カテゴリ:>三斗小屋宿( 7 )

2017.02/08(WED)

三斗小屋温泉と三斗小屋宿 那須塩原市三斗小屋
会津中街道




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三斗小屋温泉
峰の茶屋(2014.02/18)
 三斗小屋温泉(さんどごやおんせん)は、栃木県那須塩原市(旧国下野国)旧会津中街道の三斗小屋宿近くにある板室温泉郷エリアの温泉。江戸時代には『那須七湯』を構成する温泉に数えられ、現在でも那須温泉郷を構成する温泉として数えられる。アクセスは徒歩のみ、トレッキング程度以上の装備が良い
--引用・要約;「三斗小屋温泉」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.08/23(火)19;22--

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写真;三斗小屋温泉(煙草屋と大黒屋の旅館二軒がある)・2012.09/03

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三斗小屋宿
三斗小屋宿(2012.09/05)

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写真;昭和三十二年(1957)以降、無人の地となった三斗小屋宿跡・2012.09/03
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2016.01/08(FRI)

三斗小屋宿での荷役 会津中街道・三斗小屋宿




三斗小屋誌
( 4)宿駅
 三斗小屋宿(p 77)

 一八六八(明治元)年の記録によると、戸数一四戸、人口六三名、馬四七頭とあり、最盛期にはおそらくこの二倍程度の戸数があったものと推察される。
 宿場の旧道は、中央に井戸沢からひいた用水路があり、その左右に幅二間ずつの道が通り、さらにその左右に道路と直角に屋敷割がなされていた。
 宿場の中心には大日如来像や石灯籠などの白湯山信仰関係のものが多く、いかに白湯山信仰が盛んであったかを知ることができる。
--引用;「三斗小屋誌(黒磯図書館所蔵本復刻)」2003.03/30・黒磯郷土史研究会--

三斗小屋誌(2013.06/13)
那須権現一の鳥居跡(2015.10/02)

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写真↑;三斗小屋宿での荷役(昭和初期)


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2014.02/21(FRI)

白湯山神社(社務所)石標 会津中街道三斗小屋宿
那須塩原市




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写真;2012.09/03
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白湯山神社(社務所)石標

会津中街道が開設されると、三斗小屋宿は「白湯山信仰」の基地ともなって賑わいをみせた。その名残りであろう、神社々務所跡地(宿の北)に石標が残されていた
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白湯山(はくとうさん)信仰
那須五峰(茶臼岳、朝日岳、三本鎗岳、南月山、黒尾谷岳)は古くから信仰の山として知られている。このうち茶臼岳山腹に湯の湧出する場所が有り、ここを「白湯山」と称しご利益ある言い伝えと相まって信仰の対象となったものである

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三斗小屋宿(2012.09/05)



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2013.06/13(THU)

三斗小屋誌
会津中街道/三斗小屋の戦い




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平成25年(2013)
・ 6月12日
 図書館から「三斗小屋誌」を借りてきた。このうち、とりあえず戊辰戦争の項の整理が出来たのでupする

慶応 4年(1868)
・ 8月
 新政府軍は白河口の黒羽藩兵、館林藩兵に対し連合して三斗小屋より会津への進攻を命じた。軍勢は黒羽藩四小隊と館林藩三小隊の約二百名
 迎え撃つ会津軍は青龍寄合二番隊(隊長・原平太夫)と青龍足軽四番隊(隊長・有賀左司馬)の約二百名が附近に駐屯していた。この一連の戦いで両隊長が戦死した。二人とも大鳥圭介率いる旧幕府軍とともに藤原口で戦い、勇名をはせた隊長であった
--戊辰戦争全史(上)p169(山村竜也)--

三斗小屋宿~野際宿の戦い(2013.05/30)

・ 9月 8日 明治と改元

明治26年(1893)
・銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行なわれた
明治41年(1908)
・ 5月
 大火で14戸すべてが焼失
昭和32年(1957)
・最後の 1戸が転出して無人の地となる

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 写真;現在の三斗小屋宿 2012.09/03 宿北のはずれ、この先は大峠に至る
三斗小屋宿(2012.09/05)
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以下、戦いの様子を「三斗小屋誌」から引用する

