カテゴリ:大田原市( 20 )

2016.03/28(MON)

大田原鉄之進墓 大田原市山の手 2-11-14・光真寺





c0185705_16501110.jpg


--------------------
大田原藩(下野・一万一千石・大田原市・外様)
・大田原鉄之進 晴雄とも/使番/家老格/明治元年五月二日大田原城下で戦死/三十七歳/大田原・光真寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

「下野の戊辰戦争(大嶽浩良著)」によると
慶応 4年(1868)五月二日
 下町附近を守備していた大田原鉄之進(家老格)は、迂回隊の進撃に対して城の防衛が急務と判断、引き返す途中に荒町附近で会幕軍に包囲され正法寺附近で戦死した・・と
--------------------
※2 墓碑は、光真寺墓地に入り右斜面の小山途中にある
阿久津又次郎墓(光真寺)(2016.03/14)
招忠魂碑(大田原神社)(2015.10/26)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.03/14(MON)

阿久津又次郎墓 大田原市山の手2丁目11-14・光真寺




c0185705_1023328.jpg

大田原藩(下野・一万一千石・大田原市・外様)
・阿久津又次郎 使番/明治元年九月二十七日下野片府田村で戦死/三十歳/大田原・光真寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

※1 阿久津又次郎の官修墓は5年前の東北大地震で倒壊したのか、そのまヽにあった
※2 当初、大田原鉄之進墓をupしたのだが、誤っていたのが分り削除した

光真寺
c0185705_12164412.jpg

--------------------
招忠魂碑(大田原神社)(2015.10/26)
大田原鉄之進墓(光真寺)(2016.03/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.03/10(THU)

早川先生(早川雄太郎)墓 大田原市元町二丁目・観音堂墓地




--------------------
c0185705_1713559.jpg

墓碑に
早川先生墓
とある

大田原藩(下野・一万一千石・大田原市・外様)
・早川雄太郎 永宣 戦士組頭/明治元年五月二日大田原で戦死/四十二歳/大田原・観音堂に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
「下野の戊辰戦争(大嶽浩良著)」には
慶応 4年(1868)五月二日
 坂下門の攻防では、戦士組頭早川永宣が二の丸侵入を阻止すべく土塁上で奮戦するも銃撃を浴びて戦死した・・と
--------------------
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
招忠魂碑(大田原神社)(2015.10/26)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.10/27(TUE)

北城(北郭)跡 大田原市




大田原城跡(2012.06/23)

c0185705_9592576.jpg

写真;城郭北の「北城(北郭)跡」2015.10/26
--------------------
以下、現地の案内表示から

北城(北郭)跡
北曲輪とも呼ばれ複数の郭(曲輪)により構成されている。城内唯一の庭園があったり、非常時に備えての軍事訓練を行った所である。ここより搦手門へ通じる
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.10/26(MON)

招忠魂碑 大田原市山の手2丁目2038・大田原神社、大田原護国神社




大田原神社2(2013.01/31)

