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2013.12/01(SUN)

栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介
四月から六月




 主に、
 「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎・を多く参考に(或いは引用)してupする
 大鳥圭介、この時三十六歳

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慶応 4年(1868)
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四月
 日
  1
  2
  3
  4
  5
  6
  7
  8
  9
 10
 11 ※江戸城無血開城
   江戸脱走
   大鳥圭介、夜、僅かに行李一個を持ち向島報恩寺を目指し駿河台の旧居を出る(元佐倉藩士木村隆吉、従僕虎吉と)。旧居→昌平橋→浅草葺屋町→東橋→向島報恩寺には本多幸七郎、大川正次郎、山角麒三郎外指図役同下役三四十人、歩兵凡そ四百五十人が既に参集していた
 12 早天、参集した者達と共に報恩寺を出る。途中、脱走した伝習生徒四五十人も引連れ市川の渡船場に行くと小笠原新太郎が出迎えて、大手前大隊、其の外の隊も市川宿に集まっていると云う。宿近くの小寺院に入る
   参集していた幹部は
    幕人 土方歳三、吉沢勇四郎、小管辰之助、山瀬司馬、天野電四郎、鈴木蕃之助
    会人 垣(柿)沢勇記、天沢精之進、秋月登之助、松井、工藤、等
    桑人 辰巳鑑三郎、松浦秀人、馬場三九郎、等
   兵隊は
    大手前大隊 凡 700人
    七連隊     350
    桑藩      200
    土工兵     200
    第二大隊    600
   軍議
    総督  大鳥圭介 
    司令官 秋月登之助
    参謀  土方歳三
   軍編成
   伝習隊を中核とする軍団は三軍に分かれて行動することになる
    先鋒(前軍) 伝習隊第一大隊  隊長秋月登之助         700人
          桑名藩隊     〃 辰巳鑑三郎         200
          回天右半隊    〃 相馬左金吾         100
          新選組      〃 土方歳三          30
          伝習砲兵     〃 秋月兼務、四斤山砲二門   100
    中軍    伝習隊第二大隊  〃 本多幸七郎         600
    後軍    歩兵第七連隊   〃 山瀬司馬          350
          会津藩別伝習隊  〃 工藤衛守          80
          土工兵      〃 小菅辰之助         200
   全軍、宇都宮をめざし江戸川沿いを北上。先鋒は松戸を経て小金宿(現松戸市小金)で宿泊。中軍は松戸宿で宿泊、後軍は大林院を出るが国府台に留まって野営。先鋒隊は小金宿で大鳥隊と別れ鬼怒川べりを北上して、下妻・下館を経て下野の芳賀郡に入る
   大鳥隊(中、後軍)は先鋒の進んだ水海道方面を避け、関宿を経て宇都宮に入ることとした
   大鳥軍、松戸宿泊
 13 山崎村途中の農家に柿沢、三谷と泊
 14 大鳥軍、山崎で昼食、舟渡村泊
 15 黄昏に加藤平内が御料兵を率いて来る。米田兄弟、三宅大学、牧野主計、天野加賀等
   諸川泊
 16 武井の緒戦
   大鳥圭介初陣。武井村(現結城市武井)方面に伝習隊二小隊を北上させ、さらに二小隊を応援に出した。諸川には予備隊として伝習隊二小隊、七連隊、草風隊を残す。間もなく大砲の音が聞こえ戦端が開けたと知る。暫くして斥候が戻り、味方攻勢にあるを聞き、大鳥自ら僅かの兵を連れて出ると、敵は敗走して結城方面に引揚げた。長追いせず
   分捕は一番小隊が、四斤大砲 一門 外は格別の品なし
   味方死傷嚮導役一人、兵士三人
   敵死人、八九人、傷者不詳
   第一次小山戦争 草風隊、貫義隊、凌霜隊
   小山でもう一つの戦争があった。草風隊らの旧幕府軍は結城、宇都宮から迫る新政府軍と遭遇。これと交戦し勝利した
   ※この旧幕府軍は
    草風隊 西洋式調練を習得した旧幕臣の子弟らで編成 約 200人
    貫義隊 剣術などに秀でた幕臣らが組織         150
    凌霜隊 郡上藩                    50
 17 第二次小山戦争
   明け方、大鳥軍は結城街道諸川宿を発って日光街道の小山宿に向うと、小山に入る手前で新政府軍が小山で迎撃態勢にあると知る。大鳥は洋式「三正面作戦」を指示し交戦すると両軍とも負傷者が続出し、第一陣の御料隊は後退を余儀なくされた。劣勢にあって大鳥は伝習隊一小隊を援軍とし、側面からの奇襲攻撃を加えた。これで御料隊は勢力を盛り返して反撃に出ると新政府軍は宇都宮方面に退却した
   一方、結城街道を進んでいた伝習隊士官大川正次郎、山角麒三郎の部隊は小山宿の背後に到着すると、後退する新政府軍に遭遇した。大川らは雑木林に兵を潜伏させ、頃合いを図り一斉射撃を命じると、敵は大砲や銃を打ち捨てて敗走した。ここでも大鳥軍の勝利であった
   第三次小山戦争
   戊辰戦記絵巻物後編「小山之戦」(2016.10/09)
   大鳥軍、戦勝の祝杯を挙げ、負傷者の治療をした。だが新政府軍の逆襲を警戒して午後五時小山を出立、壬生街道を飯塚(現小山市)に向うこととした直後、結城街道方面から新政府軍の攻撃にあう。大鳥軍、祝杯で酩酊する兵士も居て混乱するが、何とか防戦して敵を敗走させた
   〈南柯紀行〉
    敵の死人  二十四五名  傷者不詳
    味方死人  十二三名   傷者十七八名
     分捕
    仏式山砲 三門  水戸製の和流大砲 九門  弾薬刀槍等数不知
        *
   大鳥軍、飯塚泊
   壬生藩に使節(宮川六郎外一人)を出す
 18 壬生藩より使節来る
   合戦場泊
   酒屋に代金十六七両を支払い謝罪する
 19 大鳥軍、合戦場を出て鹿沼方面に向う。途中、宇都宮で戦争があったのを知る
   第一次宇都宮戦争
   第一大隊・桑名隊は、宇都宮城攻撃を前にし本陣を蓼沼村(現上三川町)満福寺におく捕えた黒羽藩斥候兵三人を斬首。軍勢は二手に分かれ間道を進む
   宇都宮城攻略は南東部から始まる
   新政府軍・宇都宮藩は烏山藩の支援を得て南東部の砂田村、平岡村、簗瀬村に出撃し迎撃態勢をとるもあえなく撃破される
   第一大隊・桑名隊、簗瀬村名主宅に火を放ち、さらに市街地四方に火を放ちつつ城内に突入した。城内では白兵戦が始まった
