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2016.09/22(THU)

宇都宮藩士之墓 ひたちなか市田彦字林山(田彦中卵塔共同墓地)




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 墓碑向って左;「宇都宮藩士九人之墓」
  〃   右;「宇都宮藩役夫両人之墓」※ニ人
写真;2016.09/22

宇都宮藩士之墓
 明治維新前夜、水戸藩のいわゆる天狗諸生の争乱時において、天狗党鎮圧の為幕府は関東諸藩に追討を命じたその時の事である。
 元治元年九月、幕府軍の宇都宮藩の一隊が田彦に宿陣、額田に戦う天狗党の一隊は田彦に迫り宇都宮藩兵と激戦を展開。為に火の海と化した田彦宿は忽ちにして焼野原となったこの戦いに宇都宮藩九名、役夫二人が戦死してこの地に眠る。
 藩士 城所此面武貞
    和田荘五正恭
    小松鉞彌尚利
    松岡輪之丞高尚
    城所藤助武貞
    澤井又吉郎義英
    岩田鉞蔵政春
    松坂登記次光行
    久保次左衛門長政
 役夫   多蔵
      文五郎
平成元年春吉日 田彦 平野為・・ / 撰文書古市・・
--現地の案内碑から--
     *
元治甲子の乱(1864)の時、天狗党を鎮圧するために出兵した宇都宮藩戸田越前守の一隊が、9月6日、田彦村に陣を張りました。9日早朝、額田合戦の余勢を駆って田彦宿におもむいた天狗党と交戦となり、田彦宿はたちまち放火に包まれ灰燼に帰しました。宇都宮藩勢は惨敗し、藩士9人、役夫2人が犠牲となりました。田彦中卵塔共同墓地には、翌年の慶応元年(1865)秋に遺族が一周忌に際して建てた2基の墓碑があります。
所在地:ひたちなか市田彦字林山(田彦中卵塔共同墓地)
--ひたちなか市hp「文化財紹介」から--
     *
天狗党討伐幕府軍・宇都宮藩戦死者
 栗原隣六    元治元年九月八日常陸田彦村で戦死
 小崎鉞弥    小山とも/元治元年九月八日常陸田彦村で戦死
 岩田鉞蔵    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 沢井又吉郎   元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 城所此面    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 城所藤助    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 田村新之助   元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
   嘉吉    元治元年十月十日常陸那珂湊で戦死
 前田雅八郎   元治元年十月十日常陸那珂湊で戦死
 久保治右衛門  元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
 福井 栄    隊長/元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
   兵吉    福井栄の従者/元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
 辻 半蔵    甲長/元治元年十月十八日常陸部田野で戦死
 松坂登記治   元治元年十月常陸で戦死
 石原鎮衛    元治元年十月常陸で戦死
 相良勝之助   元治元年秋常陸で戦死
 藤沢伴右衛門  元治元年秋常陸で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2016.09/22(THU)

福島藩士の墓 ひたちなか市中根字堂山(堂山共同墓地)




