カテゴリ:凌霜隊戦記( 11 )

2014.12/25(WED)

一、江戸出発 本所中ノ橋~
脱走の諸隊合流




郡上藩凌霜隊行動略図(部分引用)
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

一、江戸出発 脱走の諸隊合流
慶応 4年(1868)
・ 4月10日
p. 5
 時に、慶応四戊辰年正月三日、伏見辺の戦争より徳川家不慮に朝敵名を蒙り、慶喜公江戸表へ御引き取りの如し。両海道より官軍東下、東海道の総督有栖川先鋒にて、薩長其外西国筋の諸候追々下向す。又中仙道総督は岩倉殿先鋒にて薩州大垣其外諸大名下向する如し。徳川家には降伏と見えて、慶喜公には東叡山御蟄居、江戸参勤の諸大名且つ知行取りの御旗本に至る迄、それぞれ御暇下され・・
〈中略〉
 これに依り、青山家脱走人には、隊長朝比奈茂吉(当年十七才)、副長坂田林左衛門、速水小三郎、其外には小出於菟次郎、菅沼銑十郎、尾嶋左太夫、氏井儀左衛門、中岡弾之丞、田中亀太郎、売間直次、武井安三、山脇金太郎、桑原鑑次郎、松尾才治、小野三秋、米沢小源治、岡本文造、矢野原与七、中瀬鐘太郎、鈴木三蔵、池尾幾三郎、山脇鍬橘、斎藤己喜之助、牧野平蔵、金子勇次郎、浅井晴次郎、斎藤弥門、野田弥助、山田熊之助、小泉勇次郎、安村敬
p. 6
三郎、中村国之助、山田惣太郎、岸本伊平衛、土井重造、山片俊三、白岩源助、石井音三郎、林定三郎、此外に河野綱翁(是は旗本)服部半蔵(会藩脱藩、実は常五郎)、都合四十人、外に小者六人(孫三郎、源蔵、久次郎、久七、小三郎、藤平)。当藩には会津公へ属し度き志願に付き服部氏を相頼み、四月十日本所中ノ橋へ集合し、同所堅川通り船にて下総国関宿より前林と申す処へ十二日上陸、それより同国磯部村勝願寺へ着(前林より一里程、御代官地也)此寺へ三夜逗留す。余程大寺にて候へども田舎寺の事故、布団はなし、銘々相調にて夜を凌ぎ、誠に難渉致す。
 十四日、尾嶋、牧野、斎藤弥門、山片 氏井、関宿近辺迄斥候となり罷り越し候処、関宿候には人数手配りの様子見受け、並びに土人の風説には古河候、結城候にも出兵して勝願寺へ押し寄せ候由、銘々引き取り申し聞け候。(中之橋より草風隊一緒に乗船す。是は御旗本、伊予松山藩、水府藩也)右に付、其夜俄に隊列を組み勝願寺を出陣して前林に至る。其勢草風隊共都合百余人、此所より出舟して関宿をさして罷り越し、同所にて一陣せんとす。さて城近く成るに随ひ夜も明くる様子となるに敵と覚しきもの一人もなし。それより同所堺町と申す処へ上陸、此処にて兵糧を遣ひける時、・・
〈後略〉
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行動日録
・一〇日 郡上青山藩凌霜隊は本所中ノ橋に集合
・一二日 船で下総関宿から前林に上陸して三泊する
・一四日 草風隊とも百余名は深夜に出陣すると前林で再び乗船、関宿(千葉県)を経て境町(茨城県)に上陸した。敵、一人もなし
・一五日 境宿で草風隊、貫義隊、七連隊、凌霜隊が合流し八百余の勢力となる
・一六日 小山宿の戦闘
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2015.05/04(MON)

一〇、降 伏 猪苗代




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写真;猪苗代湖、2015.04/28
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

