カテゴリ:>西那須野( 33 )

2017.04/10(MON)

那須疏水 三島農場事務所跡(那須野が原博物館)
那須塩原市三島 5-1




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那須疏水
 那須野が原の開拓を支えた那須疏水は、日本三大疏水(他に福島県の安積疏水・京都府の琵琶湖疏水)に数えられ、苦闘の歴史が秘められています。
 1885(明治18)年4月15日、地元の有志である印南丈作、矢板武らの努力により、烏ヶ森で那須疏水工事の起工式が行われ、5か月後の9月15日には西岩崎から千本松までの約16.3kmの本幹水路が完成し、ここ三島農場事務所前で通水式が挙行されました。
 手作業で行われた工事としては、驚異的な早さであり、そこには移住者たちの"水"への執念が感じられます。また、工事には多くの囚人たちが動員されたことも忘れてはなりません。
 翌年には第1から第4までの分水路約46.2kmが引き続き完成し、豊かな水を那須野が原にもたらしました。
 この水路は、当時の水路の3割の大きさで作られています。また、上下流の出入り口にある5角形の石積みは、当時蛇尾川を横断するときに用いたサイフォンの原理を応用した隧道(トンネル)で、五角形石積を原寸法の7割の大きさで復元したものです。
--現地の案内板から--
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那須野ヶ原の開拓(2012.11/27)



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2017.04/09(SUN)

三島農場事務所跡 那須野が原博物館
那須塩原市三島 5-1




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三島農場事務所跡
 三島農場は、1880(明治13)年に政府から992haの貸下を受け、三島通庸の息子弥太郎の名義で鹿児島県士族など14名を同士として創設した農場です。当初肇耕社と呼ばれていましたが、1886(明治19)年三島家単独経営の三島農場(当時は三島開墾地と呼ばれていました)となりました。
 三島農場事務所は三島農場の中心の場所として、ここに建てられ、敷地内には管理者住宅や農夫舎、倉庫、水車などがありました。また、事務所の南側約149haは、ごばんの目に区画され、三島通庸が地方都市の構想を持っていたことがうかがえます。
 この三島農場事務所跡は、北北東にやや移動し、表示されています。博物館前の池や裏の土手(土塁)・ヤウラ(防風林)は当時の面影を残しています。
※ 肇耕社;ちょうこうしゃ
■三島通庸(みしまみちつね)■
1835(天保6)年、鹿児島県に生まれ、1888(明治21)年54歳で歿す。1874(明治7)年より山形県令・栃木県令(現在の知事)となり、この間道路建設に手腕を発揮し、"土木県令"の異名をとりました。その後、内務省土木局長・警視総監を歴任しました。

--現地の案内板から--


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2017.04/09(SUN)

繪事ハ精神ノ為ス業ナリ 高橋由一
那須野が原博物館(三島農場事務所跡)、那須塩原市三島 5-1




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高橋由一像に就いて
 高橋由一は下野国旧佐野藩の出自、幕末独自の画材を開発して旧套の伝統超克を精神の常と為す。武人姿の自画像はその事始の象徴である。更に洋画塾「天絵社」創立。我国最初の美術雑誌「臥遊席珍」創刊など斬道啓蒙に奔命中の明治十三年、県令三島通庸は山県県栗子山塊の隧道八七〇メートル二年余を以て貫通という当時世界近代科学水準の偉業を挙けた。由一その豁然たる景観を見て一国文化革新の志に強く共感、爾来通庸の足跡一千キロに自らの主題を索めて多数の傑作を残した。
 日本油彩画史開祖としての高橋由一の全容は今次戦後公けの識るところとなった。が、茲にまた機縁あり。西那須野町は町開拓百年記念事業の一環として両先覚者の伝記画集一巻を著すに及び、美術界の協賛と愛好家有志多数の後援により当三島創業の起着点たる肇耕社跡地に母国初の高橋由一像を建立する。
  昭和五十七年四月十五日
     西那須野開拓百年
     高橋由一記念碑建立委員会

--現地の案内・・から--
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2017.02/01(WED)

千松神社 那須塩原市千本松(ホウライ株式会社)
千本松農場




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写真;2013.03/03

千松神社の由来
 千松神社は日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社より昭和二十八年四月十五日に蓬莱殖産株式会社(現ホウライ株式会社)の開運招福火伏(ひぶせ)の守護神としてご分霊を受けました
 笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。その御創建は、社伝によれば第三十六代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)二年(六五一年)とされ、一三五〇余年の歴史を有する由緒ある神社です
 元来、食物の神、農業の神様として崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまでご分霊をいただき、屋敷神、地域神としてお祀りされるようになりました
 千松神社も、笠間稲荷神社のご分霊を受け、ご祭神の持つ偉大なお力により千本松地域は守られております
     千松神社
--現地の案内板--
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笠間稲荷神社(2014.03/05)
那須野ヶ原の開拓(2012.12/23)



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2016.09/20(TUE)

宮乃松記念碑 那須塩原市一区町・那須開墾社第一(一本木)農場事務所跡





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写真;矢板武によって建てられた宮乃松記念碑・2016.09/20

