カテゴリ:桑名藩戊辰戦記( 6 )

2015.01/17(SAT)

東北の山野を血に染めて
新人物往来社の本




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平成27年(2015)
・01月17日
 幕末明治史料、古書売買「マツノ書店」から注文してあった本が届いた
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桑名藩戊辰戦記
一九九六年十二月十日 第一刷発行
 著 者  郡 義武
 装丁者  平野 稔
 発行者  菅 英志
 発行所  新人物往来社

〈著者略歴〉
郡 義武 (こおり・よしたけ)
1940年、三重県桑名市生れ。先祖は桑名藩士である
現在、色彩メーカー研究所勤務。余暇に戊辰戦争、航空史の調査研究に取り組んでいる
「歴史研究会」会員、「碧血碑」同人、「歳三の遺骨を故郷へ帰す会」会長
共著に『新選組大辞典』(新人物往来社)
現住所 埼玉県

■ 目次
 一 大阪城脱出
 二 江戸の騒乱
 三 江戸脱走
 四 宇都宮城攻略
 五 北越柏崎集結
 六 雷神隊誕生
 七 鯨波の戦
 八 長岡の蒼龍立つ
 九 決戦 朝日山
 十 雷神隊勇名轟く
 十一 巧妙な陣地戦
 十二 北越最後の戦闘
 十三 会津若松城下の激闘
 十四 転陣 庄内行
 十五 寒河江の血戦
 十六 庄内降伏
 桑名藩軍制並死傷者姓名
 あとがき
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内容(「MARC」データベースより)
戊辰戦争を最後まで戦った会津・松平容保の弟・松平定敬を藩主にいただく桑名藩兵は、宇都宮、北越、庄内、寒河江と戦いつづけた..。東北の山野を血に染めて戦った桑名藩士の姿を生き生きと描く

桑名藩七名墓(2015.01/11)

桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.08/10(MON)

若松城下の戦・寒河江の戦~謹慎、幽居 会津若松~大山




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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慶応 4年(1868)

・若松城下の戦い
       8月13日~24日

 二十一日、母成峠を守る会津藩隊、大鳥圭介率いる旧幕府隊らが撃破されて新政府軍の侵入を阻めず、この報が若松城に届くと、興徳寺にあった桑名隊に出陣要請があり、雷神・致人・風神の三隊と大砲隊総数二百余名は大寺口(城北東八キロ)の守備についた
 二十三日、「敵すでに城下に迫る」の報あり、大寺口を引き上げ若松城に向う。蚕養口(こがいぐち)に達し、なお突進して入城しようとするが、四方の敵猛烈に反攻して死傷者が続出した。このまま突進を続けても入城前に全滅の虞があり、蚕養神社に向け引き上げた
 着いたのは申の刻(午後五時頃)であった。この時、若松城にいた桑名藩主定敬公は城下を脱し米沢へ向ったことを知る

桑名藩戦死者(若松城下の戦)
 浅井照弥    金五郎の長男/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十二歳
 浅野五郎    致人隊/銃士/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/十六歳
 五十嵐蔵右衛門 軍事方下目付/東北転戦/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/三十三歳
 岩崎助治    銃士/致人隊/明治元年八月二十三日若松で傷、九月四日桧原で死/同地・崇徳寺に墓
 小沢源三郎   源太郎とも/足軽/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
 加藤鋳介    明治元年八月二十三日若松で戦死(脱走、のち水戸地方で死とも)
 上月亀太郎   雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
 小寺清雄    清雅、清澄とも/銃士/致人隊/明治元年八月二十三日若松で傷、九月二十二日羽前庄内で死/十七歳/庄内・極楽寺に葬
 小柳佳郎    寄合席/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
 佐藤鉦蔵    明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十歳
 品田金八    明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/三十三歳
 鈴木久太郎   雷神隊/明治元年八月二十三日若松で戦死
 田中久栄    御坊主/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で傷、山形で死/十八歳
 橡尾恕三    書院番/致人隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十七歳
 鳥飼次郎    致人隊/使番副長、のち軍監/金子時忠の二男で鳥飼正直の養子/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十八歳/会津塩川に葬、桑名・十念寺に墓
 中村藤六    軍監/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/五十三歳
 米富繁右衛門  嚮導役/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十四歳
 和田勝太郎   致人隊/軍監助勤/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

・塩川
 桑名隊は萱野権兵衛に別れの挨拶をすると、激しい戦闘で傷ついた隊士を介護し疲れた足取で塩川(若松北方十一キロ)に後退していった
 石井勇次郎は日新館病院で加療中であったが定敬公の出立を見送るとその後を追い、軍事総宰服部半蔵は興徳寺に居て、敵城下乱入の時藩士数人と共に定敬公を追う
 二十四日、服部半蔵ら塩川で桑名本隊と合流
      唐津藩士八名、桑名隊と同行することとなる(雷神隊指揮下)
 八月二十五日、塩川出立
   二十六日、大塩
        先発隊が檜原に向う。この先の檜原越に米沢藩は関門を設け、領内へ入ることを拒んだ(この頃米沢藩は降伏に傾いていた模様)。桑名本隊、やむなく大塩と檜原に分散して滞留する
   二十九日、岩崎助二(致人隊/二十六歳)戦傷死、檜原崇徳寺に葬る
 九月一日、定敬公、米沢→白石に着く
   三日、〃   福島
・檜原    9月 8日~ 9日
明治元年(1868)