一〇、降 伏 開城、猪苗代へ退去
明治元年(1868)
・ 9月21日
p.40
〈前略〉
・・諸兵隊には二十三日早朝より追々三ノ丸広場へ屯集す。且つ大小砲、鎗、長刀其外器械類は北大手へ運び、大小は其儘猪苗代迄帯苦しからざる由にて銘々帯し、追々広場へ集る所の諸兵隊凡そ三千人余、此の外官軍応接役人(若松城に残る也)、病人、婦女子、小者迄凡そ二千人、都合五千余人
病人は青木村(城の南の方半道程)小田村(小田山の麓也)小山村(城の南の方一里程)婦女子幷に十五歳以下男幷
p.41
に六十歳以上男は何れなりとも勝手次第、直ちに町家に罷り越し候様達しこれ有り。岸本には城中にて不慮に手負ひ歩行むつかしく、拠んどころなく小山村へ罷り越す
 さて、三ノ丸広場へ残らず集り順次に隊列を組み埋門より繰り出す。途中往来の両側に官軍見物沢山にて一統大よわりなり。猪苗代の街道も山坂にて難所多し、途中に官軍の屯所を見るに、尾、紀、薩、長、土、大垣、笠間、黒羽其外諸藩人数也。尤も人数は引揚げと見て輜重方ばかりの様也。城より半道余進み峠これ有り。(上り十丁余、下り四五丁)此峠の中等にて兵糧を遣ひ、それより追々進む程に殿口原(※戸ノ口原)といふ所これ有り。(余程大切なる原にて山も少々これ有り)此地にて八月二十三日大戦争これ有り。討死人骸二十程、銃服の儘これ有り。最早一ヶ月にも及ぶゆゑ見向きもならぬ有様、香ひ鼻をつき抜く程にて言語に絶す。皆会藩と見ゆ。(此処破れて城下へ廻し将軍山破れて此原にて防戦す。是も利なくそれ故ニ骸を取片付る事ならず。かやうに情なき有様になる)是を見て一統涙を流し通行す。程なく猪苗代湖水とて大なる水海有り。(四方へ四里とて大湖也。此辺り景色殊に宜し)此辺より山は追々低くなり、田畑多く右へ湖水見えて、籠城後久々にて世界へ出でし心地也・・
〈後略〉
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行動日録
・二一日 降伏 会候、上杉家の勧告を容れて仁和寺宮に降伏を申し入れた。凌霜隊にも異存無く署名帳に認めて日向内記まで提出した
・二二日 会候父子、一同に「御目見え仰せつけられ」夜、滝沢村妙国寺へ引退、謹慎
・二三日 城明け渡し 武器は大小を除き全て官軍に引き渡し。諸隊は早朝より三の丸広場に集合、その数凡そ三千人、その他残留役人、病人、婦女子、小者まで凡そ二千人、都合五千余人。兵隊は順次隊列を組んで埋門より繰り出し、午後六時過ぎ全員猪苗代に着、本田和泉(菓子屋)と知学(町医者)の二軒に分宿
     岸本伊兵衛は城中で負傷したので小者孫太郎をつけて小山村に残留させる
・二四日 大小残らず名札をつけて会津御用局へ差し出し、無刀となる
・二五日 雪一尺余、寒気きびしく一同難渋。米は玄米配給、朝比奈始めこれを手杵でつく
     取締り官軍は始め尾州、彦根、大村、数日後上杉家と交代
End
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
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2015.01/09(FRI)

九、若松城に入る 会津若松市




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写真;若松城、2013.03/12
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

九、若松城に入る 籠城戦
慶応 4年(1868)
・ 9月 6日~
p.32
 六日、四ツ時頃より瓦町焼払、昼頃此宅へ桑原、安村同道にて来り申されけるは、朝比奈氏始め残らず四日に城内へ引揚げ、日向内記隊へ付属致し、西出丸と申す処に屯集の由申し聞けらる。これに依り右の段小山田氏よ
p.33
り懸け合はれ候処、小山田氏にも数奇これ無き旨申し聞けらる。即刻此宅を引揚げ城中へ入り一同無事を悦びける。
 さて、日向内記隊は白虎隊とて若年血気のもの五十人也。城中の姿勢を見るに、八月二十三日戦争後
(此時城中には老兵多く、やうやう惣人数百五十人ばかりにて誠にあやうく、此外の隊は残らず所々口々へ出張にて殊の外無人の処を、会藩の内酒井何某と申すもの案内にて三の丸迄二十人程乗込みしを、城内の老兵憤発して追退けたり。同藩の内にも酒井如きもの不忠不義也。斬危事件出来す。されども天罰忽ち来て獄門に懸る。此藩の女兵は天晴の働也。斯の如く城のあやうきを見て必死の憤発して敵を討取り、或は討死、又は家々の此場に出でざる女房たちは老母並びに子供をさし殺し、宅へ火を懸け自害するもあり。後世賞すべきものなり。此中に又不忠もの有り。二百石、三百石、中には五百石位の家来此有様を見て山中に逃げ延びたるもの二百余人。かやうのものを人面獣心といふべきにや。天是を免し候や。昔よりかやうの類これ有り。今に諸人の笑ひ物となる。此ものを禄盗人といふべし。此城は実に固城也。千余人の敵をわづか二百人に満たざる人数にて落城せず。これに依り固城也。人数の憤発推して知るべし。)
残らず城内へ引揚ぐ。婦女子は髪を切り、襠高袴(まちたかばかま)に一刀を帯し勇ましき有様也。城は殊の外堅固にて堀は深し、蒲生氏郷の縄張りにて、大手其外の門々は見通さず横向き故、砲を以て打ち破る事ならず。北出丸、西出丸、二の丸、三の丸とも同様にて天守は五重、本丸の前に有り。此城は兵糧弾薬尽きざる内は何年戦ふとも落城はすべからず。(此城の図を取らざるは残念也。)敵、城下へ迫りしより七日町辺へ陣取り、大手より四五丁先へ大砲を備へ、且つ小田山と申す処へも(此山は城下城中を一目に見下し味方には大難の地也。敵方には至極良地也。是を追はざるは極々不策也。)大砲を備へ、此両所より日夜絶えず、天守を目的に発射し、城中労する事おびたゞし。その内小田山より来る弾丸には猶々困窮す。且つ諸櫓、土塀等は二十三日戦争の時分損したる由にて大小砲の穴数多にて破損おびたゞし。西出丸、白虎隊、凌霜隊持場は四五十間にして土塀内へ胸壁を築き深さ三尺程掘り上げ、此土
p.34
を以て土手となし、狭間々々を銘々の持場を極め、敵来らば防戦すべしと持ち懸く。城内残らず斯の如きなり。(此胸壁築造には朝比奈初め総懸り也。)
・・
〈後略〉
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行動日録
・ 六日 若松城に入る 朝比奈隊長らは既に四日に入城した由を聞き、小山田隊長にかけ合って直ちに入城、一同無事を喜ぶ。城内では日向内記隊(白虎隊)に付属し、同隊と共に西出丸の番兵に当る
・一四日 暁、三の丸方面より味方凡そ三〇〇人が、小田山の敵陣を急襲、始め優勢に見えたが夜明けより敵の猛反撃を受け敗退。午前八時頃、敵は七日町、小田山の各砲門を一斉に開いて砲撃を開始、その烈しさ百雷の落ちる如し..
・一六日 凌霜隊は再び小山田隊付属の命を受けたが、隊長から周旋局へ陳情、日向隊付属に戻る
・一九日 石井音三郎(20)、西出丸に於いて戦死
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2015.01/05(MON)

