カテゴリ:檜枝岐村( 7 )

2017.02/19(SUN)

地蔵堂? 檜枝岐村




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地蔵堂?
 たしか、六地蔵の奥にあったような記憶が...

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六地蔵(2014.05/18)
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2016.05/04(WED)

山の神 檜枝岐村・ミニ尾瀬公園




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山の神
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以下、現地の案内板から

 村人が昔、狩猟や畑仕事に山に入る折”御山ノ神(燧ケ岳の神)日光権現・・・我々何人ノ者山ニテ怪我災難ナドヲ相ヨケ・・・御願ヒ奉ル”最後に”アビラオンケンソワカ(阿毘羅吽欠蘇婆詞)”と三回唱え山での安全を祈願したと言われている
 この地にも山の神が祭られており、奉納された鉄製鳥居(天保十年五月の銘)十一基が往時を偲ばせている
 現在は、村人や登山者が山での安全を祈願している
     檜枝岐村
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ミニ尾瀬公園
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2014.07/16(TUE)

戸倉戦争と大江湿原の防塁 尾瀬沼・大江湿原




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写真;尾瀬沼よりから沼山峠方を見て、2014.07/15
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戸倉戦争と大江湿原の防塁

慶応四年、新政府と敵対した会津藩は檜枝岐に約三百の兵を滞陣させ、沼田街道からの新政府軍(足利、佐野と上州の諸藩隊)の進攻に備え、加えて尾瀬の大江湿原に五つの防塁を築いた(時期不明)のであるが
五月二十一日、会津藩隊は沼田街道を南下して戸倉に向うと新政府軍を襲撃(戸倉戦争)し、関所を焼払い村落に火をかけるなど、散々に打ち破った模様。このため、大江湿原に築いた防塁が戦闘に使用されることは無かったという
※ 戸倉襲撃の会津藩隊主体は、あの大鳥圭介の旧幕軍第一大隊、その半大隊であり、率いたのは松井九郎(牧原文吾)である。もう一方の半大隊は三斗小屋に出陣(工藤衛守)。松井、工藤とも会津藩士である
※ ↑写真は防塁の築かれた大江湿原だが防塁箇所の特定は出来ずに、おそらくこの附近だろうとの見当である。木道敷からの目視は出来ずに残念ではあったが、一面のワタスゲが見事であった
2014.07/15


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※ 写真の中央付近三日月形の小さい影が防塁跡だそうだ(ビジターセンター展示資料)



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2014.07/16(WED)

たけだひさよし
武田久吉先生追慕之碑 尾瀬沼・大江湿原




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写真;2014.07/15、合成ナリ

武田久吉先生追慕之碑
武田先生は植物学者にして多年にわたり尾瀬の研究と紹介と保護に盡力された恩人なり
昭和四十七年六月七日
東京に於いて逝去 年八十九才
ここに先生の愛用品をいただき埋葬してその遺徳を追慕し愛敬の意を表するものなり
     昭和六十年十月
     長蔵小屋平野長英建立
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武田久吉

武田久吉(英;Hisayoshi Takeda、1883年3月2日-1972年6月7日)は、日本の植物学者・登山家

略歴
・東京都出身。イギリスの外交官アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)と日本人の武田兼との間に生まれた次男
 各地の山を登り高山植物の研究を行い、尾瀬の保護に努めた
明治38年(1905)
・日本山岳会を創立。第6代日本山岳会会長と初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任した
昭和45年(1970)
・秩父宮記念学術賞を受賞
昭和47年(1972)
・ 6月 7日、死去。89歳

主な著書
 尾瀬
 尾瀬と鬼怒沼
 原色高山植物図鑑
 民俗と植物
--引用・要約;「武田久吉」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』
2013.10/17(木)21:45--
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武田久吉メモリアルホール
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桧枝岐村ミニ尾瀬公園にある



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2014.05/18(SUN)

六地蔵 檜枝岐村




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写真;2014.05/16
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--六地蔵脇の「由来の碑」から--
六地蔵由来

 此の地は昔から冷害になやまされ 特に凶作の年は餓死年と言い多くの餓死者を出したことがあった  働ける者のみが(生)きるため「まびき」という悲惨な行為があったとか・・・ その霊を慰めるために建てられた六体の稚子像である

 あはれさに旅衣の袖も
       ぬれにけり
 檜枝岐なる稚子の像見て
     □□□久子作

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--パンフレット「尾瀬檜枝岐温泉」から--
     *
六地蔵と呼ばれる稚児像には、村人によって季節に合わせた綺麗な衣装が着せられ、まるで我が子のように可愛がられています。最近では子宝、子育て守護として参拝する方も多くいます。



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2014.05/17(SAT)

十七、檜枝岐村年表




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写真;現在の檜枝岐村(2014.05/16)
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十七 檜枝岐村年表(ほんの一部)

