カテゴリ:>凌霜隊戦記・塩原駐留( 6 )

2015.11/30(MON)

塩原温泉で「郡上おどり」 幕末の縁/岐阜と観光交流




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写真;凌霜隊が駐留した福渡戸和泉屋附近、2014.12/29
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 国重要無形文化財
塩原温泉で「郡上おどり」
幕末の縁/岐阜と観光交流
 幕末の戊辰戦争で、郡上藩(岐阜県郡上市)の凌霜隊が駐屯した縁で、岐阜県郡上市と那須塩原市の塩原温泉観光協会が文化、観光交流を深めることになった。第一弾として10日夜、郡上市の踊り手やく90人が、国の重要無形文化財に指定されている「郡上おどり」を、東日本大震災の犠牲者の慰霊も兼ねて披露する
     *
 隊士の宿になった同温泉の和泉屋旅館主で郷土史研究家田代芳寛さん(63)が昨年7月、郡上市に招かれて講演したことをきっかけに話が持ち上がった。講演会は、凌霜隊が降伏し、新政府軍側に付いた郡上藩に戻って謹慎が明けてから140年を記念して開かれた。塩原温泉観光協会の田代茂樹会長の親書を受けた郡上八幡観光協会が塩原温泉、会津若松・鶴ヶ城と凌霜隊の足跡をたどる旅を企画、市民を募り、2か所で郡上おどりを披露することになったという
 郡上おどりは江戸時代、藩内各地の盆踊りを城下に集め踊ったのが始まり。毎年7月から9月初めまで週末を中心に開かれている。特に8月の旧盆に昼夜を通して4日間踊り続ける徹夜踊りが有名だ
 10日は、日置敏明市長、吉村安房郡上八幡観光協会長ら約90人が訪れ、塩原温泉街にある塩原もの語り館前で午後7時半から、10種類ある郡上おどりの輪踊りのうちから「かわさき」「春駒」「松坂」など5、6種を、1時間半にわたって披露する。同協会は「元々、郡上踊りは先祖の慰霊のおどりだが、今回は東日本大震災で亡くなった人たちの供養もしたい」と話している
 郡上市は清流・長良川沿いにある人口約4万6000人の市。同市八幡町は城下町で、郡上おどりのほか郡上アユが有名だ。田代塩原温泉観光協会長は「両市と会津地方との広域観光交流につながるよう取り組んでいきたい」と夢を膨らませている
     *
郡上おどり「かわさき」の歌詞
 郡上のナ八幡 出て行く時は
     (アソンレンセ)
 雨も降らぬに 袖しぼる
     (袖しぼる ノー 袖しぼる)
 アソンレンセ
     (雨も降らぬに 袖しぼる)
 天のナお月様 ツン丸コテ丸て
 丸て角のて そいよかろ

 郡上のナ殿様 自慢のものは
 金のどひょうに 七奉行
     *
凌霜隊
 戊辰戦争時に新政府軍側に付いた郡上藩の江戸藩邸が、旧幕府軍が戦争で勝った場合を考え、1868年(慶応4年)、ひそかに藩士45人を脱藩させて組織し、旧幕府軍に付かせた。小山、宇都宮で新政府軍と戦った後、塩原温泉に入り、同年5月19日から3か月間、和泉屋旅館などに駐屯。その後、同隊は会津に向かい、鶴ヶ城で籠城していた会津藩と共に戦い、降伏した。生き残った35人の隊士は国元で1年半、謹慎した
--引用;2011年(平成23年) 9月 9日・読売新聞--
凌霜隊之碑(飯盛山)(2016.07/24)
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
   今市より塩原へ
   古町・門前逗留
   福渡戸逗留
   盆踊り
   塩原附近焼拂
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2012.08/25(SAT)

凌霜隊戦記




 平成24年(2012)
・ 8月25日
 今日も快晴、暑くなりそう
 さて、塩原を焼払った小山田隊、凌霜隊だが此の後横川、大内、関山で戦い九月に鶴ヶ城に入り籠城戦を迎えることとなる
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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※ 焼払いを免れた妙雲寺
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慶応 4年(1868)
・ 8月22、23日
 五、塩原附近焼拂

