カテゴリ:>米沢市( 9 )

2015.04/30(THU)

上杉家廟所 米沢市御廟1丁目5-30




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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から

上杉家廟所

 上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公の閟宮を中央にして、両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は、2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は、10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます
 謙信公の遺骸は、甲冑をつけカメに納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬されました
 昭和59年(一九八四)1月「米沢藩主上杉家墓所」として、国指定史跡となった

↓二代 景勝公
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     *

米沢藩主上杉家墓所

 歴代の米沢藩主の墓所で、杉木立の中に整然と廟屋が並び、市民からは御廟所あるいは御霊屋と呼ばれている
 中央正面奥が戦国時代の名将上杉謙信公の廟で、上杉家の移封に伴い、越後春日から会津若松へ、そして一六〇一年、米沢城本丸へ移された。さらに明治九年にこの地に移葬され、墓所全体が現在のように整備された
 謙信公の廟屋の向かって左が上杉家二代(初代米沢藩主)景勝公の廟。元和九年(一六二三)に景勝公が死去すると、火葬に付され遺骨の大部分は高野山に納められ、この地には分骨という形で遺灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋造りの廟屋を建てた。以後、八代宗房公まで同じ形式で左右交互に廟が造られた
寛政六年(一七九四)、世子(次期藩主)の顕孝公(鷹山公の長男)が十九歳で急死した際、火葬から土葬に改められた。廟屋は宝形造りとなり、以後九代重定公から十二代斉定公まで土葬が続いた

              □
              初
    □
  □ 世 □ □ □ □ ・ □ 代 □ □ □ □ □
  十 子 十 八 六 四 十 二  三 五 七 九 十
  二        四  謙       一
  代 顕 代 代 代 代 代 代 信 代 代 代 代 代
    孝          公
  斉 公 治 宗 吉 綱 茂 景 ・ 定 綱 宗 重 治
  定  憲 房 憲 勝 憲 勝 輝 勝 憲 憲 定 広
  公  公 公 公 公 公 公 虎 公 公 公 公 公
     ・     記  公
     鷹     念
     山     碑
     公

 この荘厳な廟所は、東西一一〇メートル、南北一八〇メートルで、樹齢四百年を越す老杉があり、近世大名墓所の代表例として昭和五十九年に国の重要な史跡に指定され、平成六年から同二十年にかけ保存修理工事が行なわれた
     米沢市
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2015.04/30(THU)

甘糟備後守影継の墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺




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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から
あまかすびんごのかみかげつな
甘糟備後守影継の墓
 甘糟影継は、上杉謙信・景勝に仕えた剛勇で名高き武将。越後上田長尾の家臣登坂清高の嫡男であるが、謙信の命により甘糟家を相続した
 景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城、庄内酒田城の城主となり、慶長三年(一五九八)には白石城(宮城県)の城主に任じられる
 気骨稜々たる武将であったが、慶長十六年(一六一一)逝去、享年六十二
     米沢市
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2015.04/30(THU)

直江兼続夫婦の墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺





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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から

山形県指定文化財
直江兼続夫婦の墓
     昭和二十七年四月一日 指定
     所在地 米沢市林泉寺

 米沢藩の基礎を築いた直江兼続とその妻お船の墓。五輪塔を覆う万年堂(塔)の正面にくりぬいた亀甲形は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象っている
 直江兼続(一五六〇~一六一九)は、上杉家の重臣として生涯景勝を補佐し、米沢移封後は、城下の整備はもとより、藩政全般にわたって偉大な足跡を刻んだ。元和五年、六〇歳で江戸屋敷にて死去し、米沢徳昌寺に葬られた。寛永一四年に亡くなったお船(一五五七~一六三七)も同寺に葬られたが、後に双方とも林泉寺に改葬された
     米沢市教育委員会
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2015.04/30(THU)

北越戦争忠士墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺




招魂碑(2015.04/28)

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写真;2015.04/27
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戊辰戦争
北越戦争忠士墓
主に新潟方面で西軍と戦った米沢藩士は、藩軍総督色部長門をはじめとして二百八十余名が戦死したが、これはその遺髪を埋めた合葬墓だそうである

