カテゴリ:>塩原( 10 )

2015.03/03(TUE)

松根東洋城の碑 塩原四季郷
まつねとうようじょう




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写真;2015.03/03
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以下、現地の案内板から

松根東洋城の碑
【碑文】
さまみえて 土になりゐる 落葉かな
すずしさや この山水に 出湯とは

(「塩原四季郷」より)

 この句碑は文学碑のなかでもめずらしい両面碑となっている。表面に前出の句が、裏面に後出の句が刻まれている
 松根東洋城は東京築地の生まれであるが、家は伊予宇和島藩家老の家柄である
 のちに宇和島に転居し、松山中学校時代には、英語教師の夏目漱石に師事し、一高入学後も漱石に俳句の添削をうけた
 東洋城の俳句は伝統的精神に基づき、品格を重んじ、人生と自然の主客合一の立場を貫いている。漱石は東洋城を評して、「東洋城は俳句本位の男である、あらゆる文学を十七文字にしたがる許ではない、人生即俳句観を抱いて道途に呻吟してゐる」とその特質を批評した。松尾芭蕉の俳句の精神に傾倒し、昭和に入って俳壇に芭蕉再考を復興させた功績は大きい
また水原秋桜子をはじめ多くの新進気鋭の弟子を輩出させている
 東洋城は塩原温泉の自然を深く愛し、たびたび来訪しては数多くの俳句作品を残した
【松根東洋城】
一八七八年(明治十一)~一九六四年(昭和三九)
本名豊次郎(俳人)東京生まれ。京大卒業後、宮内省に入る
「渋柿」を創刊し、句集に「俳諧道」、随筆に「黛」などがある
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● 松根東洋城
1906年(明治39年)
 宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任

 漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した『ホトトギス』に加わった
1910年(明治43年)
 自身が公務で長期逗留する伊豆・修善寺へ、漱石を胃潰瘍の療養に誘っている(なお、このとき漱石は「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血を起こす)
1914年(大正 3年)
 宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった
1915年(大正 4年)
 俳誌『渋柿』を創刊主宰

 子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子により『国民新聞』俳壇の選者から下ろされ、代わって虚子自身が選者になったことを契機に
1916年(大正 5年)
 『ホトトギス』を離脱した。以降、虚子とは一切の付き合いを持たなかったという
1919年(大正 8年)
 公職を退き『東京朝日新聞』俳壇の選者となる
 虚子らが掲げる「俳句こそは花鳥諷詠、客観写生である」という理念に飽き足らず、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」として芭蕉の俳諧精神を尊んだ。東洋城が週に一度開催した句会には、長谷川零余子、岡本松浜、野村喜舟、飯田蛇笏、久保田万太郎、小杉余子ら後世に名を残す俳人が数多く集った。各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての『俳諧道』を説き子弟の育成に努め、門下から多数の優れた俳人を輩出した
1952年(昭和27年)
 隠居を表明し『渋柿』主宰を喜舟に譲る
1954年(昭和29年)
 日本芸術院会員
 1906年の宮内省入省を機に伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓し、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなるも結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫くことになる

 少壮より耳目秀麗でも知られた東洋城だったが、生涯、定まった住居をほとんど持たず、俳壇にも参加せず、生前には句集も出さなかった。俳句に情熱を注ぎ続けた偏屈な孤高の俳人という印象があるが、石川桂郎『俳人風狂列伝』では数々の女性問題がそうした生き方をとらせたことを指摘している。宮内省からの早期退職や、『渋柿』誌上での隠居表明なども、東洋城のこの不品行が背景にあるとされる

--引用・要約;「松根東洋城」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.12/18(木) 00;50--



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2014.05/19(MON)

凌霜隊(概略)




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--以下、戊辰戦争百話・第七十四話「郡上藩凌霜隊」、要約--

慶応 3年(1867)
・10月
 大政奉還となり、郡上藩(四万八千石)藩主青山幸宜は朝命に従って上京。国元の家臣は勤王に傾く
慶応 4年(1868)
・ 2月11日
 朝廷への帰順を決する
 一方、江戸藩邸には佐幕一派があり、江戸家老朝比奈藤兵衛は十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士四十七名を脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させた
・ 4月10 -12日
 凌霜隊、江戸本所中の橋「菊屋」に集合。江戸湾を北上し千葉県の行徳に上陸し、再び船で江戸川を遡って前橋に上陸して会津へと向かう
・一行は途中小山で戦い、宇都宮に奮戦し、激戦につぐ激戦を経て日光街道から塩原に出て、塩原口守備に着く。塩原を撤退して後、横川に戦い、田島に至り、大内峠の激戦では二名の戦死者を出す