三斗小屋誌 p90,91,92,93
戊辰戦争

明治元年八月廿一日月尚残ル頃ヒニ官軍ハ黒羽館林大垣等の藩兵ヲ以テ搦手ヨリ支隊トナリ各進軍シ一隊ハ白河口ヨリ發シ北湯ニ向ヘ他ノ一隊ハ月山ノ南北ヨリ湯本ニ向ツテ處々ニ潜伏セル賊巣ヲ衝拂ヒ以テ三斗小屋ニテ相會スルノ手筈ニテ共ニ勇進シ各々哨兵ノ衝突アリ二十二日モ互ニ攻守準備怠リナカリキ
幕兵初メ八千余人ヲ以テ三斗小屋關門ヲ守リ原田津島有賀左司馬 秋月昇之助等之レガ指揮者タリシガ配兵ノ都合アリテ會津ニ引キ上ゲ當時百餘人ニテ守備シ有賀左司馬隊長トシテ之レヲ指揮シタリ明クレバ二十三日朝ヨリ小雨浸々トシテ降リ雲霧山山ヲ包ミテ朦朧タリ午前八時頃ヒ月山ノ中腹ニテ互ニ衝突シ砲撃山靈ヲ驚カシ突撃勢ヒ凄シ有賀隊長豪然トシテ動カズ温泉ニテ入浴ナレド由々然ト構エタリ雨尚霏々トシテ雨霞朦朧咫尺モ弁セズ只砲聲ヲ的トシテ互ニ撃チ合フノミ幕兵□間ニ潜ミテ出没自在防禦スルヲ以テ官軍進ム能ハズ
其日哨兵ヲ張リ夜ヲ衛レリ又官軍ノ一隊館林ノ藩兵ハ沼ケ原マデ進ミ茲ニ露営セリ同日横澤附近ニ於テモ大衝突アリテ死傷相半バセリト
明クレバ弐拾四日天氣尚朦朧タルニ官軍ハ整々堂々幕兵ノ不意ニ三斗小屋ニ攻メ入リタリ一ハ黒羽藩先隊トシテ御澤口ヨリ一ハ大垣藩湯本温泉塲口ヨリ右翼隊トシテ一ハ館林藩兵沼ケ原ヨリ進軍即チ板室街道ヨリ左翼隊トシテ共ニ總攻撃ニ突進セリ然レドモ初メ幕兵ニ河戸川右岸ニ壘ヲ築キテ關門ヲ守リ勇敢防禦セシヲ以テ進ム能ハズ一時黒羽先隊困難苦戰終ニ隊ヲ乱シテ逃走シ雲霧深キ為メ纔ニ鏖殺ノ危ヲ免ルヲ得タリ隅々左右翼隊ノ應援アリシタメ茲ニ再ビ備ヒヲ立テ左翼隊ノ進軍攻撃ノ喇叭ト共ニ三方一時ニ大攻撃開始シ幕兵亦之レニ應ジ百雷轟キ山震フ火花散ル修羅塲トナレリ去ル程ニ官軍益々兵ヲ増シ次第に勢力ヲ得テ幕兵ノ關門ヲ占領シ益々追進シテ國界ヲ越エ悉ク幕兵ノ要砦ヲ畧取セリ終ニ幕兵支フル能ハズ山傳ヘニ會津ヘ遁去セリ
此ノ戰ヒニ有賀隊長會津野際中ノ峠ニテ指揮號令中銃弾ニ貫カレテ斃ル従卒首ヲ取リテ會津ニ逃ゲ去レリ其他幕兵ノ同日戰死セシモノ拾七名内旗本ノ勇士濱嶋□等モ茲ニ戰死セリ官軍ニ於テモ死傷相半バセルモ悉ク擔架ニテ後方軍醫ノ許ニ送リ應急手當ヲ施タリ
斯クシテ幕兵ハ遁走シ官軍ノ當地ニ至ルヤ尚モ幕兵ヲ追撃シテ會津ニ浸入シ三斗小屋ニハ僅二三ノ兵士残リテ番兵スルノミ去ルバ一且戰塲ノ巷トナリシ當地モ今ヤ戰地ヲ脱シ只一ノ通路タルニ過ギザリシナリ然ルニ番兵等番ニ倦ミタルニヤ□九月十日悉ク民財ヲ掠奪シ且ツ民家ニ火ヲ放チ全部ヲ焼キ拂ヒ而シテ何レカ出立セリ
     *
※秋月昇之助=秋月登之助
※纔(わずか)、鏖殺(おうさつ)、擔架(たんか)
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「三斗小屋誌(黒磯市図書館所蔵本復刻)」
発行日  ;平成15(2003)年 3月30日
原本の著者;田代音吉
編集/発行;黒磯郷土史研究会
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2012.09/07(THU)

