カテゴリ:本多幸七郎( 1 )

2016.02/13(SAT)




本多幸七郎(ほんだこうしちろう)弘化 2年(1845) -明治38年(1905)
   幕末の旗本/名は忠直/禄高400石/幕府陸軍の士官として歩兵頭を務める/戊辰戦争では大鳥圭介の腹心として、伝習隊を率いて南関東から箱館まで転戦した/戊辰戦争後は駿府に行き、静岡藩が設立した沼津兵学校の教官を務める
経歴
幕臣時代
   旗本・本多八左衛門の孫。父が早世しており
・安政 6年(1859)
   祖父の家督を継ぎ、将軍の警護等を務める新番に就く
・文久元年(1861)
   東禅寺事件でイギリス公使館を守備し尊王攘夷派浪士と戦い、銀20枚を褒美として受け取る

↓写真;東禅寺 (東京都港区)、2016.05/13早朝 t.h
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・元治元年(1864)・慶応 2年(1866)
   将軍・徳川家茂を警護し上洛する
   歩兵指図役
・慶応 4年(1868)
   歩兵頭に昇進
戊辰戦争
関東の戦い・会津戦争・箱館戦争
・慶応 4年(1868)  4月11日
   江戸城引渡しの際、隊長を務めていた伝習隊第二大隊約500名を率いて墨田・報恩寺に脱走。大鳥圭介に従い、旧幕府脱走兵が集結していた国府台へ移動、土方歳三・立見鑑三郎らと合流する
   伝習隊第二大隊は大鳥軍の直率部隊として北上し、小山・宇都宮などで戦闘に参加する
・         4月22 -23日
   新政府軍による宇都宮城奪回戦で背中に銃創を負う。宇都宮での敗北後、日光を経て会津へと向かった。会津戦争では母成峠を守備する
・         8月21日
   母成峠の戦いに敗れた後、米沢を目指すが、恭順に転じていた米沢藩内に入れず、仙台で榎本艦隊に合流、蝦夷地に向かう
・明治元年(1868) 10月21日
   箱館北方の鷲ノ木(現森町)に上陸後、遊撃隊長・人見勝太郎とともに箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を届ける使者となる
・        10月22日
   峠下(現七飯町)で宿営中に新政府軍の夜襲を受けるが、後を追ってきた伝習隊などとともに新政府軍を破る
・        10月23日
   文月村(現北斗市)の松前藩陣地を攻略する
   旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、第二列士満(れじまん)隊長となる
・明治 2年(1869)  4月13 -14日
   木古内の戦いで伝習歩兵隊を率いて新政府軍を撃退する。その後、矢不来(現北斗市)の守備に就く
・         4月29日
   敗北
   箱館戦争終結後、弘前藩預かりとなり最勝院に収容される。釈放後、駿府に向かう
明治時代
   静岡藩により設立された沼津兵学校の体育教官となり
・明治 4年(1871)
   三等教授方となる。沼津兵学校が兵部省に移管されると、陸軍少尉に任官
・明治 5年(1872)
   沼津出張兵学寮が廃止されると失職する
・明治 7年(1874)
   再び陸軍中尉として任官し、外山学校教官、小銃試験委員などを務め、陸軍歩兵大尉に昇進した
・明治38年(1905)
   没。享年60歳
--引用・要約;「本多幸七郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.11/07(土)15;37--

栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)



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