〈塩原口守備〉
 凌霜隊戦記の一部 1
  同上      2
  同上      3
  同上      4
  同上      5

・ 9月 3日
 関山の戦いでは、会津の青龍足軽二番隊(隊長諏訪武之助)とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死した。この日は高田まで進んで宿泊
・ 9月 4日
 大川を渡河して一路若松の城下へと向う
・若松城下には八月二十三日に西軍が侵攻して、城は籠城戦に入っており、凌霜隊は城を目指して決死の進撃。夕刻、若松城西口、河原町口郭門にたどり着くと小笠原邸に入った(会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の指図)
・ 9月 6日
 入城を果すと、凌霜隊はただちに日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らと共に開城の日まで西出丸の防衛にあたった

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写真;若松城西出丸(2013.03/12)

・会津開城後は囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送され、禁固の処罰を受けて入牢
明治 3年(1870)
・ 2月
 釈放された

 凌霜隊(名簿)

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2014.05/05(MON)

高尾塚碑 siobara




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写真;2014.06/03(差し替え)
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現地の案内板から

たかおづかひ
高尾塚碑

 高尾(幼名アキ)は寛永十八年(一六四一)湯本村(現在の元湯)に生まれ、五歳のとき、一家は下塩原塩釜へ移り住んだ
 その後、江戸浜町の遊郭「三浦屋」の四郎左衛門夫妻が塩原へ湯治に訪れた縁で養女となり、学問や芸ごとの教養を身につけた
 明暦三年(一六五七)世に言う「振袖火事」により三浦屋は全焼し、十六歳になっていたアキは、養育の恩返しとして三浦屋再興のため遊女となり、二代目「高尾」を襲名した
 しかし、肺の病により一年余で離籍し、浅草山谷の三浦屋別荘での療養も空しく、万治二年(一六五九)十二月五日、辞世の一句を遺し十九歳で亡くなった

「寒風にもろくもくつる紅葉かな」

 才色兼備の名妓ゆえに「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」「高尾ざんげ」「紺屋高尾」等の主役に擬せられ、諸説を生み、「塩原高尾」「万治高尾」「妙身高尾」とも称された
 この石碑は、高尾の没後百五十年余を経て、その身を哀れんだ妙雲寺の住職と和泉屋主人が、以前塩原に湯治に訪れたことのある江戸の著名な儒学者「山本北山(一七五二~一八一二)」に撰文を依頼、文化十三年(一八一六)高尾の生家の子孫「太七」が施主となって建てられた
 碑文には高尾の生い立ち、三浦屋時代の高尾の名声、若くして病に倒れた高尾の儚さを供養した漢詩文となっている

     平成十一年六月二十三日 塩原町文化財指定
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2014.04/22(TUE)

故正三位勲二等子爵三島通庸君紀恩碑 那須塩原市塩原




三島農場事務所跡(2012.07/27)
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故正三位勲二等子爵三島通庸君紀恩碑

吾が大君の知食す国内に山はあれど川はあれど此の塩原の如く雄々しく聳え潔く流るるは稀なり。况や紅葉の美しき温泉の良きあるをや予一たび游びて目驚き二たび遊びて帰るを忘れ遂に亭を構えき。此地固より聞えざりしに非ず然れ共その道たる巉巌峙ち荊棘遮り馬すら容易く進まざりき。今や足地を踏まずして到り着く、かかる便利を与えしは誰ぞ。是予が莫逆の友たりし故正三位勲二等子爵三島通庸君なり。君が在りし日予この語を以て君に謝せしに、君は曰へりき。兄等の発起に係る日本鉄道の那須野を過ぐるに非ざりしせば、この便も亦徒ならむと。嗚呼君は謙遜の人なりき。君が修道に功有りしは豈ここに止まらんや東北の諸県に令たるに当り、富国強兵の基は産業に在り、産業を盛にするは道路運搬の便を得るにありとし、拮据十年の間新に開き、旧きを修めし、其長さ者凡三百五十里幅四間より六間に及べり。此の塩原の道路も若松に通ずる国道たらしめむが為に開きし也。且つ橋を架くる百八十、墜道を穿つ十、なかにも彼の万世大路と名を負へる栗子山の墜道は開闢以来の大工事、君ならずして誰かは之を成し得べき。其も猶功を時の内務卿に帰したりき。君は此の謙遜の美徳に富めりしのみならず敬神尊皇の念飽くまで深く、明察果断、比類なき人なりき。君天保六年六月朔日薩摩国鹿児島なる高麗町上の園に生れ、明治二十一年十月二十三日東京八重洲町なる警視総監官舎に薨じぬ。至誠と精励とを以て君が此の間に立たりし赫々たる功業は史家既に詳伝として千載に朽ちざらしめたり。今また贅せず君は玩物衷志の誠を思ひ、心を花月に寄すること無かりしも、この塩原の風景は甚愛すべしとし晩年菟裘の営み有りしを工事を督する中に病に罹られしこそ傷ましけれ。思うに君が英霊は必この地に留まらむ。里人君が徳を慕ひ、胥議りて碑を天狗巌の下に建て銘を余に乞へり。乃一首を詠して之にかふ