 九月八日、米沢藩、転向して西軍先鋒となり大軍を動かし、この地を鎮撫せんと福島城下に入り「ただちに降伏されたし」と云う
      改元し「明治」となる
   九日、定敬公、福島を発し仙台に向う(このため、二日後に到着する立見鑑三郎、町田老之丞らに率いられた桑名本隊には逢えず)
・福島    9月11日~13日
 桑名本隊は米沢へ向う関門の通過が出来ず、間道を福島方面に向う事に決した。本隊は夜を徹して急行
 十一日夜、福島城下に入る
 十三日、桑名本隊は庄内中村隊と共に庄内に向う
     桑名本隊  二百六十名
     庄内中村隊 二百五十名
 福島藩降伏
・白石    9月14日
・川崎    9月15日
・山形    9月16日~18日
 笹谷街道へ入り、途中笹谷峠の難所を越え関沢村で昼食。斥候を出して山形方面を探索、夕方山形城下に達した
・長崎    9月18日
 十八日朝、山形を発した桑名本隊は長崎に到着し宿陣、庄内中村隊はその手前船町へ宿陣する。西軍は山形に集結しつつあり、ここ平坦地では守りに適せず、夕方一里後方の寒河江まで後退した
 ここで手配りし、庄内山田隊(四番銃隊)と桑名町田隊(神風隊)は左沢(あてらざわ)方面守備、さらに庄内栗原隊(六番銃隊)は大井沢守備に分派した。結局、寒河江本道に陣したのは桑名雷神致人二隊、庄内三番五番銃隊のわずか四小隊三百名強であった
 十八日、米沢軍を先鋒とし米沢城下を発した西軍薩摩藩主力(総督黒田了介)二千五百は、十九日山形に到着した
・薩摩二番遊撃隊、十番隊、外城三番隊、番兵二番隊、兵具方二番隊、兵具方三番隊の計六隊。これに二番砲隊右半隊と砲三門、加治木大砲隊左半隊と砲三門、すなわち砲六門と兵千百六十人。米沢軍は藩主上杉茂憲自ら兵九百を率いて柏倉に宿陣し、これに上山、新庄の兵、尾州一小隊が加わる
・寒河江の戦い
       9月19日~20日

 十九日夜、桑名庄内隊は寒河江に着
 九月二十日払暁、山形を発した薩軍は長崎に達し最上川を渡河し、二手に分かれ東と南から寒河江の桑名庄内隊の宿営する地に近づいた。一方、柏倉にあった米沢軍も北上を開始して戦場へと近づき、早朝の奇襲態勢を整えた
 この頃、桑名隊は町の中心本願寺前から道場小路にかけて朝食の用意をしており、庄内兵は少し早めの朝食中であった
 この日はあいにく濃霧が街並を覆っていた。七時過ぎ、寒河江の南街はずれで突然銃声が聞こえ、斥候が山形街道を南に二キロほど駈けた古河江で、霧の中に突如現れた敵の大軍に遭遇した
 桑名隊は兵を集め街はずれの新宿まで進み、沼川沿いに陣を敷く。銃撃戦が始まるが、敵、大軍でたちまち不利、戦死傷者相次ぎ後退する
 庄内隊は市街地での防戦は不利と見るや、素早く西北一キロの長岡山に引き上げていた。桑名隊にとっての不幸は地理不案内であり、午前九時頃、霧の中に黒々と浮ぶ長岡山を指して引き上げる。長岡山はこんもり繁った赤松に覆われ、山頂北側には八幡神社、中央には造築中の代官所があった。先着していた庄内隊と態勢を立て直し守備陣を敷く。これより長岡山の激戦が開始されるのである
 午前十時過ぎ、ようやく霧が晴れ視界が開けた。長岡山の桑名庄内陣に対し、西軍はまず砲撃を開始し、大砲の援護下に三方より押し寄せて来た。南からは米沢軍、東と北からは薩摩軍である
 桑名隊は庄内隊と力を合わせて、まず南の米沢軍を迎え撃って引き退かせ、次同様に薩摩軍を撃つ。しかし、敵は新手を次々と繰り出した。桑名隊は長岡山を駈け下って後退に移るが四方に敵あり想像を絶する混戦であった
 長岡山から西方五キロの白岩に引いて防戦する。さらに追撃した西軍と、寒河江川をはさんで約二時間銃撃戦を続けるが、南側正面からは薩摩軍が寒河江川を渡河し、東側慈恩寺方面からは米沢軍が迫る
 午後五時過ぎ、白岩より北へ銅山越の悪路を引き上げる

桑名藩戦死者(寒河江の戦)
 浅井金五郎   大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十三歳
 伊藤喜三郎   江戸足軽/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
 梅沢宗助    足軽嚮導/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/十九歳
 岡安栄之進   致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/十七歳
 金子覚弥    嚮導役/致人隊/柏崎足軽/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十一歳/庄内・専念寺に墓
 河村正治    大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十三歳
 菊地伊助    雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
 相馬芳右衛門  明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、二年三月四日羽前庄内で死/三十八歳/庄内・専念寺に墓
 田中鎌五郎   雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
 谷三十郎    軍監/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
 長島民蔵    大砲隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、庄内大山で死/二十四歳
 長瀬金太    金八とも/嚮導/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
 樋口治左衛門  書院番/銃士/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、十一月二十六日庄内大山で死/四十一歳/庄内・専念寺に墓
 不破右門    大砲隊小隊頭/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、庄内大山で死/二十九歳/庄内・専念寺に墓
 町田鎌五郎   老之丞の弟/致人隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
 三谷卯之右衛門 大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十七歳
 山脇仲右衛門  馬廻/雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十四歳
 渡部浅右衛門  病院掛/明治元年九月羽前寒河江で傷、二年一月十一日庄内で死/庄内・専念寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

