カテゴリ:只見町( 10 )

2016.08/26(FRI)

森林の分校/ふざわ 只見町大字布沢




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写真;2016.08/25


 森林の分校 ふざわ
※ 廃校になった旧分校を利用した"地域活性化"の拠点施設のようだ



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2016.08/26(FRI)

森川余所之助墓 只見町大字小林字七十苅 881(新福寺)




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写真;2016.08/25


森川余所之助
金沢藩(加賀・百二万三千石・前田氏・外様)
 森川余所之助氏里 忠久とも/戦兵/津田玄蕃家臣/明治元年九月二十三日会津入小屋村で傷、自決/二十一歳/岩代小林村・新福寺に葬/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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新福寺
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写真;2016.08/25



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2016.08/25(THU)

太田治右衛門墓 只見町大字布沢(龍泉寺)




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写真;2016.08/25

太田治右衛門
金沢藩(加賀・百二万三千石・前田氏・外様)
 太田治右衛門貞素 司令役/明治元年九月二十四日会津滝原村で戦死/二十七歳(二十二歳とも)/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
西軍戦死者の墓
 加賀藩太田治右衛門は九月二十四日「滝原の戦い(只見町坂田)」で戦死した。その遺骸は只見町布沢の龍泉寺に埋葬されている
 龍泉寺の過去帳には「義龍院殿勇進剣輝大居士行年二十七歳」とある
--只見町河井継之助記念館展示資料--
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龍泉寺
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写真;2016.08/25



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2016.08/25(THU)

義民茂左衛門供養碑 只見町大字布沢(龍泉寺)




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写真;2016.08/25


義民茂左衛門供養碑
 茂左衛門は、享保五年(一七二〇)南山御蔵入騒動における百姓側代表の一人である
 布沢村名主、孫右衛門の弟で、享保六年二月、兄の意を受け代表十五名と共に江戸にのぼり、江戸直訴において指導的役割を担った人物である
 幕府の詮議により、直訴人中の首謀者と断定され、享保七年六月二十七日、江戸において死罪となり、首は七月朔日、江戸より田島に運ばれ、鎌倉崎に晒首となった
 兄、孫右衛門は、「騒動の頭取」の一人とされ、田畑半分家財残らず取上げ、名主役召し放ちの罰を受けた
  平成六年九月
  只見町御蔵入騒動研究会
  只見町教育委員会
--現地の案内板から--
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田島陣屋跡(南会津・南山御蔵入五万石騒動)(2012.09/02)



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2014.08/09(SAT)

長岡藩藩旗「五間梯子」 只見町・河井継之助記念館




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写真;長岡藩藩旗「五間梯子」(展示史料)・2014.08/06
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       ごけんばしご
長岡藩藩旗 「五間梯子」 由来
 戦国時代、敵に追われた牧野の殿様は、領民の家の納屋にかくまってもらった。領民は機転を利かせ、はしごを何事もなかったかのように納屋の戸に立てかけておいた。追手はこれにだまされ、殿様は危うく難を逃れた。殿様を突き出せば、領民は褒美をもらえたのに、そうしなかったのは、普段から牧野家が領民を大切にしていたから。殿様はこのいきさつを忘れず、今まで以上に領民を大切にしようという決意で、藩旗を「五間梯子」とした、と伝えられている。
--長岡市政だより 二〇〇八年一一月号--
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以下、「河井継之助記念館」説明版から

ごあいさつ
 ここ只見町になぜ幕末の長岡藩家老の河井継之助記念館があるのかと問われれば、それは継之助の義の精神に只見の人たちが感動したからといえましょう
 只見には、いにしえから今に伝わる、慈しみの気持ちがあります。激しい戦いに敗れ、傷つき、八十里越をしてきた河井継之助をはじめとする落人たちを、無条件に看護し、助けています。運命の負を知りながら義のために戦った長岡藩の強靭な精神にも感動しましたが、只見の人たちの、身分を超えた優しい心根にも義の精神が宿っていたといえます。今こそ、助け合いの義の精神を大切にしなければなりません。当河井継之助記念館は、このような継之助と只見の人びととの出会いを記念するため、昭和四十八年に開館、平成五年に新装開館し、継之助の想いや生き様を広く伝えてまいりました。平成十八年、河井継之助の生地である新潟県長岡市に記念館が開館したことを機に、継之助への想いを新たにし、只見と長岡の人びととのつながりをさらに強いものにしたいとの思いから、今またここにリニューアルオープンしたものです。二つのまちに通じる、義の精神をテーマにし、只見町民の心意気と誇りを表すものであります
     平成二十年八月
     只見町長 小沼 昇
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2014.08/09(SAT)

