2017.06/16(FRI)

筑波山ケーブルカー 茨城県筑波山




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筑波山ケーブルカー
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写真;2017.05/16

・営業開始の経緯
筑波山ケーブルカーは、大正14年10月に、全国でも5番目に開業したという歴史を持つ
当時の筑波山は、筑波山神社の御神体として、多くの参拝者や修行者が訪れる霊山でした。その筑波山に多くの人に来てもらいたいと、茨城の実業家高柳淳之助氏らが関係機関に働きかけ、筑波山鋼索鉄道株式会社を設立するに至る
その後、昭和19年まで営業を続けるが、昭和19年2月、戦時による不要不急線として営業廃止となるが、昭和29年に営業を再開。平成11年10月に筑波山ロープウェー株式会社(筑波山ロープウェー)と合併して、社名を筑波観光鉄道株式会社と変更し、現在に至る
--引用、要約;筑波観光鉄道株式会社・営業開始の経緯--

 ・宮脇駅;山麓の発着駅で標高305mの地点にある
 ・山頂駅;山頂の発着駅で標高800mの地点にあり、運転室もここにある。駅舎を出ると御幸ヶ原で、ここから左に男体山、右に女体山があって、夫々には15分程歩くと達する
 ・運賃 往復・大人 1050円(小児 530円)
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昭和天皇御製(2017.05/18)



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2017.06/09(FRI)

内藤得道墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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内藤得道墓
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・内藤得道
明治元年(1868)九月十七日
 内藤一族が泰雲寺で自刃した際に、その様子を見届け、遺品・遺言を介右衛門のもとへと届けた泰雲寺の僧だと云う
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内藤氏家属墓(2017.06/07)



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2017.06/07(WED)

大竹主計墓/原 早太墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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大竹主計墓
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・大竹主計  会津藩/四百五十石、軍事奉行番頭対席/遊撃隊頭/明治元年九月五日会津面川(御山とも)で戦死/四十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
原 早太墓
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・原 早太  会津藩/三百六十石/朱雀寄合一番隊中隊頭/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十六日面川で死/三十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
一ノ堰の戦い(2013.09/11)
     *
供養塔 大竹主計墓・供養塔・原 早太墓
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供養塔表に
 白虎寄合二番隊長 原 早太之霊
 純義隊主将    大竹主計之霊
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2017.06/07(WED)

梶原平馬供養塔 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺





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梶原平馬供養塔
平成二十五年(2013)六月吉日建立


梶原平馬 かじわらへいま
 天保13年(1842)? - 明治22年(1889)は、幕末の会津藩家老
・生涯
内藤家に生まれ(内藤介右衛門信節は兄)、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉は山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐となる
・幕末
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた
・明治
その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった
--引用・要約;「梶原平馬」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.10/07(金)10;27--
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会津戦争記聞(2013.08/13)



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2017.06/07(WED)

武川信臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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武川信臣墓
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墓誌に
・・・
信臣ハ通称ヲ三彦ト称シ 内藤可隠ノ第三子 戊辰戦争時主家ノ□姓ヲ名乗リ彰義隊ニ属シテ上野ノ山ノ戦ニ奮戦 敗北後 江戸ニ潜伏中西軍ニ捕エラレ凄マシイ拷問ニ屈セズ明治元年十月□日江戸ノ獄舎□刑セラル
    武川信臣
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2017.06/07(WED)

内藤氏家臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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内藤氏家臣墓
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・阿部重四郎  安部とも/家老内藤介右衛門譜代家来/明治元年九月十七日介右衛門の父内藤可隠と子女が若松・泰雲寺で自決したときこれに殉じた/三十歳
・石野八四郎  家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家に殉じ自刃/三十一歳
・富田喜千六  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自刃
・名野八四郎  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川の泰雲寺で自刃
・古川重兵衛  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家主家一族と自刃/四十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
元木吉之助墓
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・元木喜代之助 吉之助とも/六石二人扶持/家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で自刃/三十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2017.06/07(WED)

上田氏家属墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




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上田氏家属墓
・上田伊閑  八百石、八郎右衛門の父/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で子女と自刃/六十一歳
・上田ナオ  シゲとも/八郎右衛門の母、伊閑の妻/明治元年九月十七日夫らとともに自害/五十八歳
・上田チエ  八郎右衛門の娘/明治元年九月十七日一家で死/九歳
・上田ジュン 八郎右衛門の妹/明治元年九月十七日一家で自刃/三十歳
・上田ミネ  八郎右衛門の叔母/伊閑の妹/明治元年九月十七日伊閑らとともに自刃/五十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
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