・肘折    9月21日
 夜を徹して山道を歩き、翌二十一日昼頃肘折温泉に到着。夕方まで休息
 さらに夜道を下る
・角川
・古口    9月21日
 夜十二時頃古口に着す
・清川    9月22日~25日
 翌九月二十二日、古口から最上川を舟行し清川に着す。翌二十三日、神風隊はこの地の守備についた。半隊は鶴岡への間道の板敷に、残り半隊は新巻山方面に布陣し西軍の侵攻に備えたのである
 寒河江の激戦で手痛い損害を受けた雷神致人の二隊はそのまま清川に宿陣する
 二十三日、会津藩降伏
・鶴岡    9月26日
 二十六日、庄内藩降伏。桑名隊は庄内藩と共に降伏する
・大山    9月27日
 桑名隊、清川より城下を避けて大山(鶴岡の西方六キロ)に移り謹慎する。謹慎、幽居は明治三年三月一日まで続くこととなる。総数二百三十名(桑名藩士約百七十名)、こんな大勢の桑名兵に分宿された大山の村民にとって、はなはだ迷惑であっただろうが、村民達は温かく持て成してくれた

※ 平成八年三月、「桑名藩戊辰戦争記」の筆者は、桑名藩士らが当時受けた厚遇の御礼をいうため大山を訪問されたそうである
※ 桑名藩主松平定敬公だが、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡り、箱館戦争終結前の明治二年(1869)四月、従者と共にアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡る。しかし路銀不足で外国への逃亡を断念して同年五月十八日に横浜へ戻って降伏、明治五年(1872)一月六日に赦免された

end

桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.03/31(TUE)

北越最後の戦闘 三条・加茂防衛戦




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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慶応 4年(1868)

・北越最後の戦闘
       8月 1日~ 4日

 新発田藩は転向し長岡城再落城により東軍の北越防衛戦線は一挙に瓦解した。米沢藩がいち早く本国を指して引き上げると、仙台、村上、上山ら諸藩も次々と続き、長岡藩兵は多数の老幼婦女子と共に険阻八十里越から会津へと落ちて行った
・三条    8月 1日
 八月一日、雷神隊(立見鑑三郎)は日の浦木ノ芽峠の最前線から引き上げを始め、地蔵堂で桑名三隊が合流し、佐川官兵衛隊らと共に全軍三条に着く
   二日、さらに各隊は順次加茂へと引き上げにかかる。神風隊が三条一の木戸を守備し殿軍を引き受けたが、昼前に突如敵大軍が襲来して戦闘となる。五十嵐川を挟んでの烈しい銃撃戦は夕方まで続くが、夜に庄内、佐川隊、最後に神風隊も加茂へと引き上げた
・加茂    8月 4日
   四日、加茂防衛戦
      会津三隊、庄内二隊、桑名二隊のあわせて五百余名、夫々守備につく。対する西軍は薩摩、長州の五隊を主力とし兵力は五千余という
 昼過ぎ、西軍は三条から加茂への本道を攻め寄せ、下保内の前哨陣地を守備していた会津佐藤織之進隊は西軍の猛攻に耐えきれず山側の福島にある桑名隊の胸壁陣地に逃げ込む。なお肉薄する西軍に、神風隊(町田老之丞)と致人隊半隊約七十名が迎撃して一歩も引かず。このまま激戦は日暮れまで続いた。戦況を打開するため鹿峠より迂回して加茂を攻めようとした西軍の一隊があるが、青海神社の高地に陣を敷いていた神風半隊がこれを撃破、敗走させた
 やがて夜となり桑名隊は引き上げを始めた
      石井勇次郎の奮戦
 同じくこの日、天神口は石井勇次郎が守備した。石井の指揮下にあったのは加藤鋳介、桜井得右衛門、山本数馬と歩兵七名(加茂で募集した町兵)で、石井を含めても僅か十一名の兵力である。そこへ午後遅く敵二小隊が来襲する。と、石井の指揮のもと決死に応戦し戦闘は日暮れに及ぶも兵力は圧倒的に不利で、援兵を本営に求めた。そこに村松方面から帰陣した佐川官兵衛が居て、借りた十名の援兵を連れて元の陣地に戻ると敵は諦めて退いた。ここでさらに石井は苦戦中の味方を助けるべく、高地からかけ下って本道上を攻める敵の背後に出て、至近距離から一斉射撃をあびせた。これに味方も励まされ、挟撃すると敵は動揺して引き始めた
 ※この戦闘で石井は敵弾を受け(三度目)駕籠で津川へと退くことになる
 西軍は完全に加茂を包囲し、残された脱出口は黒水から沼越峠を越えて津川方面への山道のみである。此の夜遅く加茂へ集結した神風、致人の両隊は黒水で雷神隊(立見鑑三郎)と合流し津川へと脱出していった

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石井勇次郎(いしいゆうじろう)

弘化3年(1846)1月5日)-明治36年(1903)6月17日)、幕末の桑名藩士、新選組隊士。変名は源次郎
経歴
 剣は直心影流。桑名藩では御馬廻りを務め、慶応3年(1867)6月14日には江戸で剣術を習っていたが、慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が始まると、大鳥圭介率いる旧幕府軍に投じて今市、会津へ転戦した。柏崎で桑名藩の松浦秀八率いる致人隊に所属し、鯨波戦争では戦傷を負った。会津戦争で籠城戦が始まると同藩士谷口四郎兵衛と共に藩主・松平定敬を護衛して仙台へ退去した。なお会津でも負傷している。仙台で榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地渡航を決意し、土方歳三配下の新選組に入隊する
 箱館戦争では新選組分隊差図役として活躍したが、明治2年(1869)5月15日、弁天台場にて降伏。謹慎後、同年11月23日に釈放されて国に戻った
『戊辰戦争見聞略記』を著した
明治36年に死去。享年58
--引用・要約;「石井勇次郎」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014. 1/21(火)12:11--
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桑名藩戦死者
・宇都宮新兵衛 嚮導/致人隊/明治元年八月二日羽前寒河江で戦死/三十六歳
・吉岡盛之助  元地組/神風隊/明治元年八月二日越後三条三竹村で戦死/十六歳/同地・安如寺に葬
・豊田喜右衛門 書院番/神風隊/明治元年八月四日越後加茂で戦死/四十五歳/同地・大昌寺に葬
・不破専次郎  市左衛門の四男/致人隊/明治元年八月四日越後加茂で戦死/十九歳/同地・大昌寺に葬
・横山重五郎  神風隊/会津よりの御拝借兵/明治元年八月四日越後加茂で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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・津川    8月 7日~10日
 八月五日、加茂を後退した桑名隊は、七日夕津川宿に着き、ここで遅れていた傷病兵をまとめ津川を発したのは十日朝であった。その夜は上野尻宿、翌日は会津坂下を経て十二日夕刻会津若松城下に入り、郭内五の丁興徳寺を本営とした
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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.03/30(MON)

