれる「関谷宿・愛宕山神社境内」
 当時、この境内からは宿内の様子が一望出来たそうだ(2013.04/19)



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2012.12/31(MON)

「城鍬舞」が記念スタンプに
塩原・関谷郵便局/切手シートも発売




平成24年(2012)
・12月31日
 今日は大晦日。古い新聞記事と「切手シート」を見つけた

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 塩原町関谷地区に伝わる「城鍬舞(しろくわまい)」が記念スタンプに。同町の関谷郵便局(室井利一郎局長)では、同地区に伝わる県民俗無形文化財の城鍬舞をかたどった記念スタンプを郵政局に申請していたが、認可が下り、十五日から使用を開始する。同局ではこれに併せ、普通切手シート(タトウ)の発売も行う。同局にはこれを聞きつけた全国のマニアから「返信はがきに記念スタンプを」という申し込みが殺到している。
 同地区に伝わる「城鍬舞」は慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いのさい、会津の上杉景勝が反徳川の旗揚げをした。大田原城は家康に味方し、会津の攻撃に備えて城の改修を行った。その完成祝いの席上、農民が「すき」や「くわ」を持って即興の舞を舞った。この舞が「城鍬舞」として今日まで受け継がれてきた。一時中断したが、五十七年に地区住民有志らによって復活された。現在は保存会が結成され、毎年秋に同地区の箒根神社に奉納されている。
 この保存会有志から出た案が「城鍬舞」をデザイン化したタトウ発行。「地区の文化財をPRしよう」というもの。そこで、まず、記念スタンプの認可申請を。記念スタンプのデザインは同町横林小の佐藤薫校長が当たった。一つは塩原温泉の渓谷とモミジ、それに「城鍬舞」をデザイン化したもの。直径は三・五センチ。もう一つは城鍬舞を舞うときにかぶる兜(かぶと)をかたどったもの。直径五・四センチ。このほど郵政局の認可が下り、十五日から使用開始する。
 同郵便局ではこれに併せ、記念普通切手シート(タトウ)の発売を決め、千枚を作成。表紙は同局職員がデザインした「城鍬舞」が描かれ、中には「城鍬舞」のいわれがあり四十円と五十円、七十円の切手(お祝いの切手でツルと松竹梅をデザイン化したもの)が貼られ、そこに記念スタンプを押している。
 このタトウは一部百七十円(切手の現価)で十五日から売り出される。申し込みは五月十五日までに同局へ。
 この報を聞いたマニアからすでに同局へ申し込みが殺到、全国各地から「返信用はがきに記念スタンプを」と約千通が届いている。同局の職員たちは記念スタンプの使用開始を目前にし、この対応に追われている。
昭和60年(1985) 4月14日・栃木新聞

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関谷城鍬舞由来

慶長五年(1600)関ヶ原の戦のさい、会津の上杉景勝は反徳川の旗あげをした。大田原城は家康に味方し、会津の攻撃に備え城の改修を行った。その完成祝いの席上、賦役に出ていた農民が、鋤や鍬を持って即興の舞を舞ったという。この舞が「城鍬舞」として塩原・大田原地方に伝承されている。
 笛4名、太鼓打ち2名、鍬取12名、旗持2名で演じる。曲目は明神、東天、下座、トートノ舞、和楽、鎮め、九練、街道下りでかわいい子供が踊る。
 一時中断したものを昭和57年復活したもので、栃木県の無形民俗文化財になっている。



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2012.07/26(THU)

関谷宿常夜灯




平成24年(2012)
・ 7月26日
 前に「関谷宿御公儀御巡見」を記した(2012.07/16)が、そこの関谷宿概略図にある常夜灯の写真を撮ってきた
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以下、現地の案内板から