戊辰戦死若干墓 会津中街道三斗小屋宿




平成24年
・ 9月 3日
 三斗小屋宿に行く。宿南には宿住人(と思う)の墓地があって、その一隅に戦死墓がある。墓名は「戊辰戦死若干墓」と読める
 正面向って左には世話人の名が、右側面には「明治十三庚辰五月」と刻まれている。(裏面には「戊辰戦死者十三年忌供養」とあり、会津藩兵一〇数名の墓である)
 宿住人の墓には最近お参りに来た形跡があった。先祖の供養であろうか
 会津藩は会津中街道を開設し三斗小屋宿を設けたが、その際に宿に移り住む者には支度金を支給したと云う

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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2012.09/05(WED)

三斗小屋宿 会津中街道
那須塩原市




平成24年(2012)
・ 9月 3日
 若松から続く街道(会津中街道)は野際宿を経て大峠に至り、越えて下野に入る。大峠は標高が1468メートルで、そこを下って那須の山中に設けられたのが「三斗小屋宿」である
 今回は那須側から上り始め、峰の茶屋からは三斗小屋温泉(煙草屋と大黒屋の旅館二軒がある)に向けてひたすら下る。ここから三斗小屋宿に向けてひたすら下る。帰路はおのずと、上る、上る、下るとなってひどく疲れた

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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写真;【三斗小屋宿】那須塩原市三斗小屋
   2012.09/03
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以下、現地の案内板から

史跡 三斗小屋宿跡
     那須塩原市指定文化財
     昭和四十四年七月十日指定
 三斗小屋宿は、元禄八年(1695)に会津藩によって整備された会津中街道に設けられました。北には国境となる大峠、南には麦飯坂があり、この一帯は街道一の難所でした。
江戸時代の末期に修験道の白湯山信仰が盛んになるとその登山口として栄え、今なお寄進された常夜灯や石仏・大鳥居(平成十九年復元)などが残っています。
慶応四年(1898)の戊辰戦争の際、会津軍(旧幕府軍)と新政府軍との激しい山岳戦が展開され、戦火により宿の十四戸が焼失しました。宿跡南の墓地には、この戦死者の墓が残っています。
 明治二十六年(1893)には三斗小屋に銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行われました。明治四十一年(1908)五月の大火で十四戸すべてが焼失し、昭和三十二年(1957)に最後の一戸が転出して以降、無人の地となっています。
     那須塩原市教育委員会
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以下、現地の案内碑から

鳥居復元記念碑
 元禄八年会津中街道の開削により白湯山信仰が盛んになった頃、表参詣口として三斗小屋宿に大鳥居が建立されました。
 慶応四年戊辰の役で戦火に罹り頽壊し一部は苦土川崖下に転落埋もれていました。
 明治の先人が渇望した歴史ある大鳥居の復元に着手し三ヶ年の期間を要し此処に完成しました。
     平成十九年九月吉日

 古より白湯山の大鳥居
   くずれおちてし神額をば
    復元されし永遠の礎に

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※ 2012.09/07、ちょっとだけ詳しくした概略図に差し替えた ^^;)
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2012.06/21(THU)