与板攻防戦




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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慶応 4年(1868)

・与板    5月27日~ 7月30日
攻防戦 1
 五月二十七日、桑名三隊は地蔵堂に進出し、村上藩隊、会津萱野隊と与板(近江彦根二十五万石の支藩で、井伊直安二万石の陣屋あり)に出撃した。入軽井の向い側山上に敵兵を散見する。雷神隊は山を越えて黒坂に出るとなお進撃、後発の萱野隊が追い着き、夕刻に正面を萱野隊が、横合いを致人隊・神風隊が発砲しながら敵陣に迫る。敵、浮足立って敗走し第一高所の敵陣「雷塚」を乗っ取った
 桑名隊は奪取した敵陣に野宿、神風隊は黒坂へ戻り野営する
 桑名隊戦死 木原熊右衛門 神風隊/五石二人扶持/三十一歳
 〃  負傷 吉村久太郎 致人隊
※ 家老吉村権左衛門を誅殺した山脇隼太郎と高木貞作は柏崎を逐電して衝鋒隊に入り指揮役として転戦を続けていた。この頃、二人が属した衝鋒隊先鋒は大面で薩摩隊と交戦、白兵戦で大功があったという
攻防戦 2
 二十八日、前日の戦闘で敗退した西軍は長岡関原の本営に報告すると、西軍は続々と援軍を増派した
 先発隊(軍監岩村精一郎指揮)
 ・長州奇兵隊一、三番小隊と砲三門
 ・薩摩二番遊撃半隊
 ・須坂藩一小隊(元込銃装備)
 これらの隊は二十八日早朝信濃川を渡河し与板に到着、本道金ヶ崎方面には長州、須坂、与板兵を、西側山地方面には薩州、長報国隊、飯山、与板兵を配置した
 早朝より戦闘が始まる。本道方面では両軍とも一進一退、山地方面の西軍は塩入峠・陣ヶ峰に飯山・富山・与板の兵に加え新たに薩州・長州の一小隊を増援して攻勢に出るが、精強桑名隊ふんばり、こちらも一進一退の山岳戦が続いた。そうこうして、山地方面で深く突進した西軍が、その退路を断たれる恐れが生じ慌てて後退する。東軍、これにつけ入って攻勢に転じ西軍を急追した
 桑名隊は塩入峠から南の陣ヶ峰、大坂山の敵陣地を奪取した
 与板攻略を目前にしたが、敵の応戦も必死となり夜もせまり、引き上げる
 桑名隊戦死者
  鈴木右衛門七 致人隊軍監/三十俵三人扶持/二十四歳/大砲にて横腹撃ち抜かれる
  細谷又之丞  雷神隊/百石/二十二歳/大砲にて額打ち砕かれる
  山内半平   御軍事方/二十五石三人扶持/二十六歳/腹撃ち抜かれる
  松野亀若   雷神隊/十八歳/胸撃ち抜かれる
  清水竜助   致人隊柏崎番組/四石二人扶持/二十三歳/腹撃ち抜かれる
    負傷者
  真鍋虎次   雷神隊/三十四歳
  三輪為蔵   致人隊/五石二人扶持/十八歳
  島田三五郎  雷神隊/五石二人扶持
 二十九日、本道方面は再度原村(元与板手前)まで進軍、西軍も陣地を守備し攻撃には出ず、小競り合いのみである。山道方面でも両軍対峙する
 本道を守備していた致人隊関矢金右衛門(五石二人扶持/二十五歳)が背中を撃たれて戦死し、大村一郎治が負傷した(そのまま再起できず鶴岡で死亡)
 六月一日、敵の拠点剣ヶ峰(※桑名資料では備後山)を攻略することとなり、立見鑑三郎の雷神隊、大平九左衛門の神風一分隊、萱野右兵衛の一小隊が出撃した。しかし、剣ヶ峰から北に連なる稜線には既に西軍の堅固な陣地が築かれ、長州二小隊・松代一隊・尾張兵・須坂二小隊の六隊が守備しており、立見ら強攻せずに撤退する
 桑名神風隊副隊長 大平九左衛門(百三十石/三十歳)が胸板を撃ち抜かれ戦死
 二日、海道出雲崎を拠点とする西軍は、与板西方山地に進出した東軍(主に桑名隊)を掃討するため北野荒巻方面に薩長軍主力の六百名を三隊に分けて出撃する。右翼から荒巻を攻めた富山高田隊には神風隊の半数二十余名が応戦し、近づく敵を引き付けて狙い撃ちした。北野を守る雷神隊も前面の平坦地を押し寄せる敵を狙い撃ちすると、夕刻ついに敵は死傷多数を出し退却する
 荒巻を守備する神風隊はわずか二十余名であり、午後遅く敵は徐々に迫り来て危険になる、が塩入峠の会津兵一小隊が来援し危機を脱した
 敵左翼隊だが、年友村から急遽駆け付けた庄内、会津の増援部隊に背後を襲われて潰走した
  桑名隊戦死 神風隊小隊頭小森民五郎(書院番/百六十石/二十八歳)胸板を射貫かれ戦死
     負傷 渡辺丈左衛門(雷神隊/四十三歳)
        高林平左衛門(神風隊/七石二人扶持)
        馬場良助(神風隊軍監/二十歳)
 五日、会津藩朱雀隊隊長山田陽次郎(二十八歳)が見附より二小隊を率いて荒巻に到着し、以後荒巻は会津山田隊が守備し、桑名隊雷神神風の半隊は小島谷に進出することとなる