只見村、塩沢村
只見における河井継之助最後の十二日間




 河井継之助記念館に「ご自由にお持ち下さい」とあった資料(全6頁)で、当時の様子が良く解るものであった。これを勝手に引用・要約してupする
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慶応 4年(1868)
  8月 5日
 夕刻、雨の降る中、河井継之助一行は只見村目明し清吉の家に着く。嶮しい峠道を二日間も担架に揺られ、創傷は一層悪化して「容易ならざる」ほどであり、暫くこの地に滞留することになる
 熊倉の目黒正家に残る「文政以来万覚帳」にこの時期の様子が書かれている。「味方(会津方)は仙台・庄内、会津・長岡、八十里へ引き上げ、八月二日より六日頃まで二万五千人余が叶津・只見・蒲生・塩沢辺残らず御泊りに相成り」とある。この中には引き上げる兵の外に、長岡家中の婦女子も含まれている。当時、田子倉村から塩沢村まで八ケ村の全戸数が二百九十二戸という寒村であったので、その混雑ぶりは想像を絶する
 只見周辺だけでは収容できず、伊南川筋の村々にも広がり、黒谷や沖にも「長岡の家族連れが泊まった」との話しが今に伝わり、楢戸横山哲夫家の「楢戸村ニ家内止宿人別取調帳」には、戸数三十の楢戸村に五百八人が泊まったという記録が残されている
 この時の食糧調達について、旧伊南村宮沢の河原田家文書「三猿日記」に「八十里山より只見迄に一日の入用米が三斗入百俵宛を要し、間に合い申さず由」とあり、毎日百俵の米調達は容易ではない。この食糧調達には会津藩野尻代官の丹羽族(やから)が任にあたった。米味噌は当初会津城下の坂下辺から供給されていたが、折悪く悪天候が続いて運送が滞り、そこに引き上げ者の急増が重なった。その窮状を打開するため、丹羽は現地調達を試みるがうまく行かず、自害するに至った。丹羽の死を知った只見村をはじめ近村の人々は僅かな蓄えをも提供してこの危機を脱し一人の犠牲者も出さなかったと云う
 河井継之助は目明し清吉の家に八月十二日まで滞在したが、継之助と前後して只見に入った長岡藩士は千二、三百人。とその家族を四千人余と見て六千近くの人が只見地方に滞在したことになる
 藩士は只見において直ちに隊の再編成をして西軍の追撃に備え、八十里越の陣地と津川口方面の守備についた
・只見から黒谷辺まで民家に分宿していた藩士家族四千人余は八月十日を前後して若松へと発った
・すでに若松に居た長岡藩老公は、継之助が重傷を負って途中に留まっていることを知り、一刻も早く若松に呼び寄せて治療をさせようと槙吉之丞を只見に急行させた。八月五日、吉之丞は若松を発ち只見に向うが只見に入る途中で牧野市右エ門に遭遇、「重傷ゆえ急ぎ良医の派遣を請う」と云われ、そこから若松へと引返し、九日その次第を報告した。老公が会津に滞在中の旧幕府侍医松本良順に依頼すると良順はその要請に応え、その日のうちに若松を出立し只見に向った
   10日
・松本良順、夕刻頃に只見村の目明し清吉の家に着く。継之助は大層喜んで話しに興じ、良順が土産に持って行った西洋料理風の肉のタタキを喜んで食べたと云う。継之助の傷は重く只見での処置はできないので、せめて若松での処置を強く勧め、翌十一日若松へと発った


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写真;塩沢村の医師矢沢宗益宅(展示パネル)・2014.08/06