   新政府軍・宇都宮藩兵、二の丸舘に火を放って退却
   第一大隊・桑名隊、宇都宮城を落とす。火焔に包まれた城下町は四八町の大半が焼失した
        *
   大鳥軍、鹿沼泊
 20 大鳥軍、宇都宮城に入る。落城後、城外に居た第一大隊・桑名隊も再び城に入った
 21 七連隊を幕田に出し、壬生道の防御に備える
 22 壬生、安塚の戦い
   〈南柯紀行〉
   本道の兵、幕田に至りしに暴風雨にて殊に闇夜途上咫尺を弁ぜずに漸くに安塚の前に達せしに天未明、諸軍小休の後又安塚の方に向い進みしに敵早くも安塚に出来り、地形を見立て胸壁を築き大砲を備え、且左右の林に歩兵隊を潜伏せしめ置き、我兵の正面を挟みて忽然打出せしに由り、味方大に驚き急に備を立て頻りに打出し互に戦いけれども、夜未だ明けざれば地勢不案内にて甚困幣す、去れども各隊入れ替り三時間も血戦し、已に敵の大砲も分捕せし程に至りしが雨天にて寒気強く兵隊大に疲労し、士官兵士共打(討)死も多分に出来たれば一旦引退く方可然と申伝え全隊引揚の喇叭を吹きたり、敵も少しは追撃したれども格別長追も為さず物別れと成りたり
        *
   小山での新政府軍敗退の報は中山道の宿場板橋(現東京板橋)にいた新政府軍東山道総督府にも届き、援軍が三次にわたって派遣されていた
     イ)因州(鳥取)藩士河田佐久馬率      山国隊、鳥取藩、土佐藩兵混成隊
     ロ)総督府参謀伊地知正治率        薩摩藩、長州藩、大垣藩兵隊
     ハ)野津七次、大山弥助率         薩摩藩、大垣藩兵隊
   夜の二時、大鳥旧幕府軍は隊を三つに分け、暴風雨のなか壬生城へ向け出発した
     a)右間道から壬生城に向         会津兵
     b)本道(正面攻撃隊)          第七連隊、伝習隊の内四小隊、砲兵、土坑
                         兵(本多指揮)
     c)壬生城に向い敵背後から攻撃      伝習隊二小隊(大川指揮)
   雀宮から壬生城に向い敵背後から攻撃する手筈の隊(安塚の戦闘には加わらず)は壬生城下に入った。しかし城を攻撃するには兵が不足だし、味方も来ない。町屋数軒に火を放ったのだが、大雨で火が充分に挙がらず引き揚げた
   大鳥圭介、体調不良で出陣せず
    ・戦力
     旧幕府軍  600人(正面攻撃隊)
     新政府軍  500人
    ・戦死
     旧幕府軍  60-70人(士官8、9人)
     新政府軍  17人
   大鳥旧幕府軍は江戸を発って初の敗戦となった
 23 第二次宇都宮戦争
   新政府軍、有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍
   旧幕府軍、前日の戦闘で多くの死傷者を出したが、壬生道の要所に歩兵小隊を配し、城下では二荒山神社に歩兵第七連隊、西の丸には伝習隊を配した
   午前9時、宇都宮滝谷に迫った新政府軍大山隊は、滝尾神社を守備する旧幕府軍に砲弾を浴びせて退散させ、なおも六道口及び新町でも旧幕府軍を火器によって敗走させ、次々と宇都宮城の西側へと攻めたてる。が、逆に西の丸では伝習隊が反撃して滝尾神社付近まで押し戻した
   薩摩藩兵隊長の井上猪右衛門が戦死
   軍幹部の野津七次および有馬藤太が負傷した
   大鳥は後方にも軍を廻し新政府軍を包囲、後方の輜重隊から糧秣や弾薬を奪うと共に兵を撹乱した
   午後3時前、伊地知正治が率いる援軍は結城から急行し、城南から宇都宮城に攻め寄せると、壬生城を後発した土佐藩兵も合流して激しい戦いとなった
   この戦闘で、松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾を受けて負傷し、戦線を離脱する。そして新政府軍の砲兵隊が城西側の延命院及び桂林寺に山砲を並べ、二荒山神社や宇都宮城を砲撃、旧幕府軍は多くの犠牲を出し八幡山方面から日光山に向けて退却した
   〈南柯紀行〉
   傷者 土方歳三 本多幸七(郎)
    会人 垣(柿)沢某 佐久間悌二
    伝習隊頭取 大岡新吾其外十四五人
    死人 士官兵卒 七八十人
   敵方の死傷不詳
 24 今市に陣を置く
 25
 26
 27 神廟を拝謁する。垣(柿)沢勇記死亡
 28 松平太郎来る
 29 兵を一旦日光に引揚げる
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閏四月
 日
  1 六方越→軍再編
   旧幕府軍(大鳥圭介軍)は日光を撤退して軍を再編成するため田島に向うこととし、まず傷者を移動する手筈をし、先鋒は七ツ時頃日光を出た〈六方越ルート〉
   山中泊
   〈南柯紀行〉※以下に翌( 2日)朝、大鳥圭介が詠んだ一詩を
        *
   深山日暮宿無家、枕石三軍臥白沙、暁鳥一声天正霽、千渓雪白野州花、
   重巒道険細於糸、暗夜挙来兵悉疲、澗底掬泉分緑草、樹陰燃火拾枯枝、
   滴襟零露寒驚夢、払袂山風冷透肌、林外馬嘶天欲曙、満渓朝霧日舛(昇)遅、
        *
  2 「六方越」を経て日向村(現栗山)に泊。会津藩士と会い、家老萱野権兵衛の伝言を聞く
  3 大鳥圭介、五十里宿で家老萱野権兵衛と会う。五十里、三依宿に分散して泊
  4 横川泊
  5 横川を出る。大鳥圭介は山王峠を越えた糸沢で、会津藩士山川大蔵と会う
   〈南柯紀行〉
   五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり
   山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為めに贈(送)られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり
   本日、糸沢、中食、夕食、田島に着き本陣に宿す
  6 旧幕府軍、田島滞留。軍の再編をする
   閏 4月 6日 -16日
   〈南柯紀行〉
   翌六日より十六日に至る間別に異事なし。唯左の件々を記し他は之を略す。田島は人家五百軒もあり、御蔵入中の大村にて相応の町家もあり随分用便の地なり。当駅にて全軍を分つこと左の如し
    第一大隊   四百五十人 元 大手前大隊、隊長 秋月登之助
                            参謀 松井 工藤
    第二大隊   三百五十人   小川町大隊、隊長 大川正二郎
                            沼間慎二(次)郎
    第三大隊   三百人   元 御料兵、加藤平内
                   七聯隊、山瀬主馬、天野電四郎
    第四大隊   二百人     草風隊、天野花陰、村上求馬
                   純義隊、渡辺鋼之助