八、若松城下へ 会津高田




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写真;会津高田(会津美里町)、2013.08/11
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

八、若松城下へ
慶応 4年(1868)
・ 9月 4日~
p.29
〈前略〉
 横川より大内、関山戦争には兎角雨天にて冷気勝ゆゑ、夜中野陣の番兵は実に当惑す。中にも関山は三日の間ゆゑ猶更也。夜中番兵の出入道悪しく、わらじははき詰め、屯集所は根太板ばかり、此所へ銘々菰、筵を着し寝起きし、
p.30
乞食の体にて土間へも寝ることのあり。実に太平の有りがたさを知る。
 併しながら、戦争に馴れるといふものは妙なるものにて、戦争最中に風呂に入りては戦争に行く、又小唄を歌ひながら発射し、中にはすり火にて莨を呑み、江戸(当時は東京也。)火消と同様也。自然のものにて砲声聞ゆれば、号令なくも我先にと進む。然れども、敗軍して敵に襲れる時は其恐しき事、筆紙に尽くしがたし。隔地の立木を見て敵かと驚き、此山蔭より敵出でんか、向ふの横道より敵来らんかと甚だ心配、言語に絶したり。か様の時、味方に出合ひし嬉しさは又言語に絶す。都て度々実地へ向ひし人にあらざれば此味ひ分らず。予も十余度の戦争に出合ひ(小山、宇都宮、横川、大内、関山等也。)しが、業も未熟、胆は猶更ら小なるゆゑ高名は更になし。戦場は業よりも胆の大いなるが監用第一也。平日、業に達したりとも胆の小なるものは用に立たず。平日は業未熟なれども胆の大いなるものは必ず高名す。諸人平日の修行は胆の聢とする稽古第一也。其上にて戦場へ向へば必ず百戦百勝うたがひあるべからず。諸書にも沢山これ有故、此所に顕はすは無益なれども、予実地へ向ひ発明せし故、後鑑にせんと書す。
 さて、氏井、斎藤已喜之助には田畑を越え、・・
〈後略〉
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行動日録
・ 四日 朝九時頃、高田村で矢野原始め隊士十名が偶然落ちあい、関山引揚げの人数(二百人ばかり)共に、敵の裏面を突きながら若松城下に入る。分捕り品多し。夕方、諸隊土手内(外の内)へ引揚げ、凌霜隊は小山田隊長の指図で秋月悌次郎の宅に止宿
・ 五日 此処に逗留
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
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2015.01/05(MON)