さて彼是する内、若松表諸国の戦争模様悪き趣注進があった。此地人数引揚げ塩原は残らず焼拂と一決して上塩原、中塩原、下塩原の名差等を思召して小山田氏並に黒河内左刀より都合により此地の人数引揚げに相成るに就ては残らず焼拂ひに致すから大切の道具は申すに及ばず一両日中に家財共取片付くる様申達する所があった黒河内は組頭であった。二十二日一番に数巻村(泉註、八月、今の須巻)(此所は湯瀧あり、あま湯よりは八町南でよきところである。余も参った)
あま湯村(此処は湯はないが、すかさはへの通行道で百姓家二軒許りあり)この二村を晝の二時頃焼拂ひ次に荒湯村を焼拂った。此処は古高原より上塩原への通行通路で温泉は沢山あり硫黄の臭気鼻をつく。湯本は温泉はくらくらと煮え立ち半道位手前からとても猛烈な臭ひヒツ、ヒゼンに大妙薬といふ事であった。此地へ一夜逗留すれば刀は錆び金銀杯もさび全く硫黄気の強いのには驚いた。土地人が当地で用ひる通用金も錆びてしまっている。
家数十四、五軒。第三番目には塩の湯を焼拂った。この温泉は塩分を若干含んでいる。友野番兵所あり。殊の外険阻な所である。八月下旬、友野氏は若松表へ引揚げ交代の爲め関宿脱藩二十一人結城脱藩十人程此処へ来て居た家数二軒あり四月位より九月頃迄には湯治客五六百人位止宿する大家、二十三日壱番に下塩原福渡を早朝焼払った。此処は家数拾五、六軒温泉入浴の客多く随って宿屋多く其内舛屋、和泉屋、磯屋、丸屋などは此村の大家で五十人、百人と湯治客のある由。和泉屋、丸屋は凌霜隊にて手伝ひ家を崩す事三日にて根太板より天井板まで取り除けたれば大悦びであった。此外の宿も銘々にて取崩し騒動実に目も当てられぬ。塩原中にても家数三、四百軒もあるが其騒ぎは何とも筆紙に尽しがたいものであった。唯想像にまかすのみ。此日は終日天暗く雨さへ交へ折柄黒煙天に沖しあはれ如何とも曰く事の出来ない惨憺たる状況である。
二番目は塩がまを焼払った。此処は名高い初代高尾(泉註二代なり)の出所で同人の塔が此村の左方畑の中にあった。ゑんぎも多く高尾出生の家もあったが今は零落して至極小さい小屋であった。家数十軒位、三番目は畑下。戸数拾四、五軒程で此処にも温泉が五ケ所程あった。四番目は門前を焼いた。塩がまより門前迄は福渡戸より古町への通行道である。
妙雲寺と申す寺がある。高尾の寶物が色々保存されて居る。家数約十軒程である。それから中塩原、上塩原と追々と焼払ひ此日上三依、熊之堂と申す処まで引揚げ止宿。塩原より此処までの途中は山坂多く其上尾頭峠とて登り下り一里半位は家は更になく古高原に似た所である。昼間は一時天気も良く左程でもなかったが夕方から雨天となって盛んに雨降り出し遂に此峠にて日はトップリ暮れてしまった。松明はなし闇夜にて一同は大難儀だった。山脇金太郎、中瀬鐘太郎と山田惣太郎の三人は少し早く峠へかかり下りの節は駈歩にてようよう日暮れに宿へ着いた。然し其の後の者等は大変気の毒であった。
右の塩原道と云ふ所は誠に山中にて大田原の道も狭い山坂である。敵は何の爲に此所を屯所とすべきや其意を知る由もない。斯の如き地を焼払ふのは餘りに臆病な仕打と思ふ。諸民の難渋実に曰はん方なき有様。小山田氏、黒河内氏等の失策と思はれる。それも御領分ならまだしも斯く難渋を知りながら他領にて諸氏が恨みを買ふ必要はないと思はれる。其上小山田氏は此三月より出張して格別の御情もある筈だのに之を焼払ふが如きは誠に無惨の仕打である。
凌霜隊は五月より八月迄逗留して色々と世話になりながら斯かる成行になりて一同は気の毒に思われてならなかった。(後略)
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註記(心苦雑記の記述)

右塩原郷と申す処は、誠に山中にて大田原之道も狭路山坂ニテ、敵此処を何の為に屯所とすべきや如何之地を焼払ふハ余り臆したる事也。且つ諸民の難渋いわんかたなし。小山田氏、黒河内の失策ならんと、御領分ならばまだしも、夫とても難渋す。まして他領にて諸民の恨み如何ばかりならん。
(中略)
凌霜隊ニモ五月ヨリ八月迄逗留して世話ニ成り、かよふの次第に成行、一統気之毒に思ふ。

