2017.10/23(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/五稜郭の包囲総攻撃
国立国会図書館デジタルコレクション




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蝦夷の巻(第三巻)/五稜郭の包囲総攻撃
【コマ 473】
(一)蝦夷籠軍の苦境
 屍山血河の函館の大戦、海陸合同四方三里の混戦に、蝦夷軍の防備は皆敗れて、陸軍奉行土方歳三は討死し。蝦夷艦隊は全滅し。函館は遂に陥落したり。思ひ見よ。孤軍奮闘よく天下の大軍に抗し、頑強勇邁函館の一郭を保ちて、接戦相譲らざりし蝦夷軍こそ、如何に約盟の義を重じたりしぞ。然れども七重浜の敗陣以来、続いて函館の一敗に旗幟振はず。海陸合同の圧迫は急転直下となりて、城外今や防備を施すの策なく、孤軍咽嗚漸く軍紀を支へて北と南の残塁に立て籠るも悲惨なれ。
 孤城落日。兵気は沈々として消ゆるのみ。更に西軍艦隊は、甲鉄艦を主脳と為し、三十町の距離を保ちて、七十斤の巨弾を込め、而して五稜郭を砲撃する連りなり。砲弾連続郭塁を震裂し、隊士の死傷は山と積みたり。
 籠軍、最早通路絶たれて、命脉は秋風落莫唯死地に向ふのみ。星忠狂、憤激禁ずる能はず、即ち守護、見国の諸隊を率ゐて、大森浜手を攻めけるが、激戦一敗地に塗れて引き退く。然れども、星.未だ倔する能はず、十四日再び千代ヶ岡を発し、大に一本木関門を襲ひとも、力戦尚頽勢今や非なり。か
【コマ 474】
くて夜に至れば、郭内動揺の雲は俄かに起り、忽にして本郭裏門の警備は空虚とはなりぬ。陸軍添役澁澤誠一郎、早くも麾下小彰義隊を率ゐて、脱して西軍の陣門に降る。続いて裁判奉行兼陸軍添役たりし津田眞一郎、裁判役及び諸隊の重たちたる嚮導役を率ゐて、又降る。惟ふに、澁澤及び津田は、陣中に在りては、薩長攻撃の論客にてありけるが、窮乏を望み見ては、激論何時しか消えて、早くも脱走を始む。十五日となりて愈四面楚歌の声あり。衝鉾隊杜陸隊、見國隊の隊士は、彰義隊長池田大隅守と共に、夜半に脱走して、湯川に走り、而してまた降る。更に會津遊撃隊長楯崎才一は、千代ヶ岡の守りを捨てゝ、而して去る。かくて脱走の声々は郭内に満ち/\て、籠城の頽勢愈険悪となりたり。蝦夷軍、元来は浪人の集れるもの、然らば脱走に始まりて脱走に終る、是れ敢て怪むに足らずと雖も、その巨魁たる榎本に取りては、事苟も浪人生存の目的に各義約を為し、事茲に至りし以上は、大に決心する所ありしなり。依て諸将を会し令して曰く、『味方同盟を破りて脱走する者日々に多し、兵力及ばざる時は、我身を捨て、士卒を援くる、これ主将たるものゝ常なり。今や僅かの脱兵も纏め兼ね、一軍瓦解に及ぶは、我輩の耻辱また末代に解けず、諸士、味方の運命禍危愈切迫して、當底瓦解を免れざるに至れば、不肖鎌次郎、身を以て諸君の健在を祈らむ。然らばそれ迄は義約を重んじ、決して後世に物笑を残す勿れ(』)と。即ち榎本は己れ脱軍の総督として既に死を決し居るもの。あはれ天下の浪人たる、維新の逆境児をして、その非嘆に替えしむべく、向来の恙なき生存を計るが為め、浪人國を興さむとして、遥々北國に乗り越せし身や。願望遂に叛逆と為り、今や天下の大軍に囲まれて、事遂に破れ、後事を計る即ち浪人の余命を救ふに、巳れ一命を、この残塁に捨てむとす。
 蝦夷本営の郭内や、脱人続出に続えて、外囲の砲撃は峻烈なり。今や抗争たゞ籠城して、上下一統頑守するのみとはなりて、郭内の四面は屍山血河鮮血淋漓たり。傷痩を療養するの場所すら、果たして那邊に存ずべきぞ。血涙相汲む籠城の隊士、今やその運命は、榎本を始め一身を捧げて、義約の本髄を貫徹せむとする風情も憐れなり。茲に於て、死傷を悉く湯川に移し、精兵
【コマ 475】
を以て城郭を守り、殊守決戦頑強なる抵抗に、上下みな挙げて天運を待たむとするものとす。
 更にその弁天台場を見るに、総軍立て籠りしと雖も、兵粮は持久の途なく弾薬僅かに一万発、是を以て向後の籠城を保たざる可らず。然れば兵粮つきなば一統自殺すべく、其の前に當りて弾薬缺亡せば、是に処するに肉弾あるのみと、意気高し。思ひ見よ蝦夷軍の決心、孔軍奮闘人事の凡てを尽し、而して三河武士の最後を花と散らんとする其志気。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.10/13(FRI)