七、関山戦争




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

七、関山戦争
慶応 4年(1868)
・ 9月 1日~ 3日
p.26
 此地より半道、此日夕方着、(此地は左右高山にて左の山岸に川有り、是は横川よりの続川なり。宿の入口には中等の山有り。防衛にはよき山なり。)小山田氏にも難無く引き取る。一統着の上軍議評定一決して、川向山へ登り二ヶ所、宿入口山へ一隊、凌霜隊には宿陣の右、裏山へ登り防戦の手筈相極る。行還へも人数を配り、此日は番兵ばかりにて敵来らず。小山田氏には人数配り相済み、市野村へ相廻らる。
 (大内峠破れしは全く頂の間へ人数不足故也。是へ人数配らざるは総督の小山田氏不策也。此人後を構はず真先に進みたるゆゑ、頂の本陣は誠に無人となり、総督の身分にて跡の押勢にも構はず先へ進むは勇のやうに見ゆれ共不策也。此道堅固ならばか様の瓦解せぬものと一同残念に思ふ。)
大内へ向ひし敵は、長、薩、芸、宇都宮、黒羽杯にて、此日は芸州先鋒也。手詰には弱兵にて刀を見て逃走る事おかし。敵見ゆれば大声発して追ひかければ多くは器械を投げ捨て、谷へ逃げかくれける。それ故、味方は大いに苦戦すといへども人数一向損しず、討死、手負二十人は過ぎず。敵は余程損したらん。芸州藩、剣道盛んならば味方過半討たるべきに運つよき事也。
 さて、九月朔日は早朝より敵押来り、大小砲発砲す。味方も待ち設けたることなれば、それぞれ人数を配り、向山並びに宿入口の山より発射して防戦す。敵も追々所々の山々へ陣取り、互に放発する事数刻なれども、味方は必死と防ぐゆゑ、終日の戦ひも手負、死人わづかにて互に相引きして対陣す。夜に入りて敵、味方所々山々へ篝をたき只さぐりの砲声ばかりにて対陣したる有様、実に勇ましくぞ見えにけり。
 さて、翌日は昼頃より戦争始り、敵より向山の味方へカラナードを発射する。味方大いに困窮也。されども必死と
p.27
防戦す。宿入口には会の横山隊(向山は唐木隊也。)三方より小銃を受けながら、少しも恐れず防戦す。裏山には凌霜隊、敵来たらば打払はんと待ち懸くる。八ツ時頃砲声次第に薄らぐゆゑ、如何の訳とふしんに思ふ時、左右の一段高き山へ敵人数を廻し、合図の小旗を振るとひとしく、左右一度に時を作り、打ち出すこと雨のごとし。凌霜隊は待ち設けたる事なれば時の声を合せ打ち出す。横山隊も頻りに発放す。唐木隊も人数を二手になし、一方は今廻り来し敵を防ぎ、一方は往来の敵を防ぎ必死と防戦す。諸隊にも斯くの如きゆゑ破れず。今日も夕方迄戦争にて夜に入り互に篝をたき探りの砲声ばかり也。・・・
〈後略〉
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行動日録 
・ 一日 関山宿の戦闘 早朝より敵押し寄せ砲、銃の打ち合い数刻、味方必死の防戦で互いに相引きして対陣。夜は山々に篝火をたきさぐりの砲声が響く
・ 二日 昼頃より戦闘開始、敵の発砲するカラナードに苦しむ。味方は横山隊、唐木隊、凌霜隊など奮戦。諏訪隊ほか城下から加勢あり三百人にも達して味方の戦意上がる
・ 三日 昼頃より戦闘開始、互いの砲声天地にとどろく。凌霜隊、諏訪隊裏山に散伏し、大敵を前に必死の防戦をする。小出於菟次郎重傷、林定三郎(25)戦死。午後四時頃、味方弾薬尽きて後退。凌霜隊も散り散りに引揚げる
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
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2014.12/29(MON)

四、塩原駐留 那須塩原市




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写真;凌霜隊が駐留した福渡戸和泉屋附近、2014.12/29
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

