カテゴリ:山形県( 2 )

2015.08/28(FRI)

澤為量の出羽転戦 澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から




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写真引用;慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(近代デジタルライブラリー)

さわ ためかず
澤為量の出羽転戦
   年  月 日
慶応3年 12月  王政復古
  4  1月3- 4.鳥羽・伏見の戦
       5.新政府は東海道、
       9.東山道、
       20.北陸道、
     2月3.九州へそれぞれ鎮撫総督派遣
       9.江戸城占拠
     3月2.奥羽鎮撫総督以下五百(八百?)余名、京を発つ
         奥羽鎮撫 総 督 九條道孝(29歳)
              副総督 澤 為量(56歳)
              参 謀 世良修蔵、醍醐忠敬(19歳)、大山格之助
       18.仙台領松島湾に着(大阪より軍艦)
       23.仙台城下「仙台藩藩校養賢堂」着、ここを本陣として滞陣
     4月10.庄内情勢の悪化で庄内藩征討の命令が下る
       12.「養賢堂」を出立
       14.岩沼で九條総督の本隊と別れ、天童藩重臣吉田大八(37歳)を先導役とし、わずかの薩長兵と共に大雪の残る笹谷峠から奥羽山嶺を西に越え庄内藩征討へと向う
         以来、出羽戦線では庄内軍など列藩同盟軍と激しい攻防戦を繰り返した
    閏4月20.未明、福島で仙台藩士らが世良修蔵を斬首
     5月  米沢・仙台両藩軍の進攻懸念により急遽新庄から秋田北辺へ転陣。しかし、同盟論大勢の秋田に止まれず、なお北上を続けて出羽最北部の大館に至り、さらに北上しようとするが津軽藩に拒否され日本海に面する能代湊へと転陣
     6月18.この頃鎮撫軍は苦戦
         列藩同盟が天童藩吉田大八の身柄引渡しを要求すると、吉田は米沢藩に自ら捕えられ切腹した
     7月1.奥羽鎮撫三卿(九條総督、澤副総督、醍醐参謀)、久保田城下で集結に成功。以降同城を策略地とした
     8月11.列藩同盟軍の進攻により横手城が落城した。横手に出陣していた澤は神宮寺へ転陣
明治元年 9月10.列藩同盟軍、神宮寺の本道・山道両筋から挟撃。澤副総督、またも角館へ転陣
         この日「雪暫時にして雨」
         ※ いづれも転陣とは言いながら落行(逃避行)ではあるが、よく奥羽の地に踏み止まり、九月下旬新政府軍の奥羽戦線勝利となる
--引用、要約;「戊辰戦争出羽戦線記」神宮滋著・無明舎出版・2008年発--
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清川の戦い
   年  月 日
慶応4年 4月  奥羽鎮撫総督府、庄内征討を決定する
       14.副総督澤為量、参謀大山格之助を出羽へ派遣。天童藩吉田大八が先導し、薩長の兵凡そ二百三十名が従った
       17.山形を経て上山に入る
       20.天童に着き羽州街道を北へ新庄に向う
       23.午後一時、新庄に着き川舟で最上川を清川に向う。新庄は羽州街道の宿場町であり、近くには最上川舟運の河港をもつ交通の要所である。対して庄内は一方を日本海に接し、三方は険しい山に囲まれ守り易く攻めにくい地である。ただ、最上川の流れ込む東側は開けており、庄内藩は東境清川に兵を出していた
       24.清川の手前土湯で舟を下りた総督府軍は山道を進み腰巻岩を占領、さらに一隊は立谷沢川上流の浅瀬を渡り清川南側の山を占領した。庄内軍指揮官松平甚三郎は兵をまとめ立谷沢川左岸で応戦しようとしたが、総督府軍の高所から撃ち下ろす奇襲攻撃に死傷者が続出して苦戦、御殿林という杉林に逃げ込み応戦する。はじめ、戦況は圧倒的に総督府軍が有利であったが、庄内藩が清川に配備した兵凡そ四百が次第に冷静さを取り戻して攻勢となり、加えて近隣の多数の農民が旗や幕を持ち出して背後の山から加勢した。また、庄内軍の増援がおいおい到着すると総督府軍は撤退を開始した
           総督府軍  戦死者12名、負傷者 9名
           庄 内 軍  〃  17 、〃  14
       25.総督府軍、新庄に帰還
         ※ 清川は清河八郎の出身地である
--引用、要約;「戊辰戦争全史〈上〉」菊地明/伊東成郎編・p.247・石山順子--

年表・新潟、東北の戊辰戦争(2015.08/21)



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2015.08/26(WED)

戊辰戦争出羽戦線記




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        戊辰戦争出羽戦線記
        神宮滋 編著 無明舎出版
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戊辰戦争出羽戦線記 ◎ 目次
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 はしがき  5
序 章 澤為量と戊辰戦争出羽戦線  11
        戊辰戦争/澤為量の出羽戦線/老いてなお志高し/異風の公卿/公卿お飾り論/さわさんみ/本書の構成
第一章 澤副総督の行軍及び在陣日誌  23
        三月二日京師発程~六月十三日三卿久保田集結見通しまで
        三月廿日松島浜発途~仙台城下陣中
        四月九日仙台滞陣~七月廿九日久保田在陣
        八月十四日仙北在陣~九月廿三日久保田在陣
        八月廿三日仙北在陣~九月十日久保田在陣
        八月朔日久保田在陣~明治二年正月東京凱旋後
第二章 澤(副総督、同会議所)の発信受信文書  121
第三章 探索報知文書  141
 むすび  173
 補論 東北から今一つの戊辰戦争論  175
        戊辰戦争なしで中央集権国家は成立し得たか
        北方政権論は東北正義論の前座であっていいか
        雪冤物語が繰り返されていないか
        小異と愛惜は論理の外であってよいか
 付属資料  185
 参考資料  203
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戊辰戦争出羽戦線記(澤為量・奥羽鎮撫副総督征討記録から)
 発行日;2008年 6月20日
 著者 ;神宮滋
 発行所;無明舎出版
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さわ ためかず
澤為量 文化九年(1812)三月十四日ー明治二十二年(1889)八月九日
 幕末・明治初期の公卿
 戊辰戦争では、慶応四年(1868)二月奥羽鎮撫総督に任ぜられ、ついで九条道孝の総督就任とともに副総督となり出陣した。このとき澤は五十六歳であったが、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が熾烈な戦闘を展開した東北戦争において出羽(山形、秋田)戦線の陣頭にたち各地を転戦、十月凱旋する。明治二年(1869)六月、軍功により賞典禄二百石を永世下賜された



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