 この常夜灯は嘉永五年(一八五二)に建てられたもので、当時は愛宕神社の参道に一対あったと思われるが、正確な位置や方向は不明である。
 常夜灯には西側に「秋葉山大権現、愛宕山」、北側に「金毘羅大権現、熊野三社」、東側に「白雲山大権現、稲荷大明神」、南側に「鷹八幡宮、午頭天王」という文字が読み取れ、台座には関係者の名前が刻まれている。
 関谷宿の当時の雰囲気を伝える貴重な史跡である。

平成九年三月三十一日 塩原町文化財指定
那須塩原市教育委員会



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2012.07/16(MON) 

関谷宿御公儀御巡見




平成24年(2012)
・ 7月16日
 「塩原町誌」を見ていたところ、縁有る場所と縁有る人の所有する文書の記載があった。ごく地味なものであるが当時の人や暮しの様子が偲ばれるし、此処の街並みや地理も承知していてイメージし易い。記述内容をほぼそのまま引用して一部をUPする
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御公儀御巡見日記帳
天保 9年(1838)
 組 頭;重五郎・金三郎
 御公儀様御巡見日記帳
 御本陣;又右衛門・重五郎・重助

 文書所蔵者;関谷、室井義夫氏

・解明
 此の公儀御巡見日記帳は室井義夫家に伝わる、御巡見使関谷村止宿の詳細を記録したもので、其の実情を知る上に極めて貴重な記録である。又、大田原藩の諸役の差図状況が逐一記されて、其の接見に対する配慮が偲ばれるのである
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イ)関谷宿割の形成

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ロ)御巡見使のあらまし

 江戸幕府が全国各地の視察に派遣した役人。将軍の代替ごとに、大名領に派遣した諸国巡見使(編成;使番・小姓組・書院番)と天領に派遣した国々御領所巡見使とがあった。当初は第三代将軍家光代寛永十年(1633)にはじまる
※ 註記
 ・使 番 若年寄の支配に属し、戦陣では使命を伝える職となり、平時には諸国に出張し国役人の能否を考察した。また、将軍代替りの時は諸国を巡回し、大名の治績を視察した
 ・小姓組 幕府の軍事組織
 ・書院番 幕府の将軍直属の親衛隊(幕府の軍事組織)で営中の警備、将軍の扈従(こしょう・身辺に仕えて、諸々の雑用を果たす)、儀式の事を司どる

・御巡見使の関谷宿泊りについて
 道順 概ね、川崎--石上--関谷--(原道)--大田原宿へ

 一)貞享年中(1684-1688年頃) (第五代将軍綱吉代)
  ※ 或いは歴史年表にある天和元年(1681)が正しいか
 御巡見様
 佐久山より上石上御通行被極候
  御 使 番 駒井右京様

 二)宝永七寅年(1710) (第六代将軍家宣代)
  御 使 番 主角主馬様
  御小姓組 永田弥左衛門様
  御書院番 本田清兵衛様

 三)延享三寅年(1746) (第九代将軍家重代)
  御 使 番 松平新八郎様
  御小姓組 天野伝五郎様
  御書院番 諏訪右近様
  ※ 此の時のことについて詳記はないが巡見があったことには相違ない(通行か)

 四)宝暦十辰年(1760)十一月十六日 (第十代将軍家治代)
  御巡見様、関谷村に御宿泊
  御 使 番 板橋与五左衛門様 本陣 重郎平
   同勢 三十五人     亭主脇 源右衛門
  御小姓組 三上与九郎様   本陣 又右衛門
   同勢 二十八人     亭主脇 彦兵衛
  御書院番 長谷川藤右衛門様 本陣 重五郎
   同勢 三十人      亭主脇 定右衛門
  ※ 此の時には、関谷の宿内整備されて、宿泊に十分なる設備が整えられていた。又、宿の東側の杉の並木の胴伐高さ一丈三尺にした
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ハ)御巡見の概要