四、塩原駐留 塩原焼払いと凌霜隊
慶応 4年(1868)
・ 5月11日
p.12
 然る処、野州塩原口(此地戸田大和守領分にて千石也)会津小山田伝四郎へ当分附属致し、草風隊と交代して彼地へ罷り越し候様、今市口同藩之軍事総督、山川大内蔵殿より達しこれ有るに付き、五月十一日早天、藤原口出立(高
p.13
徳、藤原、大原、高原此辺すべて戸田大和守領分)それより高原宿にて昼支度、此所にて人馬を継立、古高原峠へ懸る。(六年以前迄は此峠を越して会津へ通行す。此峠は高山にて諸人難渋する故、藤原と高原の間山に新道を造り新高原峠といふ。此峠は古高原峠の半分よりひくく諸人の助けと也。古高原峠は塩原入口のあらゆと申す処迄、三里というとも、五里も有るべく此間に家壱軒もなし。道は嶮岨にて狭路にして馬駕籠通行やうやうにて実に大なる難所也。六年以前、新高原へ引移りし古家十軒ばかり立ちくさりにしてあるばかり、外に人家は更になし。右に付き、此の峠を懸り候は思はば食物は申すに及ばず、水迄も用意すべし。此の宿外れに鶏鳥山とて此処より又一里半登る高山有り。此の山には鳥の形というてにわとりの附し物を以て此山へ登る事叶はじと土人の物語也。且つ此の宿は雨天には家中へ雲が入る事おびたゞし。かようの所へよくも住みしと思ふ。宿の前後には大なる原沢山これ有り。田畑の跡も見ゆる。途中にて富士山も見ゆる。予通行の節はくもりゆゑ見えず。今市辺も見ゆる。此の日も朝は雲つよく一間先は見えぬこと度々これ有り。難儀の上の難儀也。かようなる処は日本にも少かるべし。此の鶏鳥山に登りて、天気ならば品川沖見ゆるといふ。この山中にて如斯也。高き事さつすべし)追々下りてあらゆへ七ツ時頃著。此所にて人馬継立てをなして日暮にやうやうと塩原古町へ着、同所にて小山田氏の指揮にて直ちに門前へ着(古町より二丁有り)山口屋へ前列、福田屋へ後列と二軒へ泊(古町幷に此辺とも温泉沢山これ有り)。九月(※日)逗留、五月十九日同郷福渡戸と申す処へ参り候様小山田氏より達しこれ有り。早天出立。昼前着(同前より此所迄二十六丁)。和泉屋太郎兵衛方へ前列、丸屋吉郎兵衛方へ後列泊(此辺山近く左右共二丁と開けし所なし。)八月二十二日迄逗留す。此の地は平穏にて只番兵のみ、堅め人数は小山田隊八十余人、友野隊五十人(此の人は御旗本にて歩兵隊指図役頭取也。やきやな田戦争後此の地へ来る。塩のゆと申す処番兵也。古町より一里程。此の塩のゆも温泉場にて宿屋二軒これ有り。)凌霜隊三十人(小山田隊、凌霜隊は番兵口、スカサハ、大アミ、フドウサハ三ヶ所へ七人づつ詰める。)須加沢(古町より二里半、福渡戸より二里、途中山坂ばかりにて難所多し。)大網(古町より五十三町、福渡戸より二十六丁途
p.14
山坂にて狭路也。)。・・
〈後略〉
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行動日録
 5月
・一一日 会藩軍事総督山川大蔵の指令により、草風隊と交代して野州塩原の守備に当ることとなり、今夕同所門前村に到着、会藩隊長小山田伝四郎の指揮下に入った
     駐留隊は小山田隊八十人、友野隊五十人、凌霜隊三十余人
・一九日 同所福渡戸村へ移動、泉屋太郎兵衛方へ前列、丸屋吉郎兵衛方へ後列とそれぞれ分宿
 8月
・二二日 若松表の戦況不利との注進を受け、総員横川まで引揚げることになり、塩原は一軒残らず焼払うことと一決、今日まず数巻村から塩ノ湯まで約二十軒を焼いた
・二三日 一番に下塩原の福渡戸を焼払う。家数十五六軒。丸屋、和泉屋は凌霜隊の手で取崩されて消失を免れた。二番に塩がま十軒程、三番に畑下戸十四五軒、四番に門前十軒程、次に中塩原、上塩原と次々焼払い、上三依まで引揚げる
・二四日 上三依焼払い、横川宿まで総引揚げ。小山田隊、関宿結城隊は直ちに若松へ出立、唐木隊、探索隊、凌霜隊都合百二十四名は横川宿に留って官軍の追撃に備えた
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※ 凌霜隊は五月十一日から八月二十三日まで塩原に駐留するが、その間此の地で戦争は無い。専ら待機する毎日であった

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.12/27(SAT)

三、宇都宮戦争




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写真;宇都宮二荒山神社、2013.11/19
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

