カテゴリ:西会津町( 7 )

2017.09/08(FRI)

若木(オサナギ)神社 会津美里町福永宿・藤巻神社




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オサナギ
若木神社
 山形県東根市に同じ名前の神社がある。東根市若木山の麓に位置し、天然痘の神様「疱瘡神」として地元の人達に親しまれている。名称は同じ(読みも)でも、その規模には相当な違いがあるのだけれど、福永の人達にとっての思いは同じだったのかも知れない
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福永宿(2017.09/07)



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2017.09/06(WED)

諏方神社 西会津町野沢・旧越後街道野沢宿




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写真;2017.09/05
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諏方神社
 社伝によると永仁二年(一二九四)に蘆名宗盛が信濃国から諏訪大明神を勧請した際、鎮座の御輿がここ地蔵原に宿営したのにちなみ延慶三年(一三一〇)菅原刑部左衛門頼国が祠を建てて祀ったのが諏方神社の始まりといいます。又、荒井信濃守頼任がこの地にあった六地蔵を取り除き、嘉元元年(一三〇三)諏訪の祠を建てる地を設け、延慶三年に諏訪社の宮殿を建てたとの話も伝わっていますが、両者とも真偽の程は不明。諏方神社はもとは地蔵原に祀られていました
 いつの頃か伝説によると、不動川と長谷川の合流点に徳一大師の弟子徳蔵和尚が庵を結んで住んでいて旅人のため橋を架け、人はこの橋を徳蔵橋と呼んでいました。徳蔵和尚はその後、地蔵原に寺を建立。その頃、この原一帯に無数の水子地蔵が点在していたため地蔵原と呼んだのでしょう。徳蔵和尚は寺の一角に地蔵堂を建て千体を越す地蔵をお堂に祀りました。永仁二年この地に諏方神社が造営され、近くの地蔵堂との間にもめ事が起こり、蘆名公は地蔵堂を壊すことを命じ、徳蔵寺は、西羽賀(現喜多方市高郷町)に地蔵堂と共に移りました
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--現地の案内板から--
     *
鉄火の裁き
 元和五年(一六一九)藩主蒲生家の時代、松尾村と縄澤村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました
 すなわち、両村から代表者が出て、鉄火(真っ赤に焼けた鉄の棒)をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。この勝負に負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄澤村の代表になる決意をした次郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門
 同年八月二十一日。双方礼服を着用して手に熊野牛王(ごおう)の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。次郎右衛門は三度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました
 清左衛門はその場で御成敗、その遺骸を頭部、胴部、脚部に三分割し、両境内に村の「山界」を示す三か所に埋め、境塚を築きました
 松尾では現在、村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--諏方神社参道入口にある案内板から--
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2017.09/06(WED)

野沢諏訪神社前一里塚 西会津町野沢・旧越後街道野沢宿




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 郭公や 道を外れたる一里塚  一歩
写真;2017.09/05
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西会津町指定重要文化財
史跡 野沢諏訪神社前一里塚
   指定年月日 昭和五十五年二月十八日
   所 有 者 伊藤幸家
 一里塚は主要な街道の両脇に一里(四キロメートル)ごとに設けられた塚のことである
 町内には五ヶ所に設けられたと言われるが、現在は、諏訪神社前の塚と白坂・宝川間の塚が形を残すのみである
 この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅したが、江戸時代の交通史を物語るものとして重要なものである
   西会津町教育委員会
--現地の案内板から--
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2017.09/06(WED)

山本定平墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05(合成)
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山本定平墓
・山本定平  会津藩に所属した野沢の人である
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常楽寺(2017.09/05)



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2017.09/06(WED)

薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05
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薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓
薩摩藩(薩摩・七十七万石・島津氏・外様)
・吉田与藤二  加世田郷士/万左衛門の子/外城第二隊/明治元年九月一日下野御蔵入村で戦死/二十五歳/新潟常磐岡に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常楽寺(2017.09/05)



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2017.09/05(TUE)

岡村半四郎/中田良平 之墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05
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岡村半四郎/中田良平 之墓
長岡藩(越後・七万四千石・牧野氏・譜代)
・岡村半四郎 中間杖突/明治元年行方不明
・中田良平  中間杖突/明治元年八月下旬会津領大山祗辺で戦死?
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常楽寺(2017.09/05)



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2017.09/05(TUE)

常楽寺 西会津町野沢字原町乙2253




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写真;2017.09/05
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 慶応四年(明治元年)/会津戊辰戦争戦死者之墓

  越後長岡藩士 岡村半四郎/中田良平 之墓
この両名は、八月二十八日野沢原町地内の大久保街道に於て西軍(官軍)と遭遇し、若水の地で斬られた。白鉢巻に紺がすり、白い袴の若い武士だったという。墓は同町、故斎藤兵一郎氏によって仮埋葬された後、当寺に改葬された。一基に両名の名前が刻んであるのは改葬の時二人の頭部と胴体が離れ且つ、どちらが岡村か中田なのか判明し難かったので一緒に埋葬したものと語られている
岡村半四郎/中田良平 之墓(2017.09/05)

  薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓
九月二日戦死、墓碑に「奥州大蔵入戦死」とあるが、これは「御蔵入」の誤りである。「復古記」(「西会津町史」第三巻、六七九ページ)によれば、御蔵入西方村(現・三島町)の戦いに於て「此日戦死一人、吉田與藤二」とある
薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓(2017.09/06)

  野沢 山本定平之墓
山本定平は、会津藩が臨時編成した農町兵隊員或は藩士附属の撰人として越後戦線に従軍し、七月二十九日太夫浜(新潟市)の戦いに於て戦死した
山本定平墓(2017.09/06)

 当寺にはこの墓碑の他に
  長州藩士 平田四郎源敏光   九月四日、片門(現・会津坂下町)に於て戦死
  同 藩士 山縣清之進藤原松之 九月十二日、小荒井(現・喜多方市)に於て戦死 の墓碑があったが、昭和五十六年に下関市東行庵へ改葬され、過去帳のみが残されている
  平成十年七月  曹洞宗 隆源山常楽寺/西会津町文化財調査委員会(文責 根本一)
--現地の案内板から--
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