板室・大田原城・三斗小屋の戦い




平成24年(2012)
・ 6月21日
 三斗小屋宿には未だ行った事がない。一日をかけて、ユックリとノンビリなら或いは可能かとも考えるが今の時期クマが怖い。沼っ原から麦飯坂、ここを下って三斗小屋宿に至るコースが良さそうだ
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慶応 4年(1868)
・閏 4月 6日-16日
 一旦日光から撤退した会幕軍は田島で軍の再編をし配置部署を定めた
  第一大隊( 450)     三斗小屋
  第二第三の 2大隊( 650) 日光口
  第四大隊・草風隊     塩原口
  同純義隊         白河口
・ 会幕軍
 田島で軍を再編した会幕軍は、第一大隊・別伝習隊・伝報隊・大砲隊・工兵隊が会津中街道を南下して三斗小屋から板室方面へ向った
 総数約 600人
  隊長 秋月登之助
  参謀 工藤(内田)衛守(別伝習隊)
     松井九郎(牧原文吾)
 いずれも元・御先備の会津脱藩士である。秋月と共に伝習第一大隊を率いた土方歳三は宇都宮で負った傷の治療中で不在
・ 西軍(新政府軍)
 薩摩・長州・大垣・忍の各藩隊ら、白河戦線の応援の為に大田原城に集結した
     *
板室の戦い
慶応 4年(1868)
・閏 4月20日
 板室に滞陣した会幕軍は、大田原城攻撃のため伝習二小隊を塩野崎へ先発させた 
・閏 4月21日
 会幕軍は斥候隊(一番小隊)・大砲隊・二番中隊・回天隊・伝報隊・別伝習隊を三道に分けて出撃した。しかし、先に出撃の情報を得ていた西軍はこれを塩野崎で待ち伏せて襲撃した
 西軍に不意を突かれた会幕軍は反撃もまゝならず、板室に撤退する
 西軍(薩摩・長州・大垣・忍の4藩)の約200人はそのまま塩野崎に泊陣し、翌22日に油井から板室を襲撃することとなる
・閏 4月22日
 六斗地、油井、阿久戸から板室で戦闘
 西軍は会幕軍を撃破した後、板室・阿久戸・油井の家々を焼払って大田原に戻り、会幕軍は三斗小屋への撤退を余儀なくされた
 この戦闘で小笠原新太郎(伝習第一大隊)、野村勝三郎(伝習隊)戦死

大田原城攻撃(再)
・ 5月 2日
 会幕軍、2度の敗戦で三斗小屋に撤退したが、再度大田原城を攻撃
 新たに
  会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)
  有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)
  飯野藩脱藩の森要三隊
の三部隊が加わり途中から二手に分れて進撃した
 このとき大田原城にいた西軍だが主力の薩摩・長州らが白河戦の応援に出払っていて、僅かな大田原藩兵が残るのみ。戦いは会幕軍が圧倒したのだが占領は出来なかった。この夜、会幕軍は石林村(現西那須野)を焼払い、関谷で泊。翌日塩原に入って休息した後田島へ向った
 その後、三斗小屋には青龍足軽四番隊と第一大隊の半分も再び滞陣するが、第一大隊の半分は6月に入ると撤収して、残るは
  有賀左司馬の青龍足軽四番隊
  原平太夫の青龍寄合二番隊(前は日光口にいた)
の計 100~ 200名の会津藩隊だけの布陣となる
・ 7月25日
 三斗小屋にいた会津藩隊の一部が黒羽藩領(高久地区)の13ケ村を放火、100戸以上の民家が焼払われた
・ 8月22日
 西軍、白河にいた館林藩3小隊と黒羽藩3小隊が、三斗小屋を目指して出発。彼等は三斗小屋の会津藩隊を撃破し、会津西街道にいる西軍と合流して若松へ攻め込む事にしていた。三斗小屋へは、那須岳を越えて行く部隊(北温泉泊陣)と、会津中街道の板室から行く部隊(大沢泊陣)の二手に分れた

三斗小屋の戦い
・ 8月23日 
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れて進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
  青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
  同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
明治元年(1868)
・ 9月10日
 残留部隊によって三斗小屋は全戸焼き打された
--参考文献;三斗小屋温泉誌--
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