カテゴリ:>横川( 6 )

2015.12/06(SUN)

よばわり岩 会津西街道・日光市横川




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平成27年(2015)
・12月 6日
よばわり岩
 近くに「横川の一里塚」があり、人々はこの一里塚を「よばわり岩の一里塚」とも呼んで親しんできたと云う。この「よばわり岩」が何処にあるのか分らなかったのだが、木の葉が落ちた今姿が見えた。一里塚のすぐ隣にあったんだネ ^^;)
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横川の一里塚(2012.05/25)



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2015.04/12(SUN)

清水伝左衛門墓 会津西街道横川宿




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写真;2015.04/12
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清水伝左衛門墓 横川宿

 観音堂の境内に、「(表)宝誉道敬清居士/(右)文化十年八月三日/(左)清水伝左衛門知義」と刻まれた墓石がある。番所の責任者であった清水伝左衛門の墓である
 例年、横川番所近くの空き地では村人と近隣の村からも人々が集り盆踊りをしてきた。ところが文化十年(1813)、盆踊りの人垣が番所の庭にまで立ち入ってしまった。それが「番所の庭で盆踊りをしていた」などの噂となった。噂は会津藩上役の知るところとなり、伝左衛門はこの事の責任をとって切腹した。墓は村人が建てた
--引用、要約;「会津西街道の歴史を歩く」佐藤権司著・随想舎--
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2014.03/29(SAT)

早春 会津西街道 上三依の先、横川の間




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写真;2014.03/28
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日光口の西軍、若松城下に迫る
--戊辰戦争全史(下) p.140 --から要約

 会津領と下野国の境、山王峠の南々東3キロの横川には会津勢が陣を築き固めていた

慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 日光口の守備についていた山川大蔵のもと、会津城下に西軍(新政府軍)侵入の急報を受けると、山川の隊は直ちに帰城を開始する。この機に乗じて西軍は横川攻撃を開始した
・  25、28日
 西軍は横川、山王峠の会津勢を制圧し、街道を北に前進して会津領糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵である)
・  29日
 西軍は早朝から要地である田島に向けて進撃を開始したが、ここに会津勢の姿はなく、無血のうちに田島を占領した
(前田宣裕)



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2013.09/22(SUN)

会津西街道横川宿附近




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境界杭(横川宿附近)
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 おそらく、旧会津西街道の境界に設置された新しい杭なのだろう
※ 写真;2013.09/22
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「山王峠」(2013.07/12)



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2012.07/23(MON)

会津西街道横川宿




平成24年
・ 7月23日
 会津西街道横川宿を見に行ってきた
 かって、旧幕府軍を率いた大鳥圭介は日光を一旦退き、軍の再編のため田島に向うのだが、その時に宿した横川である。今、国道121号がこの宿を外れて通っていて往時の面影が残っているのが何だか寂しい

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以下、「南柯紀行・大鳥圭介」の記述を引用

慶応 4年(1868)
・閏 4月 4日、 5日

 四日、五十里を出立横川村に至り、松井、工藤、小笠原幷鈴木藩(蕃)之助等と同宿す。
 五日横川駅早発三王峠を越え糸沢の方へ出でしに峠下に一軒茶屋あり、会人、山川大蔵に行き会い此茶屋にて全軍取締の事を談じ共に田島に同行せり。
 山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢を一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為めに贈(送)られたるなり、余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。
本日、糸沢、中食、夕食、田島に着き本陣に宿す。
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会津藩横川関所跡と横川如意輪観音堂
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以下、現地「観音堂」の案内板から

有形文化財(建造物)
横川如意輪観音堂
    所有者(横川自治会)
    平面積 七・五六㎡
 この観音堂は、三間四方向拝一間付き入母屋造りで、江戸時代後期の建造と考えられる。柱・頭貫・木鼻・台輪・闘供・丸桁・茅負・垂木・虹梁・板壁・長押蟇股などが改変されずに良く残っている。
 塗料は、漆塗りまたはちゃん塗り(油と顔料)、あるいは渋塗り(柿渋と顔料)であったと考えられる。
 屋根は茅葺きの方形造りで宝珠がついていたものと思われる。
 切目縁の縁板、建具、木階は、昭和期末国道一二一号線の拡幅に伴う若干の移転の際、取り替えられている。内部は、竿縁天井で畳敷き、来向壁には金箔がはられ厨子が安置されている。
 この観音堂は、天明八(一七八八)年の「御廻国様御通行ニ付御案内帳」(宇都宮市旭町赤羽守治家文書)に、「観音不動堂」として記録されている社と同じものといわれている。
     藤文指定第三一号 平成元年六月三〇日

--参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介--



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2012.05/25(FRI)

横川の一里塚 会津西街道




 今日は雨。昨日見てきた一里塚をUPする。次行ったときには「よばわり岩」を探して見よう
↓現地の案内板 ※横川(現日光市横川)
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記念物(史跡)

会津西街道横川一里塚
 直径 五間(約 9m)、高さ一丈(約 3.3m)
 碑高 七尺六寸(約 2.5m)、
 この一里塚は上三依一里塚と共に、会津西街道に残る貴重な史跡である。
 明暦元年(1655)幕府は宿駅人馬の制を定め、五街道や脇街道の整備をすすめた。
 この一里塚も同じころ築造されたと考えられる。
 ほぼ一里(約4km)ごとに旅行や輸送の道のりを示すめやすとして作られた道標である。目的地への里程を知り、運賃の支払いなどに利用された。
 近くに大声を出すとこだまする「よばわり岩」があり、人々はこの一里塚を「よばわり岩の一里塚」とも呼んで親しんできた。
  昭和59年 3月30日
  栃木県
  藤原町教育委員会
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写真;【南山通り横川一里塚】街道の両側にあったが東側は除去された。会津西街道に残る唯一の一里塚
2012,05/24
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よばわり岩(横川の一理塚)(2015.12/06)



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