カテゴリ:茨城県( 6 )

2016.10/26(WED)

蕪村句碑 結城市結城2486-1・結城城跡




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写真;2016.10/25

行く春や むらさきさむる 筑波山
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碑裏面に
建立の趣旨
 俳聖蕪村は寛保二年秋(一七四二)二十七才の時、結城の生んだ俳人砂岡雁宕を慕って結城を訪れ雁宕の庇護により十年間滞留し、その間当地を中心に下館、宇都宮、東北地方を歴訪した
 結城市制十周年を記念し、偶々蕪村生誕二百三十周年を卜して、汎く市民各位の讃同を得この城址に建立されたものである
     昭和四十一年十月十二日/結城市蕪村句碑建立委員会
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2016.10/25(TUE)

結城藩主水野勝知 結城城跡(結城市結城2486-1)




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表忠之碑
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写真;2016.10/25 結城城跡には戊辰戦争で死傷した新政府軍兵士の氏名を裏面に刻む「表忠之碑」が建つ

結城藩(下総・一万八千石・水野氏・譜代)
          みずのかつとも
結城藩主水野勝知
・天保9年(1838) 2月26日 陸奥二本松藩の第九代藩主丹羽長富の八男として生まれる
・文久2年(1862) 11月24日 第九代結城藩主水野勝任の死去に際し、末期養子として家督を相続した
          12月1日 将軍徳川家定に拝謁する
            16日 従五位下日向守に叙任する
・元治元年(1864) 4月   日光祭礼奉行に就任した
          7月10日 学問所奉行に就任した
・慶応4年(1868) 3月1日 旧幕府から彰義隊の指揮を任される。当時、藩内は佐幕派と恭順派に分裂していたが、藩主の勝知は佐幕派に与し、恭順派は第八代藩主勝進の子の勝寛を新藩主として擁立した
            26日 彰義隊の一部などを引き連れた勝知は、恭順派から結城城を奪い取った
          4月   新政府軍の攻撃を受けて結城城は落城し、勝知は水路から脱出して上総成東や上野山内に潜伏したのち、実家の二本松にまで逃れた
         閏4月5日 明治政府は勝知の官位を剥奪し、藩士の入京も禁止とした
          5月20日 新政府に捕らえられて、伊勢津藩にお預けになった
・明治元年(1868) 9月10日 上総鶴牧藩にお預けとなる
          12月7日 明治政府から隠居を命じられる。所領も千石減封された
・明治2年(1869) 2月24日 勝寛が家督を相続した
          7月4日 二本松藩にお預けとなる
・大正8年(1919) 4月22日 死去した。享年八十二
--引用・要約;「水野勝知」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.06/02(火)15;24--
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写真;現結城城跡歴史公園・2016.10/25

結城市指定史跡 結城城跡
 結城城は治承年間(一一七七~一一八〇年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう
 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(一五九一年)徳川家康のニ男秀康を十七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(一六〇一年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた
 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄十三年(一七〇〇年)水野勝長(一八〇〇〇石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった
 結城の名を不朽にしたのは永享十二年(一四四〇年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家十一代氏朝(一四〇二~一四四一年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた
 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余を費し、結城の名を天下に轟かす結果となったのである
     結城市教育委員会
     贈 結城ロータリークラブ
     平成九年四月四日 建立
--現地の案内板から--
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2016.06/03(FRI)

八溝嶺神社大子側鳥居 茨城県大子町




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八溝嶺神社大子側鳥居
 2016.05/31
 八溝山登山口(茨城県大子町)にある鳥居である。此の日は黒羽口より上った(車道)のだが、帰りは八溝嶺神社からこの道を使って下ったのだが距離は約8キロメートル、道幅など黒羽からのそれより広く走行し易い
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2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



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2016.05/31(TUE)

八溝嶺神社 茨城県久慈郡大子町上野宮2129(八溝山頂茨城県側)




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八溝嶺神社 やみぞみねじんじゃ
 山頂域、茨城県大子町に所在する
歴史
 古来よりの信仰の山でもあり、山頂に豊作祈願の神である八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)が、八合目に坂東三十三箇所の二十一番札所である日輪寺(にちりんじ)がある。八溝山の名は八つの谷に分かれた山容から空海(弘法大師)が命名したと伝えられているが、日輪寺の名もまた空海がこの地で邪鬼を退散させた伝説に由来するといわれる。元治元年9月、水戸天狗党別働隊の田中源蔵ほか三百余名が追討軍に追い詰められ八溝嶺神社に立て篭もった。しかし、食料不足、情勢から神社前で隊を解散した。田中、隊員たちは下山後、捕縛されほとんどが処刑された
--引用・要約;「八溝山」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/26(土)08;41--
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2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



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2015.03/17(TUE)

文武館跡のけやき群&文武館文庫 茨城県大子町大子460(だいご小学校)




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写真;2015.03/17
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以下、現地の案内板から