色部長門 長久
篤長の長男/千六百六十六石、家老格/明治元年五月藩軍総督として新潟に拠り、七月二十九日西軍の攻撃に寄居浜金鉢山で自刃/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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与板攻防戦(2015.03/30)



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2015.04/30(THU)

黒金武五郎墓 米沢市林泉寺1丁目・林泉寺




招魂碑(2015.04/28)

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写真;2015.04/27
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戊辰戦争
黒金武五郎 泰之
米沢藩/明治元年六月十九日越後大口村で戦死/二十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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春日山林泉寺
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以下、同寺リーフレットから

沿革
 明応五年(一四九六)、越後守護代の長尾能景が、亡父重景の遺徳を後世に伝えようと、蜂が峰(上越市春日山)の麓に開基建立した、曹洞宗の禅刹である
 寺号の林泉寺は、重景の法名(林泉寺殿實渓正真大居士)によるものである。また山号は、開基家三代目の景虎(謙信)が、関東管領の上杉氏を相続した折、その氏神春日大明神を鎮守として勧請したことによる
 開創時、長尾氏の菩提寺であった林泉寺は、開基家三代目景虎が上杉を受け継いだことで、以降、上杉氏の菩提寺となった。やがて、謙信の後嗣景勝の代になると、慶長三年(一五九八)に秀吉によって会津一二〇万石へ、同六年には家康によって米沢三〇万石へ次々に転減封されたことで、林泉寺も元和三年(一六一七)、十四世万安大悦の時に、会津を経て現在地に移転建立された …
〈以下省略〉



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2015.04/29(WED)

米沢城 米沢市・米沢城址(上杉神社)




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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から

米沢城

 伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる
 米沢城の起源は、鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文十七年(一五四八)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された
 天正十九年(一五九一)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長三年(一五九八)に上杉景勝が会津一二〇万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された
 慶長六年(一六〇一)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢三〇万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。以後、寛文四年(一六六四)に後継問題で米沢藩は一五万石となるが、米沢城は約二七〇年間にわたり上杉氏十三代の居城として明治維新を迎えた
 城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。本丸の中央は藩主の住む御殿があり、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった
 明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松が岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社となる。堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている

     *

米沢城ゆかりの戦国武将

伊達政宗(一五六七~一六三六)
 仙台藩六二万石の基礎を築いた戦国武将。永禄十年に米沢城で生まれ、十八歳で家督。幼名は梵天丸で、「独眼竜」とも称された。会津の芦名氏等を破り領地を広げるが、政宗二十五歳の天正十九年に豊臣秀吉によって岩出山城に移される。その後、本拠を仙台城に移し仙台藩の基礎を築く。寛永十三年に江戸で死去、享年七十であった
直江兼続(一五六〇~一六一九)
 上杉景勝を支えた知将。樋口惣右衛門の長男として坂戸城下に生まれ、景勝の近習に選ばれる。その後、重臣・直江家を継いで上杉家の中枢として景勝を支えた。米沢三〇万石へ移封後は、町割りや堤防・水路の整備、鉄砲鍛冶の招聘、学問所「禅林文庫」の開設など、城下町米沢の基盤を築く。元和五年に江戸で死去、享年六〇であった。林泉寺に兼続夫妻の墓がある
上杉景勝(一五五五~一六二三)
 米沢藩の初代藩主。坂戸城(新潟県南魚沼市)に生まれ、叔父上杉謙信の養子となる。謙信死後の家督争いに勝利し越後を統一。豊臣秀吉の命で会津一二〇万石に移り五大老となるが、秀吉死後に徳川家康と対立、関ヶ原の戦いの後に米沢三〇万石へ移封となる。以後、重臣直江兼続に命じ、米沢城下の整備や政治体制の確立など米沢藩の基礎を築く。元和九年に米沢城で死去、享年六九であった
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以下、現地の案内板から

上杉神社御由緒
   御祭神 上杉謙信公
天正六年(一五七八)三月十三日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に四十九才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来二百六十年に及んだ
明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同九年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。明治三十五年、往時の勤王の功により別格官弊社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る
大正八年米沢市の大火後同十二年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で例祭は四月二十九日(没年三月十三日を太陽暦に換算)
     上杉神社社務所



