カテゴリ:>六方越( 2 )

2013.12/12(THU)

笹小屋 大佐牧場レストハウス附近
慶応四年(1868)閏四月二日




 軍を再編するために日光を撤退して田島に向うのだが、大鳥軍は途中での戦闘を避けようと過酷な「六方越」ルートを選んだ。夕刻遅くに日光を発ってその日は山中に泊して、翌二日空腹のまま笹小屋(現大笹牧場)に辿り着く、その様子を南柯紀行に次のように記している

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写真;現在の大笹牧場レストハウス附近、2011.11/01

慶応 4年(1868)
・閏 4月 2日
〈南柯紀行〉
… 之を越え三里も山上の平野を経て一軒茶屋に至れり、是れ旅人休息の為に設くる者にして笹小屋と名づく、家に入りて見れば諸士官諸兵卒雑沓し食物を主人に乞えども、寒郷の茅屋なれば飯は素より何にても食するものなし、或は味噌を嘗めて水を飲むあり、或は沢庵を喫むあり、或は梅干を貪るあり、又労れて炉辺に重りて困(混)眠せるあり、実に餓鬼道の有様なり、始めの程は右の品もありたれども予が着せし頃は夫れも已に尽きて一点の食物も見ず、漸く或人鶏卵を二個贈りしに由て飢渇を療したり、笹小屋より二里も山川に沿いて下れば日陰村と曰う、人家十四五軒もあり …
※ 何せ、凡そ二千?もの飢えた集団が一軒茶屋に殺到したのであるから..嗚呼
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六方越 (2012.06/13)



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2012.06/13(WED)

六方越 大鳥旧幕府軍




平成24年(2012)
・ 6月13日
 さほど忙しいってことも無いのだが出掛けるのが億劫になっている。加えて、今まで使ってきたパソコンの調子が悪く止む無く更新(dynabookR731・6月8日)したのだが、調整や引っ越し作業などにナンヤカヤ時間がかかって出掛けられないでいる
 この作業中に出て来た写真のことで..
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平成23年(2011)
・11月 1日
 快晴!五十里ダムから栗山(現日光市)に向う。トンネルを抜け川治ダム・日向を経て「青柳日光線」で霧降、日光まで
 写真は途中、栗山の村落が見渡せる場所から撮ったもの
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慶応 4年(1868)
・閏 4月 1日
 旧幕府軍(都督大鳥圭介)は軍を再編するため一旦日光を撤退し田島(現福島県南会津町田島)に向かう
・閏 4月 2日
 「六方越」を経て日向村で宿泊。大鳥が宿泊している名主宅に、会津藩士和田忠蔵と同磯上蔵之丞が訪ねてきて家老萱野権兵衛からの伝言を述べた。旧幕府軍の会津領退去要請であった。大鳥は要請を拒否
・閏 4月 3日
 大鳥、五十里宿で会津藩家老萱野権兵衛に面会し、宇都宮や日光での戦況を伝え承諾を得る。五十里宿と三依宿(現日光市三依)に分散して宿泊
・閏 4月 4日
 横川宿(現日光市横川)
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※ この六方越、次に「南柯紀行」大鳥圭介の記述を引用する