   会藩士已上已下の者を四十人程も呼寄せ之を分配して各隊に附属せしめたり。第一大隊は三計(斗)小屋へ向い、純義隊は白川(河)へ向い出立す、草風隊は塩原口為守衛十二三日頃已に出発せり
   第二大隊第三大隊は日光口に向うことに定め、第三大隊は十七日第二大隊は十八日田島出立と令を伝えたり
   沼間慎次郎、武蔵楼橘先頃より会城下に在りて生兵を取り立て居りしが予が来りし事を聞き、田島来たりしところ本多も手負いしにより第二大隊の長と為さんことを大川、滝川よりも願出しにより、大川と共に隊長の義を取扱わしむることに命じ、乃ち第二大隊と共に出立せり、余も会人と同道して十八日田島を発せり
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 17 第三大隊、田島を出て日光口に向う
 18 第二大隊、〃
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 20 大鳥圭介、藤原着
 21 第一次今市戦争
   会幕軍貫義隊の兵、大原に斥候が出ると土州の斥候と遭遇して発砲。死一、傷ニ
   第三大隊藤原着。小佐越に出張する
 22 大鳥圭介、小佐越に出て、山瀬主馬、加藤平内、天野電四郎と会い謀る
   藤原に居る田中蔵人の中隊を栖倉村に出す
 23 第三大隊一小隊、小佐越を出て大桑で小戦闘
   第三大隊、田中隊は陣所を定め土地の猟兵50人余を田中隊に付け、右山上に撒布して攻撃する
 24 藤原に居る第二大隊も小佐越に呼寄せる
 25
 26 早暁、今市を攻撃する。第二大隊の一小隊と貫義隊とが大沢口に向い、外の第二大隊が小百に出、御料兵が小百高百の押えにまわった。伝習隊は瀬尾から大谷川を渡って七里村と今市の間に進み、時刻を合せて攻撃する手筈であった。然し小佐越から今市まで三里余あって合撃の時刻が合わず作戦は失敗する。南方から向った山川大蔵の貫義隊は戦闘にも至らずに敗走し、第二大隊の一小隊は道を間違えて戦闘に間に合わず
   会人浮洲、戦死
   ※この戦争は大鳥圭介自らが、隊を分け過ぎた事が敗因と書いている。大鳥圭介は第三大隊と共に小佐越に残り、大桑道からの敵に備えていて出陣していない
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五月
 日
  1 第二次今市戦争
   先頃、今市を取ろうとしたのだが連日の雨で大谷川は増水し橋も流され、急流を渡る手段も無い。会幕軍は本陣を小百に移す事にし、第二大隊は残らず小百に入れると、第三大隊は大桑へ出張する。日光の様子を見るために出ていた原平太夫が日陰から戻り、山上から日光を打てば有効だと云う。浅田麟之助(惟季)の一小隊を高百村に出して原隊と合流させた。同隊が山上から大砲を打つと彦根の兵は応砲もせずに逃げ去る。小銃其他を分捕って帰陣した
  2
  3
  4
  5
  6 会幕軍は夜八ツ時に大桑村を出る
    〈南柯紀行〉
     第二大隊 二百十五人  第三大隊 三百五十人
     田中隊  八十人    城取隊  八十人
     合凡五百六十
     外に大砲一門
     総人員凡六百人
   荊沢前で大谷川を渡り、五ツ時頃森友村に。城取隊を大谷川より右翼、田中隊を左翼として板橋街道を今市に向う。第三大隊を本道の先鋒にして、第二大隊を二番として進む。森友村に出て、これより本道杉並木を通り、今市関門から二三丁の処に来ると先鋒は既に戦を交え、左右翼も今市近くに進んで盛んに攻撃する。第二大隊頃合いを見て撒布進撃するが敵も胸壁要害に必死に応戦、味方は並木を盾にするが三方より砲丸が来て進めない。八ツ時頃には宇都宮から敵の一小隊が本道を背面から迫っての攻撃に、引揚げを余儀なくされた。なおも追撃されたが辛うじて大桑に出、小佐越に戻った
   〈南柯紀行〉
   兵隊一同我輩困憊甚だし
     士官戦死 頭取高木銓之助
          同 吉沢鎌五郎   
  7
  8 会幕軍、総軍を一旦大原、藤原へ引揚げる
  9
 10 敵、大桑、小佐越、小原を焼払う
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 15 大鳥圭介、若松に行く(山川大蔵と共、滞留五六日)
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 20 大鳥圭介、藤原へ戻る
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 30 藤沢茂助、五十里から来て胸壁築造を助ける〈五月末頃〉
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六月
 日
  1 沼間の隊、若松に戻る〈六月初め〉
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 24 大鳥圭介、五十里に行き山川大蔵に会う
 25 五十里に居た大鳥圭介に、「大原で戦争」の報せが届く
   大原村の戦い
   会幕軍が守備する藤原口を、佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍が連携して攻撃をかけた新政府軍はその一隊を小百(今市市)から、もう一隊は大渡(同)から鬼怒川を渡河し、宇都宮藩兵は鬼怒川左岸の船生(塩谷町)から会幕軍の第一線陣地(小佐越、藤原町)を攻撃すると、ここを突き進み大原(同)で陣を構えた会幕軍と交戦したが、会幕軍は船生から山を越えて大原陣地の背後に回った別働隊の攻撃と、アームストロング砲の威力に後退を余儀なくされた会幕軍、ついに藤原方面に退却した
   大鳥圭介、五十里から藤原に戻ると、戦闘の状況を聞き、夜を徹して胸壁築造にあたり明日の敵攻撃に備えた
 26 小原沢の戦い
   新政府軍、藤原に向け鬼怒川の左右両岸から進撃を開始した
   迎える会幕軍、左岸ではモウキ山(藤原町)の断崖上から攻撃し、右岸では上滝まで兵を引かせ、敵を引き付けると一斉に射撃した。新政府軍、会幕軍の猛攻に堪らず四散敗走する
   会幕軍は地形を利しての大勝であった
   〈南柯紀行〉
    士官戦死  草風隊長 村上求馬  隊士一人
     傷  者 草風隊軍目会人某一人
     兵士薄手三人戦士無之
       分 捕
    小銃 二十挺計 元込弾薬 五六千発 刀 十四五本 長持 一棹 雑具品々
    斬首 十四五
 27 薬種店に転宿。竹中春山、天野花陰等来る
 28 〈南柯紀行〉諸士官諸兵士を帥て城に出て、若州公より士官兵士へ酒肴を賜うて積日の労を慰す
 29 猪苗代に陣を置き会津の防衛にあたることについて、諸士官諸兵士を説得した
   〈南柯紀行〉林正十郎小銃製の事を周旋し追々其製造を始む

栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2014.10/09(THU)

箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介
明治 2年四月から五月




箱館戦争概略図 2
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明治 2年(1869)
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四月
 日
  1
  2
  3
  4
  5 官軍々艦五隻、青森港から出て箱館山裏辺りに来る
  6
  7
  8 「見国隊」、鷲ノ木から箱館に入る。仙台の脱走兵凡四百八十人(隊長二ノ関源治、亜ぐ者は南条武蔵之助、風間喜太夫)旧幕臣三名なり
  9 青森港に着した官軍々艦八隻に長州、福山、伊州、備前、筑後と津軽松前大野其の外の約二千人余の兵が乗り込み乙部村(江差の北)に上陸
 10
 11 乙部に上陸した官軍の兵は三道に分かれ、江差よりaは松前、bは木古内間道へ、cは大野間道に入る
   江差道の戦い
   榎本軍松岡隊は松前守衛の遊撃隊と江差道へ出兵、夕方札前村で官軍先鋒に遭遇して戦闘となる。夜十時頃、敵が敗走するのを尾撃すると敵新たに精兵を加えて再挙し味方勇戦の間に陸軍兵一小隊斗が応援に来て大勝する・土方歳三は衝鋒二小隊、伝習二小隊を率いて市の渡口下股へ出撃
 12 大鳥圭介は伝習一小隊と額兵隊三小隊を率い五稜郭を出撃、木古内に着くと已に彰義隊五十人、伝習兵一小隊斗が在
 13 大鳥隊、敵情探索に出て小戦闘、木古内宿陣
   大野口二股の戦い
   官軍先鋒長州、福山、松前、薩州兵隊凡五六百人が大野口二股を襲撃・要地に築いた胸壁を盾に応戦したのは土方歳三、大川正次郎が指揮した衝鋒隊二小隊、伝習隊二小隊で、戦闘は凡そ十六時間、翌十四日朝七時に及んだ
   敵、稲倉石に引揚げる
   (一)二俣口の戦(2016.09/18)
 14 木古内の戦い(きこない)
   大鳥隊、木古内山手の方に砲声を聞き直ぐに額兵隊二小隊・二番隊を繰出し、額兵を山上へ登らせ、伝習兵を川に沿って散開して攻撃する。山手谷間に襲来した敵に予備の彰義隊を出し、山上の額兵隊とこれを挟撃すると敵は敗走した
   (南柯紀行)
   …
   此日味方戦死  額兵隊一人
       手負  同  二人
   敵の死骸戦地に遺し置きたる者  十二
   同手負             不詳
   生捕         二人   松前藩
   此日の戦に出たるは、長州二小隊、津軽藩二小隊、松前二小隊なりしよし、後ちに生捕の物語にて知りたり。…
   大鳥圭介、軍務を本多に託して五稜郭に帰る
 15 大鳥隊、間道の一軒屋に敵情探索(敵一人もなし)
 16
 17 官軍海陸大挙して松前に襲来。軍艦から烈しい砲撃を受けて北口の砲台、城下の海岸砲台より防戦するが味方死傷多く、遂に敗走して吉岡峠方に引揚げる。仏人カズノフ負傷
 18 松前より引揚げの兵、知内、木古内に着く。神木隊、遊撃隊は知内嶺の守りに就き其余の兵は知内及び木古内に宿陣
 19
 20
 21 大鳥圭介、茂辺地、当別を経て海岸に出ると木古内沖に蟠龍艦が停泊し、回天は木古内沖の方に出ていた。木古内は今朝味方が敗走して後に異状なく敵も滞陣していないと云う
 22
 23
 24 薩州、福山、津軽の敵軍又二股口に襲来
   伝習兵二小隊、同士官隊は之を防禦して、敵稲倉石に引揚げ
   本日、官軍の軍艦八艘が箱館港に入り砲戦
 25
 26
 27
 28 矢不来の戦い(やぎない)
   榎本軍、官軍の海陸合併した矢不来の攻撃に備え、彰義隊百二十人、神木隊三十人、遊撃隊六十人、伝習隊一小隊、衝鋒二小隊、額兵隊二小隊、都合四百五十人斗に大砲四門を要害の胸壁に配備し山上より海岸まで凡一里余に歩兵を分ち敵の動静を見る
 29 敵艦五隻が進み来て砲撃し、周囲の山からは陸兵の攻撃が開始された。味方も海岸と山手の胸壁により防戦するが軍艦より飛来る大弾雨の如く。猛烈な砲撃にさらされ海岸の砲台を守る兵士大に騒乱し退き始め、隊長天野新太郎が砲弾にあたって即死すると兵士皆潰走、富川に退き、なお有川に退き、遂に七里浜に引揚げた
   (南柯紀行)
   此日味方死傷概略如左
    戦死 隊長  二人  上等士官  六人
    手負 不分明 兵士死傷  凡七十人
    大砲 五門  幷に小銃弾薬三万発を失う
 30 胸壁を棄て、兵隊皆な五稜郭に引揚げた。これよりは諸隊皆五稜郭に聚り、東は湯の川、東北は赤川、南は七里浜を限度として兵を分け防禦することにした。森、鷲ノ木の兵も既に五稜郭に戻っていた
   官軍は有川、大野、大川に滞陣
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五月
 日
  1
  2
  3
  4
  5
  6 大鳥圭介、敵が七重浜村に来ると知って彰義隊一小隊、新選組伝習兵二小隊を率いて夜十一時頃亀田新道の陣を出て暗に乗じ潜行、橋畔の番兵を左右から撃つと逃げ去る。全隊七里浜に集まり敵の再挙に備えるが来ず
   此時味方薄手 一人
   敵の死骸   七
   分捕大砲   一門  爆薬若干  小銃弾薬若干
  7
  8 春日隊、遊撃隊、また七里浜に夜襲をかける
  9
 10
 11 七里村の戦い
   (南柯紀行)…官軍大川村、七里村に繰入りし由なれば、十一日早暁榎本と共に衝鋒隊、伝習隊、彰義隊、見国隊、松岡隊を帥いて大川村に向い、衝鉾隊、松岡隊は山手より進み、其他の兵は本道より向い、見国隊を先鋒になし、敵山上と村内に聚屯せるを以て、衝鋒隊を山手に登せ敵の砲台の後ろに出でしめんとせしに、山を越え谷を渡りて路も険阻なれば、時刻を移しける内、先鋒の者已に戦を交え、見国隊、早く進み過ぎたるに由て、他の隊も共に戦争を開き、大砲をも打たしめ間もなく酣戦に及びたれども、叢林の陰にて敵形見えがたく、狙撃すること能わず、三時間も戦いたれども、衝鋒隊猶出来らず、其内死傷も多く手筈も宜しからず故、追々引揚げしに敵追々尾撃し来り、繰退きに戦う頃漸く衝鋒隊山上に見え戦を交えたれども、本道の方已に引色になりたる故に、勢制すべからず遂に引揚げ、五稜郭の方へ退きたれば、衝鋒隊も山上を回りて険道を経て、赤川の方へ帰陣せり、此日の戦争敗績に由て、味方死傷以(意)外に多し、是地形の陰(隠)蔽せるに由てなり、全軍の死傷凡百人、内見国隊、彰義隊の者多し、敵の死傷四五十人ありたるべし、但し敵の方に潜匿したれば、死傷も察したるよりは少なしと思わる。…
   土方歳三、一本木関門で戦死
 12
 13 箱館、五稜郭戦
   官軍の海陸両道から五稜郭、箱館攻撃に備えて神山、赤川には松岡隊、衝鋒隊を配置し、大鳥圭介は伝習兵、遊撃隊、春日隊、彰義隊を帥い大川、有川の両道及び海岸に向う敵の陸軍有川道より陸続と迫って、辺り一面に大小砲の音が響きわたり、夥しい弾丸が飛び交い、双方一進一退戦う内、海軍も已に砲撃を始めた。水陸共に雌雄を決せんと互に奮戦
   今暁敵陸軍一大隊斗りが箱館山、寒川に上陸
   (南柯紀行)…急遽之を防げども已に皆上陸し、山上に来りし上なれば、衆寡敵せず敗走して新選組は弁天砲台に入り、伝習士官隊は連戦して一本木関門の方に退きたり、夫より津軽陣屋にありし額兵隊、見国隊を出して之を防ぎ、烈戦二三回に及びたる由此時土方歳三流丸に中(あた)りて戦死せり、滝川充太郎も脛を傷き二ノ関源二(源次)郎も戦死せり。…
   大鳥圭介ら、夜八時頃帰郭する
   七里浜の方、蟠龍艦が朝陽艦を撃沈する。其後、蟠龍艦は弾丸も打尽して乗捨て、松岡磐吉始め弁天崎台場に入る
   松岡隊は神山の砲台を堅守していたが、衝鋒隊が退いて退路を断たれる恐れから砲台を棄てて帰郭した。此日味方陸軍の死傷凡百七八十人、多くの士官を失う。春日左衛門も小銃弾に中(あたり)て負傷、のち死す
   回天艦、蒸気器械の要所を打たれて箱館方の洲に乗上げ、既に弾丸も放尽くして、自ら火を放って焼き、乗組みの荒井郁之助を始め五稜郭に入る
 14 翌十四日頃から甲鉄艦、亀田村の海岸に近づいて、五稜郭に発砲、其七十斤の破裂尖弾の威力は、郭の柱を倒し畳を飛ばし一時に五人即死して四五人が負傷するなど、遂には夜寝る事も出来ず、恰も大地震の如く、かくも熾烈なものであった
 15 十五日なりしか、津軽陣屋の番兵所に、降伏を促す使者があり
   (南柯紀行)
   …於是て我等相議して曰く素より覚悟の事なれば、今に至り降伏すべき心なし、何れも潔く戦死せんと誓いしなり、但我等一両人罪に伏し、自余の者に蝦夷地の内、相応の場所を給らば朝裁に就かんと答え、榎本の兼て翻訳せし海軍規律の書あり、是海内無二の良本なれば今共に灰燼に帰するは遺憾少からず、願くは之留めて、永く皇国の重宝となし…
   と。蝦夷地の分与については出来ないと答えがあり、海軍規律の礼として海軍参謀より酒数樽が贈られた
   大鳥圭介、津軽陣屋に行き五稜郭へ入るよう告げる
 16 夜三時頃、津軽陣屋に敵兵夜襲。少し防戦するが衆寡敵さず、大方の兵は引揚げて五稜郭に入る。此時大砲頭並中島三郎助親子、柴田伸助外十六七歳の少年数名、額兵隊大砲士官某、士官隊の兵両三人都合十三四名、骸を駢べて戦没した
   中島三郎助(2016.02/21)
 17 降 伏
 18 (南柯紀行)
   …因て諸隊長を呼び会議し各々其見込を聞きしに種々異同あり、畢竟何日迄も徒に議論するも益なきことなれば、結局榎本、松平、荒井、小子四人軍門に降伏し、天裁を仰ぎ、自余の者の寛大の処分を冀(こいねが)う外あるまじと決心し、其旨を海陸軍の参謀増田虎之助、黒田了助(介)両人に応接し、承知しければ、十八日四五人五稜郭にて不残兵隊を整列し、是迄の勤労酬ゆる所無きを謝し、戎器(じゅうき)を脱し、何れも轎(かご)に乗り長州兵に護送せられて箱館に行きたり…
 19 永井、松岡、相馬三子も弁天崎台場より来て同宿。猪倉屋二泊の後、東京行きの命あり
 20 米船洋西丸に乗り、細川藩の護衛で青森に渡る。泊
 21 青森出立、浪網泊→弘前に着き、泊。七人とも網を張った駕籠に乗り秋田道を山形上の山を経て福島に出て四十日程、六月三十日に東京に入った

