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2015.05/27(WED)

助川海防城跡 日立市助川町 5-10-4




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写真;2015.05/27
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以下、現地の案内板から

助川海防城跡
 水戸藩第九代の藩主徳川斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(一八三六)家老山野辺義観を海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠って城郭を築いて居住させ、異国船の無断侵入に備えさせた。これが助川海防城である。これを海防城と通称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当時類例のない海防を目的とする城郭だったからである
 この城は完成までに五年の歳月を要し、総面積は六十九万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに従って高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。海防城は、元治元年(一八六四)九月、幕末水戸藩の内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の一部と、二の丸にあった鳩石だけとなった。しかし茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には、百余年前の城郭の面影を偲ばせるものがある。ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れて調査をされたが、その直後執筆された氏の歴史小説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている
     日立市教育委員会


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山野辺義芸(やまのべよしつね)は、幕末期の水戸藩家老。三代助川海防城主
・・生涯・・
天保 3年(1832)山野辺義観の次男として生まれる
嘉永 2年(1849)兄・義正の死により家督を相続、三代目の助川海防城主となった
嘉永 5年(1852)従五位下に叙せられ、主水正を称す
安政元年(1854)家老職に就いた

幕末期にあたり、水戸藩では党派紛争のめまぐるしい時期であったが、万延元年(1860)、先代藩主斉昭が没し、藩内の党争がさらに激化する。元治元年(1864)三月、藤田小四郎が筑波山にて挙兵し、天狗党の乱が起こる。尊王攘夷派とみなされた義芸は六月、執政の任を解かれた。さらに幕府より天狗党追討令が出され、義芸は仲介を試みるも天狗党側とされ、九月六日、幕府・二本松藩らの陣営に包囲されて投降した。九月九日助川海防城は落城。十二月に家名断絶、知行地と館を没収され、中山邸に禁錮された

明治元年(1868)明治政府から官位を復され、水戸屋敷に住んだ
同年10月の弘道館戦争に参戦
明治19年(1886)死去、享年55
--引用・要約;「山野辺義芸」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2012.07/28(土)09:46--
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養正館(ようせいかん)跡
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写真;養正館(ようせいかん)跡 ※碑は「茨城百景」のもので、養正館との関係は無い?
   ↓はこの付近から見た「茨城百景」と讃えた市内と太平洋、2015.05/27
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以下、現地の案内板から
ようせいかん
養正館跡
 養正館は、水戸藩主徳川斉昭から新設の海防惣司という重職に任命され、この地に海防城を築き、水戸より家臣共に移住した家老山野辺義観(やまのべよしみ・一万石)が、天保八年(一八三七)に開設した家臣の子弟教育の施設です。館名は中国の古典に由来し、正道を修め養う意味です
 教育内容は文武一致等を方針とし、四年後に開館された水戸の藩校弘道館に先駈けたものでした。しかし、時代の急迫と共に武術の修練に重点が置かれるようになったことは推察に難くありません
 教育が熱心だった水戸藩の政治の実態を知る上で、養正館依存の意義は大きいのです
     日立市教育委員会

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※ 助川海防城を補完するため、水戸藩は日立市域太平洋岸に沿って7つの御番陣屋や台場などの海防施設を設置、整備した
以下、北から
・友部異国船御番陣屋(十王町櫛形小学校西側)
・川尻異国船番所・陣屋(川尻港南端)
・初崎台場(会瀬港北)
・河原子台場(烏帽子岩近く)
・大沼異国船御番陣屋(日立電鉄大沼駅東側)
・水木異国船遠見番所(水木田楽鼻公園近く)
・久慈台場(久慈小学校東側、行戸公園琴平神社辺り)



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