 十一日、馬場三九郎戦死
     米沢藩二小隊(隊頭芋川大膳)が与板本道方面に出兵し、隊長芋川ら数名が桑名致人隊の大川陣まで前線視察にやって来た時、彼らを案内した馬場三九郎の横面を流れ弾が撃ち抜いた
 十五日、致人隊隊長松浦秀八、鯨波の戦で受けた銃創も完治し、兵の拝借のため会津に向う(会津からの拝借兵は五十人)
 ※ なお、寺泊・加茂等近村からも歩兵を徴募し、総数百八十人が補充された
 二十日、石井勇次郎が戦場に復帰
 二十四日、桑名隊をはじめとする東軍は与板と出雲崎の敵軍事拠点を結ぶ補給線の要地木ノ芽峠を攻略
 ※ 三方を敵に囲まれた最前線の木ノ芽峠から与板を窺うが戦線は膠着する。桑名致人隊、大砲隊半隊それに水戸脱走兵の一小隊は鷹ヶ峰を中心に、左の山上に上山藩、本道塔ノ浦方面に会津藩、信濃川沿いに水戸脱走兵の半隊が夫々守備していたという
 七月九日、松浦秀八が会津町兵五十人を引き連れ帰陣
   十七日、江戸が「東京」と改称される
   二十二日、乙茂での小競り合いで神風隊玉井五郎兵衛戦死
 ※ 東軍の本営は見附にあり遠い。与板方面の西部戦線は新たに島崎村に軍議所を設けた
 七月十四日、軍議(会津、米沢、桑名、長岡、庄内、村上、三根山ら諸藩)
 信濃川より西は会津一瀬要人を総督とし、川より東は米沢千阪太郎左衛門を総督とする
   二十五日、西軍が新発田領松ヶ浜に大挙上陸し、さらに新潟太夫浜にも続々と上陸中との報ある
        この日の朝、長岡藩河井継之助は精鋭八百を引き連れ八丁沖を渡って長岡城の奪回に成功する
   二十九日、長岡城再び落城する。この戦で河井継之助負傷
        これらによって東軍は三条まで総軍退却を決めた
        一方、新発田藩の手引きで新潟に上陸した西軍は、そこを守備していた仙台・米沢の二小隊を破り、なおも水原、五泉、村松を侵攻しつつ南下した
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桑名藩戦死者
・木原熊右衛門 足軽/神風隊/明治元年五月二十七日(二十二日とも)越後元与板で戦死/同国大川津・常禅寺に葬
・島田三五郎  足軽/雷神隊/明治元年五月二十八日越後与板で傷、八月二十六日立久川で水死
・清水良助   竜助とも/致人隊/柏崎番組/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/二十三歳
・鈴木右衛門七 軍監/致人隊/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/二十四歳(二十七歳とも)/同国大川津・常禅寺に葬
・真鍋虎治   雷神隊/明治元年五月二十八日越後元与板で戦死/三十四歳
・関矢金右衛門 足軽/致人隊/明治元年五月二十九日越後与板領大山で戦死/二十五歳/同国大川津・常禅寺に葬
・大平九左衛門 神風隊/使番席副長/明治元年六月一日越後与板備後山で戦死/三十歳/同国大川津・常禅寺に葬
・景山勝蔵   大砲隊/明治元年六月一日越後与板領大山で傷、北野で死
・小森民五郎  書院番/神風隊副隊長/明治元年六月二日越後北野で戦死/二十八歳/同国大川津・常禅寺に葬
・岩尾忠二   大砲隊軍監/明治元年六月十一日越後与板領大山で戦死
・馬場三九郎  広間番/致人隊副隊長/伏見、宇都宮と転戦/明治元年六月十一日越後与板領大山で戦死/二十九歳/同国大川津・常禅寺に葬
・村田錬太郎  柏崎足軽/致人隊/明治元年六月十三日越後与板領大山で戦死/十八歳
・中島角右衛門 角左衛門とも/軍事方、御側役/明治元年六月二十四日越後日ノ浦で戦死/二十九歳
・中島 紈   軍事方/明治元年六月二十四日越後与板領大山で戦死/同国大川津・常禅寺に墓
・梶川弥左衛門 火術師範役/大砲隊小隊長/明治元年六月二十七日越後与板領大山で戦死/同国大川津・常禅寺に葬
・鈴木弥三郎  足軽/神風隊/明治元年六月二十八日越後加茂で戦(病)死/同地・大昌寺に葬
・夏井忠蔵   明治元年七月十三日越後与板日ノ浦で戦死
・前川専次郎  森田とも/致人隊/明治元年七月十四日越後与板領大山で傷、十六日加茂で死/二十歳/加茂・大昌寺に葬
・  幸二郎  東都伝習生/明治元年七月二十日越後日ノ浦で傷、のち死
・玉井五郎兵衛 馬廻/神風隊/明治元年七月二十二日越後乙茂山で戦死/三十五歳/同国大川津・常禅寺に葬
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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・北越最後の戦闘
       8月 1日~ 4日