 からくして きみがひらきし しほはらの
 やまちはたえじ よろずよまてに

     明治三十三年三月二十一日
     枢密顧問官兼御歌所長正三位勲一等
     男爵□□□□□
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2014.02/18(TUE)

尾崎紅葉歌碑 siobara 妙雲寺




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写真;2012.05/29
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 本 堂 や 晝 寝 無 用 の 張 札 す

                    紅 葉


尾崎紅葉〈おざきこうよう、
1868年1月10日(慶応3年12月16日)-1903年(明治36年)10月30日〉は、日本の小説家。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。江戸生まれ。帝国大学国文科中退
1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)明治期の文壇の重きをなした
 1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる
 俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された
--Wikipedia「尾崎紅葉」2014.02/18--
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栃木・塩原温泉 清琴楼
金色夜叉ゆかりの宿
当館は明治初年よりつづく温泉旅館です。尾崎紅葉先生の「金色夜叉」の舞台となったところから、小説に登場した「清琴楼」の名前をいただきました
--「清琴楼」ホームp--
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※ 清琴楼は尾崎紅葉が逗留し「金色夜叉」の執筆にあたった旅館



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2013.11/08(FRI)

賊ヲ大網村ニ撃テ之ヲ破ル 関谷宿、大網村の戦い
慶応 4年(1868)閏 4月16日




 東山道征討軍が大田原城に入った翌日、「塩原」に敵兵が居るとの報があって、長州藩、忍藩の斥候隊が向かう。関谷宿に着いた斥候隊は敵兵に接近すると猛射撃をあびせて敗走させた
 なおも斥候隊は塩原方面に敗走した敵兵を追って大網村に至り、ここに居た敵兵(会幕兵)を急襲し敗走させて、のち大網村に火を放って大田原に引きあげた
※ 関谷宿に居た敵は「草風隊」らしい
  斥候隊;20数名
  大網に居た会幕兵; 6、70名

凌霜隊戦記の一部、其の三(2012.08/21)

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※ 写真;現在の大網温泉(2013.11/08)
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[近代デジタルライブラリー]復古記 第11冊 コマ番号 330/484
p.615 から引用
復古外記 東山道戰記 第十四 明治元年閏四月十七日

慶応 4年(1868)
・閏 4月16日

○薩摩、長門、大垣、忍四藩兵宇都宮ヨリ進テ、大田原 (大田原勝清ノ治所、)
ニ至リ、傍近ノ賊ヲ大網村ニ撃テ之ヲ破ル

○戊巳征戰記略ニ云、閏四月十五日、宇都宮ヨリ我一小隊、薩州、大垣兵三小隊ト大田原ニ進ム、十六日、賊鹽原邸ニ在ルヲ聞キ、我兵及忍藩兵、僅二十余人關屋宿ニ至リ、錦ノ袖印ヲ隠シ、徳川脱走人ノ姿トナリ、農夫ニ託シ、書ヲ賊ニ致ス、賊兩三人手銃ヲ携ヘ出来ル、僅ニ十歩間ニ及ヒ、我兵忽チ聲ヲ發シテ砲撃ス、賊驚走ル、尾躡シテ直ニ大網陣屋ヲ襲フ、賊等方ニ溫泉ニ浴ス、裸體倉黄、輜重、器械ヲ棄テ走ル、乃チ陣屋ヲ火シ、大田原ニ返ル。
○松平忠敬家記ニ云、閏四月十三日、太田原近邊賊兵屢出没不穏候付、同十六日長藩合併、關谷邊巡邏、同州大網村ニテ敵兵六七十人屯集ニテ、迅速ニ押寄、烈ク及接戰候處、敵兵狼狽、鹽ノ原へ敗走、敵兵死傷許多可有之候得共、其場ニテハ不相分、長藩、弊藩トモ壹人モ死傷無之、分捕ノ品々モ有之、得全勝候ニ付、及放火太田原ヘ歸陣。
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※ 写真;大網附近の箒川(2013.11/08)



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2013.10/31(THU)

沖長三郎墓 siobara 妙雲寺




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沖 長三郎
 幕兵或いは草風隊士であったらしい/慶応四年(1868)閏四月二十三日、関谷村にて死亡(前日の板室戦で負傷?)/墓碑向左には「会津藩士」と記した石標があるが、これは何かの間違いらしく、会津藩戦死者の記録にこの名は見当たらないそうだ
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写真;2013.10/31



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2013.06/02(SUN)

信夫恕軒の漢詩碑
しのぶじょけん




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平成25年(2013)
・ 6月 2日
 信夫恕軒の漢詩碑