   12日
・継之助、只見で死を覚悟していたが、行けるところまで行くことを承知し七日間滞在した目明し清吉の家を後に只見を発つ。途中、塩沢村の医師矢沢宗益宅で休息をとるが、そこで体調思わしくなく投宿する
 戦況については、八月十二日の「三猿日記」に、「越後表敵方大軍ゆえ、万一峠を防ぎ兼ね候はば、入叶津は焼払い、出戸叶津と中ノ平の間ニテ」防ぐとある。長岡藩は会津の山内大学隊、井深隊等と共に山本帯刀隊を中心にした千人近い藩兵を交代で八十里峠の陣に出しており、なお緊迫した状況下にあったのである
   13日
 「邑従日記」の植田十兵衛の報告に「継之助殿、十二日塩沢駅迄参られ止宿。翌十三日朝五時前より、少々フサギ気味にて、熱が出て、ウワゴトばかりだった。夕方になって、小水があり、二回ほど通じがあって、追々快方となる。十四日朝は、特に別条もなかったが、体力の衰えが増して、若松まで参られ候も六ケ敷」とある
   15日
 夜、継之助は松蔵を枕辺に呼び、「松蔵や、永々厄介して呉りやって有り難かったでや」と礼を言ったと云う。そして死期が迫ったことを告げ、火葬にし、納棺と骨箱を作れと命じた。松蔵は涙ながらに夜を徹して棺を作り、骨箱を二つ作り、一つには土を入れた。途中もし西軍に見とがめられた場合の備えであると云う
   16日
 継之助、午前中は皆と談笑して過ごし、午後になってひと眠りしようと付き添いを遠ざけて眠りについた。しかし、そのまま昏睡状態となり、午後八時ごろ四十二年の生涯を閉じたのである
 只見に入り十二日目のことであった
   17日
 「明治備忘録」に
 「御家老河井継之助殿手負ニテ当地山崎矢沢新角方御滞在中、死亡セラル、火葬ニテ御持チトナル」とある
 火葬は塩沢川と只見川の合流地点、通称"ざる岩"と云われる川原で、村人によって集められた川木(流木)により荼毘に附されたと伝わる。塩沢の村人は火葬の跡の残灰を拾い集め医王寺の墓所に埋葬し、手厚く供養がなされ現在も命日には墓前祭が行われている
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引用、要約;「町史とっておきの話」--最後の只見における河井継之助十二日間--その2~6
只見町文化財調査委員 飯塚恒夫

只見における河井継之助1(2014.08/08)
河井継之助墓(2014.08/06)



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2014.08/08(FRI)

八十里越
只見における河井継之助最後の十二日間




 河井継之助記念館に「ご自由にお持ち下さい」とあった資料(全6頁)で、当時の様子が良く解るものであった。これを勝手に引用・要約してupする

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写真;継之助が滞在した目明し清吉の家(展示パネル)・2014.08/06
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慶応 4年(1868)
8月 3日
 八十里越から会津を目指した継之助一行は越後の峠口吉ケ平に着いた。長岡城争奪戦で敵弾を受けた傷は思わしくなく、戸板で運ばれて来て八日がたっていた。継之助はすでに死を覚悟して「会津に行ったとて何のよいことがあるか。おれは行かない。置いて行け」と、吉ケ平を発とうとしなかったと云う
   4日
 継之助をようやく説得し吉ケ平を発ち、八十里越の嶮山に向う。雨でぬかるんだ峠道は会津へ落ちる人々の群れで遅々として進まず、山中に一泊する

 八十里こしぬけ武士の越す峠

 山中で詠んだというこの句は、鞍掛峠を過ぎて越後の山々が目の前に開ける小松横手附近と云われている
 一行が越えた八月四日前後の八十里越は、越後から会津へ逃れる長岡藩士とその家族であふれ、混乱を極めた。会津側の峠の要所要所には、病人・怪我人・婦女子の救護のための基地が置かれ、只見地方の村々からは男十五から六十歳まで残らず動員されていた
   5日
 一行は国境を越えて会津に入る。木ノ根峠からの道は稜線を通り、現在の浅草登山道の山神ノ杉に通じる。会津山内大学隊と井深隊は木ノ根峠関門を中心に警備にあたっており、継之助一行通過の報は直ちに只見に届けられた
 只見では会津代官丹羽族(やから)を中心にして対応に追われた。重傷の継之助の宿をどうするかであったが、民家は全て宿舎にあてられ、街道沿いは人の出入りが激しい。そこで、少し離れた隣村の只見村目明し清吉の家を宛がうこととした
 険しい山道を揺られて着いた継之助は「初めより死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは覚悟していなかった」と苦笑いしたと云う
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引用、要約;「町史とっておきの話」--只見における河井継之助最後の十二日間--その1
只見町文化財調査委員 飯塚恒夫

只見における河井継之助2(2014.08/09)



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2014.08/08(FRI)

河井継之助君終焉之地 只見町塩沢・河井継之助記念館(敷地)




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河井継之助君終焉之地
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碑裏面に