 五)天明八申年(1788)六月十六日 (第十一代将軍家斉代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 倉橋長右衛門様  本陣 又右衛門
  御小姓組 内藤平八郎様   本陣 重郎平
  御書院番 三田権之輔様   本陣 重五郎

 六)天保九戌年(1838)閏四月七日 (第十二代将軍家慶代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 安藤治右衛門様  本陣 又右衛門
   同勢 四十人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
  御小姓組 馬場大助様    本陣 重五郎
   同勢 四十二人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
  御書院番 内藤源助様    本陣 重助
   同勢 二十七人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
※1 御巡見様関谷止宿の翌日(17日)、原道を大田原宿へ相成
 2 室井家に残る公儀御巡見日記には此の時の記録が詳細に書かれている
 3 天保九年の御巡見は、相続いた天保の飢饉によって受けた痛手は大きく、故に大倹約を徹底せしめ、このことによって視察一行の接待も、それに伴って行われた
 4 此の時の道普請 石上、大貫、関谷(道筋幅九尺、両側弐間宛切開、原道筋も同様、手入)。これが基本であったと思われる

 七)外に御案内役として、此の時大田原藩主第二十五代愛清公、関谷寺(かんこくじ)に止宿す(村掛り十八人奉仕)
 六月十七日、右御巡見様一行御送りの為(人足四二九人、馬五二足、才料九四人)、藩領、村々より出役
※1此の時に、関谷宿東側の杉並木、胴伐り高さ二十尺とした。又東側の堀を埋めた
 2関谷寺について 詳細は不明なるも、大田原藩の黒印状受領の寺。関谷宿はづれ、上町の突き当りにあった模様
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・関谷村、宿の形成について

 江戸幕府の御巡見使の記録として残されてある、貞享年間(1685年頃) 次々の御巡見使、天保九戌年、閏四月(1838)十二代将軍家慶代まで、凡そ百五十余年の間に、前後六回に渉る御巡見が行われたのである
(室井家日記)
 内三回は本陣止宿と書かれてある。最も精細な記録は天保九戌年閏四月七日(1838)のものである。宿の整備については、幕府の定めた、五街道(東海道・中山・甲州・日光・奥州)の宿駅の整備は江戸初期に作られ、奥州道中(正保1648年頃)、原街道・会津西街道は(明暦二年1656)に完備された
 これに準じて、脇街道や、地方村々を繋ぐ要路が整備されたものと考えられる
※ 関谷の宿の形成の初めは、天正十八年(1590)(秀吉時代大田原晴清が関谷兼光の子を室井又右衛門と称させる)と考えることが至当と考える

 宿の要件としては、①問屋場、本陣の整備、②人馬継立、③休泊施設、④交易機能、等の整備が基本であり、大小の別はあれ、これらの形が整えられて宿場を形成したのである
 関谷の宿割りは、最上端(現在の上宿あたり)に関谷寺(かんこくじ・大田原藩の黒印状寺)があり、宿通り、幅九間、屋敷割両側に、一軒分九間三尺幅、本陣、問屋、名主はその倍の屋敷幅を持つ構として整備された。両側にそれぞれ、二十屋敷に近い家並を見たのである
 休泊施設家号(本陣、問屋、岸屋、梅屋、大坂屋、会津屋など)
 原型は、古宿より移転され、愛宕神社の常夜灯も宿内を照らした。又、上の内鷹八幡宮は、大田原公の祈願の場所でもあったのである
 又、関谷村は大田原藩領であり、塩原は宇都宮藩領であった。従って関谷はその接触地として、既に安貞二年(1228)には関谷より塩原へ馬道開くとあり、塩原にとっては、往来の出入口、物資の移入口等緊急の関係にあったのである
 此の事から、藩に於ても、其の整備に大いなる傾注をしたものと思う
 要するに、大田原藩に於ては治下領内代表の宿村として、御巡見の宿泊の所に定めた事と思う
(君島久雄記)

--参考文献;塩原町誌--



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