end

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)
明治維新後(大鳥圭介)(2016.09/26)



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2014.10/07(TUE)

箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介
明治元年年十月から明治 2年三月




箱館戦争概略図 1
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明治元年(1868)
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十月
 日
 14 南部、宮古浜に着船し諸船に薪を積み込む。大鳥も上陸して入浴し、本多、滝川等と一酌を催す
 15
 16
 17 榎本軍、宮古浜を出発して東北に向う
 18
 19 長鯨・海陽、鷲ノ木浜北海道南部の内浦湾(噴火湾)に着帆
 20 鷲ノ木上陸
   第二大隊上陸、内一番小隊を山口朴郎が、士官隊小隊を滝川が率いて本多、大川共に鷲ノ木を発して一泊し峠下村着
 21 榎本軍、鷲ノ木浜に上陸。大鳥は配下の各部隊すべてが上陸するまで、翌二十二日まで鷲ノ木の陣屋にとどまる
 22 (南柯紀行)
   …二十二日午後鷲の木へ上りしに、積雪已に一尺計りあり、蝦夷地は寒郷なれば人家とてもなく、土人穴居し我等上陸の後宿所もあるまじ、函(箱)館迄行くには食糧も乏しきことと覚悟せしに、豈図んや鷲の木宿は開けたる地にはあらざれども、人家百五十軒もあり、本陣に着すれば主人袴を着けて迎え家構も壮大にて間数七八個、殊に上段の間もあり中々以前想像せしとは雲泥の違いなり…
   大鳥は第二大隊遊撃隊、新選組、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を従えて森から大野を経て箱館に向い、土方歳三には額兵隊、陸軍隊を率い川汲から沿岸部の間道を大きく迂回しての進軍を指示する。目指すのは共に箱館の五稜郭である
   森宿泊
 23 大鳥隊早暁に出立すると「昨夜、峠下村で宿陣していた(先鋒)が津軽松前等の兵の襲撃を受けて、小勢なので危うい。早く後隊を進められたい」と早馬があり
   (南柯紀行)
   (大鳥は) …大に驚き急進すれども何分雪道にて不案内の地力(方)なれば、意の如く進む能わず「シクノッペ」と云える一軒屋に至り、昼食し山路を穿ち嶺上に至りしに砲声も聞えず、夕方に峠下に着し本陣に到れば、本多、大川、滝川、人見、佐久間其外の士官に面会し、戦争の有様を聞きしに、昨日兵隊着後地形を見立、番兵を出し各旅宿に還り休憩せし処、夜半頃にもありけるか、左右の山傍(沿)い両道より兵隊進み来る由、注進あるや否已に宿内に大砲弾丸飛来り、事不意に出たれば宿中の騒擾一方ならず、去れども本多、大川、滝川、其外兵を分け持場を定め、小高き山上に歩兵を撒布し、之に応じ互に大小砲打(撃)合暫く戦う内、敵追々引退き明方には残らず大野村と七重村の方に引揚げたりと、此時味方にては怪我人一人士官山本泰次郎深手、敵死骸三怪我人不詳…
 24 大野、七重の戦闘
   大野と七重で戦闘。隊を二分し、その一隊を率いた大鳥が大野で、人見、佐久間を軍監とした一隊は七重で、夫々敵を撃破した
   なお大鳥隊は大野での戦闘の後に、文月(ふみづき)にある松前の陣屋を襲撃すると、敵は自らの陣営に火を放ってたちまち逃走した
   大野、文月の戦闘で
    味方手負 歩兵五人。浅手、死人無レ 之
    敵死骸  十人計。手負不詳
    分捕   大砲四門小銃幷弾薬其他雑貨
   一方、七重の戦闘では白兵戦にも及び
    即死  三好胖(唐津公弟)遊撃隊長大岡幸二(次)郎(後に病院にて死す)同士 杉田
    同断  諏訪部信五郎 同断
    工兵方下役 一人 手負工兵方 高塚某
    其外十名計
     敵死尸 十四五 手負不詳
 25 五稜郭進攻
   大鳥軍、未明に大野村より全軍出立。七重村で「ブリュネ」とも談じ松岡隊を先鋒とし大川村から赤川村に至る
   大鳥、赤川村泊
   回天艦船将、秋田藩の軍艦高雄丸を分捕り、箱館へ上陸して武器弾薬を分捕った
 26 早暁、本道を五稜郭に向う。松岡隊は神山より発し先鋒となって先に郭内に入る。大鳥も兵隊とともに裏門より郭中に入るが敵一人も無く、知府事は二十四日夜に立退き、兵隊も追々引揚げたもよう。かくて五稜郭、あっけなく占拠なり
   土方歳三、夕方に郭中に入る
 27 土方歳三率いる、彰義隊・陸軍隊・額兵隊(隊長星恂太郎、仙台藩洋式歩兵隊)松前に向う
   本日当別泊
 28 土方隊、木古内泊
 29 土方隊、尻(知)内泊
   額兵隊の兵粮方、各隊の器械方等が宿泊するなか、福島屯聚の敵兵五十人計が襲来し戦闘
 30
--------------------
十一月
 日
  1 土方隊、知内峠、一の渡り一軒屋よりハギチャリ(萩砂里)辺露宿
  2 知内峠の戦い
   土方隊、額兵隊を先頭に知内峠を越えて福島に向うと敵三百人計と戦闘になり、一隊を山中に廻して福島の後方に出す。正面の敵は後路を絶たれると思い引揚げはじめ、味方が追撃すると敵は大敗走し、福島に火を放って吉岡の方に退いた
   福島宿陣
  3 蟠龍艦、箱館沖を出帆して松前城の前に向い砲撃する
  4 吉岡峠の戦い
   土方隊、早暁に出陣。吉岡に着くと、敵は又も吉岡村を焼いて嶺上(吉岡峠)に退くが隊を二分して左右の山道より攻撃、嶺上を占拠した
   荒屋村宿陣
  5 松前城落ちる
   土方隊、早暁松前城を攻撃。隊を二分して、一隊は海岸に沿って進み、一隊は山手を進ませた。敵必死に防戦するが、城の後方に四斤砲を備えて城郭に撃ちかけ、これに乗じて彰義隊は正面、陸軍隊・額兵隊は後面から攻撃すると、城兵は城下に火を放ち江差方へ敗走
   松前城落ちる
   全軍松前城下へ繰込み宿陣
  6
  7
  8 松岡隊、北の間道を江差に向け五稜郭出陣。大野泊
  9
 10 額兵隊・衝鋒隊・砲兵工兵松前城下出立
   江良町泊
   鶉村・館城の戦い
   松岡隊、険阻な冬の間道を江差に向け進軍すると稲倉石の関門で斥候が斬られ、直ちに兵を進め攻撃。敵敗走、追撃して鶉村に至り、館城から出撃した敵の襲撃を受けるがこれを散々に打ち破ると敵、館城方に敗走する
 11 松岡隊、朝に館城を攻撃し乗取る
 12 額兵隊・衝鋒隊、江差街道大滝で戦闘。敵敗走死骸若干を残して江差方に退く