茨城県指定 天然記念物
文武館跡のけやき群 二株

 第一号(中央)           第二号(南側)
   推定樹齢  約五百年        推定樹齢  約五百年
   樹高    約三十メートル     樹高    約二十五メートル
   幹周囲   約七、五メートル    幹周囲   約九、七メートル
 築山を中心としたけやき群は、室町時代中期この地に定着した豪族益子氏の屋敷内に植栽されたと伝えられている
 その後、屋敷地は近世水戸藩の支配下のもとで 大子奉行所の設置、安政年間の大子郷校の設立、明治初期の大子小学校の開設などと、公的機関の用地として活用されてきたが、その間つねにこの大けやき群は、施設のシンボル的存在として大切に維持管理され現在に至っている

大子町指定 史跡
文武館文庫

       昭和五十年九月十二日指定
   構造  木材・井籠積・土蔵造・二階建・上屋根切妻
   建坪  十九、八七平方メートル(六坪)
 水戸藩は、文武政策の一環として領内に郷校を建設する計画を進めた。大子郷校文武館もその一つで、大子陣屋が廃止されると、その敷地、建物は学館(主に医学書などの講習所)として活用され、この文庫はその付属施設として嘉永三年(一八五〇)に建設されたものである
 そして、安政三年(一八五六)八月に大子郷校文武館は、大子地方の教育の拠点として正式に開館した
 当時の文庫には、約四千五百冊の和書、漢籍が納められていたというが、現在は不明である
 大子郷校文武館は、明治四年(一八七一)七月の廃藩置県とともに廃校となり、小学校設置へと改変していったが、文庫は今なお現存して県内唯一の貴重なものとなっている
     大子町教育委員会
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2015.03/17(TUE)

桜田烈士関鉄之介の歌碑 茨城県大子町袋田




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写真;2015.03/17
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以下、現地の案内板から

桜田烈士関鉄之介の歌碑
   桜田烈士関鉄之介君歌碑   碑陰鹿水峯間信吉撰文
     九十六叟田中光顕書

 袋田のさとにひそみて有りけるころよめる

河鹿鳴く山川みすのうきふしに
 あわれははるの夜半にもそしる  平遠


※ 春のある夜半、ふとめざめると近くの谷川の瀬音にまじり、河鹿の鳴き声が聞こえてきた。潜伏中の身であるが、その音にえもいわれぬ情趣を覚え、しみじみ聞き入り、春にもあわれを感じた

 歌碑は碑表の題額を田中光顕が揮毫し、和歌は鉄之介の真筆、碑の裏面にある鉄之介の顕彰は峯間信吉が撰文し、昭和十三年の秋農工銀行頭取江幡新によって建立された
 関鉄之介は、文政七年(一八二四)水戸藩士新兵衛の長子として水戸馬喰町に生まれた。名を遠といい、字は士仁、錦堆、楓巷などと号し、通称鉄之介と称した。水戸学の影響を受け、安政の大獄が行われると、高橋多一郎、金子孫二郎らと脱藩し、幕府の大老井伊直弼暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日江戸城の桜田門外で、駕籠で登城してくる井伊直弼を襲撃し暗殺した。鉄之介はその時の現場指揮官であった
 事件後、鉄之介は、はじめ西国に潜行し、薩摩に入ろうとしたが拒絶され、江戸方面に引き返し、鉄之介が北郡奉行所時代に親交のあった常陸国久慈郡袋田村桜岡源次衛門を頼り、同年七月の中頃桜岡邸屋敷に設けられていた蒟蒻会所に潜伏した。その後、鉄之介は、翌文久元年(一八六一)八月頃まで保内地方(現大子町域)を中心に一年余の隠遁生活を送るのである。この間、鉄之介は、日々の記録とともに、数多くの漢詩や和歌を書き残している。「河鹿鳴く……」の歌は、この時に詠んだ歌である
 その後、探索の手がきびしくなり、身の危険を感じた鉄之介は、文久元年の夏保内地方を離れ、会津を経て越後に入り、十月湯沢温泉で潜伏中にとらえられ、水戸の赤沼の獄に送られた。翌文久二年四月五日江戸小伝馬町に移され、五月十一日処刑された。享年三十九歳であった
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関鉄之介 遠
・水戸藩士/新兵衛の長男/十石三人扶持/安政五年長州、因州を遊説、大獄後挙兵を計画/万延元年三月桜田門に戦ったあと西国、江戸に潜行、越後で捕えられ、文久二年五月十一日江戸伝馬町牢で斬/三十九歳/東京荒川区・回向院と水戸・常磐墓地に墓/贈従四位/靖国
高橋多一郎 愛諸
・水戸藩士/諸往の長男/百石、奥祐筆頭取から小姓頭取、矢倉奉行/安政六年末大老井伊直弼襲撃を謀議、万延元年二月挙行に先立ち子庄左衛門と大阪へ行き薩摩兵の東上を待つ/桜田事変後幕吏の追及迫り、三月二十三日四天王寺坊官小川欣次兵衛方で父子自刃/四十七歳/墓は水戸・常磐墓地/贈正四位/靖国
金子孫二郎 教孝
・水戸藩士/川瀬七郎衛門の次男、金子孫三郎の養子/百五十石、郡奉行/文政十二年徳川斉昭を擁立/万延元年三月井伊大老要撃計画を指揮/事件後伊勢で捕えられ、文久元年七月二十六日伝馬町獄で斬/五十八歳/東京荒川区・回向院と水戸・常磐墓地に墓/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--



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