カテゴリ:日光市( 21 )

2015.12/29(TUE)

藝藩戦死墓 日光市下鉢石町




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写真;2015.12/27

藝藩戦死墓
 広島藩四名の合葬墓のようだ(日光・龍蔵寺には「藝州戦死八士墳墓」があり、この四名についても合わせて祀ったのだろうか...)
藝州戦死八士墳墓(龍蔵寺)(2015.02/11)

広島藩〈安芸・四十二万六千石・浅野氏・外様〉
 ・梶川五郎左衛門 明治元年八月二十六日下野横川村で戦死/二十六歳/日光観音寺に葬/東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・松浦熊雄    応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代火玉峠で戦死/二十五歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・渡辺他人丞   応変隊/戦士/明治元年九月二日岩代栃沢村で戦死/四十歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・田辺内蔵之進  応変隊/明治元年九月九日会津勝間美峠で傷、のち死/二十歳(二十四歳とも)/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2015.06/16(TUE)

東照宮御神体の動座
慶応 4年(1868)




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写真;日光東照宮・2009
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東照宮御神体の動座

慶応四年(1868)
・四月二十六日
 戊辰の戦火が迫り日光東照宮御神体の退避が決行された。御神体・御しるし(御爾)・御旗・御太刀を長持状の箱に奉納して四人で担ぎ、水浴をして潔斎した数人の社家・供僧、神人二〇人、総数三〇人ほどが供養し、それに凡そ一〇〇人の会津藩士が警護に付いた
一行は律院から外山の東を経て六方沢を越え、栗山郷日向村龍蔵寺に泊まった
・閏四月五日
 御神体は西川・五十里・横川から山王峠を越えると田島に出て会津西街道を本郷から若松城に入り、若松城三の丸東照宮に安置された
 供養者らは若松城に留まるが、白河口から進んだ新政府軍先鋒が若松城下に迫ると、急遽御神体を擁して米沢から立石寺に入る(9/14)。だが立石寺も安全とは云えず退避を余儀なくされ、仙台に入ると此処で輪王寺宮と合流した
明治元年(1868)
・九月二十二日
 会津藩が降伏し輪王寺宮は新政府軍に謝意を表し、仙台藩も降伏した
・十月
 藤堂藩(三重県)護衛のもと輪王寺宮は江戸に向け出発する。日光東照宮御神体は輪王寺宮の什仏神の一つとして行列に加えられ、白石・桑折・福島・須賀川を白河に着いた。白河には日光山から衆徒総代らが迎えに来ていた。間もなく下野に入り、江戸に向う輪王寺宮とは大田原で別れて日光に向った
・十月二十九日
 七ヶ月振りに日光に帰着した御神体はその日のうちに東照宮本殿に安置された
--引用、要約;「会津西街道の歴史を歩く」佐藤権司著・随想舎--
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2015.03/27(FRI)

白亜の駅舎「日光駅」 日光市相生町




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写真;2015.03/25
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白亜の駅舎「日光駅」

【JR日光駅】栃木県日光市相生町にあるJR日光線の駅。一八九〇年(明治23)の開業当時は簡素な木造平屋建てだったが、大正天皇の静養地となる日光田母沢御用邸が設置されて、皇室関係者が多く利用するようになったことや、外国人観光客が増加したことなどから、一九一二年(大正元)年に大改築。木造2階建ての洋風駅舎に生まれ変わった。貴賓室などが保存されており、二〇〇七年(平成19)に近代化産業遺産の認定を受けた
--引用(要約);東京新聞&テレビ東京・美の巨人たち「白き貴婦人日光駅…謎の設計士!?貴賓室公開」
2015.03/14--
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2015.03/26(THU)

東照宮神馬之墓 日光市石屋町周辺(龍蔵寺下寺十王堂)




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写真;2015.03/25
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東照宮神馬 唐橋号/大針号/王朝号/奉璉号 之墓
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2015.03/25(WED)

石造 閻魔座像・十三座像・地蔵・脱衣婆座像 日光市石屋町周辺




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写真;2015.03/25
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以下、現地の案内板から

日光市指定文化財
せきぞう   えんまざぞう      じゅうさんざぞう    じぞう    だつえばざぞう
石造 閻魔座像・十三座像・地蔵・脱衣婆座像

種別・・有形文化財(建造物)
員数・・一五基

 この十三像群は十王堂の本尊として安置されていた石像である。中央の閻魔王座像は高さ九〇センチあり、背面に年紀銘があり、寛文五年(一六六五)に本陣を務めていた入江喜兵衛が造立したことが記されている。閻魔王の左右には記録者の司命・司録が座り、左側に初江王・五官王・変羅王・平等王と脱衣婆が並ぶ。右側には広泰王・宗帝王・閻羅王・変成王・太山王と地蔵尊が並ぶ
 各尊像には尊名の他に銘文が刻まれているが判読不能である。地蔵菩薩坐像のみ寛文六年の年紀が読みとれる。閻魔王造立の一年後であり、脱衣婆像もこの年に造立されたのではと考えられる
 整然と並ぶこの石像群は、一名「日光小豆石」と称される稲荷川産の安山岩で造られている。隣に建つ供養塔とともに寛文二年(一六六二)の稲荷川大洪水犠牲者の供養のためであろう
     平成十八年三月三日指定
     日光市教育委員会
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龍蔵寺下寺十王堂
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2015.02/12(THU)