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2015.04/29(WED)

上杉謙信祠堂(御堂) 米沢市・米沢城址(上杉神社)




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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から
うえすぎけんしんしどう              みどう
上杉謙信祠堂(御堂)

 江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である
 謙信は天正六年(一五七八)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている
 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津一二〇万石、米沢三〇万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した
 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた
 明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された
     米沢市
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2015.04/29(WED)

従三位上杉曦山公之碑 米沢市・米沢城址(上杉神社)





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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から
じゅさんみうえすぎぎざんこう
従三位上杉曦山公之碑
  題字は陸軍大将有栖川宮熾仁親王の書
  石碑裏の文は伯爵勝安房(号海舟)の撰による

曦山公とは上杉家十三代斉憲の号、文政三年(一八二〇)五月十日生、天保十年(一八三九)四月家督、戊辰戦の責により明治元年(一八六八)十二月隠居、明治二十二年(一八八九)五月二十日東京にて薨去享年七十才
その間ペリー来航尊皇攘夷、奥羽越列藩同盟
明治維新、版籍奉還と波乱万丈の時代を逞しく生きられ明治以降の諸功績により従三位に任じられる
明治二十四年(一八九一)公を慕う旧藩士によりこの碑が建立された

 九月二十五日毎年碑前祭を挙行する
     贈 神社有志
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2015.04/28(TUE)

招魂碑 米沢市・米沢城址(上杉神社)




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写真;2015.04/27
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以下、現地の案内板から

招魂碑

 この招魂碑は、慶応四年(一八六八)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士二百八十余名と、明治十年(一八七七)におこった西南戦争の戦死者五十二名を慰霊するために、明治十一年四月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年二月に開催される雪灯篭まつりの鎮魂祭は、この地で執り行われます
 碑は、擬灰岩で高さ約三・四メートル、総高約五・八メートル。碑名は、戊辰戦争に従軍して参謀を努めた斎藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです
     米沢市
     米沢観光協会
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以下、戦死者名碑から