--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/24(FRI)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月24日
 凌霜隊が塩原に入って2ケ月が過ぎた。此処では戦闘も無く、温泉には日に4、5度も入り、盆踊りを見たり各所を巡ったりとかの毎日であったようだ
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

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慶応 4年(1868)
・ 7月16日
 盆踊り

七月十六日此地の盆踊を見た。太鼓、笛にて囃も面白く古町福渡戸の女人やおとななど集まって踊り乱れるのである。古町より一里半程の中塩原といふ所に八幡社がある。此処の神木に杉の大木があった。大人八抱へもあって差渡し八尺餘、此杉は逆さ杉と云はれて昔八幡太郎義家が奥州征伐の時、此処にて兵糧をつかい其の箸を逆さに差したのが根付きして今になった・・と神職が物語った。大小二本あり。又此八幡神社の脇に一夜竹とて奇竹があった。土人は此の竹の子を見た者が一人もないと云ふ。一夜の内にて竹になるよし。其形真左に生えて其の内外には生える事はない。竹は、やしば竹で実に妙であった。此八幡社の右の方半里程先の川端に木の葉の形の付いた石が出る。
此石は柔かで土でも石でもない。此の社より十町手前に源三位穴と云う所がある。此の穴は岩屋で入口は八、九尺餘あり下りて見ると左方に又々這入る位の横穴がある。此穴は昔、頼政の弟敗軍の其時此穴へ入って隠れたとの事、此の穴へ入るには往復ローソク二本位入用と土地の人にきいた。此時連中八、九人燈火の用意がないので遂に入る事を止めた。福渡戸より二丁程の不動澤に小川がある。その端に奇石あって頗る堅く金槌を以て打こはして見ると貝の形があった。此辺は海が全然なく大変不審に思った。

--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/21(TUE)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月21日
 藤原から塩原に入った凌霜隊だが、ここでは戦闘も無くて専ら待機する毎日だったようだ。が、それでも入浴が日に4、5度。多い日は7、8度
 って..
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月19日~ 8月22日
 福渡戸逗留

五月十九日同郷の福渡戸と云う処へ行くよう、小山田氏より達しがあった。一同早暁出立、午前中に福渡戸へ。前列は和泉屋太兵衛方へ。後列は丸屋吉郎兵衛方。八月二十二日迄逗留。此辺一帯は山近く突出て左右共二丁とひらけた所はない、此地は戦争を外に只番兵のみ堅め人数は小山田隊八拾人。友野隊五拾人それきり友野隊は御旗本で歩兵隊差図役頭であった。やなた(梁田)戦争後此地に来て塩の内(湯)という処の番兵をしたのであった。古町よりは一里程で塩の内(湯)も温泉場で宿屋は二軒あった。凌霜隊三拾人小山田隊、凌霜隊は番兵□すかさは(須賀澤)、大あみ(網)、ふとうさは(不動澤)三ケ所へ七人づつ詰めた、須賀澤は古町より二里半、福渡戸より二里、途中は山坂計りで難所が多かった。大網は古町より五十三町福渡より廿六町途中は山坂多く狭路である。
福渡戸は古町より廿八町途中はやはり狭路。此口は宇都宮より大田原迄の番兵であった。大網は閏四月中、大田原へ第三歩兵草風隊押寄せし時焼討して勝った(閏四月十六日忍藩二十四人偵察、関谷へ来る)。此地まで引揚げた時関谷と云ふ所、大田原より五里で休んだ(閏四月十六日初戦の後、長州隊原田良人に率いられた一小隊関谷に追撃)。此時敵は真近に攻よせ味方敗北、此処を焼拂ひて大網まで引揚げた。敵は未だ追かけ追かけ大網に於ても激戦があった(閏四月二十三日会津草風隊沖長三郎関谷にて戦傷後、死亡。妙雲寺に葬る)。
其後塩原では戦なく、只白川越後の戦争の風説浮言多かったが果して如何であったかは詳しく判明しなかった。福渡戸の川端に温泉が五ケ所あった。此の湯の中、裸湯にはハラミ石とて湯の中に大きな石があった。子のない女が入湯の時、此石に抱きつけば必ず子が出来ると云ふ奇石である。其外此石は病にも霊験あらたかとの張札があった。逗留中一日に四、五度又は七、八度と入浴した。平時は湯治人澤山で殊に四月頃から九月頃迄は賑はしくとの事。当年はとかく雨年勝にて河水の満つる事五、六度。此川は箒川とて水源は尾頭より来て大田原へ流れる。別段大河でもないが夏はホタル澤山出てうなぎ、あゆ、やまべ、かじか等の魚がいて仲々よい河である。此処では劔術の稽古や又は手前稽古等毎日色々のことをして暮した。此地は平穏の所故又面白き事、不思議なことも澤山あった。