雷神社と観音沼の紅葉 下郷町南倉沢?・観音沼




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雷神社と観音沼の紅葉
 雷神社は沼の縁小高いとこにある

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2017.10/12(THU)

奥州駒返坂 下郷町・野際宿先(会津中街道)




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奥州駒返坂について
 会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである
 その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31町52間の街道である
 旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を登り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる
 険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる
--現地の案内板から--

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三斗小屋宿~野際宿の戦い
慶応 4年(1868)
・ 8月23日 
・西軍、三斗小屋宿に滞陣していた会津藩隊を襲撃
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れ進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
     *
板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)



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2017.09/28(THU)

上ノ宮 那須町芦野(遊行柳のとこ)




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那須町指定天然記念物
上の宮の「いちょう」
 鏡山の麓にあり、約一キロメートル西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮とよばれている。創立や由緒・沿革などについては不詳であるが、社頭には遊行柳の史跡があり、風光明媚な社域である。社域にあるこの「いちょう」は樹勢すこぶる盛んであり、当地域最大の巨樹である。なお、高さは三五メートルで目通りは六・一メートルを数える
  那須町教育委員会
--現地案内板から--
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遊行柳(2013.04/21)



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2017.09/25(MON)

からむし織の里 昭和村大字佐倉字上ノ原1




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からむし織とは?
「からむし」は苧麻(ちょま)とも呼ばれるイラクサ科の多年草で、上布用の原材料として昭和村で栽培が続けられている。畑で栽培されたからむしの茎から取り出された繊維は青苧(あおそ)とも呼ばれ、昭和村の「からむし織」のほか、越後上布や小千谷縮の原料として使われています
 植物繊維が原料の「からむし織」は、通気性・吸湿性に富み、織り上げられた布は軽く丈夫で、その涼しい着心地は一度経験すると他の織物を着ることができないと言われるほど。特に上質なものは「上納布」「上布」と呼ばれ重用されてきました

栽培の歴史
 高冷地で雪が多く農作物の生産には厳しい昭和村で、からむし生産は貴重な現金収入をもたらし、村に暮らす人々の生活を支えて、手から手へと技が受け継がれてきました。明治中期には年間生産量約6トンを記録しましたが、第二次世界大戦以後、からむし畑は作物畑へと転作され、科学繊維の普及などの影響から、栽培・生産は激減しました。しかし、村の努力に支えられ、「織り・生産技術」が福島県の重要無形文化財に指定。平成3年には「からむし生産・からむし引き」が国選定保存技術に選あ定され、国の重要な伝統文化産業の一つとなっています。平成23年にはからむしに関する資料が国の重要有形民俗文化財に指定されました
--引用・要約;パンプ「昭和村」から--
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 矢ノ原湿原 野村新平の墓(2013.06/09)
 大芦    會津藩戦死二人之墓(2013.06/11)
 〃     官軍戦死九人之墓(2015.08/06)
 〃     佐藤音之助之墓(2015.08/07)



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2017.09/24(SUN)

小沼雄八墓 金山町大字大塩字沢ノ目?




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小沼雄八墓
・小沼雄八  会津藩/山内大学家来/明治元年閏四月十八日越後小出島で傷、五月十四日宮下で死/二十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2017.09/24(SUN)

高祖沼沢府君の碑 金山町大字沼沢字寺ノ北




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町指定(昭和五十七年)重要文化財 史跡
高祖沼沢府君の碑 こうそぬまざわふくんのひ
 横田山ノ内の一族俊安は、沼沢に分家し姓を沼沢と改め近隣を支配しました。享禄四年(一五三一)のことと伝えられています。その子孫である実通(さねみち)は、天正十七年(一五八九)伊達政宗の会津侵攻に際し、芦名義広に属して戦いましたが、義広とともに常陸に敗走しました。後年、嗣子重通(しげみち)は最上領主となった保科正之に千石をもって召抱えられ、さらに会津に入部すると猪苗代城代の重責を果たし、子孫は代々番頭という重職に任ぜられ永く会津藩に仕えています
 この碑は、沼沢の旧臣の農民たちが浄財をまとめ、実通の事績を称え、玄孫一通(かずみち)の代の宝暦十二年(一七六二)に石に刻んで顕彰したもので、丸山城を望む高台に位置しています
     平成十七年 金山町教育委員会
--現地の案内板から--
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沼澤家二代重通墓(大龍寺)(2015.10/17)
沼澤七郎之墓(大龍寺)(2015.10/17)
大龍寺戊辰戦争殉難殉節供養碑(2015.10/15)



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