史跡 親王台
   那須塩原市指定文化財/昭和三十九年一〇月一日指定
 明治一四年(一八八一)に明治天皇の東北・北海道巡幸に随行した有栖川宮熾仁親王、栃木県内を通行した際に天皇の名代として那須野ヶ原の開拓地を訪れました。訪れるにあたり、開墾地を良く見渡せるようにと、同年六月那須開墾社により、当時この地に構えていた事務所に隣接して塚が築かれました。塚の規模は、一辺約一五~一八メートルのほぼ正方形で、高さは東側が四メートル、西側が約ニ・五メートルです
 この台には、明治一八年(一八八五)にも那須疏水通水式に列席した北白川宮能久親王が訪れ、松をお手植えになりました(宮乃松)。なお、塚の上には、明治四〇年(一九〇七)に矢板武によって建てられた宮乃松の記念碑があります
--現地の案内板から--
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親王台・那須開墾社(2012.09/12)



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2016.09/13(TUE)

有栖川宮熾仁親王殿下の.. 西那須野・三区町635




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写真;2016.09/13

明治14年(1881)
・・・
 明治十四年(一八八一)八月六日、明治天皇の御名代として、有栖川宮熾仁親王殿下が神社に御参拝、那須開墾社の印南、矢板等の開拓の労を賞せられ、松を御手植えになられました。社殿の「烏森神社」の扁額は殿下のお書きになられたものです
・・・
--現地の案内板から--

烏森神社(2016.01/12)

有栖川宮熾仁親王殿下 東征大総督
慶応 4年(1868年)
・ 1月
 薩長の度重なる挑発に対し旧幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。西郷隆盛らに補佐され新政府軍は東海道を下って行くが、この道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていた
・ 3月 6日
 駿府城において東海道先鋒総督の橋本実梁や大総督府下参謀の西郷隆盛らを集めて、表向きには江戸城攻撃の日取りを3月15日と定める一方、同時に「秘事」として慶喜の謝罪方法や、江戸城の明け渡し・城内兵器の処分・幕臣の処断などの方法について方針を発表している
・   7日~12日
 江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮公現入道親王と会見し、公現入道親王に慶喜の恭順の意思を問うている
 幸い、熾仁親王の進軍した東海道ルートにおいて、新政府軍は一度も旧幕府勢力の武力抵抗に遭遇することなく江戸に到達
・ 4月11日
 江戸城は無血のうちに開城される。この日、慶喜は死一等を免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った。江戸到着後まもなく太政官制度が発足して三職は廃され、熾仁親王の総裁職は解かれた
--引用・要約;「有栖川宮熾仁親王」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.08/21(日)12;34--



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2016.01/22(FRI)

祖霊社(乃木神社) 西那須野・乃木神社




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写真;2016.01/22
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祖霊社由緒
乃木神社は大正五年の御創建になりましたが、神社設立に御盡力為されました初代手塚元氣宮司を始めて当時の一町四ヶ村の創立にご努力下されました方々 歴代物故神職並びに物故総代の皆さんの御霊を創立六十周年を記念して御奉祀致しました
     昭和四十九年四月十三日
     乃木神社
 形 式 準神明造り
 建 立 昭和四十八年十月
 施 工 有限会社万建設興業
 御遷座 昭和四十九年四月十二日
 例 祭 四月十三日
由緒板改装
   乃木希典命/乃木静子命 百年祭記念
   平成二十三年九月十三日
--現地の由緒板から--
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2016.01/22(FRI)

愛馬殿号愛育厩舎 西那須野・乃木神社/乃木希典那須野旧宅




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写真;殿号厩舎、2016.01/22
     しんがりごう
愛馬殿号愛育厩舎
 大正天皇が未だ東宮殿下の折御下賜になられた殿号は日露戦争後当厩にて愛育され将軍殉死後大正三年追慕するが如く斃れました
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乃木将軍と愛馬殿号の塚
この石像は昭和初期、愛知県岡崎で開催された石刻展に入選した作品で、学習院の院長であった乃木将軍にちなんで一度学習院に献納されました。時を経て平成二年、ゆかりの那須乃木神社に奉納されたものであります
殿号(しんがりごう)は大正天皇がまだ皇太子殿下の頃、乃木将軍に賜った白馬です。将軍は殿下より賜った名馬であるため、殿号と名付けて愛育されました
将軍ご夫妻は自然を愛され、禽獣草木にまで温情をもって接し、わけても馬に対する愛情は篤く、老齢になった殿号も那須野へ移し労られました
この愛馬も将軍の後を追うように、大正三年十二月二十七日に斃れましたので、ここに土葬し、生駒守護神として慰霊の誠を尽くしたのであります

 武士が乗る荒駒の勇みあひて
   那須の廣野も狭くぞおもほゆ 希典

 黒駒にしらあわはませますら雄が
   岩が根木の根ふみさくみゆく 希典


     乃木希典命/乃木静子命 百年祭記念
     平成二十三年九月十三日
--現地の案内板から--

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乃木希典那須野旧宅(2015.01/14)