辨才天 日光市御幸町 396・龍蔵寺




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写真;2015.02/11
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弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ
ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である
--引用・要約;「弁才天」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.02/01(日)02:50--

藝州戦死八士墳墓(2015.02/11)



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2015.02/11(WED)

藝州戦死八士墳墓 日光市御幸町396、龍蔵寺
広島藩八名の合葬墓




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写真;2015.02/11

藝州戦死八士墳墓

広島藩〈安芸・四十二万六千石・浅野氏・外様〉
 ・梶川五郎左衛門 明治元年八月二十六日下野横川村で戦死/二十六歳/日光観音寺に葬、東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・友田織之丞   則房とも/応変隊/明治元年八月二十六日下野横川村で戦死/二十四歳/日光竜蔵寺に葬、東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・大村豊次郎   応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代栃沢村で戦死/十七歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・日高砂蔵    応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代火玉峠で戦死/二十七歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・松浦熊雄    応変隊/戦士/明治元年九月一日岩代火玉峠で戦死/二十五歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・渡辺他人丞   応変隊/戦士/明治元年九月二日岩代栃沢村で戦死/四十歳/日光観音寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・松田林蔵    応変隊/明治元年九月三日下野横川村で戦死/二十三歳/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
 ・田辺内蔵之進  応変隊/明治元年九月九日会津勝間美峠で傷、のち死/二十歳(二十四歳とも)/日光竜蔵寺と東京港区泉岳寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

五、横川戦争(凌霜隊戦記)(2014.11/27)
七、関山戦争(凌霜隊戦記)(2015.01/05)
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龍蔵寺
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2014.07/22(MON)

飛石八幡 日光市本町・釈迦堂隣り




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写真;2014.07/21

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以下、現地の案内板から

八幡神社
 天平神護(てんぴょうしんご)二年(七六六)日光を開いた勝道上人が、ここに草庵を結んでいたとき、天から丸石が飛んできて「八幡大自在である。国家守護のために来た」という夢を見たので「飛石八幡」として祀ったと伝えられる。寛永年間(一六二四~一六四三)徳川家光が幕府の修繕社とした。中本町と原町(現在は本町第三と安川町)の氏神で祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)である。正月三が日の後の日曜日に五社祭(磐裂、青龍、八幡、花石、久次良の各社)、十一月二十三日に例祭が行われる。
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2014.07/21(MON)

釈迦堂 日光市本町




以下、現地の案内板から 1

釈 迦 堂 (栃木県指定文化財)

 創立年代は不明。山内地内の仏岩谷の開山堂わきから、寛永十八年(一六四一)妙道院とともに現在の地に移された。
妙道院は明治初年に途絶えた。
 本尊は釈迦如来座像で、脇侍として文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)の両菩薩を安置し、天海大僧正の像も祀ってある。七月十三日に輪王寺により盂蘭盆会(うらぼんえ)の法要が営まれる。


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写真;2014.07/21
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以下、現地の案内板から 2

栃木県指定有形文化財(建造物) 釈 迦 堂
 この釈迦堂は妙道院の本堂で、以前は境内に数多くの建造物があった。元来妙道院は、天海大僧正が寛永5年(1628)に仏岩谷に創建し山内の菩提寺としたものを寛永17年(1640)に現在地に移建したものである。今でも現存するものは、表門を始め、八幡宮、稲荷社、御輿社、地蔵堂等が残っている。この釈迦堂の建立時期については、須弥壇(しゅみだん)上に貞享四歳新調した歴代将軍の立派な位牌があり、文政7年(1824)に修補と記されている。妙道院及び釈迦堂は貞享元年の大火にて一度焼失しているが、この位牌によると大火の4年後に復興したものと推察される。又須弥壇下から発見された棟札は最も古いものが正徳元年(1711)次いで元文3年(1740)、宝暦13年(1763)、安永8年(1779)で 相次いで修理され今日に至っていることが判明した。この建物の屋根は寄棟造りで、棟は極端に短く、鉄板葺きであるが、もとは柿(こけら)葺きであったと思われる。全体的に飾り気のない建物であるが、堂々たる容姿は江戸時代初期のおもかげを残し、正面の桟唐戸(さんからど)と三方に設けた舞良戸(まいらど)との調和、勾欄(こうらん)をつけない縁と向拝(こうはい)の虹梁(こうりょう)や彫刻に江戸時代初期より中期に至る特徴がよく表れている。
     栃木県教育委員会 日光市教育委員会
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殉死の墓(2014.07/21)