慶応 3年(1867) 米沢藩士雲井竜雄外、沼山峠越にて通行
同  4年(1868) 戊辰役上州口守備のため会津藩士約三百名当村駐在、上州戸倉まで遠征する
--会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」昭和53年10月・星知次編・檜枝岐村発行--


雲井龍雄

天保15年(1844)
・ 3月25日
 米沢藩士の父・中島惣右衛門(6石3人扶持)次男として米沢袋町に生まれる
慶応元年(1865)
・米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門。龍雄は経国済民の実学を修め、塾頭にも選ばれて息軒から「谷干城以来の名塾頭」といわしめたという。同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った
慶応 2年(1866) 藩命で帰国
同  3年(1867)
・10月
 幕府が大政奉還し、同年12月に明治新政府から王政復古の大号令が発せられると、龍雄は新政府の貢士(全国各藩から推挙された議政官)に挙げられた
慶応 4年(1868)
・鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶと、龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促した。しかし旧幕府勢力は敗れ去ると、米沢にて禁固の身となる
明治 2年(1869)
・謹慎を解かれると興譲館助教となるが2ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議院議員に任じた。しかし、薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか、幕末期での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭いわずかひと月足らずで議員を追われた。一方、戊辰戦争で没落したり削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになる
明治 3年(1870)
・ 2月
 東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていたことから政府転覆の陰謀とみなされた
・ 4月
 謹慎を命ぜられる。米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用された
・12月26日
 判決が下り、龍雄はその2日後に小伝馬町の獄にて斬首された

--引用・要約;「雲井龍雄」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』 2014. 4/30(水)14:08--



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2014.05/16(FRI)

檜枝岐口留御番所 檜枝岐




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写真;檜枝岐口留御番所跡付近・2014.05/16
※ ここは鎮守神社の参道であり、この奥に「檜枝岐(歌舞伎)の舞台」がある
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以前、現地にあった案内板から
檜枝岐口留御番所

 檜枝岐は、昔は"南山御蔵入り"といって幕府の直轄であった。それはこのあたりが漆ロウソクをつくるロウの主産地であり、また豊富な材木の生産地でもあったためである。そのため幕府の出先きとして番所が設けられこれを"檜枝岐口留御番所"といった。南山御蔵入りの西の口の取り締りは女、ロウ、ウルシ、飢饉の年には食糧の調べも厳重であった。戊辰戦争では人改めも厳重で関所の役目も果した。
     檜枝岐村
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会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」 星知次編

一〇 口留御番所

古文書に『檜枝岐村御番所の儀は、当郷の先封河原田家時代、私先祖星越後と申す者相守り、夫より御先代加藤様御代に至るも御番所相守り、御当家様御代に相成、寛永元年郡奉行、関藤右ヱ門様御支配の節、九代以前の祖星縫殿之助へ口留番仰付られ、御給米四石下し置かれ御番所御建札、御条目、御口口御渡し置かれ、苗字帯刀にて御番所相守、御料所、御預所と数度御支配替御座候ても、変り無く相務め、有難き仕合に存じ奉り候、この下番人の儀は、村中村役にて順番にまかり出 相務め申来り候』
とあり、河原田氏時代すでに番所が存在した。中でも星備中は天正年間に住し、その柵は東西二十九間、南北四十一間あったと伝える。当時の柵の詳細は不明だが、寛永年中に設けられた御番所は大体次のようなものであった
 往来に、高さ一丈、横二間の木戸門を設け、その左右に柵木六十本を立てて通行出来ないようにし、木戸門そばには、長さ二間、横九尺の下番所があり、ここには鉄砲、さすまた、つく棒などを備え、役所より通達された掟、条目などの御札が掲げられて厳めしく、下番所の番人は往来を見張って居た
 番所の目的は、八品留物と言われた、女、巣たか、蠟、駒、漆、熊皮、紙、鉛の領外への流失を防ぐためで、其外留物は其都度役所より通達された
 留物の通過については、村民全体が其の監視の役目を負い、名主である番人は、その総責任者であった
 沼田街道は嶮岨な山道ではあったが、古来より会津と上州をつなぐ重要な通路であり、物資は会津よりの米、酒などが主で、すでに元禄年間以前より駄馬にて運搬され一日に数駄の物資が動いている。其の為尾瀬沼の辺に交易小屋が在り、又片品村越本にも、このための問屋まで在ったと云う
 又人々の往来も相当あり、戦国時代末期あたりにも、会津藩主と関連していろいろな人が通っていたようである
 しかし当番所にては特に問題も起きず、口留番所の役目も変り、幕末には留物の取締りというよりも、治安を守る役目に変り、このため役所よりの出役が常駐していた事もあったが、こうした事も明治維新後は無くなり、番所の建物も取り壊されたのである
--会津郡/長江庄檜枝岐村「耕古録」昭和53年10月・星知次編・檜枝岐村発行--
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写真;沼田街道(檜枝岐、六地蔵)・2014.05/16



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