戊辰之役戦死者

 色部長門     上松倉之進    新津伊賀     仁科越中
 千坂政右ェ門   黒金武五郎    菅名新五郎    千坂多門
 保科力馬     桃井清七郎    曾根敬一郎    長 右馬之助
 關 新右衛門   山下太郎衛    山岸哲蔵     原 藤吾
 留守隆太郎    今泉宮次     坂野忠三郎    相浦孫蔵
 舟橋榮次     築地右膳     太田新吉     林邊直太郎
 中牧竹蔵     朝岡祐吉     岡田敬之助    小山田乙吉
 山崎虎吉     梁川武右ェ門   石黒伊左ェ門   竹田茂作
 萬代荘左ェ門   土田運蔵     白井清四郎    後藤敬三郎
 山吉源右ェ門   山吉七郎左ェ門  佐藤甚助     戸田次郎左ェ門
 賣間與一郎    小森澤猪吉    髙村熊吉     桐生源蔵
 山吉助五郎    古藤丙蔵     青木哲吉     宮崎文蔵
 釜屋敬助     清水藤次     原 廉太郎    佐藤忠次郎
 小幡彌五右ェ門  大熊左登美    髙野織右ェ門   舟田善右ェ門
 斎藤新右ェ門   髙梨類蔵     佐藤源蔵     須崎猪太郎
 高野伊織     青柳春太郎    鳥羽新吉     池上小傳次
 額田覺内     篠田清太     清水甚左ェ門   西方美保次
 青山虎之助    五十嵐源三    青柳徳四郎    安倍新太郎
 蓬田仙助     小山禮蔵     寺島右橘     長井善次
 佐野源四郎    南條哲太郎    髙野惣次郎    舟田金之丞
 齋藤熊太郎    森 勇      富井 力     五十嵐習蔵
 八木三次     野呂吉蔵     小島乙松     渡部忠助
 大河原半右ェ門  寺澤忠太     田代友蔵     田井治甚衛
 小林勇助     堀尾啓助     松本誠蔵     藤巻次郎作
 倉石友四郎    外山卯太郎    來次伊久馬    栗田房之助
 小敷澤周蔵    佐藤周助     伊藤茂太郎    内須川猪蔵
 水戸野善次    佐藤正七郎    上村又吉     草刈茂八郎
 山口敬太郎    蓬田哲蔵     佐藤金太郎    佐藤要助
 竹内兵蔵     佐藤勇次郎    田中鐡之助    飯塚政右衛門
 烏山琢蔵     針村助次郎    安倍利喜馬    田村力之助
 上村三次     山田祐次     伊藤熊吉     窪田早太
 穂科外次     古川久左ェ門   大山次兵衛    澁谷文蔵
 大平林次     横瀬新之丞    松本茂八     西山元太郎
 石井新五郎    山田善四郎    平賀安衛     内田彌惣次
 佐藤甚助     栗田角之進    羽吹美保次    市野廣吉
 永井三之助    柳 武作     藤崎吉五郎    猪口勝彌
 猪口新吾     鑪 茂作     小澤助四郎    南雲要助
 片桐勇三     井上與左ェ門   南雲藤四郎    加藤鍋蔵
 大橋夘右ェ門   宮崎森之助    星野辰彌     豊野彦松
 中嶋友蔵     小澤岩太郎    中村嘉右ェ門   川野部岩次
 星 源蔵     丸山浅次     情野武十郎    金子喜代助
 渡部猪松     佐藤松次     小野田仙太郎   石塚安蔵
 中山與市     荘司喜代松    今井貞作     大淵安次
 廣居廣次     鈴木常彌     酒井長次郎    田村鍋造
 片山康作     外山駒造     小川初彌     吉田早次
 安倍運四郎    猪口清五郎    浅見猪之吉    佐藤次右ェ門
 青木盛蔵     樋口萬造     白岩力馬     中山勇次
 田村吉次     齋藤伊久馬    横谷平左ェ門   森下恒彌
 石黒久造     菅原友彌     志賀善次     永井清彌
 相羽養拙     森 熊太郎    髙橋常三郎    大峡清三郎
 下島政次郎    藤崎彌惣     舟山熊吉     鈴木多津馬
 石坂弘次     我彦長四郎    清水熊太郎    下嶌又次郎
 五十嵐清蔵    竹内源三郎    須藤清吉     齋藤祐太郎
 坂上猪之吉    本間秀作     中川恭助     神尾運太郎
 髙井森之助    神田五郎     梅津清吉     齋丸金兵衛
 九十九田林右衛門 三瓶與左衛門   加藤忠造     安倍千代吉
 須崎運太郎    髙橋亀造     橋爪利惣治    嵐田味之助
 山口久吉     佐藤與太郎    五十嵐角彌    後藤清右衛門
 市川俊十     沼田勝造     宍戸榮次     井上元次
 塩川荘八郎    伊藤運太郎    小川友右ェ門   土屋三次
 浦戸儀右ェ門   齋藤作兵エ    三瓶直吉     上村久蔵
 小出彦造     長命寺仁丸    中村源彌     早川政吉
 坂 貞四郎    上野徳七     佐藤盁馬     小澤彌蔵
 渡部亀次郎    大境徳三郎    酒井清助     髙山徳次郎
 石田要吉     渡部安太郎    御供松次郎      國五郎
 内田勝馬     幸田重之助      嘉兵衛      國彌
   荘五郎      喜惣次      久兵衛      文太
   定吉       助蔵       平助       林蔵
   榮十郎      留兵衛      重次郎      甚太郎
   平兵衛      儀右ェ門     文彌     横山文太郎
   傳造       文右衛門
   由太郎      運彌

西南之役戦死者

 上野忠怒     渡部忠國     丸山茂達     今泉 競
 岡 盛道     富永吉尚     五十嵐茂隆    小黒吉政
 關谷政良     市川正義     玉田輝政     丸山長昌
 吉原秀雅     髙津義信     大峡吉實     河野重民
 大竹政直     萬代吉直     富永猪三郎    石栗鉄蔵
 福島頼之     朝倉源太     風間周太     佐伯兵次
 船岡萬次郎    林部喜平     草刈忠順     横山秀長
 渡部吉政     中村誉左右    桑原 昇     林 藤男
 佐藤鐵蔵     片岡徳次郎
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