カテゴリ:>田島( 12 )

2015.07/30(THU)

田部原館跡 南会津町田島字田部原167・193番地





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以下、現地の案内板から

南会津町指定史跡 田部原館跡
      昭和六十年六月十日 指定
一、所有者 南会津町
二、所在地 南会津町田島字田部原一六七・一九三番地
三、規 模 東西六十五メートル、南北七十五~八十五メートル

 田部原館跡は大川の流れに水無川が合流する地点にあり、北側及び西側は直接この両河川に接することで天然の要害となっている
 東側の空堀は平面上幅十一メートル、高さ二メートルの土塁が盛られている。南側の空堀は平面上幅十~十一メートル、土塁は高さ平均二.五メートルで北側へ曲がる箇所で一段と高く、物見台状となり南東側では矢倉台ともみられる
 この南東隅の矢倉台状から十五メートル北寄り(東側土塁)は「く」の字に屈曲が見られる。横矢掛かりといわれる弓矢の攻撃をしやすくするためのもので、矢倉台との位置関係からみて、この方向での防御の重視が窺え、曲輪内へは南側から唯一の虎口が開かれている
 館の構築については記録が残されていないが、田島の入り口に位置すること、方形館跡で単郭プランであること、大川・水無川に洗われる河岸段丘上に位置することなどの特徴から、鎌倉期から室町期初頭頃の構築で、鴫山城創築以前もしくはその前後に築かれ、戦国期に及んで利用されたと推定される。創築期は水利と耕地支配的要素が強く、戦国期では境目番所的な存在として用いられ続けたと考えられる
 今日残存する遺構は保存状態も良好で、県内でも屈指の方形館跡である
     南会津町教育委員会
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2015.07/30(THU)

田部原一里塚 南会津町田島字田部原一九一番地
会津西街道




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以下、現地の案内板から

南会津町指定史跡 田部原一里塚
      昭和五十年十二月二十五日 指定
一、所有者 南会津町・田部原区
二、所在地 南会津町田島字田部原一九一番地

 寛文七年(一六六七)会津藩が藩内の街道整備を行った際、南山通り(会津西街道、日光街道、下野街道など名称が幾通りもあった)にも一里塚が構築された。旧田島町内にも数ヶ所一里塚があったが、現存しているものはこれ一基である
 当一里塚は城下大町四ッ角より十二番目に当っているといわれ、交通資料として貴重な文化財である。また、塚の頂きに榎(えのき)を植えることで、旅行者の目印となり風情もそえたといわれる
     南会津町教育委員会
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2014.05/02(FRI)

南泉寺楼門 南会津町田島




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写真;南泉寺のしだれ桜、2014.05/02
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現地の案内板から

福島県指定/重要文化財 南泉寺楼門
            平成十五年三月二十五日指定

一 所有者 南泉寺
二 所在地 南会津郡田島町大字静川字西ノ沢口乙十四番地
三 構 造 間口四・一八m、奥行き三・三八m、重層、入母屋造り、茅葺き

 「大鐘成請清勘定帳」によると、寛永六年(一七九四)に建立とあり、小さいながらバランスのとれた美しい形の鐘桜門である。
 南山御蔵入領内全域より寄付を募って建築され、同時に梵鐘(直径約七五センチメートル)を鋳造し、二階に吊るした。この梵鐘は朝夕鳴り響き、人々に親しまれたが、太平洋戦争のため供出した。
 南泉寺の由来については、歴代位牌の裏書に嘉承二年(一一〇七)村民が聖徳太子を勧請したことに始まると記されているように、中世には聖徳太子を本尊として祀る太子守宗であった。
 中興一世道善が天文五年(一五三六)寺沢山より現在地に堂宇を移した。
 江戸時代はじめ、明暦元年(一六五五)太子守宗から浄土真宗に転宗した。本尊阿弥陀如来立像には、その翌年造立の記年銘がある。
 御蔵入三十三番霊場の十九番札所にもなっている。
御詠歌 西東 巡りて来たる南泉寺
        大悲の光 四季にたえなく

     田島町教育委員会
     福島県教育委員会
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写真;「南泉寺楼門」、2014.05/02
※ 楼門(ろうもん);門の一種で、二階建てで上部に屋根をもつもの
--Wikipedia「楼門」2014.05/02--



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2014.04/01(TUE)

紀念/日露開戦/戰死供養塔 南会津町田島・慈恩寺




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写真;過日、田島の慈恩寺に行ったが、山門を入ってすぐ左に"日露開戦/戦死供養塔"があった
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日露戦争