c0185705_14571498.jpg

写真;2015.10/26
--------------------
碑裏面
戊辰之役大田原藩戦死人名
 五月二日 大田原戦死
  士
    大田原鉄之進丹治晴親
    早川雄太郎平永宣
    久島惣太郎藤原重義
    栗田左次右エ門藤原春道
  卒
    長岡傳四郎源義信
    森半兵衛源正忠
    長岡彦右エ門源武敏
 九月九日 田嶋村戦死
  士
    宇野良定藤原良定
    江連半之助藤原一政
  卒
    蒲沢健次郎藤原元治
    渡邉久次郎源正則
  夫卒
    江連重五郎
    津久井作蔵
    東泉四郎左エ門
    熊久保傳右エ門
    菊池孫右エ門
    住川酉之助
 同月廿七日 片府田村戦死
  士
    阿久津又次郎丹治忠順
--------------------
・大田原鉄之進  晴雄とも/使番/家老格/明治元年五月二日大田原城下で戦死/三十七歳/大田原・光真寺に墓/靖国
・早川雄太郎   戦士組頭/明治元年五月二日大田原で戦死/四十二歳/大田原・観音寺に墓/靖国
・久島総太郎   戦士/明治元年五月二日大田原で戦死/十七歳/大田原・観音堂に墓/靖国
・栗田左次右衛門 定吉/武延とも/明治元年五月二日大田原で戦死/四十二歳/大田原七軒町・地蔵堂に墓/靖国
・長岡伝四郎   秀久とも/銃隊卒/彦右衛門の子/明治元年五月二日大田原で戦死/五十二歳/塩原町宇都野若林に墓/靖国
・森半兵衛    銃隊卒/下野塩谷郡箒根村の人/明治元年五月二日大田原で戦死/四十六歳/塩原町宇都野に墓
・長岡彦右衛門  長久とも/銃隊卒/明治元年五月二日大田原城下で戦死/七十三歳(四十九歳とも)/塩原町宇都野若林に墓/靖国
・宇野良定    良貞とも/軍医(輜重方とも)/明治元年九月九日会津横川で戦死/四十八歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・江連半之助   輜重方/明治元年九月九日会津横川で戦死/五十九歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・蒲沢健次郎   銃卒/明治元年九月九日会津横川で戦死/三十九歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・渡辺久次郎   銃卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/二十二歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・江連重五郎   夫卒/明治元年九月九日会津本郷で戦死/三十三歳/塩原町宇都野中曲輪に墓/靖国
・津久井作蔵   夫卒/下野塩谷郡箒根の人/明治元年九月九日岩代田島で戦死/二十三歳/塩原町宇都野に墓/靖国
・東泉四郎左衛門 夫卒/下野塩谷郡箒根の人/明治元年九月九日岩代田島村(十日若松とも)で戦死/四十二歳/塩原町上横林に墓/靖国
・熊久保伝右衛門 夫卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/五十三歳/塩原町上横林に墓/靖国
・菊地孫右衛門  明治元年九月八日岩代田島(十八日若松南方とも)で戦死/二十一歳/塩原町上横林に墓/靖国
・住川酉之助   夫卒/明治元年九月十日会津田島で戦死/三十二歳/大田原・洞泉院に墓/靖国
・阿久津又次郎  使番/明治元年九月二十七日下野片府田村で戦死/三十歳/大田原・光真寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

官軍/戰死十九人墓(慈恩寺)(2014.03/28)
戦士墓(大田原藩)(2014.07/03)
--------------------
大田原城攻撃(再)
慶応四年(1868)
五月二日
 会幕軍、2度の敗戦で三斗小屋に撤退したが、再度大田原城を攻撃
 新たに
  会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)
  有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)
  飯野藩脱藩の森要三隊
の三部隊が加わり途中から二手に分れて進撃した
 このとき大田原城にいた西軍だが主力の薩摩・長州らが白河戦の応援に出払っていて、僅かな大田原藩兵が残るのみ。戦いは会幕軍が圧倒したのだが占領は出来なかった。この夜、会幕軍は石林村(現西那須野)を焼払い、関谷で泊。翌日塩原に入って休息した後田島へ向った

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
戊辰役戦死墓(森要蔵)(2014.07/08)

明治元年(1868)
九月九日
 農民たちによる田島陣屋奪還戦を期に、若松城外に出撃した佐川官兵衛隊、高田方面で戦っていた河原田隊等が南山に戻り新政府軍と戦闘を継続する
 会津等旧幕府軍は地の利を生かして有利に戦い、田島・下郷から新政府軍を一掃した。伊南川方面でも河原田隊等旧幕府軍が戦闘を優位に進め、新政府軍を越後方面へ後退させた
九月廿七日
戦死供養塔(宝寿院)(2013.12/19)
戦死塔(佐良土)(2013.12/21)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.12/12(FRI)