表面宮内大臣従二位勲一等松平恒雄閣下書
 河井継之助君慶応四年八月十六日卒時歳四十二
          昭和十二年八月建立

          河原田稼吉
東京第六天松平家  橋本圭三郎   栂野明二郎   三國三樹三   澁川海智    新國長次
東京西大久保牧野家 柳澤銀蔵    鈴木正夫    越後長岡八團体 小柳通義    岩渕 武
東京渋谷松平家   牧野 環    川島良太郎   并有志一同   赤塚常作    菅家徳三郎
  井上一次    槙忠一郎    矢島冨造    五十嵐保次   鈴木 肇    矢澤幸七郎
  牧野鋀子    棚橋寅五郎   野本清一    二森保司    長谷川太市   長谷部大作
  小原 直    小金井良精   目黒真澄    橋本作太郎   五十嵐真作
  山本五十六   福島甲子三   星野準一郎   三瓶伊象    鈴木珍一郎
  大橋新太郎   山本留次    土屋豐吉    矢澤慶次    菅家徳五郎
  小野塚喜平次  小林順一郎   渡邊仙蔵    駒形榮之助   菅家重三郎
  内藤久寛    大刀川平治   増井六郎    宇田川良一郎  新國和三郎
  無名氏     長澤越一郎   小山良修    森合清助    小林森江
  島峯 徹    反町茂作    上松翁     田中定次郎   五十嵐直次
とある

※ 松平恒雄閣下は会津藩主松平容保公の六男である
※ 東京第六天は会津松平家の屋敷のあった地で、第六天町八番地(現・文京区小日向1丁目)である
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2014.08/07(THU)

長谷部家住宅一棟 南会津郡只見町叶津字居平四五六番地




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写真;2014.08/06
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以下、現地の案内板から

福島県指定重要文化財(建造物)
長谷部家住宅一棟 昭和四十八年三月二十三日指定
     所在地 南会津郡只見町叶津字居平四五六番地
     所有者 坂本知忠
 桁行一四・三五メートル、梁間一〇・一五メートル
 うまや中門付き寄棟造、かや葺

規模の大きい上層家屋で、うまや中門をつけた曲り家である。棟も高く、棟裏には小天井を張り、せがい造で、会津の通例として外縁は備えず、屋敷回りに内縁をつけている。もと座敷前面にあった乗り込みは近年撤去され、内部は現在カッテ全体まで板敷きであるが、もとは一部が土間であったと考えられる。
カッテと居間境の柱の太さは三三から三五センチメートル、居間の回りは二三センチメートルと一般に太く、居間境、さしかもいも丈五一センチメートルと、ともに雄大なものである。柱仕上はいずれも鉋がけ面取りで、天井は大引天井の居間を除いて、上段・座敷・中座敷ともさお縁を用いている。またこれらの部屋にはいずれも面皮なげしを回すなど上等な仕上げがされている。建立年代を示す記録はないが、土間中二階の存在、中引と桁とを等間隔に通した二重梁構造など、造作状況からみて江戸後期と推定される。
なおこの長谷部家は旧叶津村の名主をつとめ、八十里越の番所と制札所があったところで現在でも「御番所」の名称が残っている。
     福島県教育委員会
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叶津番所と継之助
継之助は、八月五日、叶津番所に到着し休憩をとる。番所には叶津村名主の長谷部家があてられていた。ここで会津藩代官の出迎えを受け、状勢報告を受けた。当時、番所は八十里越で逃れてきた人びとの世話をしたり、峠の戦闘に備えて物資などの中継拠点として混乱をきわめていた。現在は、福島県重要有形文化財に指定されている。
--「河井継之助記念館」展示資料--



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2014.08/06(WED)

河井継之助墓 只見町塩沢・医王寺




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平成26年(2014)
・08月06日
 暑い日が続いていて出掛けるのは億劫だったが、只見町塩沢に行ってきた。ここに「河井継之助記念館」があり、近くには河井継之助墓の医王寺があって、これが目的!

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写真;2014.08/06
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以下、現地の案内板から

河井継之助墓
 河井継之助は明治元年八月十六日塩沢村矢沢宗益宅で亡くなった。遺体は荼毘に附され若松城外建福寺に運ばれ明治二年九月更に長岡城下栄涼寺に改葬された。残った遺骨は村人達によって手厚くここに葬られた。
後日「幕府侍医松本良順長岡藩医阿部宗達の両名によって」墓石が築かれた。
     只見町
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河井継之助君埋骨遺跡(建福寺)(2015.09/03)



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