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2014.07/21(MON)

殉死の墓 日光市本町・釈迦堂の西




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殉死の墓
 釈迦堂の西、高さ三メートルを超える墓石が並んでいる。慶安四年(一六五一)四月二十日、徳川三代家光の死に殉死した五名の忠臣の墓(前列向って左から五基)と、徳川譜代家臣十九名の墓(日光市指定史跡)である。殉死者は、堀田正盛(佐倉城主、十三万石)、阿部重次(岩槻城主、九万九千石)、内田正信(御側出頭、一万五千石)、三枝守恵(御書院番頭、六千石)、奥山安重(小十人頭、二五〇石)の五名
また、徳川譜代家臣は、前列向って右から
 藤原高虎、板倉勝重、土井利勝、酒井忠利、酒井忠勝、永井直勝、永井尚政
後列向って右端から
 松平正綱、成瀬正成、竹腰正信、高木清秀、天野忠重、中山信吉、稲葉正成、板倉重昌、渡辺守綱、渡辺重綱、諏訪部定吉、安藤直次の十九名である
--引用;もうひとつの日光「史跡探勝路」--

〈殉死の墓及び徳川譜代家臣十九名の墓〉
後列
   安  諏  渡  渡  板  稲  中  天  高  竹  成  松
   藤  訪  辺  辺  倉  葉  山  野  木  腰  瀬  平
   直  部  重  守  重  正  信  忠  清  正  正  正
   次  定  綱  綱  昌  成  吉  重  秀  信  成  綱
      吉
前列
   ・  ・  ・  ・  ・
   奥  三  内  阿  掘  永  永  酒  酒  土  板  藤
   山  枝  田  部  田  井  井  井  井  井  倉  堂
   安  守  正  重  正  尚  直  忠  忠  利  勝  高
   重  恵  信  次  盛  政  勝  勝  利  勝  重  虎

※ 前列向って左から五基が殉死墓であるが、最左奥山安重の墓碑は比して極端に小振りであり形状も異なる

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以下、現地の案内板から

栃木県指定史跡 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓
        東側43メートル、西側38メートル、南側12メートル、北側16メートル
        所有者 輪王寺 昭和56年10月27日指定
 本史跡は、雄大な女峰山の東南麓、大谷川北岸に南面する栃木県指定有形文化財(建造物)釈迦堂の西側にあり、総数24基の墓碑がすべて釈迦堂本堂に東面して整然と立ち並んでいる。
 これらの墓碑は、江戸時代には、前・中・後の3列で、前列(5基)が徳川三代将軍家光の殉死者5名の墓碑、中列(12基)と後列(7基)が初代将軍家康・二代将軍秀忠の譜代家臣の墓碑であった。しかし、明治31年(1898)、田母沢川支流の根通川の水を田母沢御用邸に引く用水工事のため、後列の7基が前列右側に移され、現在の2列になった。
○ 殉死の墓(5基)
 慶安4年(1651)4月20日、徳川三代将軍家光の死に際して、殉死した側近5名の墓碑である。殉死したのは、堀田正盛(玄性院殿、老中・下総国佐倉城主)、阿部重次(芳松院殿、老中・武蔵国岩槻城主)、内田正信(理明院殿)、三枝守恵(静心院殿)、奥山安重(真證院)の5名である。墓碑は、前列中央から左端までの5基が、この順で並んでいる。
 殉死の理由はそれぞれにあったが、家光から特別な恩顧をうけており、いずれも番方の頭(親衛隊隊長)を勤めていたことも見逃せないところである。
 殉死は、一度に有能な家臣を失うことであり、後継者にとっては大きな痛手となることから、寛文3年(1663)四代将軍家綱の時代に、幕府は殉死を禁止し、江戸時代を通じて、この堀田らの殉死が最後になった。
 なお、平成9年9月の保存整備工事の際、殉死した5基の墓から、分葬された遺骨が発見された。
○ 譜代家臣の墓(19基)
 殉死の墓5基を除く19基は、初代将軍家康・二代将軍秀忠に仕えた重臣の墓碑である。これらの家臣の墓碑は、当初東照宮奥の院の傍にあったが、寛永13年(1636)、家康の21回神忌の際に、仏岩谷にあった慈眼大師天海大僧正創建の妙道院に移された。さらに4年後、妙道院とともに現在地に移転した。
     栃木県教育委員会・日光市教育委員会


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