赤穂義士大高源五の墓 大田原市佐久山・実相院
佐久山大高家累代墓所




c0185705_11284845.jpg

写真;2014.12/12
--------------------
以下、現地の案内板から

赤穂義士大高源五の墓

大高家は常陸の国笠間(現在茨城県笠間市)藩主浅野公の家臣であった。浅野公が播州赤穂に転封される時、長男忠宗は家督を次男忠晴に譲り、江戸に出て医学を学び、のち藩医となり、佐久山藩主福原公に仕え、その子孫は代々佐久山藩士となった
 播州赤穂の大高家には長男源五、次男幸右衛門(長じて小野寺家の養子となる)の二児があったが当主は若死した
 大高源五は御膳番元方として浅野内匠頭の側近く仕えたが、「子葉」と号し有名な俳人であり、また茶道を能くする風流人でもあった
 母(ていりう)は京都の生れであった。主君浅野家の断絶後、子達と別れてよるべのない母は、親戚に当たる佐久山大高家を頼って身を寄せていた。大高源五が、江戸へ旅立つにあたり、老い行く母の身を案じ、死を覚悟して別れを告げる孝心切々たる母宛の手紙が、今も赤穂市花岳寺に残されている。ふたりの子息は赤穂義士討ち入りに加わり相果て、浅野家の菩提寺であった江戸高輪泉岳寺に葬られた。行年源五三十二歳、幸右衛門二十八歳であった
 その後、母はわが子の遺髪を実相院に分葬し、自分は出家して貞立尼となり、ひたすらわが子の菩提を弔う日々を過ごした。その母も心労のためか、翌年九月、佐久山大高家で没した。行年六十五歳であった
 大高家の墓所の古い墓石は、河原より採取したと思われる自然石に刻してあり、その上三百年の風雪にさらされて、碑文を判読することは困難であるが実相院の過去帳には大高親子が記載されており、位牌堂には大高家の位牌が安置されている
 佐久山では、むかし大高家の屋敷跡と伝えられる場所に、現在でも「大高屋敷」という地名が残されて居る。伝承されている「大高屋敷」の地名を、赤穂義士大高源五の母と子の物語りと共に末ながく保存したいものである
--------------------

c0185705_1933723.jpg

↑実相院、山門 2014,12/12
--------------------
以下、現地の案内板から

実相院 山 門 〈大田原市指定文化財〉
元禄年間(約三百年前)藩主福原資倍公夫人は播州山崎藩主本多肥後守忠英公の娘であった。夫人は養父供養のため山門を寄進した。山門屋根に福原、本多両家の家紋が刻されている。唐風建築を取り入れた四つ脚門であり、屋根は矢板市平野産の石を用いた石屋根である。幾度かの火災にも難を免れて、元禄時代の姿そのままを現在に伝える貴重な建物である
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.12/12(FRI)

福原氏墓所 大田原市佐久山・実相院




c0185705_11354497.jpg

写真;2014.12/12

佐久山城跡(2014.10/28)
--------------------
以下、現地の案内板から

     昭和47年 3月 1日指定
     大田原市佐久山2243
     所有者 実相院
大田原市指定史跡
ふくわらしぼしょ
福原氏墓所

 福原氏の始祖四郎久隆より資郡までは福原永興寺より改葬されたもので、資宣・資明・資克・資順は東京浅草曹源寺に葬られましたが、改葬されたものと思われます。福原氏歴代の墓所として、江戸時代領主層の霊屋の様式をそのまま残しています
 那須一族の福原氏は、那須太郎資隆(すけたか)の四男久隆が福原に分知され、上福原といわれた片府田に館を構え福原氏を称したことに始まるとされます。戦国時代に大田原資清の子、資孝が養子に入り、永禄6年(1563)佐久山氏を滅ぼし、天正18年(1590)資孝の子、資保は豊臣秀吉の命により片府田から佐久山四ツ谷(御古屋敷)に移りました。さらに元禄15年(1702)、福原資倍がかっての佐久山城に陣屋を移し、交代寄合として佐久山3500石の支配を行い、明治2年(1869)、資生に至り版籍を奉還しました
     大田原市教育委員会
--------------------
実相院
c0185705_16401941.jpg