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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.01/24(SAT)

長岡城落城 妙見榎峠の戦・朝日山血戦・長岡城落城




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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慶応 4年(1868)

・長岡    5月 9日
長岡藩(七万四千石)、交戦に踏み切る。五月二日、長岡藩軍事総督河井継之助は西軍軍監岩村精一郎と会談に及んだのだがわずか三十分で決裂(小千谷・慈眼寺)
 軍議(桑名側資料では長岡城下渡町小熊屋)
・会津藩 越後口総督一瀬要人、水原奉行萱野右兵衛、朱雀中隊頭佐川官兵衛ほか
・長岡藩 軍事総督河井継之助、軍事奉行川島憶次郎、花輪求馬、安田多膳
・桑名藩 軍事総宰服部半蔵、軍事奉行山脇十左衛門、岩崎五太夫、町田老之丞、馬場三九郎、立見鑑三郎
・衝鋒隊 隊長古屋佐久左衛門、軍監松田昌次郎(会藩)
・浮撃隊 隊長木村大作(会藩、のち戦死)
 結果、作戦は西軍に奪われた妙見の攻略に決した
       5月10日~19日
妙見榎峠の戦
 十日、長岡藩本営摂田屋村光福寺に集合し出撃する。この日桑名は神風隊(町田老之丞、四十人)が出撃、雷神致人の両隊は長岡に残留する。進撃して浦柄の頭上、妙見への裏山に達した頃、本道榎峠方面で激しい銃砲声、信濃川対岸三仏生村からの敵掩護砲弾が激しく、本道長岡藩川島隊が引き上げて来る。入れ替わり桑名神風隊が前線に出て抗戦、浮撃隊も到着すると敵は暗夜の斬り込み戦を恐れて後退、妙見山奪取。十一日、西軍は新手の大軍(主力は薩外城隊、長奇兵四番小隊)で来襲する。桑名町田老之丞は兵をまとめ妙見中腹で応戦するが、敵は戦意旺盛で新式後装銃(スナイドル銃)を持った隊もあり、応援には奇兵二番小隊、長府報国隊、松代兵が続いて手強い。しかも指揮するのは参謀山県狂介自らと来援した仮参謀時山直八である。対する桑名隊は、致人隊と大砲隊が砲二門をもって駈けつけ神風隊と交代する。敵も戦略の要衝妙見山を奪還すべく必死に挑み、榎峠妙見をめぐる攻防は西軍が桑名隊勢をじわじわと圧迫しつつ終日続いた
 桑名藩隊戦死者
  致人隊 河村善左衛門 四十二歳/右膝を撃ち抜かれ重傷、その後出血多量で五月二十日加茂の病院で死亡
朝日山血戦
 会津の佐川官兵衛と桑名の山脇十左衛門は作戦を協議して、浦柄の谷をへだてた前面の朝日山(三四一メートル)を取り、頭上から西軍を射撃する朝日山占領作戦を敢行する。午後二時過ぎ、長岡藩安田多膳の槍隊、萱野右兵衛隊、立見鑑三郎率いる雷神隊半隊が激しい雨を利用し、浦柄川を渡って西側から朝日山に向うと、西軍もこれを察知し奇兵隊選抜隊が山南側から頂上を目指す。が、先に到着した立見らは直ちに陣地構築にあたる
 十二日、長岡藩の砲二門、桑名藩の砲一門を運び上げると敵陣地(横渡方面)への砲撃を開始した
 十三日、(この日濃霧)東山道軍仮参謀、長州の時山直八は奇兵隊二・五・六番小隊(約二百人)、薩摩二小隊半(約百五十人)を率いて朝日山に向け前進を開始する。と、たちまち山頂間近の前進陣地(会津鎮将隊/萱野右兵衛)を破り、山頂陣地に肉迫、さらに火力で圧倒した。この危機に立見鑑三郎、一策を計ると敵一瞬たじろぐ。この挙に乗じ雷神隊、安田隊一斉射撃して奇兵隊を山から追い落とした
 この戦中、一人踏み止まり自ら隊旗をふるって叱咤激励した仮参謀時山直八だが、桑名大砲指南役三木十左衛門が放った銃弾が顔を直撃して戦死する(盟友山県の嘆きはひとかたで無かったという)。奇兵隊瓦解し潰走す
 東軍戦死傷者
  会津 戦死六人、傷者二人
  長岡 傷者六人(うち一人後に死亡)
  桑名 戦死 馬場清治(軍監助勤、三人扶持、二十三歳)
        本田龍蔵(馬廻、九十石、小姓山内半平の弟、二十四歳)頭部撃ち抜かれる
        戸狩金吾(御先手組、五石二人扶持、二十一歳)胸玉入る。十九日に死亡
     傷者 山添仙次(新郷、三石二人、四十四歳)
        川澄金九郎(御書院番、十八石三人扶持、二十四歳)深手、胸打抜かる
        久松三郎(三人扶持、十八歳)肩打抜かる、九月二十日寒河江にて死亡
        河合徳三郎(御横目、二百石、三十歳)深手、膝頭撃たれる
        杉村安蔵(新郷、三石二人)
        相場鉦次(新郷、三石二人扶持)
※ いずれも雷神隊隊士である。新郷とは始めて召し出された下級の職である
※ 桑名藩隊戦死者
 ・馬場清次  雷神隊/軍監助勤/明治元年五月十一日越後朝日山で戦死/二十三歳/長岡・長永寺に葬
 ・戸狩金吾  雷神隊/明治元年五月十三日越後朝日山で傷、十九日死/二十一歳
 ・本田竜蔵  本多とも/雷神隊/馬廻役/明治元年五月十三日越後朝日山で戦死/二十四歳/長岡・長永寺に葬
 ・山添仙司  仙治とも/足軽/雷神隊/明治元年五月十三日越後朝日山で傷、七月二日若松で死/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
 西軍戦死傷者
  長州 戦死五人、参謀時山直八、嚮導高橋淳太郎、村田団蔵、兵士末武省作、秦音之進。傷者三十四人(うち八人死亡)
※ 時山直八養直
 松太郎とも/茂作の長男/無給通士/変名萩野鹿助、玉江三平/吉田松陰門/江戸で藤森弘安、安井息軒に学び、文久二年諸藩周旋掛/下関攘夷戦、禁門、幕長戦に活躍/明治元年奇兵隊参謀/五月十三日越後朝日山で戦死/三十一歳/同国小千谷に墓/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