 明治37年(1904) 2月 8日開戦
 大日本帝国とロシア帝国との間に朝鮮半島と、ロシア主権下にあった満洲南部を主戦場として発生した戦争である
--Wikipedia「日露戦争」2014.04/01--
     *
 満洲軍総司令官・大山巌、第八師団陸軍中将・立見尚文(桑名藩士)、元老でありながら参謀総長であった山縣有朋ら、幕末維新の戦士が関わっている
※ 1842年生の大山巌の場合だと、戊辰戦争時に26歳、この日露戦争時には63歳であった。なお、第三軍司令官・乃木希典の場合だと、戊辰戦争時18歳、日露戦争時では55歳である



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2014.03/28(FRI)

官軍/戦死十九人墓 南会津町田島・慈恩寺




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平成26年(2014)
・03月28日
 やっと春めいて来たし、田島で蕎麦でも、と...
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官軍/戦死十九人墓
 明治元年八月から九月にかけて戦死した西軍(宇都宮藩、大田原藩、芸州藩、肥前藩)十九人の墓である
 本堂の真裏にある
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・ 墓碑の傍らにあった案内の碑をもとにし、「幕末維新全殉難者名鑑」から埋葬者を書し出してみた。残る五名については判別出来ず!

・宮沢治部介   久知 宇都宮藩 明治元年九月十五日会津田島で戦死/41歳/現地慈恩寺に首を埋め、のち宇都宮・観専寺に改葬
・宇野良定       大田原藩 良貞とも/軍医(輜重とも)/明治元年九月九日会津横川で戦死/48歳
・蒲沢健次郎   正則 大田原藩 銃卒/明治元年九月九日会津横川で戦死/39歳
・渡辺久次郎   正久 大田原藩 銃卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/22歳
・江連半之助      大田原藩 輜重方/明治元年九月九日会津横川で戦死/59歳
・山本他人輔   武成 広島藩  明治元年九月九日岩代栗生沢村で戦死/27歳
・林吉蔵        広島藩  中島玄庵家来/林姓か/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/26歳
・川本四郎七      広島藩  御小人/明治元年九月会津で戦死
・佳田甚吉       広島藩  御小人/明治元年九月九日会津?で陣没
・石井三蔵    親知 広島藩  戦士/明治元年九月九日会津田島で戦死/36歳
・沖粂六     正純 広島藩  戦士/明治元年九月九日会津田島で戦死/37歳
・小倉原恕左衛門 俊家 広島藩  応変隊/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/33歳
・菅野徳之助   正憲 広島藩  指揮役/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/28歳
・  清蔵       広島藩  菅野徳之助家来/明治元年九月十日岩代上三依村で戦死/22歳
--「幕末維新全殉難者名鑑」明田鉄男編--

(不明)
小笠原新太郎
姓名不分     4名

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南会津の戦い(2013.05/13)

慶応 4年(1868)
・ 7月
 越後(新潟)の長岡城が落城すると、伊南川流域(現只見町、南会津町南郷・伊南地域等)に新政府軍が進軍
・ 8月下旬
 日光口から進軍した新政府軍に田島・下郷が占領され、南山御蔵入地方ほぼ全域が新政府軍の占領下となる
明治元年
・ 9月 9日
 農民たちによる田島陣屋奪還戦を期に、若松城外に出撃した佐川官兵衛隊、高田方面で戦っていた河原田隊等が南山に戻り新政府軍と戦闘を継続する
 会津等旧幕府軍は地の利を生かして有利に戦い、田島・下郷から新政府軍を一掃した。伊南川方面でも河原田隊等旧幕府軍が戦闘を優位に進め、新政府軍を越後方面へ後退させた
・ 9月22日
 会津藩降伏
・ 9月25日頃
 会津藩降伏の知らせが届き兵を引揚げた



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2013.06/06(THU)

貝鳴山 かいなりやま
会津西街道/山王峠




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平成25年(2013)
・ 6月 6日

貝鳴山(かいなりやま)

 栃木と福島の県境、山王峠の北に位置する
 その昔、峠の見張り台として敵の侵入時には狼煙を上げたり法螺貝を鳴らしたと云う。それが山名の由来だとも..。印象的な山容である
 標高;1222メートル
 写真;会津西街道を田島から南下して、糸沢・山王峠への分岐辺りから
    2013.06/06
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※ 山王峠(さんのうとうげ)
以下、Wikipedia「山王峠」2013.06/06 から引用