写真;2014.12/12
--------------------
佐久山宿
佐久山宿(さくやまじゅく)は、奥州街道(奥州道中)の21番目の宿駅である。現在の栃木県大田原市佐久山

概要

 佐久山宿は、江戸時代、かつて佐久山城があった土地が奥州街道(奥州道中)喜連川宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国那須郡にあった。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、佐久山宿は家数121軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、人口473人であった。佐久山宿本陣は井上家や村上家が勤めた
 喜連川宿から奥州街道(奥州道中)を北に向かうとつるが坂を通り曽根田に至る。曽根田では江川を橋で渡っていた。この川の手前岸には、明治天皇が行幸した際に使用された休憩所の碑が立っている。対岸に着いた後、さらに北上すると福原道(ふくはらのみち)を分岐する追分を経て佐久山宿へと着く
 佐久山は下野国の名家のひとつである那須氏発祥の地である。那須資隆の子である那須泰隆がこの地に佐久山城を築城して住まい、はじめて佐久山氏を名乗った。永禄年間には福原資孝が佐久山城を攻めて落城させ、その後元禄年間は福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる
--引用・要約;「佐久山宿」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2013.12/16(月)06:55--



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.10/28(TUE)

佐久山城跡 大田原市佐久山4458
佐久山陣屋




芦野陣屋(2014.10/25)

交代寄合福原家三千五百石、佐久山陣屋(佐久山城)である
c0185705_1871784.jpg

写真;二ノ丸?西の土塁、2014.10/28
--------------------
以下、現地の案内板から

史跡 佐久山城跡
     昭和36年12月8日指定
     大田原市佐久山4458
     管理者 大田原市
文治3年(1187)那須太郎資隆の次男泰隆は、この地辺りに築城(通称御殿山)して、佐久山次郎泰隆と称して居住した。後、永禄6年(1563)子孫の佐久山右衛門義隆は、同族の福原安芸守資孝(大田原備前守資清の次子資隆)に滅ぼされ廃城となった。跡は東西約60メートル、南北50メートルで、その西側及び南側の一部に土塁が残っている
天正18年(1590)資孝の子雅楽頭資保は、片府田城より佐久山四つ谷に陣屋を移し、のち元禄15年(1702)福原刑部資倍、佐久山城に補修を加えて移り、以降福原氏累代が居住したが、明治2年(1869)福原内匠資生版籍を奉還した。城跡は現在御殿山公園と呼ばれ、公園として利用されている
--------------------

c0185705_17273911.jpg

↑二ノ丸?



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.07/24(THU)

野出政之進墓 大田原市新富町3丁目12-6
不退寺




c0185705_2243421.jpg

--------------------
慶応四年五月二日、大田原城攻撃の際に戦死した会津藩士の墓である
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

墓碑右側面に
 奥州會津若松藩
 野出蔵主墓

とある

--------------------
野出政之進造主
会津藩/土屋八左衛門伜/百石/歩兵指図役/明治元年五月二日下野大田原で戦死/二十六歳/大田原・不退寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------

c0185705_22441697.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2014.03/26(WED)

大田原氏墓所 大田原市・光真寺




c0185705_22454952.jpg

--------------------

大田原氏墓所
(大田原市指定重要文化財 昭和40年10月 1日指定)

 光真寺の開基(創設)大田原家13代資清公は光真寺開山時(天文14年・1545年)本堂の裏山に墓所を定め、以来28代勝清公まで代々埋葬しましたが、昭和に至り墓所の風化損壊が著しく、昭和15年に現在地に移設、平成10年に改修工事を行い現在に至っています。
 墓所は全て那須芦野石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の大石塔で大田原家の繁栄と豊かさを偲ばせ、市指定の重要文化財となっています。
※13代・14代はAに合葬供養、29代以後は⑪に埋葬。12代胤清(たねきよ)公は大田原市中田原に埋葬されています。
※配置図は省略した
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]