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奥州駒返坂(会津中街道)

2017.10/12(THU)

奥州駒返坂 下郷町・野際宿先(会津中街道)




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奥州駒返坂について
 会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである
 その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31町52間の街道である
 旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を登り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる
 険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる
--現地の案内板から--

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三斗小屋宿~野際宿の戦い
慶応 4年(1868)
・ 8月23日 
・西軍、三斗小屋宿に滞陣していた会津藩隊を襲撃
 那須岳越えの襲撃部隊は、更に北回り(大丸経由)と南回り(那須湯本経由)の二手に分れ進軍した。先に戦闘が始まったのは南回りの隊の方面で、会津藩隊を撃破した諸隊はこの日から三斗小屋に泊。ともに襲撃する事になっていた板室回りの部隊だが、進軍に手間取り三斗小屋手前の沼ケ原で夜を明かし、戦闘には間に合わず。翌24日に合流した
 青龍足軽四番隊、10名以上の戦死者を出す
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
 この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様
・ 9月 1日
 三斗小屋に戻った館林&黒羽藩隊は会津へ向けて出発。途中、会津西街道を北上してきた西軍諸隊と合流して大内峠を越え、関山で凌霜隊など会幕軍と衝突しつつ若松へ向った
・ 9月 8日 明治と改元
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板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

by mo20933 | 2017-10-12 16:24 | 下郷町