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--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/20(MON)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月20日
 昨日の続き
 古町、門前辺りの写真を撮ってからUPしようと思っていたのだが、暑いし何かとあって撮れず。以前に撮った写真を使用した
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月11日~ 5月19日
 古町・門前逗留

薪の價の高いのも山中での珍らしいことと一驚を喫した。追々降って「あらゆ(新湯)」へ着いたのは四時頃此処にて人馬継立して日暮に漸く塩原古町へ到着小山田氏の指揮で直ちに門前に着。(此間古町から二丁である)前列は山口屋、後列は福田屋に分宿。古町及び此辺には温泉が澤山ある、温い湯に浸って九日間は夢の間に経過。

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--参考文献;塩原町誌--

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2012.08/19(SUN)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月19日
 快晴。今日も暑くなる
 午後、「ハンターMt.ゆりパーク」(那須塩原市)に行く。高原山塊のほゞ中央に鶏頂山・釈迦ガ岳があり、その東にある明神ガ岳の北斜面がスキー場であって、夏季はゆりパークとなる。約1キロ、10分間、フラワーリフトに乗って眼下の500万輪と云うユリを楽しんできた
 さて、藤原から塩原に至る道だが藤原にいた凌霜隊がたどった道である、とは云っても現在の車道とは異なるものであっただろうが..
 凌霜隊戦記の一部を次に引用するが、これは写しをとった泉漾太郎氏が単に原本のままを写したという事では無く、読み易く・解り易くする為に現代の言い回しに沿って訳したものである(と思う)

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※ 郡上藩( 48000石)と「凌霜隊」
 最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は二つに分かれて混乱した。凌霜隊は朝比奈茂吉を隊長とする脱藩藩士四十数名を以て組織されたとされる
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

慶応 4年(1868)
・ 5月11日
 四、今市より塩原へ

野州塩原口、此所は戸田大和守の領分で千石の地である。凌霜隊は会津、小山田伝四郎へ当分附属して草風隊と交代して彼地へ出向く様、今市口の会津軍事総督の山川大蔵殿よりお達しがあった五月十一日早天であった。凌霜隊は藤原口を出立したのである。
高徳、藤原、大原、高原、此辺は総て戸田大和守領分である。高原宿にて晝支度し此所で人馬を継立てて古高原の峠にかかった。六年以前迄は此峠を越して会津へ通行したものだ。此峠は高山で諸人が頗る難渋する故、藤原と高原との間の山に新道を作り高原峠と云っていたのである。此峠は古高原峠の半分よりも少し低い位の峠で、之を通る人は大変便利であった。古高原峠は塩原入口の「あらゆ(新湯)」と云う所より三里というけれども、五里も有るらしく此間に家一つない淋しい通りである。道は相当嶮岨で其上狭路馬駕籠の通行が漸くで実に大不便な難儀な場所であった。六年以前、新高原へ引移りし古家十軒ばかり立ち腐りの形あるばかり外に人家とては更になかった。従って此の厄介な峠にかかっては食物は申すまでもなく水も凡て用意をしなければならぬ、此宿外れに鶏頂山とて此処より又一里半登る高山がある、此の山には不思議な禁制があるのだ、当山へは鳥の形鶏の附きし物を以って断じて登れないと、此の宿は雨天には雲が家の中を縦横に通過すると云ふ物凄い許りの処、斬様な宿によくも住みよしと思う許り宿の前後は大いなる原が沢山に横たはっていて田畑の跡も見えた。此の辺よく富士山を見る事が出来るが、我等の通行の時は曇って見へなかった。今市も見えた。生憎此の日は朝から雲多くて一間先の見へぬことは度々あった。実に難儀の上の難儀であった。斯様な処は日本にも少いであろうと思った。晴天ならば此鶏頂山から品川沖を遥かに眺めることが出来るとの事だ。


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参考文献;塩原町誌/Wikipedia「郡上藩」
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