長岡城落城
 西軍は横渡の陣まで後退、東軍の藩隊は迂回し小出島(現小出)まで出たが一気には押し切れない。西軍は対岸の三仏生から、東軍の藩隊は榎峠からと信濃川を挟んでの砲撃は五月十八日まで続く
 十九日、海道軍軍監三好軍太郎、自ら隊を率いて濃霧のなか信濃川渡河に成功。激戦の末長岡城を落とす
 援軍の報あり、寺沢村に居た神風隊(町田老之丞)は六日町に急行するが既に長岡城は落城しており、此処を引き上げて人々の向った栖吉、成願寺方面に向うこととなる
     *
 西軍が城下の中島へ上陸した時、河井継之助は摂田屋村の本営光福寺にいた。通報を受けるや直ちに一隊を率い、自慢のガットリング砲と共に城下へ駆けつけると、河井自ら砲を発射して防戦したが適わず、昼前には城に火をかけて脱出した。藩主牧野忠訓、老公忠泰も八十里越から会津若松を指して落ちのびた
     *
 この頃まだ妙見方面にいた桑名隊だが
 朝日山を守備していた雷神隊は萱野隊と共に川島隊を嚮導として山道を迂回し栖吉に向い、妙見浦柄方面の部隊は萩原隊を嚮導として佐川隊、衝鉾隊の順に続く。町田の神風隊が殿を引き受けた。致人隊が六日市に着いたのは既に夜半で、全軍がこの地を引き払ったのは夜明けであった

 五月二十日、脱出先を栃堀方面に変更
 二十一日、栃堀に着、佐川、萱野、川島、萩原隊らと合流。各隊とも一旦加茂に集結し、のち進撃することとなる。立見の雷神隊は河井継之助本隊六百人を追い加茂に直行した
米沢藩の来援 奥羽越列藩同盟により米沢藩色部長門が越後方面総督となり、兵二千(実は六百人)を率いて出陣し先鋒が加茂に到着した
 二十二日、加茂で軍議
  一、会津藩 総督一瀬要人、軍事奉行西郷刑部、秋月悌次郎
  二、米沢藩 大隊頭中條豊前、参謀甘粕備後
  三、桑名藩 軍事奉行小寺新吾左衛門、金子権太左衛門、致人隊長松浦秀八、雷神隊長立見鑑三郎
  四、長岡藩 総督河井継之助、軍事掛花輪求馬、松村忠次右衛門
  五、上山藩 家老祝新兵衛
  六、村上藩 家老水谷孫兵次
  七、村松藩 家老森重内
 二十三日、昨日に続いての軍議で、具体的な進軍場所を定めた
  ・ 見附口 会津・長岡・米沢の兵、計六百四十人
  ・ 与板口 桑名町田隊(神風隊)六十人/大砲二門桑名大砲隊・会津・上山・米沢の兵、計六百四十人
  ・ 栃尾口 桑名雷神隊八十人・長岡兵九百人、計九百八十人
  ・ 弥彦口 庄内・会津・村上の兵、計六百十人
  ・ 鹿峠  桑名致人隊六十人
 この進軍場所は一時的なもので、五月末に桑名三隊はすべて与板口に、米沢兵は見附口に集結した
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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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2015.01/22(THU)

鳥羽伏見~鯨波戦争 鳥羽伏見・江戸脱走・宇都宮の戦い・柏崎・鯨波戦争




以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
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桑名藩隊行動概略図
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慶応 4年(1868)