三、宇都宮戦争 野州の転戦、会津藩指揮下に入る
慶応 4年(1868)
・ 4月19日
p. 9
 それより追々進み宇都宮さして押し行く。三宅候へ附属して予も進む。十九日廉沼宿泊(此八ッ時頃途中にて宇都宮落城したることを知る。是は第一歩兵、会の兵隊の由)七連隊(是は小山にて八連隊へ合併)八連隊にて都合其勢千余人。二十日、廉沼宿出立(宇都宮へ三里也)宇都宮へ着。城中城下共半焼失。城中の有様を見るに死骸は所々に有り、是足は取りちらし誠に目を当てられぬ様子、実に神君の二百五十年来の太平の有難さを思ひ知りぬ。
 予の隊は、十六日小山戦争後大平山へ一泊。(此所は武田耕雲斎籠りし処なり)十七日いつる一泊。十八日大久保村へ一泊。十九日今市へ着。
 予は三宅候に附属して居るゆゑ、宇都宮着後同人周旋にて「御自分隊は日光辺に止宿ならん。幸ひ会津御藩四人御在所表へ参り候間、同道いたし今市宿迄参り候様」申し聞けらる。即ち御同人へ厚く礼を述べそれより同道して参り候処、此宿にて落合ひ、世のたとへし通り地獄にて仏に逢ふごとし。嬉しき事限りなし。(戦場にて味方に出合ふ程嬉しきものなし)牧野には十六日隊へ加り白岩には其日戦争後、途中茶屋へ刀失念の由にて取る為戻り行きしが其儘帰り来ず。定めし敵の為に討れしや生捕られしや相分らず。山片には大平山止宿より探索の為罷り出で、一度引取り、又々出で行き其儘帰らず。且つ凌霜隊には今市宿にて会藩日向内記隊へ合兵して都合百余人、二十一日下総国安塚村と申す処にて戦争これ有り。援兵の為罷り越し、貫義隊と合兵して都合其勢三百余人出張す。其日文狭宿へ一泊。翌二十二日早天出立の処大雨也。廉沼宿にて昼兵糧いたし、それより田の細道を押し行く。途中道悪しく、すべりころぶ人これ有り。やうやう安塚付近へ参り候処、最早、敵味方共引揚の跡にて余儀なく宇都宮をさして日暮に城下へ到り、・・
〈後略〉
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行動日録
・二〇日 本隊は今市に着き会藩日向内記隊に合兵して百余人
     矢野原、今市で本隊に戻る
・二一日 下野国安塚村の戦闘に援軍のため貫義隊と合兵して都合三百余人が出張、文狭宿一泊
・二二日 大雨。安塚村の戦は既に終わっていたので引返して宇都宮に入る。速水小三郎、武井安三、米沢小源治、岡本文造の四人は「会津へ付属すべき御内命の使節」を勤めるため今市から会津へ向う
・二三日 宇都宮の戦闘 早朝、江戸街道より薩、長、土、宇都宮、壬生の兵凡そ五百人押し寄せ、味方は七連隊、八連隊、草風隊、貫義隊、会津日向内記隊、原隊、凌霜隊合せて凡そ千三百人、大戦争なり。最初味方優勢であったが、大垣兵凡そ三百人が薩、土へ弾薬を送り来援したので味方総崩れとなり敗退した
・二四日 味方全員今市に集結。七連隊、八連隊は大桑宿より会津街道の田島(福島県)まで引揚げ。草風隊、貫義隊は日光越え、栗原(栗山)より田島へ引揚げた
・二五日 凌霜隊は日向隊と共に大桑から藤原宿に一泊
・二六日 横川宿まで引揚げ三日滞在
・二九日 今市方面で戦争と聞き、日向隊と共に早朝五十里宿の川を徒渉して高原まで出張
閏4月
・ 七日 会津藩の指揮下に入る 速水、武井、米沢、岡本の四人、今夕会津より藤原宿に帰着。「会候承知の旨」を一同に報告、かつ日光口出張の会津重臣萱野権兵衛の指揮に従うようにと会候の指示を。本日より高原宿守備となる
・閏四月中旬~五月中旬
     高原、藤原への往返三度に及ぶ
・二二日 再び藤原宿守備となる
・ 月末 一旦田島へ引揚げていた七連隊、八連隊、貫義隊、会津原隊、田中隊、城取隊等は軍議の上、高徳辺から小佐越村に出兵して今市に寄せたのだが、官軍の守りが固く破れず
 5月
・ 五日 会津重臣萱野権兵衛が藤原に来て、凌霜隊士には手当金一両ずつ、小者には半額が支給された 
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.12/26(FRI)