福島県南会津郡南会津町と栃木県日光市の境界にある峠。国道121号および野岩鉄道会津鬼怒川線が経由している

・概要
江戸時代、陸奥国会津若松と下野国今市を結ぶ下野街道(会津西街道)が経由していた。後身の明治時代に三島通庸によって改修された会津三方道路も当峠を経由したほか、現在の国道121号も当峠を経由している。ただし、野岩鉄道会津鬼怒川線は山王トンネルで県境を越えるものの、山王峠付近は通らず、山王峠の西側を通過している。周辺は帝釈山脈と呼ばれる山脈となっており、本峠の交通路は山王川、男鹿川などによって発達した谷などに沿っている
     *
・旧道山王峠
前述の会津三方道路がもとになっている。この道路は福島県側の分岐点において国道の標識で"旧道"と案内されているが、現在は車両進入禁止、通行止めにされている
・現道山王峠
1980年(昭和55年)に国道121号の山王トンネル開通に合わせ、新たに開通した道路。前述の標識では、”山王バイパス”と案内されている。阿賀川(大川)上流の山王川を山王大橋で渡るほか、前述の山王トンネルなどを経由し、福島県と栃木県を結ぶ
     *
・歴史
  中世〜近世
前述のように、当時陸奥国会津若松と下野国今市を結んでいた下野街道(会津西街道)が当峠付近を経由していた。また、保科氏の時代などでは参勤交代でも経由をしていた。「新編会津風土記」では本峠付近を険路だと記している。この時期、峠周辺に人家が無かったため、山王茶屋と呼ばれる茶屋が建てられた。これは休憩所として設けられたもので峠の田島側に設置されている
  近代
明治時代に三島通庸によって改修された会津三方道路の野州街道が本峠を終点として整備された。開通式では三条実美などを乗せた人力車が通ったとされる。また、その後に三島が栃木県令として整備した塩原街道と接続した
  現代
前述のような経緯のため、会津三方道路の後身にあたる、福島県会津地方と栃木県を結ぶ国道121号も本峠付近を経由している。現在は山王トンネルなどの開通により、近代的な道路で峠付近を通過する
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2013.05/15(WED)

御平庭 おんひらにわ
南会津町田島、鴫山城




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鴫山城・大門(だいもん)跡(2013.05/14)
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以下、現地の案内板から

御平庭(おんひらにわ)
 □世「庭(ば)」は屋形の軒先の空間を指し、御庭とは領内からの目安、注進の取次を受ける所の意で城内の役所のあった所。
内城大手虎口が開かれ、北側に土塁、空堀を設け南斜面に腰曲輪(こしくるわ)が巡らされて政治、軍事上最も重要な曲輪(施設)であった。
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※ 空 堀(からぼり)

 内城(ないじょう)と外郭(がいかく)を分ける水を湛(たた)えない堀。
 東西の空堀は大門の虎口で南北に喰違いをみせ歪(ひずみ)をつくる。東壁塁より西に延びて横矢掛り(よこやかがり)を伴い、内城を囲込み南の山根(やまね)に至る。
 堀は深さ四m、幅十四m程で長柄槍(ながえやり)の戦闘を想定した構造となっている。
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※ 侍屋敷

 鴫山城(しぎやまじょう)北側惣構えの中に段丘状に設けられた屋敷。内城(本丸)の前面に広がる削平(さくへい)地群。別名「根小屋(ねこや)」とも言われる。根古屋は寝小屋とも書き、内城を直接防禦する家臣団屋敷であった。初期には在郷の給人侍が交替で城の守備についていたところから寝小屋と称したとも言われる。一部分の発掘調査によると、中央の谷間の削平、埋立てにより造成され、三層の遺構面がみられ、暫時拡大されたことがわかる。礎石、中世陶器、鉄製品等の遺物が発見され、侍屋敷跡であったことが確認された。
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2013.05/14(TUE)

鴫山城・大門(だいもん)跡
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以下、現地の案内板から

大門(だいもん)跡

大門は城の正面で追手門(おうてもん)とも云う。こゝが鴫山城の正面入口で二階建の楼門がそびえていたことが古い絵図に見られる。
大門前面の空濠(からぼり)を渡るのに、現在は築土されているが、木橋の時代もあったと考えられ、巨石を組み合わせた門の石垣が往時の堅固な大門をしのばせてくれる。
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2013.05/13(MON)

南会津の戦い




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会津藩降伏後の戦い(2012.12/13)
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慶応 4年(1868)
・ 7月
 越後(新潟)の長岡城が落城すると、伊南川流域(現只見町、南会津町南郷・伊南地域等)に新政府軍が進軍
・ 8月下旬
 日光口から進軍した新政府軍に田島・下郷が占領され、南山御蔵入地方ほぼ全域が新政府軍の占領下となる
明治元年
・ 9月 9日
 農民たちによる田島陣屋奪還戦を期に、若松城外に出撃した佐川官兵衛隊、高田方面で戦っていた河原田隊等が南山に戻り新政府軍と戦闘を継続する
 会津等旧幕府軍は地の利を生かして有利に戦い、田島・下郷から新政府軍を一掃した。伊南川方面でも河原田隊等旧幕府軍が戦闘を優位に進め、新政府軍を越後方面へ後退させた
・ 9月22日
 会津藩降伏
・ 9月25日頃
 会津藩降伏の知らせが届き兵を引揚げた
     *
※ 農兵隊(河原田精神隊)
 南山御蔵入地方は新たに会津領となったが、それまで幕府直轄地であったため会津藩士がおらず軍備体制がなかったため
慶応元年
・ 9月
 田島陣屋の新設と陣屋に配備する農兵の募集を行い、農兵隊が組織された
慶応4年(1868)
・ 3月
 会津藩士河原田治部を隊長として「河原田精神隊」と名付けられ、後の会津戦争で戦うことになる

