カテゴリ:幕府歩兵隊(伝習隊)( 1 )

2012.07/29(SUN)

幕府歩兵隊(伝習隊)




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伝習隊
 幕府が陸軍の精鋭部隊として編成した、フランス軍事顧問団の直接指導を受ける西洋式軍隊のことで、戊辰戦争では約1100名が旧幕府軍の主力として戦った。残りは長州藩傘下の帰正隊として新政府軍に参加して旧幕府軍と戦った
 兵士には、博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消など江戸の無頼の徒も徴募して編成し、シャノワーヌやブリュネなどのフランス軍顧問により直接フランス式の調練を受けた部隊である。指揮官には大鳥圭介らがあたり、隊は当時最新鋭の装備を誇った。号令は全てフランス語で行われていた
沿革
嘉永 6年(1853)
・ペリー艦隊来航
安政 3年(1856)
・幕府、講武所開設
 旗本、御家人の武術講習所であり古来武術(剣術・槍術等)の武芸と西洋流の砲術があったが、とても近代戦には応えられそうも無かった
安政 5年(1858)
・幕府、深川の越中島に銃隊調練場開設
文久 2年(1862)
・幕府は歩兵隊を創設
 人員は最初、旗本が差し出す「兵賦」をして銃隊を編成し屯所(兵営)に入れるというものであったが人が集まらない。後に幕府は江戸で直接傭兵を募集した
 ※ 「兵賦」の供給源は知行地の近郊農民だった
文久 3年(1863)
・「兵賦」による歩兵隊の編成はどうにか進み
 大手前・西丸下・三番町※・小川町
 と全部で4ヶ所の歩兵屯所が出来た。定員は6381名とされたが..
 ※ 三番町屯所跡地には明治の招魂社、今日の靖国神社が建てられた
元治元年(1864)
・ 7月
 「兵賦」によって編成された幕府歩兵隊、天狗党の乱に参戦する
慶応 2年(1866)
・ 5月
 「第二次長州征伐」が始まって将軍家茂自身の大阪進発の際、軍勢中に歩兵4個大隊半があり、うち2個大隊が現地の前線に出る
・12月
 ナポレオン三世により2個連隊分2000挺のシャスポー銃が幕府に贈与され、幕府伝習隊が装備した
シャスポー銃(2012.07/07)
慶応 3年(1867)
・ 1月13日
 幕府の要請に応じてシャノアン(シャノワーヌ)以下15人のフランス人教官が来日し、大鳥圭介らが調練の主導を取る。部隊の編成、教練の方法そして武器、いずれにおいても当時の最新だった
 当初4大隊であったが、小川町の1大隊を幕府第六連隊に編入したので、3大隊となった
・ 9月26日
 金納令と半知令
 直参旗本らに課した「兵賦差出し」は廃止し、幕府が直接歩兵を雇用することとなる。現有人員5000人を一旦解雇、再雇用は700人ほどであった
慶応 4年(1868)
・ 1月 3日
 鳥羽街道の中ほどで、入京のため北上する幕府軍と薩摩藩隊が戦闘(鳥羽伏見の戦)。この時、先頭にいたのが幕府歩兵隊であったが、薩摩藩隊の一斉射撃・砲撃に幕府軍は敗走する
・ 1月 6日
 将軍徳川慶喜、大阪城を脱出し江戸に向う
・ 4月11日
 江戸城無血開城
 歩兵隊は正規の部隊としては消滅するが、主力は江戸を脱走し新政府軍に抵抗。東日本を転戦して勇名を馳せることとなる
 幕府歩兵隊の多くは新政府に帰順したが、帰順しなかった幕府歩兵隊や新選組など1000から2000人が江戸を脱走、これを期に伝習第一、第二大隊の約1100人は大鳥圭介(この時旧幕府軍陸軍歩兵奉行、36歳)と行動を共にすべく脱走した
・ 5月 4日
 脱走した幕府歩兵隊などの約2000人は、下総市川の国府台に集結し、大鳥圭介を総督(隊長)、土方歳三を参謀として部隊を編成した。その後、北関東に向かい、途中の小山で新政府軍を撃破。さらに宇都宮へと進軍、宇都宮城を落とした
 別行動を取った草風隊、回天隊などの旗本子弟の部隊約700人も合流(後の伝習士官隊)し、北関東から北陸・会津で戦い、最後は北海道の五稜郭へと転戦する(歩兵隊指揮は大川正次郎)
 また、古屋佐久左衛門が率いた「衝鉾隊」も脱走した幕府歩兵隊で編成され、北陸戦線から会津、五稜郭へと転戦する
明治 2年(1869)
・ 5月18日
 榎本武揚を筆頭とする五稜郭の旧幕府軍の降伏に従い、幕府歩兵隊も降伏して解散した。こうして戊辰戦争は終わった
 一方、帰正隊として新政府に編入された残余の幕府歩兵隊は房総半島の鎮撫活動に活躍し、明治2年(1869)には箱館に向けて出陣、脱走幕府軍を攻撃しその後解散した
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--引用・要約;「幕府歩兵隊」野口武彦、Wikipedia「伝習隊」--



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