二、小山戦争




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

二、小山戦争
慶応 4年(1868)
・ 4月16日
p. 7
 十六日、早天出立。結城近く進む処、斥候のもの追々走り帰り、結城にはそれぞれ人数配りこれ有る由に付き、表の方へは七連隊草風隊相廻り、裏口は貫義隊凌霜隊也。
 さて、貫義隊、凌霜隊追々敵陣近く進み七八丁此方の森又は畑よりサグリを打ち、敵の模様を見合せ(此敵、彦根笠間宇都宮壬生也)放射しつつ進みけれ共敵には更に放射せず。味方益々麦畑へ押し出し散伏隊と成りて敵陣五六丁と覚しき時、味方二手に別れ、貫義隊には小山宿へ寄せ敵の正面へ向ふ。凌霜隊は右の方小山新田と申す畑へ陣取る。其時敵より榴弾発射す。それより互に打ち合ふこと暫く也。貫義隊は鯨波声を揚げて進み適度にて二列打をす。此時敵の死傷人多也。其の内笠間人数多し。是に敵恐れて引色に成けるを猶も連発す。凌霜隊にも新田の方より進み発射す。敵よりも大小砲放発す。され共味方必死と成りて打ち懸け打ち懸け進むゆゑ敵兵こらへず引き退く。これに依り、百姓家悉く焼き払い、味方双方にて討ち取る首十四五、大砲十二門、弾薬箱拾掉、器械長持沢山分捕り大勝利也。味方の内傷人、貫義隊三四人、草風隊一人、凌霜隊には田中亀太郎頭を打たれて即死す。菅沼銑十郎膝の上を打たれ手負ひ(若松病院へ罷越し七月十七日死去)新田栄次郎と申す百姓の介抱を受け滞り無く隊へ加わる。(十月十九日引取の節、栄次郎を呼び田中亀太郎の様子相尋ね候処、自分明地所へ葬り置き候由申し聞け候)それより直ちに小山宿を左へ大瀬川を歩行渡り、貫義隊を始め残らず引揚る。其の内に敵、兵隊を立て直し再び小山宿押し出す。矢野原与七、牧野平蔵、草風隊にて一人、弾はげしきに付き、一二丁引き退く。暫く見合せ居る内、惣引き揚げと成るを知らず。矢野原には畑にて平臥又は縦横に走り廻る内刀抜けしを知らず、・・
〈後略〉
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行動日録
・一六日 小山宿の戦闘 彦根、笠間、壬生の連合軍を小山宿に破って大勝利。田中亀太郎(29)戦死、菅沼銑十郎(42)重傷、白岩源助(37)逃亡
     矢野原与七、牧野平蔵ら味方とはぐれ、後矢野原一人となる。本隊、大平山泊
・一七日 本隊、出流山泊。山片俊三(35)逃亡
     矢野原は勝願寺駐留の旗本、三宅大学(八連隊)に付属して戦いに参加して大勝利
・一八日 本隊、大久保村泊
     矢野原は三宅大学に付属して鹿沼宿泊。鹿沼では七連隊、八連隊合併して千余人となる
・一九日 本隊、大沢泊。矢野原の隊、宇都宮に入る
・二〇日 本隊は今市に着き会藩日向内記隊に合兵して百余人
     矢野原、今市で本隊に戻る
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一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.12/01(MON)

六、大内戦争 下郷町大内




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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

六、大内戦争
慶応 4年(1868)
・ 8月28日、29日
p.21
 それより直ちに大内宿迄引き揚げんと決定して高野村より若松への間道を引退き(此間道は大内迄五里といふとも七里もあるべし。余程峠もこれ有り、狭路にて左右とも高山にて難儀也。途中に村は少々これ有り。此百姓にて兵糧を遣ひ人馬村継にて手間取り、銘々不都合道なり。)夕七ツ時過ぎに倉谷宿江着、人馬継立、日暮れに大内宿へ一統
p.22
着す。此地にて居風呂へ入り労を休む。併しながら畳布団はなし。夜に入り敵の探索と覚しき者四人、僧体百姓体に身をやつし来り、脱走歩兵の内にて白川口戦争利なく是迄逃げ延びし者の由申し聞る。然る処、不審のもの也とて四人共此宿の裏荒所にて首をはねる。誠にむざんなり。戦場にてはか様のこと多し。たとへ味方なりとも、余程しかとせし証拠なければ名乗り出るとも一命を落す。依って銘々たしなむべし。右四人は全く敵の廻しものか、白川より敗走して来るものか、全く脱走の歩兵ならば気の毒なり。一人は骸に彫物これ有り。二十九日朝、予見物して落涙す。
 此日、未明より小山田隊の内より二十人余、大内より四五丁先(此地は左右共高山にて宿より一丁計先ニ中等の山これ有り。此宿隠し街道は此山の根を廻る故に胸壁は妙也。)へ胸壁築造(此辺は広野にて小松原多し。)して敵を防がんとす。敵は迅速に押来り未だ築造も半の時大小砲打懸け、味方も此所にて防戦す。依て宿よりも追々人数を繰出し凌霜隊には向ふ山へ登り防ぐべしと達しこれ有り。直様、朝比奈氏一番に遣さる。依って三十余人追々登り防戦せんとす。・・・
(後略)
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行動日録
・二九日 大内の戦闘 早朝より敵押し寄せ激戦。朝八過ぎから午後二時ごろまで砲声止む時なし。味方善戦せしも、大砲なくついに惣崩れとなって大内峠へ退く
・三〇日 大内峠の戦闘 未明より敵押し寄せ再び激戦。凌霜隊の奮戦めざまし。山頂の間道を破られるに及んで味方惣崩れとなり、凌霜隊も午後四時頃戦列から離れる。この両日の敵は長、薩、芸、宇都宮、黒羽等の諸軍。山脇金太郎(17)戦死、小者小三郎戦死
※ 山脇金は如何行きけん、帰り来らず。定めし討死と察しられける。むざんや、小三郎は討死なり。--引用p.25--
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※↑復元された峠の茶屋(一軒茶屋)