※ 南山御蔵入領
 会津郡・大沼郡・下野国塩谷郡の一部(現在の南会津郡・大沼郡・河沼郡・会津若松市・栃木県日光市の一部)、約五万千二百石
 文久三年、会津藩主松平容保が京都守護職に就任すると、その役料として会津藩領に編入された

※ 佐川官兵衛
 会津戦争では城外に出撃後高田方面から南山へと転戦し、田島を拠点に戦う。会津藩降伏の知らせを伝えに来た藩士に「会津は道理に背くことはなにもしていない」と戦いを続けたが、その後藩主松平容保からの親書が届き、その意に従って戦いを止めたと云う

参考文献;奥会津博物館・平成25年度企画展
     南山御蔵入領の戊辰戦争・2013.04/27~06/30

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 鴫山城址に立ち寄った後、熊野神社にお参りをして来た

熊野神社
南会津町田島

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以下、現地の案内板から

熊野神社縁起

和歌山県の熊野三山を本宗として、祖先伝来の日信仰によって創立し平安時代には仏教色が加えられ、修験業者の神道が完成し、多くの修験者が全国各地に赴き、熊野信仰を布教し歩きました。
当社に伝承されている「宝物懸仏」(県重)に『宮本熊野本宮産社文安三・九月九日・星弾正』の銘があり、この人物は、1446年頃の長沼家家老4名の1人と思われます。
当社熊野神社の勧請ですが、一社の伝承として承暦元年1077年の古系図に『熊野産社之祭尊に伊□諾尊・伊□冉尊・大日霊女尊此の三神體木像而文武天王御作神亀二正月七日田島迠未入有志奉勧請祭成事』とあります。これら数々の宝器銘の推移から、長沼氏時代にも熊野信仰が実在していたと考えられます。
古文・伝承によると、町内新町・元町の熊野社を慶長8年に、現在の宮本に熊野三社として合祀されたとあります。領主長沼氏は、天正17年(1586年)伊達正宗に屈し、仙台に退転により、54年後の公式文書に寺社の事跡が認められます。この時期は、初代藩主が領地を巡検しており、これを記す「正保二年書上帳」(1645年)は大変貴重な資料であります。当社に権現信仰の歴史を物語る「熊野縁起御正体・懸佛・古鏡」等が現存しています。

   御祭神 伊邪那美命 イザナミノミコト
       速玉男命  ハヤタマオノミコト
       事解男命  コトワケオノミコト

   祭禮  七月二十二日
         二十三日
         二十四日
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2012.11/13(TUE)

不動堂(旧修験和光院) 南会津町田島古内




 今日の昼食は奥会津博物館に移築された「山王茶屋」で、盛り蕎麦&クジラ汁
 帰りがけ、道脇に不動堂があった(戊辰戦争との関係は無い)

山王茶屋と糸沢宿(2012.07/24)

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以下、現地の案内板から

不動堂(旧修験和光院)

 ここ、古内のお不動様の地は、かっては本山派修験和光院のあった所です。
 会津の本山派修験は、田島村の南岳院が若松城下に進出し、大先達を務めていました。そのもとで南山御蔵入領を支配したのが、川島村の小先達金地山南照寺で、その下に和光院や正学院(羽塩)がありました。
 和光院が何時ごろから存在したのかは、はっきりしませんが
おそくとも江戸時代中期明和(一七六〇代)の頃にはあったらしく、修験和光院の位牌が残っています。
 天明(一七八〇代)から寛政(一七九〇代)にかけて、馬場ヶ原の日光二荒山神社の別当(管理)権をめぐって、和光院と南照寺の間に訴訟事件がおきましたが、和光院の主張が認められたらしく、
文化六年(一八〇九)成立の新編会津風土記に「日光神社(境内東西十六間南北三十間免除地)和光院これを司る」と見えます。
 修験道は、明治五年(一八七二)修験道廃止令により、天台・真言どちらかの寺院に帰属させられました。
 修験なきあと、本尊の不動象・役行者像・護摩壇・仏具が残されており、現在は村人が管理しております。
     古今区・古今大師講

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※ 修験道
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という
(中略)
明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。また廃仏毀釈により関係する物などが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる
(後略)
--引用;Wikipedia「修験道」2012.11/14--



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