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以下、現地の案内板から

 塩渓天下碧 塩山天下紅
 觀海難爲水 向我莫説楓


 【碑文の読み】

 塩渓天下の碧(えんけいてんかのみどり)
 塩山天下の紅(えんざんてんかのくれない)
 海を觀て水と爲難く(うみをみてみずとなしがたく)
 我に向いて楓を説くこと莫れ(われにむかいてかえでをとくことなかれ)

 碑文の大意は「塩原渓谷を流れる水は青く美しいので、たとえ海を観ても美しい水とは思わない。また、塩原の山々や渓谷を飾る紅葉の素晴らしさは天下の絶景であるので、今更私にむかってどこそこの紅葉は美しいというのはむだなことだよ。」というようなことであろう。
 信夫恕軒は豪快な人物であったらしく大らかに塩原を絶賛している。
 この碑を建てたのは当時、四季の里に別荘をもっていた財閥、大野徳三郎氏(日本初のアスベスト会社設立者)である。

 碑の裏面には「恕軒信夫先生に塩渓雑詠十五首あり。能(よ)く山水の勝を盡(つく)す。予その詩を書するも数偵(すうてい)を蔵す。一絶を石に勒(ろく)し先生曾遊(そうゆう)の處(ところ)に建て、以て鴻爪(こうそう)を留む。大正十五年十月即真大野徳識す」とあり両者の交友関係がうかがえる。

【信夫恕軒(しのぶじょけん)】一八三五年~一九一〇年 本名 粲(ひかる) 漢学者
     江戸生まれ。鳥取藩士。明治になって東京本所に私塾を開き名声を博す。東京帝国大学講師。

     那須塩原市教育委員会
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信夫恕軒
経歴

 鳥取藩医・信夫正淳の子。江戸芝金杉(現東京都港区)の藩邸に生まれる。父母を早く亡くす。兄尚貞は藩医として五人扶持三十俵をうけていた
 幼くして学を好み、海保漁村・芳野金陵・大槻磐渓に就いて経史、文辞を修めた
 医術を誰に学んだかわからないが、学成って初め下野の真岡(栃木県真岡市)に流寓し、北総を経て平塚村(茨城県結城郡)に寄寓しており、その頃が恕軒の三十才前後だと言われている
 明治になって東京の江東本所(現墨田区)で奇文欣賞堂という塾を開いて、漢学を教えた
 東京大学より招かれて講師となる。その後、三重県立中学校教官、和歌山県の中学校教官を経て東京に戻り、小石川武島町(現文京区)に住んだ。明治43年(1910年)12月死去、享年76。東京・谷中墓地に葬られる
--Wikipedia「信夫恕軒」2013.06/02--
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2012.08/29(WED)

塩原御用邸




平成24年(2012)
・ 8月29日
 大正天皇の旧御用邸「天皇の間記念公園」に行った
 塩原御用邸は大正天皇が皇太子であった頃から、また天皇になられてからも御利用になられ、貞明皇后をはじめ御幼少の昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、御結婚前の香淳皇后など、多くの皇族方が御利用になられた
 展示品から写真 2点をup

三島通庸(2012.07/27)

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常宮昌子内親王殿下
・明治21年(1888) 9月30日 -昭和15年(1940) 3月 8日
 日本の皇族で、竹田宮恒久王の妃。明治天皇の第六皇女

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     *
周宮房子内親王殿下
・明治23年(1890) 1月28日 -昭和49年(1974) 8月11日
 日本の皇族で、北白川宮成久王の妃である。明治天皇の第七皇女(※ 北白川宮成久王は輪王寺宮公現法親王、後の北白川宮能久親王の第三王子)

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--参考文献;Wikipedia「常宮昌子内親王殿下/周宮房子内親王殿下」--



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2012.07/02(MON)

芭蕉の句碑 siobara・妙雲寺




平成24年(2012)
・ 7月 2日
 慶応4年(1868)閏4月23日/新政府軍(四藩180人)は大田原藩の案内で会幕軍(旧幕府軍会津軍連合軍)と関谷、片角で戦闘。元会津藩兵士沖長三郎戦傷後死亡
 この、元会津藩兵士とされる沖長三郎の墓を探しに妙雲寺(那須塩原市)に行ってみたのだが見付けられない。仕方なく参門の近くにあった芭蕉の句碑を撮ってきた
沖長三郎墓(2013.10/31)
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初 時 雨 猿 も 小 蓑 を 欲 し げ な り

 芭蕉の最高傑作の一つである。「奥の細道」の旅を終え伊勢へと足をのばして帰る途中、伊賀越えの山中で初時雨にあった時に詠まれたものとされている

※ 句碑は向かって左にあるが判読不能。写真は句碑の説明碑のようなものか?
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