古戦場と峠の茶屋(2013.07/26)

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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2014.11/27(THU)

五、横川戦争 日光市横川宿・会津西街道




慶応 4年(1868)
・ 8月23日~27日
 藩境等で守備していた会津藩隊らは若松表危急の報を受け、夫々若松表へと引揚げる。凌霜隊は五月以来凡そ三ヶ月の間駐留した塩原を焼払い、尾頭峠を越えて八月二十四日、三依を経て横川宿に着くのだが、此処に留まって新政府軍の会津侵攻阻止にあたり戦闘となる。留まったのは凌霜隊ほか百二十四人に対し新政府軍は六七百人、凌霜隊ら良く奮戦防禦するが、二十七日若松表からの急使により田島へ引揚げた
以下、「心苦雑記」を引用して戦闘の様子(一部)をupする

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写真;戦闘のあった横川宿附近の旧会津西街道・2014.11/27
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--引用;矢野原与七・凌霜隊戦記「心苦雑記」郡上史料研究会・野田直治、白石博男編 昭和44年5月31日発行--

五、横川戦争 田島の転戦
慶応 4年(1868)
・ 8月24日、25日
p.17
 二十四日、同宿焼払、横川宿まで引揚、小山田隊、凌霜隊、関宿結城隊も□四日三依辺出立横川迄著。(藤原、高原、五十里、三依、横川、京沢、川島、田島、楢原、倉谷、大内、関山は今市より会津への街道なり。)出立の節、三依残らず焼払、(三依は上中下三宿に相成居り、家数も余程有り。)小山田隊、結城関宿隊は此間に直ぐ若松へ引揚、横川へ止し隊は唐木隊(会藩なり)、探索隊(脱走隊也)、凌霜隊、都合百二十四人、横川より四五丁先へ胸壁を築造し、敵寄せ来らば一軍せんと待懸けたり。(此の地、形状は左右共高山にて街道一筋道也。)
・二十五日、早朝に至り、一昨日塩原より引揚の節、人足不足にて尾頭峠へ大砲車台残置候に付き、敵の手に渡すも残念に候間、人足、召連れ持来り候様、唐木隊より達しこれ有るに付き、凌霜隊残らず胸壁より二三町進み行く処、早や敵押来り、砲声相聞え、三依辺の百姓共進来る。敵は左右の山へ登り、時の声を揚げて近寄り、大小砲発放す。依て味方も胸壁迄退き、時の声を合せて大小砲打出す。
 敵は街道よりも進来る。其勢六七百人也。互に砲声おびただし。中にも藤沢茂助(会藩なり。)大砲の上手にて榴弾適度にて破裂し、敵難渋す。敵よりも榴弾を発放し、胸壁には唐木隊、探索隊八十余人、凌霜隊には左の川向山の中腹へ押出し、隊長朝比奈茂吉、副隊長坂田林左衛門真先に進み三十余人追々進み、然る処、此場所は不都合に付き引戻し、峯の敵を防がんため川端へ人数を配り候様申来る。直様引戻し胸壁の左川端に相備へ散伏して発射す。敵は追々山つたへに進みながら、左右より打下す事雨の如し。街道よりも追々近寄り二三丁場にて木蔭へ散伏して伏をる。味方にも少人数なれども必死と発射して防戦するゆゑ敵も猶予せず。されども敵は大勢放発射する事おびたゞし・・・
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行動日録
・二五日 横川宿の戦闘 早朝、敵勢六七百人来襲し終日激戦。日没のため相引きになる
     中岡弾之丞(25)戦死
・二六日 小競合いはあったが戦争展開には至らず
・二七日 未明、若松表からの指令により急拠田島へ引揚げ、夜は高野村民家に泊
・二八日 朝八時過ぎ、田島代官所に集合したが惣勢二百人足らず。此の地の防戦不利と判断し、再び高野村へ引揚げる。日暮れに大内宿に着
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※ 横川宿;栃木県と福島県の県境、栃木から険阻山王峠の登り口にあり、会津西街道の下野国最北端に位置する宿駅である

会津西街道横川宿(2012.07/23)
日本奥地紀行/横川宿(2013.07/12)
日本奥地紀行/山王峠(2013.07/12)

一、江戸出発
二、小山戦争
三、宇都宮戦争
四、塩原駐留
五、横川戦争
六、大内戦争
七、関山戦争
八、若松城下へ
九、若松城に入る
一〇、降 伏
凌霜隊(名簿)



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