・鳥羽伏見  1月 3日
 鳥羽伏見の戦
・大坂    1月 6日
 十五代将軍徳川慶喜、大坂城脱出(会津藩主、桑名藩主共)江戸に向う
・桑名
 中村瑛次ら数人、江戸に向う(二月初めに江戸着)
 町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎、田副嘉太夫ら主戦派の十七人、江戸に向う(二月三日江戸着)
・岡崎
・江戸
 十五代将軍徳川慶喜、上野東叡山寛永寺に入る
       2月16日
 会津藩主松平容保、会津帰還の途につく
       3月 7日
 桑名藩主松平定敬、恭順を名目に飛び藩領の越後柏崎へ向う(横浜を出て海路箱館経由、藩主定敬に随従する者は恭順派を含め約百人。三月二十三日新潟着)
 「七連士官隊」へ入隊した者約八十人と、さらに百二十人は陸路柏崎へ向うこととなる
       4月11日
 江戸を脱走して向島報恩寺に集合する
 参集していた幹部は
  幕人 土方歳三、吉沢勇四郎、小管辰之助、山瀬司馬、天野電四郎、鈴木蕃之助
  会人 垣(柿)沢勇記、天沢精之進、秋月登之助、松井、工藤、等
  桑人 辰巳(立見)鑑三郎、松浦秀人、馬場三九郎、等
 兵隊は
  大手前大隊 凡 700人
  七連隊     350
  桑藩      200
  土工兵     200
  第二大隊    600
 軍議
  総督  大鳥圭介 
  司令官 秋月登之助
  参謀  土方歳三
  軍編成
 伝習隊を中核とする軍団は三軍に分かれて行動することになる
  先鋒(前軍) 伝習隊第一大隊  隊長秋月登之助         700人
        桑名藩隊     〃 辰巳(立見)鑑三郎     200
        回天右半隊    〃 相馬左金吾         100
        新選組      〃 土方歳三          30
        伝習砲兵     〃 秋月兼務、四斤山砲二門   100
四斤山砲(2013.02/17)
  中軍    伝習隊第二大隊  〃 本多幸七郎         600
  後軍    歩兵第七連隊   〃 山瀬司馬          350
        会津藩別伝習隊  〃 工藤衛守          80
        土工兵      〃 小菅辰之助         200
 全軍、宇都宮をめざし江戸川沿いを北上。先鋒は松戸を経て小金宿(現松戸市小金)で宿泊。中軍は松戸宿で宿泊、後軍は大林院を出るが国府台に留まって野営。先鋒隊は小金宿で大鳥隊と別れ鬼怒川べりを北上して、下妻・下館を経て下野の芳賀郡に入る
 大鳥隊(中、後軍)は先鋒の進んだ水海道方面を避け、関宿を経て宇都宮に入ることとした
       4月12日
 江戸城開城
・下妻    4月16日
 下妻藩から軍資金を
・宇都宮   4月19日
 宇都宮城を落す(大鳥旧幕府軍前軍)、全軍宇都宮城集結
 宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)
       4月22日
 安塚の戦い 新政府軍が壬生に集結中の報があり、攻撃を仕掛けるが失敗
 壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
 宇都宮城攻防戦 奪還を期す新政府軍の猛攻を受け今市、日光に向け敗走する
 宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)

※ 宇都宮城の攻防戦に敗れた大鳥旧幕府軍は日光に退き、さらに軍を再編するため会津田島に向い、田島には閏四月六日から十六日まで滞留した。この間に桑名藩隊は藩主定敬が謹慎を続けている越後柏崎に向うこととなる(会津若松→越後街道)
・柏崎  閏 4月 3日
 恭順派首魁吉村権左衛門誅殺。斬ったのは山脇隼太郎(二十歳)、高木剛次郎(二十二歳)の二人。これを機にして主戦派が君公定敬の意に沿い、藩を主導することとなる
     閏 4月12日
 桑名藩隊、残らず柏崎に入る。極楽寺、西光寺へ分宿
     閏 4月13日
 君公定敬に拝謁
     閏 4月14日
 新軍制を定める
 軍事奉行 山脇十左衛門、小寺新吾左衛門
  一番隊(雷神隊)隊長 立見鑑三郎
  二番隊(致人隊)〃  松浦秀八
  三番隊(神風隊)〃  町田老之丞
  大砲隊(大驚隊)〃  梶川弥左衛門
・鯨波  閏 4月17日
 衝鋒隊半大隊約二百人が来援(隊長松田昌次郎)
 続いて浮撃隊一小隊約百人が来援(指揮役、会津藩木村大作)
     閏 4月27日
 新政府軍一千余人、進攻を開始。雷神隊は北陸街道の海側、山腹を巻いて通る崖沿いの道「嫁入坂」で、致人隊は北陸街道の海側、嫁入坂にかかる手前砂浜の上部岩山(鬼穴の上)で、神風隊は北陸街道の山側の小高い丘、北条への間道入口(鯨波の部落が見下ろせる)で待ち構えた。桑名藩隊ら奮戦して進攻を防ぐが、何しろ敵は大軍であり入れ替わり立ち代わりの攻撃に苦戦。午後、三木十左衛門の大砲隊が鬼穴上から四斤山砲を発射すると敵集中地点に二発続けて命中し敵は崩れ立つ。桑名隊立見、馬場ら頃合いを見て斬り込むと敵たまらず退くが、果して大反撃に出た。左手の山上から長州の大砲二門が次々と発射され桑名隊町田は引き上げの合図を出した。態勢を立て直した敵が押し寄せ、掩護する大砲の発射はますます激しく、味方はじりじりと後退する
 互いの砲戦のうち夕暮れが迫ると敵は深追いせず、鯨波の部落に火をかけ青梅川の元の線まで引き上げた
 桑名藩隊戦死者
  駒木根元一  致人隊/書院番/五十石/三十六歳
  小出冬次郎  致人隊/小筒組/五石二人扶持/二十六歳
  余語代吉   雷神隊/朔次郎弟
  平野吉五郎  雷神隊/新郷/三宅厚の若党/二十三歳
  三宅 厚   雷神隊/馬廻/弥惣右衛門伜/十七歳

 桑名藩隊戦死者 --引用;幕末維新全殉難者名鑑--
 ・梅林善次   致人隊/銃士/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、八月二日加茂で死
 ・駒木根元一  致人隊/銃士/書院番/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で戦死/三十六歳
 ・平野吉五郎  雷神隊/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、二十八日半田村で死/二十三歳
 ・三宅 厚   雷神隊/佐治為約の三男、寛の弟/二百石、馬廻/明治元年(閏)四月二十七日越後鯨波で傷、五月一日妙法寺で死/十七歳(二十二歳とも)
 ・余語代橘   明治元年(閏)四月二十七日越後柏崎で戦死(行方不明とも)
 ・吉村権右衛門 明治元年閏四月越後柏崎大久保で殉難

 新政府軍戦死者等
      戦死 負傷
  長州兵   3   5
  薩摩兵   0   0
  加賀兵   6  27
  富山兵   0   4
  高田兵   3   8
  計    12  44
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桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)



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