南柯紀行

慶応 4年(1868)
・閏 4月 1日

 閏四月
 朔日兵隊中議論二種あり、甲は今此に弾薬兵粮の儲もなく、持久せば不日困迫に至るゆえ一旦会津領内に入り一体の規律を調え薬粮を備え而して後再び帰り来るを良とすと、乙曰く今眼前に敵兵の来るを見て一戦も為さず会領に入るは武人の恥ずるところなり、弾薬は乏しと雖も決戦して神廟の前に死せば是れ元より願う所の墳墓の地なれば遺憾なしと云、両説共に理あり、乍去乙は真に愉快の見識なれども衆人の行いがたきところにして歩兵共にて殊更土崩瓦解を免れず、ゆえに予は甲説の方穏かにして全隊を取締るにも最も良しと思えり、因て本日早朝各隊の士官を集会し各別に異見も之れなき故に、今より先ず傷者を運出する手筈を為し今晩にも爰許出発可然と各隊に令を伝えたり、会津表より林正十郎、宰相殿より手書を持来り是迄の戦功を賞せられ、予には御紋附の羽織を贈られ兵隊へは酒肴料を贈られたり、且云不日会津よりも兵を出し勢を合すべき見込にして已に有志の輩は出立したる者あり、必ず此上尽力あるべしとなり、是に於て全軍士官感泣せり乍然前件既に決定したれば一旦は会領へ引揚げの事を林に告げ、其旨を速に宰相殿に還報し給えとて即日分れたり。
 今早朝土州の人数已に今市に入り来る由なれば、草風隊幷伝習一小隊を七里村に出して今市に備えしむ、午時頃今市の方に砲声聞ゆるの報告あり、間もなく今市より兵を出し七里村にて戦争起れりと注進あり、因て予思うに先の如く已に軍議決したれば可成丈戦争を為さざる方可然と考うれども、既に砲声聞ゆるに至ては夫々兵を備え置き其内に各隊支度なし今晩にも出発すべしと令を伝え、彼是周旋中砲声も止みければ斥候の者を遣わせしに格別の戦にも為らず相引きて戦止み味方怪我草風隊一人敵は三人打斃したりと云、其後各隊速に出発の用意を為し病者は小佐越通より送るべき令を伝う、先鋒は七ツ時頃日光を発す予が出でしは已に六時過にて燭を点せり。
 日光より会領五十里に至る両道あり、一は今市より小佐越に出て高原を経て五十里に行くなり、是れ即本道にて牛馬も通じ会津廻米の道なり、一は日光より直に山に入り山岳を越え日陰村に出て五十里に出ずるなり、是れ間道にて八里程の間人烟なく山道危険牛馬通り難く蜀道の険にも劣るまじと思う斗なり、之を六方越と曰う。
 日光に出て山路にかかりしところ、雨後にて泥深く初めの間は提灯ありたれども終には蠟燭尽き咫尺を弁ぜず、加之多衆の人員なれば前後粉擾陸続として歩を進むること能わず、一歩踏墜せば下は千仞の深谷なれば半丁にては行止り一丁行きては休み、大軍の山道を挙る辛苦喩うるにものなし、別に嚮導と曰うものもなければ只大凡方角を定めて跋渉し、深山窮(幽)谷を経て路程凡三里も行きたるに已に夜半の景色なりければ今一里も行きたれば休息せんと、疲れたる脚を引て進み程能き木陰に倚りて腰を掛け、其傍に落ちたる枯木を拾い集め火を点じ露に湿えるを乾かせしに、最早夜半過ぎにもなりければ何れも疲労し覚えず焚火の囲に団欒して、石を枕とし木の枝を折て蓐となし露臥し一睡を為せしに、風の来て樹を吹動す毎に露落ちて顔或は背を霑し屢々夢を覚したり、平日は少し仮寝して衾薄ければ忽ち感冒せしが不思議に風邪罹らず奇妙なるものなり、暁方眊(眼)覚めて四方を見るに千山万岳一碧中に一種の花あり、即都下にては躑躅と名づくるものと同物にて、其樹幹一尺五寸又は二尺余もありて高さ一丈五尺或は二三丈に至るもあり、枝繁茂して四方に垂れ桃色の花を着くるあり又白色の花を帯ぶるあり、就中其雪白なるもの白躑躅の花の大なるものに似て其嬋姸淡白なる姿万花中比喩すべきものなし、之を名けて野州花と呼ぶ、これ野州のみに生ずるを以てなり、実に四山の景況小桃源とも謂うべきなり因て一詩を賦す。

  深山日暮宿無家、枕石三軍臥白沙、暁鳥一声天正霽、千渓雪白野州花、
  重巒道険細於糸、暗夜挙来兵悉疲、澗底掬泉分緑草、樹陰燃火拾枯枝、
  滴襟零露寒驚夢、払袂山風冷透肌、林外馬嘶天欲曙、満渓朝霧日舛(昇)遅、

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参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎
     「南柯紀行」大鳥圭介
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