 13 松岡隊、本道の兵と合併、江差に入る
 14
 15 江差沖で開陽艦座礁、沈没
   この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁した
   直ちに回天艦、神速艦が救援に出たが功無きのみならず神速艦も座礁し廃物となって大打撃となった
 16
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 18
 19
 20 此の頃までに蝦夷地の平定なる
   (南柯紀行)
   …蝦夷地平定の後は天朝へ嘆願し、全島開拓のことを為すを専ら議し、民政の改革を行いけるを主としければ、強て新聞奇(記)事の記すべきなし唯其大概を誌すのみ。
   仏人にて同盟し仙台より伴い行きたるもの、凡五人「ブリュネ」(砲兵甲必丹)「フォルタン」(元砲兵指図下役)「マラン」(元歩兵指図役下役)「ブーヒヘ」(上同断)「ガスノーフ」(仏帝乗馬方)
   右の内にてマランは余と同行して五稜郭に至り、此に止まれり、ブーヒヘは土方と同行して五稜郭に至り、江差松前へカズノーフと共に兵隊に属して行きたり、ブリュネ、マラン、フォルタン三人は箱館に止れり。…
 21
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十二月
 日
   十二月頃、五稜郭で生兵募る
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 15 蝦夷臨時政府(蝦夷共和国)成立
   榎本軍、臨時政府成立を宣言(榎本を首班とする)
    総 裁   榎本釜次郎
    副総裁   松平太郎
    海軍奉行  荒井郁之助
    陸軍奉行  大鳥圭介
    陸海裁判官 竹中重固、今井信郎
    陸軍奉行並 土方歳三
    箱館奉行  永井尚志
    松前奉行  人見勝太郎
    江差奉行  松岡四郎次郎、小杉雅之助(進)
    開拓奉行  沢太郎左ヱ(衛)門
    会計奉行  榎本道章、川村録四郎
    海軍頭   松岡盤(磐)吉
    海軍頭並  甲賀源吉(吾)、根津勢吉、小笠原賢造、古川節蔵、浅羽甲次郎
    歩兵頭   本多幸七郎、古屋作(佐久)左ヱ(衛)門
    歩兵頭並  滝川充太郎、伊庭八郎、大川正次郎、松岡四郎次郎(江差奉行兼)、春日左衛門、星恂太郎、天野新太郎、永井蠖伸斎
    砲兵頭並  関広右衛門、中島三郎助
    工兵頭並  吉沢勇四郎、小菅辰之助
    器械頭並  宮重一之助、渋沢成一郎
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明治 2年(1869)
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一月
 日
   己の正月
   (南柯紀行)
   …五稜郭の築造未だ全備せず、有事の時は防禦の用に供しがたきを以て、昨冬以来之を修理することに取懸りしが、積雪中にて土地凍冱堅きこと鉄の如きなれば、之を堀(掘)開くこと甚だ難し、去れども工兵士官幷兵卒の日夜勉力に由て、周囲に楊柳を以て柵壁を作り、堤上より土の崩潰するを防ぎ、大砲を据付け、又濠外にも堤を築き、表裏の両門にも幾重にも胸壁を築き、頗る金を費し力を竭して、三月の初めに至り落成せり。…
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 15 沢太郎左衛門等、茂呂蘭(むろらん)に行き砲台築造と山野開拓の調査
   澤太郎左衛門(2016.01/17)
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二月
 日
   大鳥圭介、二月の初めブリュ子(ネ)、カズノー、ブーヒヘと共に五稜郭を出、陸地と海岸の砲台の有る地を巡視し、有川から始めて松前に行き十日余滞留、その後江差、乙部大茂内辺を巡見し、乙部温泉ではブリュネの湿瘡治療のため十日余を過ごし江差には前後二十日余を過ごし帰路につく。松前を経て五稜郭に着いたのは三月中旬である
   なお、ブーヒヘは江差で松岡小杉を、ガスイフは松前で伊庭、春日を補佐するため夫々留まった
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三月
 日
  1
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   この頃
   新政府軍、軍艦甲鉄艦、春日艦始め都合八隻が品川沖出帆の風聞あり
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 21 宮古湾海戦
   (南柯紀行)
   …其不意に出ては或は甲鉄艦を獲べしと衆議一定し本月二十一日夜回天艦蟠龍艦・アシロット艦(即高尾艦)三隻へ仏人ニコール、クラトウ、コテシュ並に神木隊三十人、彰義隊三十人斗、乗組夜中出航、南部地に赴きたり、然るに不幸なる哉、翌晩より天気悪しく風濤非常に烈しく、三隻の軍艦皆離散し…
 22
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 25 (南柯紀行)
   …回天は南部久志(滋)港に入り、二隻の船を待合せたれども其内日数立(経)ちければ、二十五日早天回天一隻のみにて宮古港に入り、停泊軍艦八艘の内甲鉄艦へ乗かけ大小の砲打懸け敵の諸船よりも、大小銃の弾丸雨の如く来れども之を厭わず海陸軍人の内にて五人まで已に甲鉄へ乗入り接戦に及び回天の大砲にて、其甲板上を打ちたれども容易に砕けず、彼此互に争う内乗かけたる艦退きて甲鉄を離れたり、是に於て不得己(已)、其儘宮古港を退きて終に
   南部宮古湾の凶変 1/2(2016.03/06)
 26 二十六日午前箱館港に帰れり、蟠龍も回天の後より行きたれども、巳(已)に回天の出航するを見て又後れて箱館に帰港せり、…
   アシロット艦は南部海上にて甲鉄春日朝陽の三艦に囲まれ、折悪しく石炭も乏しければ応戦に及ばず、羅賀と曰う海岸に乗上げ火を縦て之を焼き、乗組の海陸軍人はコラシスレを始め委く上陸し、南部家へ書面を出し謝罪し、同藩の護送に由りて四月二十三日東京に着し、軍務官に引渡された
 27
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箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2013.12/01(SUN)

栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介
七月から十月




慶応 4年(1868)
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七月
 日
  1 早朝に本多、大川、会藩稲垣、成田、鈴木等と兵を率いて若松を出て、夕方猪苗代に着き猪苗代本陣泊
   途中、仙台の兵が猪苗代より引揚げる様子を見て、大鳥は「四五千の兵はありながら間道を潜行するとは、名に負う仙兵の所業と一同冷笑せり」、と..
  2 猪苗代を出て須川野、中食、木地小屋(宿陣の地と定む)に行く 
  3 本多、大川、他士官と共に石筵(いしむしろ)山に登る
  4
  5 第二大隊と二本松の兵約 400人、石筵を夕刻に発ち二本松夜襲に出るが不首尾
  6 明け方、本宮宿焼失
  7 夜、木地小屋に戻る
  8
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 29 〈※二本松城落城〉
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八月
 日
  1
  2
  3
  4
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 15 〈八月中旬〉大鳥圭介、木地小屋から猪苗代に出て執政田中、内藤と会う
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 19 山入村の戦い
   大鳥圭介、猪苗代に居たが会津藩から第二大隊の山入への出陣要請があり、了承してこの旨を本多に伝えた
 20 早朝、大鳥圭介は木地小屋に戻るが、第二大隊は山入に向け既に出陣していた。この後を追うと兵の体の者らが引返して来た。聞くと、山入村にいたところ敵が襲来して味方は敗北し引揚げるところだ、と云う。伝習隊はどうしたと問うと、正面に出て戦っていたので後から引揚げて来るだろう、と云う
   ・・・
   午時頃二本松の官軍が進撃して来たので、仙台・会津の兵は右翼に備え、二本松の兵は左翼に、伝習隊は正面に備えて、敵が十丁ばかりに来たところ、両翼の兵はロクに戦いもせず山腹に引揚げ、これを敵兵が追って山に登ったため正面の伝習隊は後に残された。伝習隊は驚き、山へ引揚げて先行した敵を撃とうとしたところ、まだ正面に居た敵が進んで来て挟み撃たれて大苦戦となった。本多は正面にいたが未だ帰陣せず
   その後戻った本多は、全軍敗走のため帰路を絶れ、しばらく潜匿してその後迂回して戻った、と云う
   士官の戦死三四人、頭取浅田麟之助も重傷、兵士死傷凡三十人
   大鳥圭介は "余益々三藩(会、松、仙)の兵の頼むに足らざるを知れり" と書く
   ともかく、本多、大川其他士官が無事で良かった、とも..
   今夜は兵隊と共に石筵山の山上に宿す
山入村の戦い(2013.12/09)
 21 母成峠の戦い 〈南柯紀行〉
   二十一日敵来るときは、萩岡の台場に木砲二発を打ちて合図と為すこと兼て約束なり、余昨日已来の奔走にて大に疲れたれば早暁まで熟睡せり、然る処六つ半頃なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり、是れ敵来るなりと直ちに起き、飯を喫し兵隊へ令を伝え中軍山へ上り見れば、敵軍両道に分れ一は南方の谷間より進み、一方は北方にある山上に来れり、因て兵を夫々分配し田中は中軍山に趣(赴)き、余は大隊幷に二本松の兵を帥いて勝岩の上に登り北方の敵に当れり、先ず本多大川を兵隊に付けて遣し少し後より至り見れば、已に砲声盛にして互に渓を隔てて打合い居れり、我に胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰(選)組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元(許)なく思い少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず、余種々之を指揮し置き四つ半頃にもありけるか、南方の砲声衰えたる模様(第二大隊の持場と南方の口とは距離一里余)なれば、心掛りの儘南方に下りて中軍山近く至り見るに、萩岡に火焔颺れり甚だ不思議に思い歩み行く内に、萩岡の方面破(敗)れ会津の兵引上(揚)げ敵入りて陣小屋に火を放ちたりと言伝う、而して勝岩よりの上の敵は我が火の烈しきによりて、胸壁に近づく能わず次第に引退き、勝岩より下に回り南方へ進みければ、勝岩の方も砲声減ぜり、因て第二大隊の内一小隊を中里山に廻し援助を為さしめんと思い、十丁計りも上りける処中軍山の辺の砲声近く聞え、歩兵共追々引退く色に見ゆる故如何なる事にやと思う内、八時前なる頃敵早中軍山よりも近き山上に来り発砲せり、於是余又関門の傍に下り敗兵を集め此にも堅固の胸壁あれば、今一防戦と頻りに指揮せる内、何者の所業にや本営の陣屋に火をかけたり、敵兵なれば敵已に後方に回りたりと言触し、追々逃去り踏留まるもの甚少し、実に此口敗れなば会の滅亡旦夕にあり、今一奮発と怒罵すれども、必死の者乏しく、敵は次第に迫りける故、胸壁に留まるもの余を合して僅に数人のみ、間もなく敵群り至り弾丸雨よりも甚しく、因て会人田中、小森其外と謀り此勢に及び今共に骸を駢べ死するとも其甲斐なし、暫く退きて猶防禦の一策を立つべし、但勝岩より上に出でたる兵隊へは未だ此事を通ずるに暇あらず、此兵帰路を失い困迫すべけれども今更之を報ずる手段もなければ、乍残念退くより外策なしと申合せ、夫より順路を経て山を下り木地小屋の方へ返りしに、敵近く逐い来り連に狙撃為せども一発も命中することなく、其場を逃げ延び・・・
   (後略)
   大鳥圭介はその後、沼尻の道に出るが、若松への道知る者無。山中泊
 22 大島原に至り二本松藩家老丹羽丹波その外の士と会う。共に秋元ケ原に行くと、第二大隊の者、会人等、会人田中、小森も居た。北方に行く為に、来た道を戻ると井深隊五十人ばかりと会い同行する。また行くと、黄昏時に、人家十二三軒ある木地小屋という所に着。泊
 23 午時頃大塩村に出て、昼食をとって若松方面に向うと、婦女子始め諸兵士が陸続と来て驚く。訳を聞くと、官軍が若松に侵入し、危いので米沢に向うと云う。引続いて林正次郎、本多幸七郎、大川正次郎、滝川充太郎ほかの士官、諸隊の兵士、桑名候、土方歳三等も来たので、若松の形勢を聞くのに今まで同伴した会人らと別れ、又大塩村に戻る
   ・・・
   この戦で外の兵達が逃げたであろう檜原に向う。庄内藩本間友三郎、長岡候の奥方や侍姫ほか同行して婦女子肩に倚り、手を執り、険路深泥を踏み、しばしば転ぶのを見て憫れである、と。檜原泊
 24 大鳥圭介は、若松の危急を救おうとしても兵は迷乱し弾薬も無く、若松に入って何も為す事が出来ない。ならば米沢に行き弾薬を借り、米沢藩の同盟(奥羽越列藩同盟)隣国としての策に共すれば弾薬兵糧の輸送も支障ないだろう、とて米沢に着く。しかし米沢藩の対応は仇敵にする如くで、同行した桑名候にも同じく不敬の振舞をした
   " 嗚呼人心の翻覆頼むべからずこと浮雲草露の如し "〈南柯紀行〉
   歩兵らも立腹して "一戦に及ばん "などと云う
   ともかく、米沢泊
 25 檜原
 26 塩川
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 28 田島から横地秀太郎が来る。また偶然に織田対州、三宅大学も旅館に来て、両人は白石に向うと云う