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2016.01/12(TUE)

印南丈作の頌徳碑 西那須野・三区町635




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歴史資料 印南丈作の頌徳碑
     西那須野町指定文化財
     平成六年三月三十一日指定
 この記念碑は、那須野ヶ原開拓の恩人印南丈作の業績をたたえる頌徳碑で、業績や経歴が漢文で刻まれており、那須開墾社の関係者や有志によって立てられた。西那須野町にとって重要な人物の碑であり建立年が古く、撰文者(文章を作った人)、文字を書いた書家共に日本一流の人で、貴重な碑となっている。そのあらましは次の通りである
 ① 高さ  二.〇四メートル
 ② 幅   一.一八~一.四一メートル
 ③ 厚さ  一六~三八センチメートル
 ④ 建立年 碑には明治二十九年(一八九六)十月とあるが、「那須開墾誌」には明治三十一年(一八九八)十月に立てられたと記されてある
 ⑤ 撰文者 佐々木高行(侯爵、枢密顧問官)
 ⑥ 書家  金井之恭(貴族院議員、明治三書家の一人)
 印南丈作は、天保二年(一八三一)日光で生まれ、佐久山宿(大田原市)の印南家の養子となった。戸長(明治初期の町村の長)、県の勧業課付属、産馬協同会社々長などを歴任。明治十三年(一八八〇)同志と共に那須開墾社を設立、翌年社長となる。明治十八年(一八八五)矢板武と共に苦労して那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力。明治二十一年(一八八八)五十七歳で死去した
     平成八年(一九九六)三月
     那須塩原市教育委員会
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--現地の案内板から--

烏森神社(2016.01/12)
那須野ヶ原の開拓(2012.11/27)
那須野が原の華族農場(2014.05/03)



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2016.01/12(TUE)

烏森神社 西那須野・三区町635




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からすがもりじんじゃ
烏森神社
       鎮座地 西那須野町三区町六三五番地
一 御祭神  天照大神・豊受大神・倉稲魂神・印南丈作/矢板武大人命
一 創立年代 延喜二年(九〇二)創建
       明治二十一年(一八八八)四月五日 烏ヶ森稲荷神社遷宮
一 例祭日  一月一日    歳旦祭
       二月三日    節分祭・合格祈願祭
       四月十五日   春季例大祭・遷宮・開墾記念祭
       十月五日    秋季例大祭
       十一月十五日  七五三詣
       十二月三十一日 除夜祭
一 由緒沿革
 烏森神社の前身、烏ヶ森稲荷神社は、平安時代の延喜二年(九〇二)、上石上村(現、大田原市)の農人田守という人が、烏ヶ森の丘の上に祠を建て、豊受姫命を祀り五穀豊穣を祈ったことに始まると伝えられています
 創建以来、那須野ヶ原の鎮護の神として、このあたりを入会秣場(共同の草刈り場)として利用した周辺五十四ヶ村の信仰、殊に厚く、祠が守られてきたといわれます
 鎌倉時代初めの建久四年(一一九三)、将軍源頼朝の那須野巻狩の際、この丘を展望所として、総指揮を執ったと伝えられ、神社の名は関東一円に広まったといわれます
 江戸時代から明治の初めにかけては、上石上村の村社として守られてきました
 明治十二年(一八七九)十一月十四日、後に総理大臣になられる、伊藤博文と松方正義が、地元開墾発起人の印南丈作、矢板武等の熱意ある要請に応え、烏ヶ森丘上から那須野ヶ原を視察、開拓事業への協力を約し、その成功を祈願したといわれます
 明治十四年(一八八一)八月六日、明治天皇の御名代として、有栖川宮熾仁親王殿下が神社に御参拝、那須開墾社の印南、矢板等の開拓の労を賞せられ、松を御手植えになられました。社殿の「烏森神社」の扁額は殿下のお書きになられたものです
 明治十五年(一八八二)二月、那須開墾社は肇耕社(三島農場)の三島通庸にも呼びかけ、上石上村と共に浄財を募り、社殿建築に着手しました
 明治十八年(一八八五)四月十五日、開拓事業の成功を祈願し、那須疏水開削の起工式が神前で行われました
 明治二十一年(一八八八)、社殿竣工、四月五日、開拓者の氏神として、栃木県知事樺山資雄外、来賓多数参列のもと遷宮式(御神体を移す式)を盛大に執り行ない、烏ヶ森稲荷神社は、「烏森神社」となりました。同時に神社を中心に松と桜を奉納植樹し、公園化が図られました
 明治二十七年(一八九四)五月六日、松方正義、佐々木高行両伯爵、佐藤暢知事等の臨席を得て、開拓者等五百余名参列のもとに、那須開墾社の開墾成業式が神前で盛大に行なわれ、開拓事業の成功を神社に奉告しました
 以来、烏森神社は「開拓のおやしろ」として崇敬され、現在に至っております
     平成十一年(一九九九)九月吉日
     烏森神社社務所
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--現地の案内板から--

那須野ヶ原の開拓(2012.11/27)



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