カテゴリ:大山巌( 1 )

2012.07/11(WED)

大山 巌




・天保13年(1842)10月10日- 大正 5年(1916)12月10日
 日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。階級は元帥陸軍大将。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人

・平成24年(2012)
  7月11日
 大山巌那須別邸に行って来た。ここは栃木県立那須拓陽高校の農場の中にあり管理もしていて、事前に見学の許可が必要になる。月・水・金の午後1時からは内部の見学も可能だが、今日は学校の都合が悪くて外部からだけの見学になった
 さて、大山巌と家族はことの外那須を愛し度々訪れたと云う。別邸から北方に目をやれば高原から那須に連なる山並みが見える。かってあの山並みの向うは会津領であったのだが..
 妻の捨松さま、何を想ったであろうか

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以下、現地の案内板から

 大山別邸は、明治の元勲大山巌が建てた和風と洋風の二つの別邸です。和館は大山農場開設後間もなく農場事務所の敷地内に木造平屋建ての和風別荘(229㎡)として建てたといいます。大山の郷里鹿児島で見られる台風に強い造りになっています。その後、農場で焼いたレンガを利用して、素朴で重厚な造りの洋館(189㎡)も建てられました。現在この洋館は大山記念館洋館として栃木県の有形文化財に指定されています。また、別邸の北側には那須野が原の冬の強い季節風を避けるため当時築かれた土手が残っています。
 大山農場は1881年(明治14年)に、大山巌と西郷従道が共同で開設した加治屋開墾場を1901年(明治34年)に分割し、大山巌個人の農場として成立しました。当初の農場面積は約243haで、牧畜・林業などの直営と耕地小作を主とした経営を行っており、特に直営地耕作や牧畜経営は那須野が原の大農場の中でも特色ある事業となっていました。
 農場は開設以来、華族世襲財産法によって土地の売却がほとんど行われませんでしたが、戦後、農地改革や未墾地解放によって農地や山林の多くが解放され、事実上農場は解体しました。

大山巌;元帥・公爵。西郷隆盛のいとこ。1842年(天保13年)に鹿児島の加治屋町に生まれ、江戸の江川塾で砲術を学んだ。明治維新後フランスに留学して軍事学を学び、日本陸軍の建設にあたる。長年陸軍大臣を務め、参謀総長に就任、政府内でも大きな影響力があった。日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官として戦地に赴いたが、1916年(大正5年)75歳で没した。生前の意向により国葬後ここから北へ約700mのところにある大山元帥墓所に埋葬された。

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・天保13年(1842)
 10月10日
 鹿児島城下に薩摩藩士、大山彦八の次男として生まれた(幼名岩次郎)
 同藩の有馬新七らの影響を受け過激派に属した

・文久 2年(1862)
 寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる

・文久 3年(1863)
  7月 2日 - 4日
 薩英戦争
 鹿児島湾で勃発した薩英戦争では西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣江川英龍の塾にて砲術を学ぶ

・慶応 4年(1868)
 明治元年   - 明治 2年(1869)
 戊辰戦争

 戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争など各地を転戦。12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行い、これらの砲は「弥助砲」と称された
四斤山砲(2013.02/17)
 会津戦争では砲隊長として、小田山から会津若松城を砲撃した。城内にはのちに後妻となる大山捨松(山川、幼名はさき、のち咲子、会津藩の国家老・山川尚江の二男五女の末娘。安政7年会津若松生まれ)とその家族が籠城していた

・明治 2年(1869)
 渡欧して普仏戦争などを視察
・明治 3年(1870)~ 6年(1873)
 ジュネーヴに留学(いったん帰国し明治4年に再渡欧)
・明治10年(1877)
  2月 - 3月
 西南戦争

・明治16年(1883)
 11月 8日
 結婚
 大山巌は42歳で陸軍卿。捨松は24歳、父親がわりであった長兄の山川浩は陸軍大佐であった

 陸軍では西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任した

・明治27年(1894)
  7月- 明治28年(1895) 3月
 日清戦争
・明治37年(1904)
  2月- 明治38年(1905) 9月
 日露戦争

 明治前期には陸軍卿(初期の陸軍省の長)として以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤めた。また、参謀総長、内大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となった
 東京・穏田に邸宅を構えていたが、ほかに静岡県沼津市、栃木県那須(現那須塩原市西那須野)に別邸を所有、特に那須を愛し農場も持っていた

・大正 5年(1916)
 12月10日
 胃病から胆嚢炎を併発して療養中、内大臣在任のまま病没。75歳であった
 12月17日
 国葬。那須に葬られた

・大正 8年(1919)
  2月18日
 大山捨松、病没。58年の生涯であった
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大山元帥の墓所

大山元帥は大正五年十二月十日に亡くなられた後、東京で国葬が行われ十二月十八日にこの墓所に埋葬されました。元帥はこの地に大山農場を設立し、ここをこよなく愛されたといわれます。

墓碑には
議定官内大臣陸軍大将元帥
従一位大勲位功一級公爵
 大山巌之墓

     那須塩原市

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参考文献;Wikipedia 「大山巌」
     現地案内板
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