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写真;2016.09/21

福島藩士の墓 ひたちなか市指定史跡/昭和五十六年四月一日指定
 福島藩士の墓は、元治甲子の乱の際、幕府軍の援軍として参加した奥州福島藩、三万石板倉内膳正の家臣の墓である。碑には、十月十日奥州福島板倉臣戦死連名と刻まれており、元治元年(一八六一)十月十日に戦死したことが明らかである。元治甲子の乱は、幕末水戸藩を二分する戦であるが、その中でも部田野の戦いは、激戦地の一つであった。中根城跡には、二本松藩士や、福島藩士が駐屯していたため、はじめ戦死者の遺骸を中根城跡近くに埋葬したが、のちに現在の堂山共同墓地に改葬したものである。
  平成六年十月 ひたちなか市 教育委員会
                西野茂男/打越丈夫/西野昭
--現地、「福島藩士の墓」碑から--
※ "元治元年"は(一八六四)が相当
     *
元治甲子の乱(1864)の抗争が拡大していく中で、幕府は関東周辺の諸藩に天狗党追討の命を下し、幕命を受けた福島藩は遠征をし、元治元年10月9日・10日の熾烈を極めた部田野原の合戦で16名の戦死者を出しました。この戦死者は中根の堂山共同墓地に埋葬されており、墓碑には福島藩板倉家の臣、武士12名と中間4名の名前が刻まれています。なお、館山の浄光寺にも福島藩士の墓があります。
所在地:ひたちなか市中根字堂山1439(堂山共同墓地)
--ひたちなか市hp「文化財紹介」から--
     *
天狗党討伐幕府軍・福島藩戦死者
 秋藤与惣左衛門 元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 浅井政之助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 大久江金助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 太田保太郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤金次郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤東三郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤兵五郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 菅野藤四郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小石良八    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小菅庄兵衛   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小林范平    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤文平    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 斎藤平冶    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 斎藤元右衛門  元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤元蔵    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤弥助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 城島一郎    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 白取定吉    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   甚助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 鈴木安之助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 鈴木茂吉    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   為助    夫卒/元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 丹治三十郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   留吉    卒/元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 内藤七三郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 内藤豊次郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 長尾要助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 名倉庄一郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 原田浅治    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 本多小七    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 宮田弥一郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   林七    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   市兵衛   元治元年常陸で戦死
 岩上主鈴    元治元年常陸で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
 ↓元治元年十月十日の戦いによって戦死した天狗党勢の墓を次にリンクした
首塚(忠勇戦死之墓)(2015.10/22)

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2015.10/22(THU)

日和山秋月 ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)




夤賓閣(いひんかく)(2015.10/21)

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      ひよりやまのあきのつき
湊八景史跡「日和山秋月」
 昭和五十八年一月設置



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2015.10/22(THU)

首塚(忠勇戦死之墓) ひたちなか市鶴代2341-1




3 大発勢潰滅(2012.11/08)

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写真;2015.10/21
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以下、現地の案内板から

首塚(忠勇戦死之墓)
那珂湊市指定史跡
昭和四十六年十二月二十一日指定 那珂湊市鶴代二三四一ノ一

 元治元年(一八六四)、尊皇攘夷派(天狗党)と佐幕派(諸生党)との戦闘は茨城県下に広がり、尊皇攘夷派は最後の拠点として水戸藩随一の商業都市那珂湊に集結した
 海と陸との両方から包囲された尊皇攘夷派は必死の抵抗をし、那珂湊での戦闘は熾烈を極め、七十数日に及ぶ長期戦になった。特に十月十日の戦闘は激烈なものとなり、市内の至る所に飛び火して繰り広げられ、特に部田野(へたの)原での戦闘はすさまじく、尊皇攘夷派は甚大な損害を被った。十月二十三日には尊皇攘夷派(天狗党)の多くは投降したが、残りは包囲を破って京都を目指し、福井県敦賀の松原まで逃げ延びたが、悲惨な最期を遂げている
 この十月十日の熾烈な部田野原の戦闘での戦死者の首級を手厚く葬ったのが首塚で、慶応二年(一八六六)十三奉行の人々がこの地に供養のために建てた石碑が忠勇戦死之墓である
※ 十三奉行;地区の名称

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天狗党員墓
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2015.10/21(WED)

い賓閣址 ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)




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写真;【い賓閣址】2015.10/21
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以下、現地の案内板から

ひたちなか市指定史跡
いひんかく
夤賓閣
Remains of Ihinkaku
 い賓閣は、元禄11年(1698)に徳川光圀(水戸藩台代藩主)が建てた別荘で、湊御殿、お浜御殿ともよばれていた。い賓とは、堯典(中国の書)の「い賓日出・・・」(つつしんで日出づるを導く)からとり、い賓閣は応接所という意味をもっている
 建坪は、約300坪(1000㎡)を有する広大なもので、建物は一部分が2階建ての豪壮な造りであったと推定されており、歴代の藩主らによって酒宴や詩歌の会が催された。また、この高台の東方には、海防見張番(異国船番所)も置かれ、お水主士の人々が海防に当っていた
 その後、い賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失したが、明治30年に湊公園として整備された
     指定日 昭和43年1月16日
     設置者 ひたちなか市教育委員会
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