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九月
 日
  1 第二大隊と第一の残兵あわせて二百人計りを連れて塩川を発し(友成将監を神靑龍隊に付け塩川に残した)→慶徳(昼食)→木曾村に着き、ここに詰めた長岡の兵隊、軍事方と謀る
  2 木曾を発ち陣ケ峰で敵軍の砲声があり、姿も確認したが山中でもあり大きな撃合いとはならず、夕刻になり木曾に帰陣した
  3 会兵、長岡兵と各々の持場を定め、大鳥隊は長窪(山上の僻村で人家は所々に二三軒が散在)に出る。山上に登り四方を見ると敵軍の斥候隊が居る。番兵を出す
  4 未明、敵三小隊ほどが三隊に分れて迫る。迎撃二時間ほどで敵引揚げて、弾薬数箱を分捕した。敵は隣村まで敗走した模様なので、味方全隊に兵糧を分配しようとしたが、兵糧人足が逃げ帰ってしまい兵糧無し。敵又再挙して右方の山上から大鳥隊を瞰射したので、会人と合併しようと退去したら会兵は既に引揚げて一人も居ない。その内河南の敵が木曾隣村の館原を大砲で打って大火になり、帰路も絶たれたのでそのまま木曾村に引退いた。夕刻、敵追撃して来て戦争になるが、どの隊も兵士のヤル気が無く、木曾を放火して慶徳まで引退く積りが、ここも小田村へ引揚げたと云う。大鳥隊も止む無く小田村に帰った
        *
   〈※二本松藩降伏〉
  5 小田村滞陣
  6
  7 兵隊、本多大川を慶徳まで出張させた
  8 米沢からの援兵は来ない。もし米沢藩が新政府軍に与して敵軍となり檜原口より迫って来るような事になれば、前後左右に敵を受け進退窮まる
   古屋佐久左衛門と相談すると、直ちにここから猪苗代に出て二本松を恢復し、仙台の援助を得るのが最良である、と云う。尤もではあるが、只今この地を引払えば北方の会兵は落胆し、城下でも心細いだろう。また大鳥軍兵隊の半は未だ若松城に籠り居て、これを見棄てるのは本意に背くなり、と..
   何時迄も決心出来ずにいて、敵に挟撃されては犬死である。と..
   〈※明治に改元〉
  9 大鳥隊、古屋の隊と共に小田村を発つ→大塩→木地小屋。泊
 10 →秋元ケ原→高森→沼尻嶺→土湯村。泊
 11 →鳥渡村、純義隊も来着し滝川鈴木等も着いた。泊
 12 →福島に着くと小笠原、竹中の本陣で二本松の侵撃を相談した。しかし米沢藩の降伏以降は仙台藩の兵も引揚げ、庄内藩も戦意は失いつつあり、大鳥・古屋の隊等が長く福島に留まる事さえも難しい、と云う
   大鳥等一同は目算が相違したのに驚愕し、" この上はこの地の米兵を一撃して遺恨をはらさん "とも云うが、瀬の上駅から桑折(こおり)駅に行く。泊
 13 奥羽退軍、箱館へ
   桑折に小笠原、竹中来る。仙台行きを決する
 14 桑折を発し越郷の関門を通行し白石城に一泊する
   途中、仙台の額兵隊が福島に向うのを見た
   松平、松岡四郎次郎、人見、春日らと会う
 15 大鳥圭介、払暁、仙台に行き榎本と会う
   仏人「ブリュネ」、「カズノフ」が仙台候の別邸に滞留して居ると聞き、尋ねる。久々に旧師に会い、互いは手を取り合って再会を喜んだ
   ※海軍は軍艦五隻、開陽、回天、蟠龍、神速、千代田、運送船四隻、咸臨、長崎、長鯨、三ケ保、都合九隻を一隊とし、八月十九日品川沖を出航して奥羽に向うが、同二十二日常陸銚子沖で各船が大台風の被害を受けた。三ケ保は銚子浜で沈没し、乗組んだ脱走人の内四五十人が溺死し、大小銃と弾薬その他の武器も皆海底に沈んだ
   これらの諸船が仙台寒風沢辺に着き修理にかかったが未だ終了していない
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 20 大鳥圭介、兵隊を率いて松島に行くと、一連隊付属の士官が泊まって居て、本多、大川ら多くが集まった。衝鉾隊は高木という処に行き、塩竈には彰義隊が滞陣している
   松島に逗留したのは四五日だが、小舟で海浜の小村に行ったり、練兵をしたり、魚釣りをしたりして海軍の出帆を待った
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 22 〈※会津藩降伏〉
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明治元年(1868)
十月
 日
  1
  2
  3
  4
  5
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  7
  8
  9 
 10 海軍の修理はかなり出来上り、開陽の仮の舵も出来上がった。大鳥圭介、兵隊と共に開陽に乗込む
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 12 額兵隊士官兵士共開陽に乗込む
 13 折の浜を出帆した。戊辰戦争は最後の舞台「蝦夷地」へと移る。その艦隊には
   〈威ありて猛からず〉
     総  数        約 3000人
     主な部隊
     ・大鳥軍(伝習歩兵隊)    225人
     ・衝鋒隊          400
     ・彰義隊          185
     ・砲兵隊          170
     ・伝習士官隊        160
     ・額兵隊          252
     ・新選組          115
      海 軍          650
      フランス陸軍軍人      5

   以降、戦線は箱館(函館)に移り、大鳥らの戦争は翌明治二年五月十七日まで続いたのである

箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)

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参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2013.06/06(THU)

南柯紀行 北国戦争概略衝鉾隊之記
大鳥圭介/今井信郎




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 「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」
 新人物往来社
 鳥羽・伏見の戦いから函館まで戦いつづけた大鳥圭介、今井信郎、小杉雅之進による実体験の記録

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一九九八年十月十五日 第一刷発行
著者  大鳥圭介、今井信郎
装丁者 幅雅臣
発行者 菅英志
発行所 新人物往来社


 目次

南柯紀行………大鳥 圭介
北国戦争概略衝鉾隊之記………今井 信郎
蝦夷之夢………今井 信郎
麦叢録………小杉 雅之進
解説 菊地 明

<解説者略歴>
菊地 明 (きくち あきら)
1951年東京都生まれ。日本大学芸術学部卒業。著書「土方歳三の生涯」「土方歳三・沖田総司全書簡集」「新選組の舞台裏」「龍馬--最後の真実」など、共書「新選組日誌(上・下)」「坂本竜馬日記(上・下)」「新選組実録」「土方新選組」「徳川慶喜101の謎」「戊辰戦争全史(上・下)」ほか
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